鈴木重次

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鈴木 重次(すずき しげつぐ、慶長3年(1598年) - 寛文4年10月9日1664年11月26日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武士。雑賀党鈴木氏水戸藩士。雑賀孫市と称する。

生涯[編集]

慶長3年(1598年)、鈴木重朝(鈴木孫三郎)の子として誕生。

父・重朝は慶長11年(1606年)に江戸幕府より3000石で召抱えられ、その後、水戸徳川家徳川頼房に仕えた。重次も3000石で頼房に仕え、元和9年(1623年)、寛永3年(1626年)、寛永11年(1634年)の頼房の上洛の際にはいずれも付き従った。

男子が無かったため、頼房の十一男重義を養子とした。

寛文4年(1664年)、死去した。墓は浄光寺(現ひたちなか市館山)にある。

逸話[編集]

関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いにおいて、父・重朝が討ち取った鳥居元忠の甲冑と刀剣が重次に伝えられていた。重次はのちに元忠の子の忠政にこれらを贈った。忠政は非常に喜び泣いて拝礼したが、その後甲冑・刀剣を重次に返却し、「ひさしぶりにて亡父のかたみの品々を手にいたし、誠に悦ばしく存ずる。しかしこの品々は貴家の子孫に伝えて祖先の勲功を残されるがよろしいかと思われまする」と厚意を謝した。

それから毎年忠政は使者を遣わし、重次に小袖四重を贈った。徳川頼房もこのことを聞き、使者のある時期にはあらかじめ道々の橋を修理し、饗応の支度を雑賀宅に与えたという。

また、鳥居元忠の四男で忠政の実弟である鳥居忠勝(瀬兵衛)が分家して水戸藩士として召し抱えられた。ともに大番頭に任じられたため、重次と忠勝は始終顔を合わせた。関ヶ原では敵味方に分かれて戦ったのに、かく水戸家にてお仕えし、重く扱われているのも何かのご縁でござりましょうと語り合ったという。

参考資料[編集]

  • 『常総の史蹟と寺々を訪ねる 後編』(山本秋広、1968年)