バッチャーニ・グスターフ

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バッチャーニ侯グスターフ

バッチャーニ・グスターフ(英語名 Gustavus Batthyany, 1803年 - 1883年)は、1848年ハンガリー独立運動マジャル国民運動)において立憲内閣の首班を務めたハンガリーの貴族・政治家。伯爵。1870年、バッチャーニ=シュトラットマン侯爵位を継承した。競馬オーナーブリーダーとしても高名。ともにハンガリー独立運動を起こしたハンガリー王国の初代首相のバッチャーニ・ラヨシュBatthyány Lajos)は同族にあたる。

ハンガリー語の正式な人名表記ではBatthyány Gusztáv(バッチャーニ・グスターヴ)であり、「バッチャーニ」が姓である[1]。但し、英国に帰化した後は Gustavus Batthyany の名称を用いた[2]

ハンガリー貴族としての経歴[編集]

バッチャーニ家の起源は896年アールパード朝成立の時代にまで遡る。その始祖はアールパード朝における(アールパール自身を含めた)7人の王のうちの一人「ウルス」と呼ばれる者である。バチャーニュ一族はハンガリー西部にあるネーメトゥイ・ヴァール(現在のオーストリア・ギュッシング郡)地方を任されていた。

バッチャーニ・グスターフ伯は、バッチャーニ・カーズメール伯やセメレ・ベルタラン(ハンガリー詩人)らと共に、伯爵の旧友であった初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーと第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラムらへと宛てたエステルハージ・パール公爵の手紙に署名した[3]。手紙にはコシュート・ラヨシュハプスブルク帝国(ハンガリー王位)に対するテロリズム大逆罪)を企てていると糾弾する内容が書かれており、結果として独立運動における英国人の支持者にコシュートに対する不信感をもたらした(英国貴族の間では、市民革命が自国内に飛び火するのを恐れていたため)[4]

内閣の首班を務めた後、政情不安なハンガリーから英国(イングランド)へ帰化した。

ブリーダーとしての経歴[編集]

英国へと帰化した後、しばらくしてニューマーケットに大規模な牧場を開設した。馬丁と馬に豪華な衣装を着用させニューマーケットの話題をさらったという。年をとるまで殆ど大レースに興味が無く、自分で所有馬に乗って個人的なレースを楽しんでいたとされる。そのため、晩年エプソムダービーに勝利したガロピンが所有した唯一のクラシックホースである。ガロピンはグスターフのお気に入りで、11戦して10勝、種牡馬としても1888,89,98年の英愛リーディングサイアーを獲得した。代表産駒のセントサイモンを抜きにしても、ガロピンの今日における競走馬への影響は大きい。

1883年、グスターフは2000ギニーの直前に、かねてより悪くしていた心臓の発作で急死した。2000ギニーにはガロピンの産駒ガリアードが有力馬として出走しており(結果は1着)、かなり気が高ぶっていたといわれている。その後グスターフの遺産相続人は牧場を閉鎖し、彼の持ち馬を全て売り払った。その中にはセントサイモンが含まれていた。

  • 20代でイギリス留学を経験
  • 1843年 - ニューマーケットに大規模な牧場を開設
  • 1859年 - ジョッキークラブに所属
  • 1873年 - 520ギニーでガロピンを購入
  • 1875年 - ガロピンがエプソムダービーに優勝
  • 1883年 - 所有馬ガリアードが勝利した2000ギニーの30分前に心臓発作で死亡

ジョン・ドーソン(マシュー・ドーソンの兄)を主戦調教師としていた

主な所有馬としては、ガロピンやガリアード及びセントサイモンなどが挙げられる。

レヒニッツ写本の所有者[編集]

バチャーニ伯は1838年、ローホンク(現在のオーストリアレヒニッツ市)に保管していた蔵書の全てをハンガリー科学アカデミーへ寄贈した。これらの蔵書の中にはレヒニッツ写本が含まれていた。レヒニッツ写本の名称は、伯爵がこの写本を保管していた地名に由来する。

脚注[編集]

  1. ^ ハンガリー人名の表記については人名#構成要素の順序を参考のこと。
  2. ^ そのため、英語版Wikipediaでも表記に揺れが見られる。
  3. ^ The Times, “Prince Esterházy and the Hungarian Government of 1848”, Vienna, published on November 13, 1851
  4. ^ 1848年以降の英国とハンガリー間における国際関係について(PDF)