ハサン・イッゼト・パシャ

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ハサン・イッゼト・パシャ

ハサン・イッゼト・パシャ(Hasan İzzet Paşa、1871年 - 1931年3月3日[1])は、オスマン帝国の軍人。最終階級は「フェリク」 (Ferik)。

生い立ち[編集]

ハサン・イッゼトは、1871年に、アリ・ムフスィン・パシャとスュレイヤー・ハヌムの子供として、イスタンブールのアクサライ街区で生まれた。1890年に陸軍士官学校 (1306年入学組)を首席で卒業し、騎兵少尉となり、1893年3月23日、陸軍大学校 (陸大45期)を修了して参謀大尉となった。[2]

軍歴[編集]

第一次世界大戦勃発と共に、1914年11月カフカース戦線英語版に展開する第3軍司令官に任命。第3軍の主力である第9軍団と第11軍団は、エルズルム地区に集結し、第10軍団も加わった。その外、第3軍には、第2騎兵師団、第4、第5クルド師団[要出典]国境警備隊ジャンダルマ (国家憲兵)が編入された。メソポタミアからは、第13軍団の第36、第37師団が加わった。サルカムシュ地区のロシア軍主力の撃滅、左翼ではアルダハンバトゥーミを奪取し、チフリスへの事後の前進、右翼ではイランアゼルバイジャンジョルファナヒチェヴァンを奪取し、バクーエリザヴェートポリへの事後の前進が計画された。攻撃開始後、11月8日~11日、キョプリュキョイ付近で第1カフカーズ軍団を撃退し、11月12日ザヴィン[要出典]地区からロシア軍を追い出した。この際、第3軍は7千人を失い、ロシア軍は約1万人を失った。

12月21日に第3軍に到着したエンヴェル・パシャは、ハサン・イッゼト・パシャの異議にも拘らず、第3軍の指揮を取り、ハサン・イッゼト・パシャを司令部から追い出した。12月21日、第10軍団はオリチン支隊[要出典]を撃破し、12月25日、サルカムシュに進出した。12月27日には、第9軍団も投入された。しかしながら、その後の戦闘でオスマン軍は大損害を被った。1915年1月11日、第9軍団が撃滅され、軍団長イフサン・パシャ、第17、第28、第29師団長、副師団長2人が捕虜となった。第10軍団は、山岳部に退却したが、アルダハン近郊でオリチン支隊により撃破された。オスマン軍の損害は、約7万8千人達した。この敗戦後、ハサン・イッゼト・パシャは更迭された。

出典[編集]

  1. ^ Hasan İzzet Paşa, ailemiz. net, information from the Archive of the Personnel Department of Turkish Army (トルコ語)
  2. ^ Harp Akademileri Komutanlığı, Harp Akademilerinin 120 Yılı, İstanbul, 1968, p. 20. (トルコ語)