ノート:95か条の論題

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

全面改稿を行いました[編集]

従前の版には出典がゼロでしたので、思い切っていったん白紙化し、新たに書き起こしています。従前の版にあった内容は概ね網羅しているはずですが、次のような点に相違があります。

この文書名について

いろいろ文献をみましたが、この文書名は「とくにない」「95ヵ条の論題と呼ばれている」としか言いようがありません。従前の版では「『贖宥状の意義と効果に関する見解』(ラテン語: Disputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum」が「正式名称である」という記述がありましたが、そうではないはずです。この『贖宥状の意義と効果に関する見解』という「表題」は、ドイツで出回った複製品のうち、ライプツィヒで印刷されたラテン語版の表題に追加されていたものです。本文でも示しましたが、ニュルンベルクで印刷されたラテン語版には『真理に対する愛から…聖名において、アーメン。』という長い「表題」が付け加えられていて、それがこの文書の「タイトル」と書かれています。というわけで、「正式名称はうんぬん」という記述はなくしました。

トロイに拠る、ザクセン選帝侯のコレクションに関する詳細

私はトロイの文献はあたっていませんが、別の文献を出典として書きました、詳細なところ(どんな品々があったか)も含めて8割がた裏付けることは可能でしたが、全体の文脈として不可欠な情報でもないと考え、注釈の格好にしています。

現代の宗教界における位置づけ

私があたった文献はいずれも歴史研究的な性格なものなので、「現在のキリスト者」や「現在の信仰」との関わりについては、ちょっと書けそうではありませんでした。

右側のテンプレート

{{宗教改革}}と{{プロテスタント}}はレイアウト上の制約が大きいため、スポイルしました。その代わりと言っては何ですが、新たに{{宗教改革史}}を作成し、記事末に置いています。--柒月例祭会話2017年1月18日 (水) 05:27 (UTC)[返信]

訳に関する指摘についての質問[編集]

利用者:Hermes3さんによるこの編集についての質問です。

「原文と比較して語が少なすぎ」とおっしゃいますが、どの部分のことをおっしゃっているのでしょう。

「…論じてもらいたい」までは、専門家による日本語文献からの引用ですので、そこまでの部分については改訳の必要は認めません。(この訳をあかんというのなら、その文献の著者に匹敵する程度の権威をもってしていただきた。)

とすると、私が訳した

  • In nomine domini nostri Iesu Christi.Amen.
  • 我らが主イエス・キリストの聖名において、アーメン。

部分だけになります。この程度の語数であれば、「少なすぎ」という指摘がどの語を指すのか、個別具体的にご指摘可能と思います。--柒月例祭会話2017年1月22日 (日) 13:53 (UTC)[返信]

(補足)当該部の「出典」を再度確認しました。厳密にはこの日本語訳は、原文を一語一句訳出した逐語訳ではなく、「大意」というべきものです。ですので、そういう趣旨の説明を記事の方に書き加えました。他の日本語文献で逐語訳のようなものが手に入るなら、それに置き換えることは歓迎します。--柒月例祭会話2017年1月22日 (日) 14:09 (UTC)[返信]

単に日本語訳とだけ書かれていては全文訳と思ってしまうのも仕方ないですし、始めから(大意)とあればどうということもなかったかもしれませんね。引用部分に対する要改訳のテンプレート使用が適切であったかはともかく、原文と訳語の語数の不整合に対して疑問を感じること自体はおかしなことではないかなと。全訳と比較しますと、省略されている部分はルターの地位・学位を説明した部分や討論の開催場所(=ヴィッテンベルク)など本筋でなかったり自明な部分でもありますし、当面は現状の訳で不都合ないと思います。--重陽会話2017年1月22日 (日) 15:13 (UTC)[返信]
そうですね、たしかに従前の状態では全文訳だと思われても仕方がなかったと思います。その点については私の手抜かりだと思います。ご指摘感謝します。--柒月例祭会話2017年1月23日 (月) 09:10 (UTC)[返信]
早速のご対処ありがとうございました。たしかにどなたかに改訳していただくのでなく、しかるべき邦訳を参照するのが筋ですので要改訳は妥当でなかったかと思います。失礼しました。趣旨としては重陽さんのおっしゃる通りでした。「大意」ということなら問題ないものと思います。なお、この節を見ていて気づいたのですが、この訳が付けられている「ニュルンベルク版」と、「1517年のニュルンベルク版。…」というキャプションの画像とが異なるように見えましたので、元画像を見たところ、前者は「Ninety-five Theses (Basel).jpg」というもののようです。編集が重なる間に何かあったのかもしれませんが、「活版印刷術とドイツへの拡散」の中での比較説明にも影響しそうですので、いちおうお知らせ致します。よろしくお願いします。--Hermes3会話2017年1月23日 (月) 13:32 (UTC)[返信]

スタイルの変更、節スタブについて[編集]

利用者:Quark Logoさんによる、出典と画像についてのスタイル変更[1]については、取り消します。

  • 画像のサイズやレイアウトについては、変更不要と考えます。(記事の本筋には重要ではないく、好みの問題なので。)
  • 出典形式についても、変更不要です。次の項目との兼ね合いもありますが、加筆せよということであればなおのこと、どのような形式でも構わない出典方式について、主筆者である私の方式と違うものにされると困ります。どちらでもいいものは、執筆者のスタイルを尊重してください。
  • 「内容」として節スタブを設けられましたが、節名だけ設けて中身は空っぽ、自分でスタブを貼るというのはあんまりでしょう。翻訳記事で部分翻訳しかしていないということでもないですし。私は各種文献を読んだ結論として、第何条は何が書いてある、というような詳しい「内容」は重要性が低いと考えました。なぜならば、『ルターの生涯』のようなものを含む多くの文献では「第何条はどんなことが書いてある」などの詳説はないからです。断片的な引用はありますが。で、複数の文献で「内容はとりとめがない」とか「独り言のような」「整理されていない」なとの言及があります。多くの文献では、この文書の重要性は「今度話し合いしたいのでよろしく」という告知であり、内容そのものではないと扱われています。このあと起こるいろいろな教義に関する論争は、この文書ではなく、これ以降のルターの著作や議論によって発生するものです。「内容は大した重要ではない」的なことを加筆しろと言われれば、評価節に書くことになるでしょうし、英語版のように「第何条は○○だ」というようなことを書くならば、末尾の方に書けばいい程度のことかと思います。--柒月例祭会話2017年1月23日 (月) 09:29 (UTC)[返信]
  • 『The Relic Master』についてのご指摘は、鋭いご指摘だと思います。(私は気づいていませんでした。)率直に言って、こんなところまでしっかり目を通されているんだ、と感じ入りました。これはちょっとお時間を頂きます。(「ザクセン選帝侯のコレクション」に関する言及は、私がさわる前からある記述で、なにかしら出典になるものを探していて行き当たったものです。とは言え、全体から見ると割とどうでもいい些末な情報ですし、削っちゃうてもあります。)--柒月例祭会話2017年1月23日 (月) 09:44 (UTC)[返信]
  • いくつか新しく追加していただいた画像については、検討させてください。(ライプツィヒ討論とか。)「同時代人」ではないエンゲルスの顔写真とかは「重要でない情報に不適切な重み付けをあたえてしまう」のではないかと思うので、また後段のルター画像連発は「くどい」のではないかとおもうので、私は「無い方が良い」と考えます。--柒月例祭会話2017年1月23日 (月) 09:44 (UTC)[返信]

差し戻しは不当です[編集]

利用者:㭍月例祭会話 / 投稿記録 / 記録氏による、この差し戻しは不当です。よって不当な差し戻しであるという認識からリバートさせてもらいます。

執筆者である私にとって加筆しにくくなるため」というのは記事の私物化でしかないでしょう。ウィキペディアは特定の記事の執筆者なるものに特別な権利を与えていません。加筆も差分と見比べれば対応できることであり、編集歴の長い人にとっては造作も無いことです。言及された今後の加筆ついてもいつ行われるかも、どう行われるかも、端からみてわかるものではありませんし、何の保障もないものです。要するに他の編集を排他する理由になりません。

画像についても、枠フレーム有りと無しというだけで、枠フレームなしの方がウィキペディア全体では使用例が圧倒的に少ないです。Template:File clip2というテンプレートに関しては、㭍月例祭氏ただ一人しか使っていないし、ご自分で作成されてものです。㭍月例祭氏が枠フレームなしの画像を多用していることは、非常に個人的なレイアウトであり、この点は別個で井戸端に提起したいと思います。

脚注節のサブセクションに参考文献を落とすレイアウトについても、㭍月例祭氏の「「参考文献」は節として独立させるようにします」という過去の発言を反故にしているように思われます。

出典形式についても、執筆者なるものと相談するようなガイドラインは存在しませんし、どのような記述方式でも基本的に対応可能であり、リバートする理由にはなりません。脚注に表示される著者名や翻訳者名や年数の選択あるいは、書名の掲示の有無などは、当然、変更可能であり、そんなことは自在にできます。「執筆者のスタイル」を尊重するというガイドラインは特にないし、そもそも、そこまでの変更はしてません。章の名前も削除してないし、ただ書名ベースを、ハーバード式にしただけ。前述のように書名を残したいのなら、それも付け足せば良いだけ。

内容の節については、当然必要なものと考えます。95ヶ条の論題という記事名なのに中身について余りに論じられてない。末尾の方に 書けば良いというのは、節の順番のことでしかないので、別にそれはどうでもいいですが、普通は内容をある程度先に言わないとどういうものであったのか説明は難しいと考えます。いずれにしろ、リパートする理由には一つもなりません。明らかに、リバートせずに、改変するのがマナーです。--Quark Logo会話2017年1月23日 (月) 09:47 (UTC)[返信]

返信 いえ、出典形式は自由です。Wikipedia:出典を明記するには様々な表記スタイルが認められています。「記事の所有権」の話と、Quark Logoさんがハーバード式に置き換えるだけの話はスジが違います。あなたが編集した記事で、あなたの使いやすい出典形式を使うのであれば、それは尊重します。しかしどちらでもいいものを、自分の好みで置き換えるのは、それこそあなたが「所有権」を主張しているようなものです。

あなたのリバートは不当なものである、と抗議しておきます。これ以上差し戻ししても「3rv」ルールに引っかかってつまらないことになるだけですから、「リバート」は行いませんが、マナーの問題を言うのであれば、あなたの編集は「腕づくで解決しようとしない」に違反しています。少なくとも意見の相違があることはあなたも認知したわけですから、編集を強行する前に、話し合いと合意形成を行うべきでしょう。それを行わずに一方的に自己の主張だけ行い、編集を強行するのは不当です。

「画像」については、「フレーム有り無し」はどうでもいいです。あなたが「フレームなしが個人的なスタイルだから問題だ」というのであれば、別に「フレームあり」にしたっていいのですが、あなたは画像の大きさや配置まで変えているでしょう。私はそのことを言っています。

出典形式にしろ、画像の大きさや配置にしろ、確かに「個人所有物」ではないですし、誰でもいくらでも編集できます。ということは、次に私が出典形式や画像を従前に戻しても、あなたもまた文句を言う筋合いはない、ということになりますね。しかしそうやって各人が「自分の好み」に変えることを繰り返すのは編集合戦だし、一般にはそういうことはするべきではない、とされています。--柒月例祭会話2017年1月23日 (月) 10:15 (UTC)[返信]

返信 (㭍月例祭氏宛)  それはおかしい。㭍月例祭氏が使いやすい形式にするというのは、何ですか??? それこそが㭍月例祭氏が記事の所有権を主張している(私有化)ということそのものですね。誰が編集したら誰のだとか、私の記事やあなたの記事という区別はなくて、すべてウィキペディアの記事で、誰のものでもないというが、ウィキペディアの明確なガイドラインです。この点について根本的理解を欠くとは言えないでしょうか、記事の所有権の私有化の振る舞いの例にあるとおりのことを㭍月例祭氏は言っていますが、まず読んで見比べてください。
好みで置き換えたわけではなくて、脚注と出典をリンクで結ぶということは、一般読者の利便性の向上でありWikipedia:出典を明記するにあるように、個別参照法は基本的に推奨されています。拒絶する理由はありません。自分が慣れていないという理由で、個別参照法を使わせない権利がありません。ちなみにいうと、㭍月例祭氏が個別参照法を使いたくないなら(リバートや妨害をしないなれば)それはそれで結構ですし、混ぜて書けば良いだけでしょう。㭍月例祭氏の書き方だとリンクしていないわけなので、何の問題もないはずです。そちら側の書き方は干渉するものではありません。今まで通りに加筆すれば良いでしょう。しかし逆に私の書き方ではリンクが動くわけですから、動かないようにわざわざするのであればそれは妨害的編集といえるのではないでしょうか。意図が問われます。
そもそも㭍月例祭氏のリパートは明らかに不当です。詳しく見る前にリバートしているし、そもそもリバートは荒し行為に対応するためのものであり、自分の編集方法や記述方法と違うといった編集の対立のようなものに用いることは許されていません。
ノートを書く前にいきなりリバートを最初に強行したのは㭍月例祭氏であり(2017年1月23日 (月) 18:09)、その後に書かれた(2017年1月23日 (月) 18:29および18:44)このノートでも、前述のように、さらに㭍月例祭氏は明白にこの記事に対する私有化の振る舞いを言明しています。自分が最初にした行為で他人を非難するのは理屈に合いません。不当な行為は後から言っても正当化されません。
枠ありでよい、というのは合意と理解してよいでしょうか? 
画像のサイズについては、(ほかの記事についても言えることですが)㭍月例祭氏は非常に小さい画像を使うのを好まれるようですが、小さい画像はとても見づらいです。見づらいことは改変の理由になると思います。推奨される画像サイズは、幅をサイズ指定しないときの220px前後で、100px以下は推奨されません。「画像の大きさや配置まで変えた」ことは、全体をみて調整しましたが、三つの画像をサイドで並べるほど、文章が長くないのではないでしょうか。そのために画像を小さくするよりは、左右や別の場所に移した方が、見栄えが良いです。表題部も、横を空けるよりも、空いているところに文字を持ってきた方が良いでしょう。表は枠は要らないような気もしますが、表を画像配置に用いるのは余り好まれないので、「内容節」に表題部も移して、95条の解題するように掲示することはできるでしょう。ルターとエンゲルスの小画像については、他の発言で発言者の画像を掲示するなら全部するべきでしょう。しないなら全部の小画像をカットするべきかと。
編集合戦にならないようにするには少なくともいきなりリバートをしないことだというのは合意できるのではないでしょうか。最初にリバートした側が不当とか抗議するとか言うのは到底納得できません。Wikipedia:記事の所有権に書いてあるような内容を言った後で、その前のリバートを誰が正当だと判断するでしょうか。--Quark Logo会話2017年1月23日 (月) 12:06 (UTC)[返信]
柒月例祭氏はやはり問題のある編集者だったようですね。独自の見解でカテゴリを私物化している傾向が散見されます。--レアード会話2018年5月12日 (土) 12:45 (UTC)[返信]

報告確かに「所有権」ではないものの、私には「この記事の執筆者」としていくらか自負はあります。しかし私の意見は1つも聞いてもらえません。私はこの記事から手を引き、以後は第三者に委ねることにします。

コメント 個人的な思いになってしまうのですが、画像両構えというのはどうも好みではありません。まったくやらないというわけではないのですが、スタブ記事で文章量と画像数が釣り合わなくてしかたなく左右に置くということはしています。
記事は誰のものでもないという考えはもっともですが、Quark Logo様が投下された執筆量(編集量ではありません)があまりにも少ないため、今回は主要執筆者に配慮しサポートに徹するべきかと思われます。少なくともWikipedia:月間強化記事賞投票中は、主要執筆者の版に戻してあげるべきかと思います。
その後は、このノートページに画像配置や出典掲載について問題点ごとに切り分けた提案を繰り出していただいて、主要執筆者の賛同を得てください。丁寧な解説とメリット・デメリットの整理、執筆者は「はい・いいえ」で答えるだけというのが、最もスマートなサポートと呼べるでしょう。
私たちが日々楽しいレイアウト編集ができるのも執筆というベースがあってこそです。Quark Logo様の善処に期待します。--Triglav会話2017年2月2日 (木) 13:07 (UTC)[返信]

記事名と表記ガイドとの関係[編集]

内容に関わる話でないので恐縮ですが、記事名とガイドラインとの整合性についてです。

Wikipedia:表記ガイドには「小さい「」は、使わないでください」「固有名詞の場合は、使用できますが、…」(WP:KANA)とあります。この場合、原語がドイツ語ですので、『定訳』といえるならば、固有名詞に準ずるものとして、と解釈できるかもしれません。しかし、手元の電子辞書等で調べた範囲では、この点に疑問を抱きました(以下のうち、タペストリー以外は全部電子辞書)。

  • 「か」
    • 『日本大百科全書』 - 「九十五か条の論題」
    • 『世界史事典』三訂版、旺文社 - 同上
    • 『角川 世界史辞典』 - 「95か条の論題」(「ルター」内)
    • 『最新世界史図説タペストリー』十四訂版、帝国書院 - 同上
  • 大きい「カ」
    • 『山川 世界史小事典』 - 「九十五カ条の論題」
    • 『世界史用語集』山川出版社 - 同上
    • 『広辞苑』第6版 - 同上
    • 『倫理用語集』山川出版社 - 「95カ条の意見書(論題)」
  • 小さい「ヵ」
    • マイペディア』 - 「九十五ヵ条提題」
    • 『ブリタニカ国際大百科事典』 - 「九十五ヵ条の提題」
  • 「箇」
    • 『精選版 日本国語大辞典』 - 「九五箇条の意見書」(「ルター」内)
    • 『スーパー大辞林3.0』 - 「九十五箇条の論題」
    • 『デジタル大辞泉』 - 「九十五箇条の意見書」

この主題の専門書は調べていないので制約は大きい調査ですが、小さい「ヶ」が一例もなかったのは私にとっても意外でした。そもそもこの95ヶ条の論題の記事本文で(引用箇所の出典だけでなく地の文でも)「95ヵ条の論題」も使われており、「95ヶ条の論題」が定訳のようにはあまり見えない、という印象もあります。

この状況の場合、表記ガイドとの兼ね合いからするならば、一番無難な「か」を使う表記に改名してしまった方がよいのではないかと考え、この節を立ち上げました。いきなり改名提案を出さなかったのは、上記の通り、専門書を博捜したわけではないという制約と、Wikipedia:表記ガイド#漢数字「固有名詞などで項目名になりうるもの」との兼ね合いからすると『95』の部分を『九十五』としてもいいのではないかと考えたのが理由です。いずれにせよ、表記ガイドと上記調査の結果からすると、専門書の用例などでよほどの事情がない限り、小さいヶの使用は控える方が望ましい、と私は考えました。

改名の必要の有無や他の用例など、ご意見をお願いいたします。--Sumaru会話2017年11月23日 (木) 16:16 (UTC)[返信]

どうしても気になるのなら、改名で、その「か」候補はご自由に。検索にかけた通りすがりの限りですが、日本福音ルーテル教会では、「個[2]」「箇[3]」「ヶ[4]」「か[5]」、西日本福音ルーテル教会では「箇[6]」とありました。私は、当のルター派教会間でこそ「判別できればいい」「俗世の方が気にする必要はない(正しい/間違いの話ではない)」と理解しています。記事名に使用可能文字を制定している状況で拘束される必要はないでしょう。他国語版の記事名状況として、ドイツ語版では「de:95 Thesen」、英語版は「en:Ninety-five Theses」となっていて、そもそも「ヶ条」とつくのが日本独自の訳となっています(もちろん、その「95ヶ条」慣例の和訳で上手くいっているという日本独自の現状があります)。95本題ではなく、「か」をどうするか、などといったところで止まるくらいならば、私は、いっそドイツ語版、英語版に則った「ヶ条」を取り払った「95テーゼ」や「95論題」もありだと思っています(もちろん第1は「か」をどれにあてるかとして、決められない末の極論としてです)。
日本語訳初出を巡るのは結構ですが、年単位で延々先送りになるのなら、今ここで合意形成で、あるいはご自身の好みで、改名そのものや、その候補となる「か」を決めて問題はないと思っています--Comy9(利用者‐会話) 2017年12月8日 (金) 17:47 (UTC)[返信]

改名提案[編集]

かなり長い期間とったつもりですが、改名への異論がないため、「九十五か条の論題」への改名を提案します。理由は上記の通りです。表記ガイドとの不整合をなくす(小さいヶを使わない)ことが最大のポイントなので、次善の案として「九十五カ条の論題」「95か条の論題」「95カ条の論題」も挙げておきますが、正直、そのあたりは争わねばならないような重要な論点ではないような気がしています(漢数字を優先したのは十七条憲法三十年戦争など、歴史用語では漢数字がしばしば使われているという判断によるもので、上記の例の通り、算用数字を使っている例もあることは認識しています)。

  • 賛成 提案者票 --Sumaru会話2018年2月3日 (土) 02:05 (UTC)[返信]
  • 賛成 賛成します。--Hiraapa会話2018年2月5日 (月) 03:49 (UTC)[返信]
  • 条件つき 賛成 「小さいケ」を表記ガイドに沿って「か」に置換し、「95か条の論題」とするのが適当と考えます。日本の二つのルーテル派教会の表記例から見ても、漢数字を使う理由はなさそうです。--Pooh456会話2018年2月5日 (月) 04:57 (UTC)[返信]
    • 報告 「95か条の論題」に改名しました。なお、プロジェクト:キリスト教/キリスト教の記事名と用語表記のガイドラインには、『個別記事ごとに本ガイドラインの対象となるかどうか判断するもの』に「キリスト教において重要であり、発祥もキリスト教にあるが、キリスト教以外の場面でも重要な事物」とあり、世界史用語としても広く受容されているこの主題は、これに該当するものと思われます。ですので、ルーテル派教会の表記に重きを置く理由提示には必ずしも肯えるものではありませんが、「争わねばならないような重要な論点ではないような気がしています」と最初に述べたとおりですので、そちらに移動しました。ただ、類似の事例が持ち上がった時に、その議論の参加者から、キリスト教会における表記が最優先される先例などとして機械的に引き合いに出されるべきではない、という確認のために、一応このように断らせていただきました。--Sumaru会話2018年2月24日 (土) 12:23 (UTC)[返信]