ハッジ・ハーシム

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ハッジ・ハーシム(Hajji Hāšim;哈只哈心、1152年 - 1268年)は、モンゴル帝国に仕えたムスリムの一人。元来はイラン方面に居住していたが、イランを征服したフレグの使者として東アジア方面を訪れ、以後その子孫は東アジアに定着するようになった。

元史』には立伝されていないが、『至正集』巻53碑志10西域使者哈只哈心碑にその事蹟が記される。『新元史』には西域使者哈只哈心碑を元にした列伝が記されている。

概要[編集]

ハッジ・ハーシムはアルグン部の出で、その勇猛さからアム河の渡しの守護を任せられていた[1]チンギス・カン率いるモンゴル軍がイラン方面に侵攻すると、ハッジ・ハーシムは渡しの往来を絶ち、防塁を修復して守りを固めた。しかし、モンゴル軍を恐れる配下の者達は徹底抗戦を望むハッジ・ハーシムに不満を抱き、彼等が城内で内乱が起こそうとするに至って、やむなくハッジ・ハーシムはモンゴル軍に投降した[2]

チンギス・カンは剣を持ちながらハッジ・ハーシムにモンゴルへの抗戦を選らんだ理由を問い、先にその髪を切ってからハッジ・ハーシムを誅殺しようとした。しかし、ハッジ・ハーシムは顔色も変えず「臣下として主に尽くすことは罪に非ず。死は一席地を汚すに過ぎないが、名が残らないことのみを恐れる」と答えたところ、チンギス・カンはハッジ・ハーシムの態度を壮として釈放した。チンギス・カンに天意があり従うべきと悟ったハッジ・ハーシムは「シーラーズアタベク国(サルグル朝)の堅固さは他国の比ではなく、攻めるのは困難です。その君主と臣下をモンゴルに招来させるため、私を説得にゆかせてください」と申し出た。チンギス・カンはこの申し出を受け容れて本軍をメルブ城に留め、その間にハッジ・ハーシムはシーラーズを訪れて説得し、遂に国を挙げてモンゴルに降らせることに成功した。この功績により、ハッジ・ハーシムはゲルン・コウン(怯憐口)を率いることを任せられた[3]

1250年代にフレグの西アジア遠征が始まると、ハッジ・ハーシムも遠征軍に加わって活躍した。一方、東アジアではモンケ・カアンによって征服地の分配が進められており、フレグには彰徳路投下領として与えられていた[4]。更に、モンケの後を継いだクビライが南宋を征服すると、新たに江南の宝慶路もフレグ家の投下領とされた。しかし、フレグ家は東アジアから見て「極西の絶域」たるイランで自立してフレグ・ウルスを形成したことから、遠く離れた東アジアの領地の経営には支障を来していた。そこで東アジア方面への使者に選ばれたのがチンギス・カンの時代から仕える老臣のハッジ・ハーシムで、東アジアにやってきたハッジ・ハーシムはフレグ家領の監査を行った後[5]豊州で病にかかり、燕京(後の大都)で至元5年(1268年)8月23日に亡くなってしまった。モンゴル帝国初期に仕え始めた人物であり、亡くなった時には117歳の高齢であったったという[6]

ハッジ・ハーシム家[編集]

  • ハッジ・ハーシム(هاشم حجّ/Hajji Hāšim >納忽伯顔/nàhū bǎiyán)
    • アフマド(احمد/Aḥmad >阿合馬/āhémǎ)
    • ハサン(حسن/Ḥasan >阿散/āsǎn)
      • アブドゥッラー(عبد الله/'Abd Allah >暗都剌/àndōulà)
        • アントン(Antong >安童/āntóng)
      • カリーム(کریم/Karīm >凱霖/kǎilín)
        • ワントン(Wantong >頑童/wántóng)
      • ニグベイ(Negübei >捏古伯/niēgǔbǎi)
      • ケレイ(Kerei >怯烈/qièliè)

[7]

脚注[編集]

  1. ^ 『至正集』巻53碑志10西域使者哈只哈心碑,「公諱哈只哈心、阿魯渾氏、世西域人。国去天朝遠、而険非誠愨不可至、公凡両至人与其勇鎮阿水里渡」
  2. ^ 『至正集』巻53碑志10西域使者哈只哈心碑,「太祖皇帝兵圧境、公断渡修塁、堅守持久、衆怨公不降、懼破則残爾。公嘆曰『廃興有天、我非不知。但臣子分当爾也』。衆益澒洞、将内変、遂降」
  3. ^ 『至正集』巻53碑志10西域使者哈只哈心碑,「上按剣問抗師状、先断其髪将誅之。正色対曰『臣各為其主、非罪也。死不過汚一席地、何恨。但恐無名爾』。上壮而釈之。公仰瞻天表知可乗、樹立因進曰『阿特伯失剌子国、堅盛非他国比、攻之必難。抜其主与臣善、請往招之』。制可按兵馬魯察城。公単騎趨其国、諭以禍福、遂挙国内附。録功擢領怯憐口」
  4. ^ 松田1980,42頁
  5. ^ 「西域使者哈只哈心碑」には「入観計事」とある。モンゴルでは征服地の政治は現地の有力者に任せつつ、その領地に権益を持つ王侯が会計監査のため属僚を派遣することがあり、ハッジ・ハーシムの派遣もフレグ家投下領の監査のためであったと考えられる(松田1980,53-54頁)
  6. ^ 『至正集』巻53碑志10西域使者哈只哈心碑,「既班師、隷王旭列邸、従戦必捷屡入奏称旨。歳丁巳、割彰徳路為分地、江南平、益以宝慶路、王邸在極西絶域、遣使必慎択其人、以公偕魯思檐木子古里沙的、入覲計事、公夙慕中土、因挈家行、目疾留豊州、至燕病卒、時至元五年八月二十三也。享年一百一十七歳」
  7. ^ 楊2003,34頁

参考文献[編集]

  • 松田孝一「フラグ家の東方領」『東洋史研究』第39号、1980年
  • 楊志玖『元代回族史稿』南開大学出版社、2003年
  • 新元史』巻131列伝28哈只哈心伝