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ハウク・エルレンズソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ハウク・エルレンズソン (古ノルド語: Haukr Erlendssonアイスランド語: Haukur Erlendsson13世紀生 - 1334年没) は、アイスランド法官英語版、のちノルウェーの法官にして騎士。多くのサガや『植民の書』などを所収する古ノルド語写本ハウクスボーク》の所有者で、その大半を直筆で書写した編著者として知られる。ハウクル、ホィクル(現代アイスランド語発音)などとも表記される。

生涯

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ハウクの父は、(仮訳名)強豪のエルレンド・オーラヴソンアイスランド語版 (古ノルド語: Erlendr Ólafsson sterki)と名乗り、あるいは「肥満の」(古ノルド語: digre)ともあだ名されていた人物である。1312年に死没している[1][2][注釈 1]。ハウクの生年は不明であるが[3]、その母の名はヨールン(古ノルド語: Jórunn)といい[4]、その先祖は『ハールヴとハールヴスレックのサガ』(Hálfs saga ok Hálfsrekka)の伝説的な主人公、ホールザランド英語版のハールヴ王(Hálfr Hjörleifsson)の兄弟に遡ることができると指摘されており[5]、『植民の書』で確認することも可能である[注釈 2][注釈 3]

ハウクは嫡出の子ではなかったとの推察があるが[3]、彼の生母が妾だったか最初の夫人だったかは不明である[6]。いずれにしろ、ある時点でハウクの生母でない女性イアルンゲルズ (古ノルド語: Járngerðr)が継母として存在したことは確実で、『植民の書』ではその別の女性をエルレンドの妻と記述しており[7]、ハウクの父が死没した1312年にはその女性が妻であったと断定できる[2]。ハウクには、ヴァルゲルズ (Valgerðr)という名の異母姉妹がいた。

ハウクが結婚した相手ステイヌン (Steinunn) は、フラヴン・スヴェインビェルンソンの子孫を名乗る女性であった[8][注釈 4]

ハウクの父親は1287年にアイスランドの法官英語版(lögmaðr)に任官し、1289年にノルウェーに渡海して法官の地位を得、ヴェストフィルジルを領地に与えられたのが1290か1292年であったが[9]、ハウクは幼少を超えた年齢になってから、ノルウェーですべての教育を受けた[3]

ハウクは父親と同じくアイスランドの法官という地位を、すくなくとも1294年以前に得[3]、1299年まで勤続した[1]。1301年頃ノルウェーに渡り、1303–22年にオスロおよびグーラシング英語版において法官を務めた[1]。1303年頃までには、国王評議会に列席している[1]マグヌス4世をノルウェーの王として迎える決断に関わった一人でもある[1]

この時代、(少なくともアイスランドでは)おなじ法官の身分の人間でも、爵位を意味する「ヘッラ」(herra)の称号を名乗れる場合とそうでない場合があったようだが[10]、ハウクのことをヘッラ爵号でもって宛名書きしている1309年の書簡が伝わっており[11]、1311年の書簡では、「グーラシング法官にして騎士」と呼ばれている[12]

作品

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ハウクスボークは、数編のアイスランド・サガや『植民の書』の書写、および「アルゴリスムス」と題する算数の著作を所収する、重要な写本である。収録されたなかには、『赤毛のエイリークのサガ』の異本のひとつがあるが、そのなかで新天地ヴィンランドに到達した冒険家、「侠気の」ソルフィン・ソルザルソンは、ハウクの祖先のひとりである。ハウクスボーク以外にも、自分の時代の事件を書き綴った「ハウクの年代史」も残している[3]

家系譜

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以下の家系譜は、ハウクスボーク版の『赤毛のエイリークのサガ』の作品末に、加筆されている家系の記述をもとに、『植民の書』の等の情報で補完したものである。

 
 
 
エスピホールアイスランド語版のソリル
 
 
 
 
 
 
 
 
鉤のソルヴァルド[† 1]
 
 
 
侠気のソルフィン・ソルザルソン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
グルンダル=ケティル
 
 
 
スノッリ・ソルフィンソン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エイナル
 
ステイヌン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
非道のソルステイン[† 2]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ケルドゥルアイスランド語版のイェルンド
 
グズルーン
 
 
 
 
 
 
 
 
ビャルニ・ビャルナルソン[† 3]
 
ハッラ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
聖職者フロシ[† 4]
 
ラグンヒルド[† 4]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オーラヴ(?)[14][15]
 
ヴァルゲルズ・フロサドッティル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
強豪のエルレンド
 
ヨールン[† 5]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
法官ハウク
  1. ^ Þorvaldr krók
  2. ^ Þorsteinn ranglátr。『赤毛のエイリークのサガ』(Magnusson & Pálsson 共訳)では "Thorstein the Unjust"と英訳、『植民の書』:Ellwood 1898, Landnámabók, Part III, Ch. X, p.136では "Thorstein Wrongdoer" と英訳される。
  3. ^ 『植民の書』:Landnamabók, Part V, Ch. VII (Islandinga sögur, 第1巻, p.295; Ellwood 1898, p. 202)
  4. ^ a b 『植民の書』:Landnamabók, Part IV, Ch. I (Islandinga sögur, 第1巻, p.240; Ellwood 1898, p. 165)
  5. ^ 『植民の書』:Landnamabók, Part II, Ch. XIX (Islandinga sögur, 第1巻, p.138; Ellwood 1898, p. 86)


脚注

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補注

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  1. ^ "Erlendur digre" 「肥満のエルレンド」という呼び名は、スカールホルトの司教アールニ・ソルラークスソン英語版の書簡(1286年)に見られる: Diplomatarium islandicum, Vol. II, p.136-7。エルレンドの父称つまり父の名を原典で見かける箇所は乏しいが、前述の書の索引では「オーラヴソン」の父称が使われている。
  2. ^ 『植民の書』 第 II部、第 XIX章。ハウクの母親の祖先、(仮訳名)白皙のヘグニ(Högni hinn hvíti Óblauðsson)の祖父はオートリュッグと言い、ハールヴ王の兄弟であった。(Ellwood 1898, pp. 74)
  3. ^ 余談だが、前述の白皙のヘグニには、ハウクの祖先とは兄弟の (仮訳名)やぶにらみのウールヴ(Úlfr inn skjálgr)がおり、これは親戚のゲイルリーズ(Geirríðr)を伴ってアイスランドに定住したが、このウールヴの孫娘ショーズヒルド(Þjóðhildr)は赤毛のエイリークの妻となった。(『植民の書』 第 II部、第 XIX章(前述)、第XXII章 Ellwood 1898, pp. 81–82)。すなわちハウクはレイヴ・エイリークスソンの直系の子孫にはあたらないが、遠戚ではあった。
  4. ^ Guðbrandur Vigfússon 1878, Sturlunga saga, p.clxi は、この女性はフラヴン・スヴェインビェルンソンの孫娘とするが、『植民の書』をよく見ると、フラヴンの孫娘ステイヌンはハウクの妻の大伯叔母である。つまり、ハウクの妻はフラヴンのひ孫ではなく玄孫だった。

出典

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  1. ^ a b c d e Överland, O. A. (Ole Andreas) (1909), “Haukr Erlendsson” (Runeberg), Nordisk familjebok 11: pp. 96-, http://runeberg.org/nfbk/0064.html 
  2. ^ a b Diplomatarium islandicum, Vol. II, p. 377。「1313年の寄進証書(maldage)」を所収。これはハウクの父が死んだ翌年に、その遺産からイアルンゲルズが教会に行った寄進。当該の教会は「ネスキルキャ」すなわち旧地名ネス=イー=セルヴォギ(Nesi í Selvogi)に在した聖母マリア教会 であった。アゥルネースシスラ県、旧Selvogshreppur行政区の一部で、現在はエルフス アイスランド語版自治体のソルラゥクスホプン英語版に組み込まれている。参照された古文書は、AM 263二つ折り版写本、第55葉(1598年に書写)である。
  3. ^ a b c d e f Guðbrandur Vigfússon, ed. Sturlunga saga: including the Islendinga saga of Lawman Sturla. 1. Clarendon Pressyear=1878. p. clxi. https://books.google.co.jp/books?id=m5wNAAAAQAAJ&pg=PR161. "we know who his mother, father, and grandmother were, his birth-year is not known... A son of Lawman Erlend the Strong, by Jorun, and base born...etc." 
  4. ^ 『植民の書』 II部XIX章 (Islandinga sögur, 第1巻, p. 138; Ellwood 1898, p. 86)。白髪のヘグニには、エイレクという息子がおり、ゲイルレイヴ、オッドレイヴ、ゲストと代がつづく。ゲストの娘ハッラの息子ソルギルス(Þorgils)は、叔母にあたるゲストの娘ソレイ(Þorey)を妻としたようで、その子ソラリン(Þorarin)から、女ヨーディス(Jódis)、イルッギ、エイヴィンド、ステイングリーム、女ヘルガ、女ヨールンとなり、その息子がハウクである。
  5. ^ P.A.ムンク英語版による指摘:Munch 1847, p. 172
  6. ^ Perkins, Richard (1978), Flóamanna Saga, Gaulverjabær and Haukr Erlendsson, Íslenzk fræði (Studia Islandica), 36, Bókaútgáfa Menningarsjósðs, p. 36, https://books.google.co.jp/books?id=sAQeAQAAIAAJ, ""Jorunn's home (whether she was Erlendr's first wife of mistress)"" 
  7. ^ エギル・スカラグリームスソンの子孫イアルンゲルズがエルレンドと結婚したという記述。『植民の書』 第 II部、第 IV章。 (Islandinga sögur, Band 1, p. 76n; ただしこれは異本にある記述であり、『植民の書』の版本や英訳書(例:Ellwood 1898)によっては収録されていないものもある。
  8. ^ 『植民の書』:Landnamabók, Part III, Ch. XXV: Steinunn, er Haukr Erlendson átti" (Islandinga sögur, 第1巻, p.105) ; "Steinun, whom Hawk the son of Erlend had for wife." (Ellwood 1898, p. 85)
  9. ^ 付録 II "Viðrauki Melabókar ennar ýngri"の年表。Islandinga sögur, 第1巻, p.340
  10. ^ Wærdahl 2011, pp. 194–5
  11. ^ September 1309 ì Björgvin, Diplomatarium islandicum, Vol. II, p. 367.
  12. ^ 12. Januar 1311 ì Björgvin。 引用文: "Haukr Erlendzson Gulaþings logmaðr riddari", Diplomatarium islandicum, Vol. II, p. 372.
  13. ^ これに該当する収録書簡(日付 2. Juni 1294. Diplomatarium islandicum, Vol. II, p. 281)を見ると、その書簡ではエルレンドのことを"herra Ællender stærki"と呼んでいるだけであるが、索引では"herra Erlendr Ólafsson sterki"として掲載する
  14. ^ エルレンドの父称入りのフルネームは"Erlendr Ólafsson sterki"であるとDiplomatarium islandicum, Vol. II, p. 951の人名索引ではしている[13]
  15. ^ この点、ヴィグフッソン(Guðbrandur Vigfússon)は、ハウクの祖父の名は不明だとしている。[3]

参考文献

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『植民の書』
古文書
研究書