バルバラ・ラジヴィウヴナ

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バルバラ・ラジヴィウヴナ
Barbara Radziwiłłówna
ポーランド王妃
Cranach the Younger Barbara Radziwiłł.jpg
ルーカス・クラナッハ (子)による肖像画(1553年頃)
在位 1547年 - 1551年
戴冠 1550年12月7日

出生 1520年12月6日
Flag of the Grand Duchy of Lithuania (1403–1410).svg リトアニア大公国ヴィリニュス
死去 (1551-05-08) 1551年5月8日(30歳没)
Flag of the Kingdom of Poland.svg ポーランド王国クラクフ
埋葬 1551年6月23日
Flag of the Grand Duchy of Lithuania (1403–1410).svg リトアニア大公国ヴィリニュス大聖堂
結婚 1537年5月18日 ゲラネニ
1547年
配偶者 ノヴォグルーデク県知事スタニスロヴァス・ゴシュタウタス
  ポーランドジグムント2世
家名 ラジヴィウ家
父親 イェジ・ラジヴィウ
母親 バルバラ・コランカ
宗教 キリスト教カルヴァン派
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バルバラを看取るジグムント王、ユゼフ・シムレル

バルバラ・ラジヴィウヴナ:Barbara RadziwiłłównaBarbora Radvilaitė, 1520年12月6日 - 1551年5月8日)は、リトアニアの名門貴族ラジヴィウ家出身の貴族女性。ポーランド王ジグムント2世の2番目の妃となった。 

生涯[編集]

ヘトマンイェジ・ラジヴィウとバルバラ・コランカの娘として生まれた。当時の記述によると、バルバラは当時のヨーロッパ世界でも有数の美人として知られていた。長身(約162cm)ですらりとしており、ブロンドの髪と白い歯の持ち主だったという。また服装や化粧にも気を遣い、常に白粉と香水を用いたという。両親より良い教育を施されたため、母語であるリトアニア語はもちろん、ベラルーシ語ポーランド語ラテン語を読み書きできた。1537年、ノヴォグルーデク県知事スタニスロヴァス・ゴシュタウタスと結婚したが、5年後の1542年に死別した。

ジグムントの後添えとなったのは1547年で、多くのポーランド貴族(シュラフタ)らの反対を押し切ったものだった。カトリック教徒が多数を占めるポーランド・リトアニアにおいて、バルバラは少数派のカルヴァン派信徒だったことと、政略的には何の見返りも望めない、ジグムントの恋愛結婚だったためであった。ジグムントの母ボナ・スフォルツァも反対し続け、2年もの間議論を続けた結果、物別れに終わった。1550年12月、バルバラはついにポーランド王妃として戴冠した。バルバラと国王との結婚はポーランド、リトアニア両国におけるラジヴィウ家の権勢を大いに高め、実兄のミコワイ・ラジヴィウ・ルディ、従兄のミコワイ・ラジヴィウ・チャルヌィらが国王の外戚として権力を掌握した。

ところが戴冠式からわずか5ヶ月後の1551年5月8日、バルバラはクラクフで急死した。彼女の死に王は打ちのめされ、人々は何の証拠もないものの、バルバラは王母ボナに毒殺されたと噂した。彼女は故郷リトアニアに埋葬されたいと望んだため、遺体はヴィリニュスに運ばれ、ヴィリニュス大聖堂に納骨された。