ノート:雑賀重義

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タイトルが「鈴木重義 (水戸徳川家家臣)」だと、幕末水戸藩の本圀寺勢の主要人物、鈴木重義(鈴木縫殿,1838-1903) も同様になってしまうので、「雑賀重義」にするか「鈴木重義(雑賀重義)」としたほうがよいのでは。現在、鈴木縫殿重義のほうにはリンクがないようですが、一般的には(水戸市史登場回数では)鈴木縫殿のほうが有名なような気がします。 --以上の署名のないコメントは、114.163.173.137会話/Whois)さんが 2011年7月26日 (火) 14:43‎ (UTC) に投稿したものです(モンゴルの白い虎 2012年1月6日 (金) 16:41 (UTC) による付記)。[返信]

鈴木重義 (雑賀鈴木家) への改名を提案します。--モンゴルの白い虎 2012年1月6日 (金) 16:41 (UTC)[返信]
賛成 改名に賛成します。--桜国の竜 2012年1月11日 (水) 11:43 (UTC)[返信]
改名しました。--モンゴルの白い虎 2012年1月13日 (金) 08:49 (UTC)[返信]

改名提案(二回目)[編集]

現在の「鈴木重義 (雑賀鈴木家)」から「雑賀重義」への改名を提案します。義父・雑賀重次(鈴木重次)の代に鈴木から雑賀に改姓済みで[1]、重義を雑賀重義と書く例がある一方、鈴木重義とする文献が見られないことが理由です。

重義が登場する文献の例として、兄・徳川光圀が編纂を開始した『大日本史』に「雑賀孫市重義」とあります[2]。『桃源遺事』所収の系図には「雑賀孫市穂積重次養子」と書かれ、そのまま受け取ると重義も雑賀姓です[3]。奥田源三『徳川光圀』(普及舎、1894年)、岡村利平『水戸藩皇道史』(明治書院、1944年、145頁)も同様です。近年のものだと、吉田俊純徳川光圀の世子決定事情」(『筑波学院大学紀要』第8集、2013年)に、重義が雑賀重次の養子となって雑賀家を継いだ旨があり、系図の例と同じく雑賀重義と受け取れます。この他、ひたちなか市の浄光寺にある重義の墓も鈴木重義でなく雑賀重義の墓とされているようです[4]

以上により改名を提案します。

  1. ^ 鈴木眞哉『戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆』平凡社〈平凡社新書〉、2004年、165–166頁。ISBN 4-582-85236-X 
  2. ^ 徳川光圀 撰; 川崎三郎 訳註『訳註大日本史 十二』建国記念事業協会・彰考舎、1941年、22頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920648/27 
  3. ^ 千葉新治 編『義公叢書』早川活版所、1909年、42頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781759/36 
  4. ^ 茨城県『茨城名勝誌』茨城県、1909年、古墳30–31頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763632/212 

--YasuminB会話2023年12月5日 (火) 00:00 (UTC)[返信]

  •  追記 改名直後の編集について、導入部「鈴木姓雑賀氏」は『水戸市史 中巻(一)』(水戸市、1968年)179–180頁の第17表(要登録)で、大番頭「雑賀孫市」の補足説明として「鈴木姓」と書かれていることに拠ります(鈴木氏自体は穂積姓と言われることが多いことと、本姓としての「鈴木姓」との表現をあまり見ないため覚束ないところがありました)。その他、「水府系纂」に基づくであろう箇所にも、重複になるとは思いますが別の書籍による出典を付けました。「水府系纂」を確認できる方で本文内各文に出典を付けられる方がおられれば付けていただけると幸いです。--YasuminB会話2023年12月12日 (火) 02:19 (UTC)[返信]