ノート:AIR (ゲーム)

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過去ログ[編集]

個人的な考察を排除する意味で[編集]

「正歴」は「正暦」をもじったものだと思われる。という一文に要出典タグを付けることを提案致します。--以上の署名のないコメントは、210.139.190.143会話/Whois)さんが 2007年7月20日 (金) 23:03 (UTC) に投稿したものです。[返信]

要出典というよりは、この記述の信憑性が怪しいので、削除したほうが良いのではないでしょうか?--Modmouse 2007年7月21日 (土) 06:08 (UTC)[返信]
すみません、チルダを付け忘れていました。一応過去ログ2にもチルダ付きで記しましたので許してください。210.139.190.143 2007年7月22日 (日) 02:47 (UTC)[返信]
「正暦」とすれば、という文体に変更しました。--ARIEL会話 | 履歴2007年11月14日 (水) 07:39 (UTC)[返信]

PSP版は開発中止?[編集]

過去の版やファミ通.com内の記事でもPSPへの移植に関する情報もあったような気がしますが、いつのまにかプロトタイプのHPからもPSP版に関する情報が削除されていましたし、本文でも言及が見られなくなったので、PSP版の開発は中止になったんでしょうか?
開発は中止になったのか、それとも中断しているのかがいまいち不明なので、もう少し情報をお願いできますか?明確でないので--Piggy1 2007年7月27日 (金) 03:53 (UTC)[返信]

つい先日(2007年8月12日付)の更新で、ようやくPSP版の情報が再公開されたため、それに合わせてPSP版に関する情報を加筆しました。--Piggy1 2007年8月16日 (木) 11:01 (UTC)[返信]

独自研究S・未検証S タグについて[編集]

この版この版で要出典を指摘された項目が修正されたので、上記タグの除去を提案します。--ARIEL会話 | 履歴] 2007年11月14日 (水) 07:49 (UTC) 対象節が異なるので訂正--ARIEL会話 | 履歴2007年11月14日 (水) 07:56 (UTC)[返信]

(報告)提案から一週間経ちましたので、WP:CON#コンセンサス方式に従い異議無しとしてタグを除去しました。--ARIEL | 2007年11月21日 (水) 06:18 (UTC)[返信]

ネタばれ予告について[編集]

このページには全然ネタばれ予告がありませんが、以前の議論の結果かなにかを踏まえてのことでしょうか。特にDREAM編だけでないというのは最大のネタばれだと思うのですが、これが目次にすら出てしまっていることに驚きました。興味が出て名前だけ知ってる状態で「どんなゲームなんだろう」と見にきた、今後遊ぶかもしれない人にとって、あんまりだと思うのですけど、そういう対処をしちゃうのはまずいでしょうか?-Kusune 2008年2月4日 (月) 15:16 (UTC)[返信]

ネタバレの記述について[編集]

122.30.175.20氏が書いたネタバレ記述を222.145.152.156が「余計な記述」として削除したのですが、私には何が「余計な記述」なのかよくわかりません。Wikipediaでは特にネタバレは禁止していませんし、蛇足であるとも思えないのですが。--ラノベおもしろいよラノベ 2008年2月11日 (月) 02:44 (UTC)[返信]

出展のない記述について[編集]

出展がこのまま提示されない場合。削除するべきと考えます。「原作において特定出来る設定(原作における設定資料含む)」がございましたら、早急に提示をお願いします。--202.232.192.36 2008年5月13日 (火) 02:11 (UTC)[返信]

”「泣きゲー」の代表作”については、毎日jpの記事に「泣きゲー」として多くの支持を集め[1]、ITmediaの記事に「Kanon」が確立した“泣きゲー”と呼ばれる要素を受け継ぎ[2]同ブランドの「Kanon」、「AIR」に続く“泣きゲー”(「CLANNAD」を紹介した記事[3]に)といった記述や、ファミ通.comに"泣きゲー"として多くのファンを涙させた作品[4]などといった記述があるので、泣きゲーとして支持を集めたことについての信頼性のある情報源はある模様です。--彩華1226 2008年7月16日 (水) 15:14 (UTC)[返信]

代表作、とはどこにも書いてありませんよね? 支持を集めたというだけで代表作とまで誇大表現するのはいかがなものでしょう?--222.149.223.130 2008年7月22日 (火) 13:42 (UTC)[返信]
だから「支持を集めた」に記述を書き変えています。--彩華1226 2008年7月22日 (火) 14:48 (UTC)[返信]
上で挙げられている4つの出典のうちAIRを主題とした2つの記事を、本文に出典情報として明記しておきました([5])。また、「絶大な」という部分は除去しておきました(Wikipedia:大言壮語をしない)。--貿易風 2008年9月14日 (日) 05:15 (UTC)[返信]

TVアニメ版の再放送に関する記述について[編集]

AIRに限定せずWikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト アニメ#近年の再放送情報は不要では?で議論されていますが、特記すべき事項があるほど編集された(例:フィギュア17の前後編分割)場合を除き、本放送と同時期とはいえない放送を記述する必要はないと考えます。--二文字祭 2008年7月31日 (木) 04:47 (UTC)[返信]

「ゲーム内容」の節について[編集]

「ゲーム内容」の節において記述の一部の除去が繰り返されていますが(1回目2回目3回目)、要約欄・ノートでの理由説明を伴わないため編集意図がわかりません。問題となっている部分を除去するのが妥当であるということであれば、必ず(要約欄またはノートで)その理由を示していただくようお願いします。--貿易風 2011年4月2日 (土) 01:06 (UTC)[返信]

今更ですが、内容の顛末を表す必要はないと私は考えます。おおまかに現代編・過去編・完結編ということをある程度内容を付け加えて記せば良いのに結末まで記すことが必要な理由はなんでしょうか?
ネタバレとは、必要とあれば萎縮すべき内容にはなりえませんが、内容を解説するのに主人公がヒロインから逃げる内容……などとそこまで書く必要があるとは思えないのですが?--獄児 2011年4月25日 (月) 16:05 (UTC)[返信]
「批評」の節に書かれているように、本作品の特徴は主人公が最終的にヒロインを獲得・所有することに失敗するという点にあり、東浩紀はそれによって従来の(端的にマッチョイズムを肯定・補完する装置としての)アダルトゲームとは違って高度な批評性を持つことを指摘しています。もちろんこの解釈を妥当だと思うかどうかは人それぞれであって、記事本文にも書いてあるようにマッチョイズムに対する本当の意味での反省にはなっていないとする意見もありますが(宇野常寛によるもの)、いずれにせよそのような複数の対立した見解を生み出すような作品であるということは本作品の解説として重要な部分ですので、そのへんのことを理解するためには、結末までしっかりと記述しておく必要性は十分にあると考えます。東浩紀によれば本作品では第一部・第三部においてそれぞれキャラクターレベル・プレイヤーレベルという2つの異なるレベルで「父になることを挫折させられる」と解釈できるわけですから、そのことを理解するためには第一部と第三部の両方の結末が解説されている必要があります。--貿易風 2011年4月26日 (火) 04:30 (UTC)[返信]
というか、その批評においてそこまで突っ込んだ内容を記しておくこと自体がどうかと思いますし、そもそもこの手の作品において「批評の項」を作ること自体、個人的にはかなり蛇足に思えます。なんのために登場キャラクターの項目が簡潔に済まされているのかをもう少し考えて記事の編成を考えるべきではないでしょうか?
他のKey関連の記事もネタバレというものには考慮して作られていますし、今後他の記事でそういうことを安易に容認してしまうと、他の記事においても抑圧されて事柄についてにも影響を及ぼし、結局全体的にまとまりがなくなるという危惧もあります。最低限この記事で題材にされている「ゲーム」を解説するに足る内容であれば良いわけで、内容に突っ込みすぎるのはゲームの性質上もそうですが、やはり頂けないと考えます。そもそもWikipediaは評価を左右するための機関でもないでしょうし。--獄児 2011年4月26日 (火) 15:32 (UTC)[返信]
えっと、基本的に百科事典の作品記事では、「その作品が社会にどのように影響を与えたのか、またどのような評価をされたのか」といったことが一番重要な部分なので、「批評についての節をつくること自体が蛇足」ということはありません。Wikipediaにおいてウィキペディアン自身が批評そのものを行うことはできませんが、その作品が専門家・評論家や一般大衆からどのように評価されたのかということを信頼のおける資料に基づいて読者に解説するということが、作品記事においては求められているのだということをご理解ください。現在の(日本語版の)Wikipediaの個別の作品記事では外部からの評価についての言及がまったくなされていないものが多いですが、それは単にWikipediaには未熟な記事が多いというだけの話であって、そういった記事が百科事典として本来あるべき姿なのだと誤解されることのないようにお願いします。本記事の「批評」の節は、Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)#2次情報でいうところの「評論家による評価」ないし「主題の批評的な分析」に相当するものです。あるいは、(こちらは草案ですが)Wikipedia:ストーリー紹介の在り方についての解説素案#その他の避けるべき編集行為でも、「例えば『作品への評価』のような節をつくって誰かの論評を引用して説明することは問題ない」とされています。
それから、Wikipedia:ネタバレをお読みいただければわかると思いますが、Wikipediaではネタバレの有無を考慮して内容や構成を決めるべきではありません({{ネタバレ}}のテンプレートで警告してあるわけですから、積極的にネタバレを嫌うような人はそもそもそこまで記事を読むことは無いわけです)。前回のコメントで述べたとおり、第一部・第三部の結末は本作品の独自性を理解する上で重要な要素であり、ネタバレだからと自粛すべきではありません。もっとも、東浩紀や宇野常寛の批評を引用するまでもなく、物語作品の記事ではそのストーリーは最初から最後まで簡潔に説明されているのが原則です(この手のゲームではシナリオが分岐することが多いため、一般的な小説や映画のように「最初から最後まで説明する」ことが困難な場合もありますが、本作品の場合は後半のシナリオはわりと単線的なのでそのへんの心配は少ないかと思います)。現在のこの記事の内容の解説は、むしろもう少し詳しく書いてもいいぐらいであり、「突っ込みすぎている」ということはないと思います(「批評」の節についても、これ以上削るとそもそも東浩紀が本作品をどのように捉えたかを読者に十分に説明することができなくなってしまうと思います)。--貿易風 2011年4月27日 (水) 01:40 (UTC)(ちょっと修正)--貿易風 2011年4月27日 (水) 01:58 (UTC)[返信]
最初にも言いましたが、「ネタバレとは必要であれば萎縮すべき内容には成り得ません」というところは私も理解しています。しかし逆に言えば不要であれば突っ込んで書きすぎる必要はない(すなわち無差別に収集するところではない、ということ)です。現在、東浩紀氏の批評部分だけ妙に冗長に記述しすぎであると感じますし、削ったところで東氏の意図を理解するのに大きな問題(全く理解出来なくなる)があるとは正直思えません(すなわち主人公がヒロインを捨てる、カラスになるという部分)。他二者は東浩紀氏の内容に関連した批判になっていますし、執筆した方が東浩紀氏に心酔しているのではないかと邪推しそうになるほど雑多に思えます。
現状、私自身が実際の文献を所持していないので今はまだあまり突っ込んで話せませんが、本当に例示として本編の内容が記載されているのか、あるいはそこを書き込まないと本当にその意図が伝わらないのか考えて頂きたいです。逆に言えばそこがないとダメというのであれば、冒頭に書かれている批評者の文章は現状理解に足る文章ではないのでは?どう記されているかは知りませんが仮に批評に参考資料があるとしても取り立てて記載する必要がないのであれば排除すべきだと思いますが。結果としてそれは東浩紀氏の見解を解説する項目になるのである意味ではまとまりが生まれると思います。
同時に、批評部分に内容の顛末を書くのであればわざわざ二重に書く必要もないので、シナリオの概略に結末を記すのはどのみち蛇足に思えますが。逆もまた然りです、仮に正当な記述であるという結論が出るにせよ、書くならどちらかにすべきです。--獄児 2011年4月27日 (水) 13:31 (UTC)[返信]
ストーリーを細部まで突っ込んで書きすぎる必要がないことは承知のうえで、「現状の記事でのゲーム内容の解説は(不足していることはあっても)過剰ということはないだろう」というのがぼくの見解です。前回のコメントでも書いたとおり、基本的には物語作品の記事ではそのストーリーが最初から最後まで一通り要約して説明されていることが望ましく、「結末が書いてあるから突っ込みすぎ」というのは理解できません。ストーリーについて「突っ込んで書きすぎる必要は無い」というのはあくまで「本筋と関係の無い細部まであれこれ書かなくていい」ということであって、「物語の核心部分まで突っ込んで書くべきではない」ということとは違います(それはむしろ逆で、本筋は核心部分を含めてしっかりと説明する必要があります)。前回の繰り返しになりますが、批評部分との関連性をわきにおいても物語の結末まできちんと記述しておくが望ましいというのがぼくの意見です。余談ですが、過剰な加筆を気にするならむしろ「登場キャラクター」の節に書かれている比較的どうでもよさそうな事柄の整理を検討したほうがいい気がします。
批評の節の東浩紀による議論が冗長という指摘についてですが、単に
本作のプレイヤーはプレイを通して「父になる」ことを2度挫折する
とだけ書かれてもよほど勘のいい人でなければなんのことだかわからないでしょうから、1回目・2回目の挫折が具体的に何を表しているのか説明する必要はあると思います。また、「作品に対する批評には興味は無いが物語の内容はおさえておきたいから、『批評』の節は読まないが『ゲーム内容』の節は読む」という人もいるでしょうから、「批評」の節に第一部・第三部の結末が書いてあるから「ゲーム内容」の節には結末は不要、というのも同意しません(念のため書いておきますが、「結末は伏せてもらって途中までの内容だけ教えてもらいたい」というような読者の望みにこたえる必要はありません)。--貿易風 2011年4月28日 (木) 04:14 (UTC)[返信]
コメント
そもそも「ストーリー」ではなく「ゲーム内容」という項目になっていますよね?
ならばあくまでゲームとしての内容(構造)を解説すれば十分だと思います。結末の解説まで絶対的に必要となる理由がわかりません。「DREAM編は三人のヒロインを攻略していく形式」「Summer編は一本道のシナリオ」「AIR編は総括編」といったようなことをまず基本として簡潔に記せばゲームの内容は最低限解説出来ており、まるでわからなくなるということはまずないでしょう。それ以上の内容(この場合は結末)ことが絶対必要となる理由がイマイチ見えてきません。必要とあらば結末(ネタバレ、というのはよくよく考えると定義が広いので言い方を変えます)を書いても問題はありませんが、取り立てて必要ではないことを記す意味がなければ結末を書くのはやりすぎに思います。少なくとも「結末を書かなくてはどういうゲームかわからない」ということになるとは思えません。かといって都合よくストーリーとして改稿するのだとしたらそれは下策でしょう。まず本記事に関して、「作品」という以前にこれが「ゲーム」だということを念頭におくべきではないでしょうか?
次に批評について。
理解を促すための記事においてその理解に苦を要する内容の文面はやはり問題ありでしょう。根本的な話に戻ってしまって恐縮ですが、先も言いましたがやはり東氏の意見を取り上げることだけに偏り過ぎてもはや東浩紀の項目で語るべきところに片足を突っ込んでいるような印象を受けます。問題の中核たる「父」の下りですが、一読で理解出来ずに本編の内容を用いてクドクドと解説しないといけない内容とあらばそれは本末転倒。分かりやすく簡潔な内容に改めるべきでしょう。それで結末を書く必要がないように出来るのならそのほうが断然良いと思いますよ。
最初に戻りますが、ストーリーを記すなら内容とは分け、批判点の前に持ってくるのが記事の内容の流れとして打倒ではないでしょうか。そうすれば仮に現状の批評が打倒だという結論が出たとしても批評における二重のシナリオ解説の必要性が薄まります。
ちなみに、キャラクターの部分に余分な内容が加算されている印象をうけるのは私も同じです。削れる余剰部分があれば無くして簡潔にしていくべきでしょうね。簡潔さはあって困るものではありませんので。--獄児 2011年4月28日 (木) 17:00 (UTC)[返信]
「ゲームの構造」ではなく「ゲーム内容」という節タイトルに設定してあって、ここでいう「ゲーム内容」というのはストーリーも含んだもの、として捉えています。つまり、プロジェクト:美少女ゲーム系#テンプレートでいうところの「内容」の節ということです。そこには、「システム解説を交えつつストーリーの説明を簡潔に行う」とありますので、この節の中にはストーリーの解説も含むことになります。
「作品」という以前にこれが「ゲーム」だということを念頭におくべきではないでしょうかというところについてですが、例えばシューティングゲームなどであれば、実質的にはシステム面が重要であってストーリーは補足的・従属的なものに過ぎないという場合もあるかもしれません。しかし、美少女ゲームというのは「CGを眺めたり文章を読んだりして楽しむ」ものであって、いわば絵本・紙芝居のようなものですからシナリオの内容について説明することは作品を理解する上では重要なことであって、形式的な構造だけ説明すればそれで十分であるとは思えません。美少女ゲームの中でも、「抜きゲー」と呼ばれるポルノグラフィとしての用途に特化したタイプのものであれば「実質的には物語はおまけのようなもの」と捉えることも可能かもしれませんが、本作はそれとは対照的な「泣きゲー」と呼ばれる部類のものであり、(ポルノグラフィとしての娯楽性を犠牲にしてまで)シナリオの完成度で作品としての強度を保っている作品ですから、なおさらストーリーの解説も重要でしょう。「ストーリーはどうでもよくて作品の構造だけ知りたい」というような読者にとっては結末までの言及は不要かもしれませんが、Wikipediaはそういった特殊なニーズを持った読者だけを想定したものではありませんし、またそういった読者にとっても「結末が書かれているからといってなにか損をすることはない」わけですから(以前にも述べたようにネタバレを嫌う人はそもそも「ゲーム内容」の節を読んでいないはずです)、ストーリー内容にも興味を持っている読者に対して有益な情報である結末に関する記述はあったほうがいいでしょう。「ストーリーの説明を『批評』の節の手前にもってくる」というようなご提案も、記事構成としてはかなり不自然に思えるので賛成できません。
それから批評の節について。
まず、理解に苦を要する内容の文面はやはり問題ありでしょうについてですが、前回のコメントで書いたのは、あくまで「1回目・2回目の挫折が具体的に何を表しているのか」を説明してなかったら理解が困難という話で、実際にはそこのところが説明してあるのですから、十分理解可能な内容のはずです。一読で理解出来ずに本編の内容を用いてクドクドと解説しないといけない内容とあらばそれは本末転倒ともおっしゃっていますが、一般に文学作品に対する批評において本編の具体的内容に踏み込みながら分析が行われるのは当たり前のことです。
それから東氏の意見を取り上げることだけに偏り過ぎというところですが、批評の節では東浩紀の批評に対する反論にあたる宇野常寛の見解も示されており、中立性は保たれているはずです。形式的な分量だけに注目すれば4人の意見の中でもっとも多くの文字数にはなっていますが、内容自体がそれなりに複雑である以上どうがんばって要約してもいま書いてある程度の分量にはなってしまうとぼくは思います。
それで、最終的に分かりやすく簡潔な内容に改めるべきでしょうという話になるのであれば、とりあえずはノートで具体的に草案を提示し、改訂を提案していただければと思います。ぼく自身はすでに述べたようにこれ以上削るのは難しいと考えていますが、「具体的にどうすべきと考えているのか」がわからないと賛成も反対もしようがないので。--貿易風 2011年4月29日 (金) 02:25 (UTC)[返信]
コメント
一つ目、項目の内容について。
テンプレートはただの指針であって絶対の掟ではないはずです。よってゲーム内容の記載事項もあくまで「書くことがわからない」という場合の例示でしかないのでそれで押し通すのはいささか横暴に思えました。読者に理解を促しやすい構造に組み替えるのは当然のことです。
二つ目、ゲームについて。
「CGを眺めたり文章を読んだりして楽しむ」であれば、まずその楽しませるためADVとしてのシステム構造において解説すれば良いかと。内容が重要かそうではないかという議論は不毛でしょうし。そしてこの時点で内容説明に結末まで記す必要は感じられず。何度も言うようですがネタバレは必要に応じて書かなくてはならないものです。例えば本作で言えば3つのシナリオを消化することで次の編、それを消化してまた次のシナリオ……というネタバレは内容解説に絶対必要なゲームの構成を解説する必要なネタバレですよね?ただ内容にまで踏み込む必要はとりあえずないと思います。その時点で頭と終わりだけ書かれてもそれはそれで理解に足る内容になるとも思えませんし、描き過ぎても結局項目の趣旨がブレます。
三つ目、ストーリー解説について。
ストーリーという言い方が悪いのであれば各編・シナリオでも良いかと。それらを一々記載すること自体、若干ガイドブックじみたところがあり個人の感想としては疑問ですが、批評の解説・説得力・読解補助のために必要となるのであれば、登場人物を解説した後に「シナリオ」としてそれらの人物の起こす特筆すべき行動・それに関連した内容の流れを記載するのは決して誤りではないと私としても納得の行く構成になります。一つ目でも言いましたし、私は最初からニーズという個々によって異なるあやふやなものよりも何よりもまず記事として全体的に読者へ伝えやすくする努力をすること、簡潔に済ませることを考えていますので。
四つ目、批評部分について
中立性とは偏りのない記述によって成立するものです。それは文章量(内容の厚み)も同じことです。東浩紀氏による理解に足るか少々微妙に感じ取れる回りくどい批評内容が、とかく冗長に描かれることで印象付けが濃くされているイメージを受けます。(加えて私は朧げにしか批評意図が理解出来ませんでした)現状ではそればかりが目立ち、その他の批評者の補足、冒頭の批評が取るに足らないかのような印象も受けます。そもそも内容自体東浩紀氏の内情に踏み込み過ぎ、という感想も抱きます。
私が考えたのはただ文章を削るのではなく、分かりやすく趣旨の伝わる内容に改善しようというものですが、原文が手元にない私が手を加えてしまうのもいささか危険ではないかという危惧もありますので、出来れば出展提示者による原文解説を行って欲しいと考えるのですが……勿論貿易風さんが所持されているのであれば私に説明してくださると幸いです。
同時に以前も言いましたがただ東浩紀氏の批評に対するレスポンスだけでは、AIRというゲームそのものに対する批評に足るもの(つまりそこに記述するだけの価値に乏しい)か微妙に思えます。批評に対する反論を交えたうえで、本作に対する評価が示されているのならばともかく、現状東浩紀氏を発端とする批評議論に対するレスポンス以上の内容に成りきれていないように思えます。
最後に、ネタバレのテンプレートは何のためにあるかも考えたほうが良いと思います。テンプレートをせっかく使うのだから境目はより読者の目に焼きつかせる構成にするべきであり、そのほうがよりテンプレートを生かせることにもなるでしょう。(一度このテンプレートは存在感の希薄さから「必要性がない」という議論も起きていることですし)ネタバレ前提のWikipediaだから関係ないとおっしゃるのであれば、そもそもこのテンプレート自体本記事では余計になってしまう気がします。
次のご返答がある前に改めてこのジャンルの記事についてリサーチしてこようと思います。--獄児 2011年4月30日 (土) 18:39 (UTC)[返信]
以前の獄児さんのコメントを読むと、「『ゲーム内容』とは、システム構造のことであり、シナリオの内容を書く場所ではない」といっているように読めたので、ぼくとしては「『ゲーム内容』というのはシステム・ストーリーの両面を含んでいるので、ストーリーが書かれていることが不適切ということにはならない(だから結末を『ゲーム内容』の節から除去することには反対)」ということがいいたかったわけです。もちろんウィキプロジェクト自体に絶対的拘束力はありませんし、そもそもそこにも「ゲームシステムとストーリーで分けてもよい」と書いてありますので、一般論として「ストーリーとシステムを別々に説明する」という選択肢が存在することは否定しません。しかしそこでいう「システム」というのはあくまでストーリーと対比される意味での「システム」であって(好感度がどうのこうのとか)、現在の本記事の「ゲーム内容」の節で記述されているのはそういったものではなくストーリー進行に関連した構造の説明ですので、少なくとも現時点では両者をまとめて説明しておいたほうがいいと思いますし、登場人物の節のあとにそれをおくという構成にも反対します。仮に分離して説明するとしても記事構成としては
  • 「ゲーム内容」の節に「シナリオ構成」「ストーリー内容」のようにサブセクションをつくる
  • 「ゲーム内容」の節の代わりに、その場所に「シナリオ構成」「ストーリー内容」のような節をつくる
のどちらかだと思います(それでも現時点ではその必要性を感じませんが)。獄児さんは内容にまで踏み込む必要はとりあえずないと思いますとおっしゃっていますが、Wikipediaは百科事典であって内容にまできちんと踏み込んで説明することが求められていることをご理解ください。ネタバレは必要に応じて書かなくてはならないものともおっしゃっていますが、以前にも述べたように基本的には物語のストーリーというのは最初から最後まで一通り説明することがWikipediaでは「必要」とされています。物語作品の記事ではストーリーの結末まで明らかになっているのが普通であり、むしろ結末を説明しない作品のほうがレアケースであるとお考えください(「よほど特別な事情があるときだけ結末を書いてもいい」ではありません)。ある記述を記事に載せるかどうか、あるいはどういった記事構成にするかを決めるにあたって、「ネタバレであるかどうかということはそもそも考慮されない」というのがWikipediaでの考え方なので、これまでの獄児さんの意見のうち結末を書く必要がないように出来るのならそのほうが断然良い境目はより読者の目に焼きつかせる構成にするべきといったものはいずれも適切ではありません。他のKey関連の記事もネタバレというものには考慮して作られていますについても、実情の指摘としては正しいのかもしれませんが、もしそうだとしたら「他のKey関連の記事」が不適切なものである、ということにすぎないわけです。
批評部分について。まず中立性についてですが、複数の異なる立場の存在する事象に対する解説では各論者毎の形式的な文章量をそろえなければならないという話ではなく、必要以上にくどくどと記述されていたり、必要であるはずの重要な部分がカットされていたりしたら不公平だからそういうことのないようにしておきましょう、ということです。そういった観点から「東浩紀の批評が不必要に長すぎる」「宇野常寛の(あるいは更科修一郎の?)批評が短すぎる」とお考えであればそのような問題提起を行っていただいてもかまいません(もっとも更科修一郎の部分については論点が異なるので東浩紀の部分の文章量と比較すること自体がナンセンスな気もしますが…)。しかし、そこまで内容に踏み込んだ議論をされるのであれば、「東浩紀や宇野常寛は出典元でどのようなことを述べているのか、それに対して現在の記事での記述に過不足はあるのか」といったことを判断する必要があるわけですので、獄児さんが朧げにしか批評意図が理解出来ませんでした原文が手元にないという状態なのであれば、まずは出典を確認し、両者の主張の概要を理解していただいてからお願いしたいと思います。東浩紀の批評の出典元である「萌えの手前、不能性に止まること」の初出は『美少女ゲームの臨界点』という同人誌なので入手が難しいかもしれませんが(ぼくも持っていません)、本記事で直接出典にしているのは『ゲーム的リアリズムの誕生』に再録されたものであり、こちらであれば入手・確認は容易だと思います(『ゼロ年代の想像力』も同様です)。
もし獄児さんが「出典を確認する気はないが記述内容がよくわからないから説明してほしい」というスタンスであれば、とりあえずは「どの部分が理解できなかったのか」がわからないとどうしようもないです。--貿易風 2011年5月1日 (日) 04:21 (UTC)[返信]
わかりました、これ以上はどう論議を展開しても結局は私の意見が屁理屈的になってしまい不毛ですので大部分での疑問提示は終了させていただきます。別の話題を追加し、今後は本記事における貿易風さんのおっしゃるような未熟な点を聞いて感じた部分指摘し、ゆくゆくは他Key記事と全体的に合わせて足並みの揃わない部分を補う作業に移りたいと思います。
ただ最後に、そこまでおっしゃるのであれば、ネタバレのテンプレートの本記事における存在意義がないような気がするのですが。免責事項にあり、なおかつ記載する必要がない以上、容量の無駄となるだけならばこのテンプレートは削っても良い気がしますということだけは最後に付け加えさせていただきます。考慮する必要などないのですから。
また、批評に関してはデリケートな話題ですので勉強してから問題があればまた指摘するということにします。--獄児 2011年5月1日 (日) 11:07 (UTC)[返信]
では、批評関連についてはいったん終了としましょう。
ネタバレテンプレについてなのですが、ぼくがここで述べていたのは「記事にどんな内容を載せるのかを決めるにあたって、ネタバレであるかどうかは考慮されない」つまり「その記述がネタバレであるということは、記述を掲載する根拠にも除去する根拠にもならない」ということであって、「ネタバレの存在をテンプレで読者に警告すべきかどうか」とはまた別の話です。ぼく自身はテンプレートで警告を与えることには賛成なのですが、Wikipedia‐ノート:ネタバレ(やその過去ログ)などでの議論をみると、Wikipediaでは「(ネタバレテンプレを貼って)読者に警告を与える必要はない」と考えている人も多いようです。もっとも現時点ではネタバレテンプレを廃止するという合意は成立していませんし、現にこの記事には核心部分に対する言及が存在するわけですから、ぼくはテンプレを貼っておいたほうがいいと思います。
ぼくは前々回のコメントでネタバレを嫌う人はそもそも「ゲーム内容」の節を読んでいないはずですと書きましたが、これはどういうことかというと、
  • 「ゲーム内容」の節の直前に{{ネタバレ}}が貼ってあるのだから、ネタバレを嫌う人はそこで読むのを止める(またはスキップして続きから読む)ことになる。つまり「ゲーム内容」の節を読んでいる人は「ネタバレを嫌わない人」であるから、そこに核心部分に対する言及があることを気にする必要はない。
ということなんです。
なお、今気づいたのですが「批評」の節における核心部分への言及はネタバレテンプレの適用範囲(つまり{{ネタバレ}}より下で{{ネタバレ終了}}より上の部分)から外れてしまっていたようです。なので、{{ネタバレ終了}}の貼り付け位置をずらしておきました(差分)。--貿易風 2011年5月2日 (月) 04:42 (UTC)[返信]
作業ご苦労様です。正直言いますと私もこれまでの議論で「(ネタバレテンプレを貼って)読者に警告を与える必要はない」という思いを強く抱きました。方針と若干矛盾が生じているというか。それはここで深く突っ込むべきではないでしょうから、まだ結論が定まっていないようなら議論に参加するのも良いかなと思いました。
それとここに話題追加をしようと言いましたが、そうするよりKey関連の全体を見て言ったほうが良いと思ったので、ここよりもKeyの記事なりで話題を追加し、全域に議論告知を張るという形でひとまず議論提示作業を準備しようと考えています。貿易風さんのおっしゃる形で見るとKey作成ゲームの記事全体、というよりこの手のジャンルのゲームの記事の大半がそのように見えました。ただ全てに手をかけるのはまず今は無理なので、せめて未熟な記事だらけだと言わざるを得なかったKeyだけでも意識改革を促すのは今後の活動のためにも良いのではないかと思いましたので。--獄児 2011年5月2日 (月) 18:16 (UTC)[返信]
他の美少女ゲームの場合、後半のシナリオが単線的であった本作品とは事情の異なる部分もあると思いますが、まあとりあえずここでの議論はいったん終了しましょう。お疲れ様でした。--貿易風 2011年5月3日 (火) 02:42 (UTC)[返信]

批評について[編集]

えっと,rvされてしまったので,提案させてください.「批評」と題して,さして有名ではない人のコメントが載せられていますが,百科事典的にこの記述はいかがなものでしょう? 上記でも問題になっているようですが,「批評」そのものの存在意義については検討が不十分と思いますので,提案しました.そもそも,それほど有名でもない個人の意見のを積極的に記載することで,その意見に誘導しているようにしか思えません.Wikipedia:中立的な観点に明らかに違反しています.この記事を掲載された方(過去ログを見るとたびたび問題を起こされている方のようですが…)はおそらく検証可能性を満たしているじゃないかと反論されるのでしょうが,では無名な個人的な,それも広くコンセンサスの取られていない意見を載せることが,百科事典に必要なのでしょうか? とりあえず,この記事は削除しますので,このノートで必要ということになれば(万に一つも偏った意見を載せることが可とはならないと思いますが),また考えます.これは問題だと思います.--118.108.220.228 2011年5月28日 (土) 12:26 (UTC)[返信]

  • AIRでも編集合戦になっていましたので,とりあえず議論しましょう.上記で議論不十分のまま「批評」に関しては終了となっていました.
私もIP氏の意見に賛成です.批評に引用されている,更科修一郎東浩紀宇野常寛前島賢 はやはり有名じゃないし,ゲーム業界に関して影響を与えている人とはとても思いません.それらの発言を載せることが,Wikipediaに必要でしょうか? Wikipedia には Wikipedia:中立的な観点 という編集方針があります.したがって,個々人の批判・意見を書き込むことは Wikipedia ではまったく迎合されていません.それにもかかわらず批判・意見を記載するならば,よほど大衆に対しコンセンサスの得られていることか,もしくはその評価がその作品を説明するうえでなくてはならない必須事項である場合のみです.この評価はそれにまったく値しない.それにそもそもこれらの批評者たちの文は日本語がおかしくて,言っていることがさっぱりわからない(『ヒロインを性的に所有して異性からの承認を受けることにより(比喩的に)「父になる」というプロセスを経験させる』って,ヒロインを性的に所有することと「父」になることは別物でしょう? 父権的威圧とでも言いたいのかな?).それを公共性の強い,しかも中立的方針をうたっている Wikipedia に載せるのは危険です.
もっといえば,たとえば過去ログでも話題になっていますが,名画があり,それが素晴らしい作品であると大衆にコンセンサスが得られている場合で,たったひとりそれに批判的な意見を言っている人が検証可能なメディアにその意見を記載している場合,その少数意見を書くことが百科事典に必要でしょうか? これは明らかな情報操作であり,個人の主観であり,百科事典にあってはならないことです.上記4氏の意見が少数派か多数派かはわかりませんが,少なくとも多くの人が「なるほど!」と思う意見では無なそうです.コンセンサスを証明できな変えれば,批評を書くのはやめたほうがいいでしょう.したがって,IP氏に同意.--Benign 2011年5月28日 (土) 14:12 (UTC)[返信]
佐藤氏、東氏、更科氏は著名な人物の批評と考え除去する必要はないと考えます。あとIP氏は118.108.220.228が長野県、160.252.191.9が信州大学のIPですが偶然の一致でしょうか?記事に告知していない議論に短期間で3人も(私を含めれば4人)も集まるのでしょうか。疑問です。--多摩に暇人 2011年5月28日 (土) 14:58 (UTC)[返信]
ちなみに私も長野県から wiki してますよ….IP氏は同一かもしれませんし違うかもしれませんが,個人的には大学のIPとなると同一ではないような気がします.ただ,これは議論しても結論はでません.佐藤氏、東氏、更科氏の3氏を私なりに調べましたが,有名かなぁ….少なくとも『百科事典に載せるレベルの』人たちではないと思います.ちなみに Wikipedia:中立的な観点 に対する反論はいただいておりません.こちらのほうがむしろ重要な気がしますが,いかがでしょうか?--Benign 2011年5月28日 (土) 15:56 (UTC)[返信]
どうなんでしょうね。私はあまりこういったAとBは同一だ!と言った主張はしませんが、3人は句読点が特徴的すぎます。なんで3人ともピリオド・カンマを使用しているのでしょうか。でウィキペディア日本語版においてわざわざ設定した機能を3人同時に、しかも同じ議論で使用している人は初めて見ました。同一人物であったり友人を引き込んでいるのであればそれはWikipedia:多重アカウントに抵触する行為であり今すぐ止めていただきたい。
まあそれは本題でないので置いて前提として著名でなく、百科事典に載せられるレベルの人物で無いのなら削除されているはずかと思いますが。いかがでしょうか。また東浩紀氏は早稲田大学の教授で有り批評に関する講義も受け持っておりその道のプロ、大衆に認められていると考えられるのではないでしょうか。他にも『美少女ゲームの臨界点』(東浩紀、佐藤心、更科修一郎ら)という批評集も出版しており問題無いと思われる。また公共性が高いと話しておきながら「日本語がおかしくて,言っていることがさっぱりわからない」「少数意見・情報操作」(自主出版や同人ならともかく大手の出版社から発行されているものです。何に基づいて少数意見・情報操作と断言しているのか)などとあなたの独自の意見を述べる場所では無いことをお忘れ無いように。結論としてWikipedia:中立的な観点#芸術作品などの特徴に関する意見には反していないと思われます。--多摩に暇人 2011年5月28日 (土) 16:42 (UTC)[返信]
えっと,私も疑われてるのですか? ご愁傷様です.まあ,違いますけどね.別にピリオド・カンマなんてめずらしくないですけどね,少なくともこのノートの過去ログを見ていただければわかります.というか,公文書はピリオド・カンマなので,仕事をまともにしていればこうなりますが.あと私が言いたいことが伝わってないようで残念です,私の言葉足らずもあるでしょうが.AIRやCLANNADに対する検証可能な批評は少ないです.ネットユーザーの間では評判がいいですが,それは Wikipedia に載せるのは難しそうです.では,少数しか批評がない場合,それを記事に記載することはWikipedia:中立的な観点を乱しかねないか,ということを問いたいわけです.一批評家の,もしかしたら偏っているかもしれない意見が記事に載せられることで,中立性が損なわれるのではないかと,そう考えるのは自然なことです.「AIR」という作品が色々な批評家のもとで公然と論議され,その評価が導き出されたのならわかります.しかし,少数の批評家の,それもまともな討議を経ないで,批評家の主観で書かれた批評が,特記すべきことかを問いたいわけです.客観的な意見らともかく,一批評家の主観的な意見は主観に過ぎないと思いますが,いかがですか?--Benign 2011年5月28日 (土) 17:43 (UTC)[返信]
あまり酷いようなら多重アカウントの調査依頼を出しても良いと思います。私から見てもその論調や書き方に見える独特の癖など、同一人物という疑いを抱くに値する材料は揃っています。
あと最後の一文(一批評家の主観的な意見は主観に過ぎないと思います)ですが、批評の項に個人の感性としてあまり賛成ではない私ですらそうは思いません。問題はそれが書籍など信頼に足る文献などの情報ソースに描かれているかどうかです。例えばそれらの批評の都合の良い部分だけ切りだして載せたとすればそれは中立性に反しているのではと首を傾げますが。
むしろBenignさんが本作などの批評に関して、批判的な内容が描かれている書籍・文献を探し、ソースを明記したうえで批評の項に記載したほうが批評全体の信頼度・作品の理解度もあがると思いますよ。私もそれを目指していろいろ書籍を巡っているうところですので。--獄児 2011年5月28日 (土) 18:34 (UTC)[返信]
なぜか私が疑われていますが,「論調が似ている」とまぁ,この短い文章でよく私のロジックを把握されたものと感心しております.論調を理解されるほど明晰な方ですので,ぜひとも私の主張する意図を理解していただきたいのに,私の意見になにも答えていただけないようで残念です.公然の論議の元導き出された批評と,少数の批評家がしかも独立して主観で述べた批評は同一視できないということなのですが,いかがですか?--Benign 2011年5月28日 (土) 19:09 (UTC)[返信]
Benignさんがそこまでおっしゃるのであれば、今後調査依頼を出しても問題ないということですね?私と多摩に暇人さんという二人もの人間が、数点の理由をあげたうえで疑念を抱いているということは見ての通り。この手の疑惑は議論進行に妨げになるので、早めに疑心を取り除くほうが良いでしょう。その件に関してはよく検討してから実行させていただきます。
そして最後の件ですが、それはあくまで貴殿による個人の方針であってWikipediaの方針ではないと思いますよ。有効な出典からの記載である以上、現状記述するには問題はありません。「いや、Wikipediaの方針と照らし合わせるとこれは誤りである!」とするのであればちゃんと詳細に引用してからご指摘ください。--獄児 2011年5月28日 (土) 19:42 (UTC)[返信]
◆まあ記事本文の句読点には「、。」を用いるとされているコミュニティでノートであろうともわざわざ「,.」を用いようとする人はあまり見かけませんし、そのような「,.」という特徴の人が集まるという点に対して疑う人が出てくるのは判らなくはないですが、それは置いておきます(仮にCU依頼が出ても参加するつもりはありません)。
さて本題ですが、既に挙げられていることの繰り返しの部分もあるかもしれませんが、「Wikipedia:中立的な観点#芸術作品などの特徴に関する意見」の観点から、批評を記載すること自体は重要であるとされています。そこには≪公然の論議の元導き出された批評と,少数の批評家がしかも独立して主観で述べた批評≫を区別するようなことは書かれていません。強いて言うなら「Wikipedia:中立的な観点#中立的な観点とは何か? 「偏りのない」「中立的な」というのはここでどのような意味で使われているのか?」に≪複数の観点を比較する記事では、少数派の意見について、より広く普及している観点と同じだけの詳細な説明を加える必要はありません。≫とありますから、主流意見を差し置いて少数派の意見を大きく取り上げる必要はないだろうとは思います。ただ、今回問題とされている箇所には大きく掘り下げた意見が事細かに書かれているようには見えませんし、仮にそれが≪少数の批評家がしかも独立して主観で述べた批評≫で、それが少数派の意見だったとしても、「Wikipedia:中立的な観点」から考えると除去ではなく、主流意見を加筆して両論併記とすることで解決するべきものと考えます。
まあ、その批評家が無名の存在であれば記載には値しないだろうとは思います。例えば、無名の批評家が同人誌上で作品に関する解釈や批評が行っているとしても、記載には値しないと考えます。ただ、今回の批評は仮にも査読機関を経由した出版物ですので、記載に値しないほどの無名というケースとは考えにくいです。
何はともあれ、Benignさんおよび各IPさんが、先の批評家の意見とは異なる、これこれといった主流の批評が存在するのだということをもしご存知であれば、記事の発展を考慮するなら出典付きで記載(併記)いただければありがたく存じます。--NISYAN 2011年5月29日 (日) 02:46 (UTC)[返信]
IPです.「,」と「.」で議論になっているとは.Benign氏に迷惑がかかるので,憶測でWikipedianを追い詰めるのはやめていただきたいものです.Wikipedia:礼儀を忘れないWikipedia:個人攻撃はしない違反なのでは.ぜひともご一読いただきたいです.ちなみにCU依頼は出されてもかまいませんよ,無実が証明されるだけですし.もっとも,このケースは各々が自分の意見を述べているだけで,Wikipedia:多重アカウントに抵触するような行為はなんらないですし(むしろ私はログインユーザーではないですから,もっといえば多重アカウントの取得すらしていないわけで…),ミートパペットといわれても事実この件については(侮辱・脅迫によって)却下されそうなわけですから,CUの対象にはならないと思いますが.
私のほうが少数意見ということなれば仕方がないです.この偏ったかもしれない批評家たちの意見を記載することに危惧したわけで,それを提案しただけなのに,まったくいわれのない多重アカウントだといわれて論点をすり替えられて非難されているのですから.この記事ではまともな論議ができないというのは非常に残念です.
あと,『記事本文の句読点には「、。」を用いるとされているコミュニティ』については,興味がありますので,ぜひとも検証可能な文献でのお示しをいただきたいものです.付記しますが,過去ログを拝見すると,Joyeuse氏やModmouse氏m「,」は使用していることがあるようです.
もう議論終了でいいのではないかと.Wikipediaの方針に対して純粋に議論するのではなく,個々のユーザーに対する誹謗中傷の類になってきているので,非常に不快です.私はこの議論から降りさせていただきます.ちなみに,同じ「,」「.」を使用していることと,長野県からの書き込みというだけでBenign氏にはご迷惑をおかけしてしまい,申し訳ありません.--118.108.220.228 2011年5月29日 (日) 03:23 (UTC)[返信]
返信いただいた上記の点について、私はその点は置いておくと言っていますし、仮にCU依頼が出ても参加するつもりはないとも言っています。それでも≪追い詰める≫ような文言だという印象を感じたのであれば、その点は申し訳ありません。また、それ以降(文章比率で残り8割以上)は議論本題のみについての意見を書いているつもりです。それでも、≪Wikipediaの方針に対して純粋に議論するのではなく≫と感じたのであれば申し訳ありません。
ご質問の点にお答えしておきます。≪記事本文の句読点には「、。」を用いるとされているコミュニティ≫と考えているのは、「Wikipedia:表記ガイド#句読点」やその要約である「Wikipedia:スタイルマニュアル#日本語表記」に基づきます。ノートは必ずしもそういう決めはありません。ですが、漢字変換において前回の変換ルールを記憶するタイプのものを用いているにしても、一律一方のものとなるタイプのものを用いているにしても、「、。」を用いる方が楽だろうとは思います。それを敢えて「,.」としている理由を追求するつもりは私にはありません。私にはないが、他の指摘者にはありそうだった、ということを伝えようとしたわけですが、うまく伝わらなかったようで、申し訳ありません。。
繰り替えしますが、Benignさんおよび各IPさんが、先の批評家の意見とは異なる、これこれといった主流の批評が存在するのだということをもしご存知であれば、記事の発展を考慮するなら出典付きで記載(併記)いただければありがたく存じます。置き換えではなく加筆である限り、他者から疑問の声は挙がらないだろうと思います。--NISYAN 2011年5月29日 (日) 03:57 (UTC)[返信]
ああ、終了でいいということであればそれでいいと思います。それ以上のことをする義理もありません。--獄児 2011年5月29日 (日) 04:29 (UTC)[返信]

(インデント戻し)最後のコメントから1週間以上経過していますが、「批評」の節について「Wikipedia:中立的な観点#芸術作品などの特徴に関する意見と照らし合わせて問題はない(公然の論議の元で導き出された批評のみを掲載するという方針はない)」「各論者について、『百科事典で言及するに値しないほど無名』にはあたらない」との指摘が複数なされており、いまのところ反論がありません。念のためこのコメントののち1週間経っても特に反論が無いままであれば「批評」の節は復帰しようと思いますので、異議がある方がいらっしゃいましたらこの下へどうぞ。--貿易風 2011年6月7日 (火) 04:56 (UTC)(修正)--貿易風 2011年6月9日 (木) 04:09 (UTC)[返信]

コメントCLANNAD (ゲーム)でもそうですが、そもそも合意もないまま独断で排除すること自体が問題行為ですので、待つ必要はないと思います。(CLANNADでは私が戻しました)--獄児 2011年6月7日 (火) 14:15 (UTC)[返信]
特に急ぐ必要もないので、ぼくのほうで復帰を行うとすれば前回のコメント通りにしようと思います。ご指摘の通り事前の合意の無い除去であり、またすでに反論が無い状態が1週間以上持続しているので、もしどなたかがそれより先に復帰されるのであれば、それを妨げません。--貿易風 2011年6月9日 (木) 04:09 (UTC)[返信]
1週間以上たちましたが反論などは見られないので、予告通り「批評」の節を復帰しました(差分)。--貿易風 2011年6月15日 (水) 00:59 (UTC)[返信]

まあ、こういう言った者勝ち的な作品とは何の関係もない批評を百科事典に載せるのはおかしいでしょう。ともすれば単なる売名行為にしかなりえませんし?これだけ意見が割れているなら、Air以外のどの項目でも削除で問題ないとおもいます。--以上の署名のないコメントは、Uribou2会話投稿記録)さんが 2012年6月3日 (日) 16:14 (UTC) に投稿したものです(獄児会話)による付記)。[返信]

ちゃんとノートに意見を記す際には署名をしてください。また、作品との関係性がないとは思いませんし、あげく売名行為というのは単なる言いがかりだと思いますが?多少論点がずれて東氏の批評に対する是非になっている、という点は以前から感じていたことですが、その辺りはもう少し整頓すれば良いだけで基本方針に致命的な落ち度はないでしょう。--獄児会話2012年6月3日 (日) 19:55 (UTC)[返信]

概要の最後に関して[編集]

概要のまたファンによる以下の一文について疑問なのでこちらに書いておきます。ファンによる同人活動の総本山といえるコミケではleaf&keyジャンルが設けられるほどkeyに関する同人活動は盛んです。出典の「どうか、幸せな記憶を。」は東浩紀コレクション版は持っていなかったので美少女ゲームの臨界点版を確認したところ118項にて更科修一郎氏が「2000年の秋に『AIR』が出て、その後の冬コミで『月姫』が出た。『AIR』の同人や商業アンソロジーが『Kanon』ほど盛り上がらなくて、それで冬コミが終わったあたりから、「『月姫』っていうのがあるらしいぜ」と話題になり始めた。」と発言していることを確認しました。比較対象のKanonは非常に同人活動が盛んな作品の一つでそれと比較して盛り上がらない事をもってして「かなり少ない」とするのは正確ではないよう思いました。他にはAIRの同人活動に言及した発言は無いようです。出典は具体的にはどの発言なのでしょうか。--おはぐろ蜻蛉 2011年7月13日 (水) 13:37 (UTC)[返信]

いま手元に『批評の精神分析 東浩紀コレクションD』がないのできちんと確認はできませんが、たぶんそれに収録されたものも『美少女ゲームの臨界点』に掲載されているものも同一の内容だと思うので、ご指摘の更科修一郎さんの発言を根拠としたのだと思います。おっしゃる通り「かなり少ない」では正確ではないので、「『Kanon』ほど盛り上がらなかった」のような形に修正したほうがよさそうです(というかそもそもこの編集のときに元の文章を書き直しておけばよかったみたいですね…)。できれば再度現物を確認したいところですが、しばらく時間がかかるかもしれないので、おはぐろ蜻蛉さんが『美少女ゲームの臨界点』をお持ちであるなら、とりあえずはそれに出典を差し替えた上で記述内容も訂正していただいてもよろしいでしょうか…?--貿易風 2011年7月14日 (木) 02:40 (UTC)[返信]
そもそも「同人」の部分は不要だと思います。アニメや大手雑誌、といった大きなメディアミックス展開に関わることであれば特筆性もありましょうが、同人展開のうんぬんは出典があるからといって本当に書くべきものでしょうか?一応疑問を提示しておきます。--獄児 2011年7月14日 (木) 07:31 (UTC)[返信]
編集しなおされていることを確認しました。おはぐろ蜻蛉さんありがとうございました。
記載の必要性について、一般論としては同人関連の情報だからといって一律に記事から排除すべきではないと思いますが、この記事のくだんの記述に関しては絶対に載せるべきというほどのものでもないので、もしだれかが除去したとしてもぼくは差し戻したりする気はないです。--貿易風 2011年7月18日 (月) 01:47 (UTC)[返信]

(インデント戻し)いまさらですが、『批評の精神分析 東浩紀コレクションD』を確認したところの問題の部分は上でおはぐろ蜻蛉さんが引用されているものと同一だったので、記述内容はそのままにして再録版のほうも出典に追加しておきました(出典が自費出版物だけだと入手・閲覧の可能性が低くなってしまうので)。--貿易風 2011年8月27日 (土) 01:56 (UTC)[返信]