ノート:野矢茂樹

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理由説明なき一部削除の復元[編集]

114.156.36.32さんが2009年7月12日に理由を説明することなしに記述の一部を削除しましたので、削除分を復元しました。この削除は内容の劣化をもたらすだけで、有害無益だと考えます。もし削除に合理的な理由があるならば、まずこのノートに問題提起をして下さい。なお復元に関する議論の詳細については「Wikipedia:井戸端/subj/あるIP氏の編集活動についての対処」を参照して下さい。 --Midz 2010年2月7日 (日) 13:00 (UTC)[返信]

当該箇所のうち「第一人者」や「定評がある」は価値判断を含む記述であり、Wikipedia:大言壮語をしないWikipedia:言葉を濁さないとの兼ね合いからすれば何らかの出典が必要でしょう。野矢茂樹に関して当該箇所の様な記述をした文献がありましょうか。なければ「第一人者」や「定評がある」という部分については書き換えた方が良いでしょう。--Jms 2010年2月12日 (金) 22:04 (UTC)[返信]
これはIP氏が理由の説明なしに「活動」節を機械的にそっくり削除した編集が内容を劣化させただけで不当であると考えましたので、野矢氏の哲学界での評価をまったく知らない私はまずは旧の文章を尊重してそのまま復元したものです。狭い分野内に限れば「第一人者」ということもあると思いますが、Jmsさんがきちんと哲学界の空気などをお調べになった上で「第一人者」などが「大言壮語」などに該当するとお考えになったのであれば、ご自分の責任でもっと適切な表現に改められることに異存はありません。--Midz 2010年2月15日 (月) 08:51 (UTC)[返信]
「哲学界の空気」を調べろとのことですが、独自解釈となることなくどうやるのか想像つきかねますので、適宜編集しました。--Jms 2010年2月15日 (月) 16:28 (UTC)[返信]
原文は確かに「第一人者」という表現を含んでいますが、かなり限定した分野でしかも日本という地域に限定した話ですから、あるいはその学界内では通念となっていることかも知れません。ですからそれらに通じていない外部の人間は手を出さないのが本来だと考えます。でも貴方が編集した文章もそれ自体には大きな不都合はないようですから、もっと学界の空気に詳しい人から文句が出るまではこのままにしておいてもよいと考えました。ただ、貴編集は評価だけでなく研究内容の表現も一部削って意味が少し変わってしまった嫌いがありましたので、一部復元しました。--Midz 2010年2月16日 (火) 07:04 (UTC)[返信]
野矢茂樹の著作をお読みになってのことでしょうか。ウィトゲンシュタインを思考基盤としているとした文献の提示をお願いします。--Jms 2010年2月16日 (火) 08:58 (UTC)[返信]
研究分野の説明を的確なものに戻すことは「大言壮語」などとは無関係な事柄ですのに、なぜ貴方がその根拠にこだわるのかが理解出来ません。W「の研究」とW「を思考基盤とする哲学研究」とでは意味が異なることは貴方でもお解りでしょう。そしてこのような事柄については、特に反対する根拠がない限り、我々よりも事情に通じていると思われる原執筆者の見解を尊重するのは当然でしょう。もしどうしてもその根拠を、というのであれば、ご自身でお調べになるか、問題の語句を最初に導入した220.144.131.76氏にお尋ねになるかして下さい。--Midz 2010年2月17日 (水) 06:21 (UTC)[返信]
野矢茂樹の著作を読む限り、ウィトゲンシュタインを思考基盤としている、というのが適切な表現とは考えにくいからです。文献を求めているのは、わたくしが読んでいない文献でそうしているものがあるかもしれないからです。--Jms 2010年2月17日 (水) 11:10 (UTC)[返信]
またまた強引に問題文言を削除なさいましたが、その根拠が貴方が野矢茂樹の著作をいくつか読んでの判断だと言うのは如何にも粗雑だと思います。東大教授という「偉い」先生が「Wを研究している」かあるいは「Wを思考基盤として哲学研究をしている」かは、哲学界内部の人間ならば耳学問により通念として分かる事柄でしょうが、外部の素人がその人の一般向け著作をいくつか読んで簡単に分かる、というものではありません。ですから外部の人間がそれを知るには内部の人間に尋ねてみるか、あるいはその人の哲学研究論文リストを眺め、その主なものを一応でも読んでみるかするしかないと思います。そして野矢氏がWの代表的著作を翻訳していると同時に、きわめて広いテーマで一般向けの本を数多く著しているところを見ると、私にはやはり「Wの思考を基盤として広く哲学研究を行っている」と感じます。 特に、我々よりは哲学界内部の事情に通している、おそらくは内部の人間であろうと思われる220.144.131.76氏が過去にわざわざこの文言を挿入するだけの編集を行っているのを見れば、ますますその感を強くします。このような場合は原執筆者の考えを尊重するのが本当だと思いますが、如何でしょうか?
そもそも今回の貴方の編集行動は、記事の内容ではなく、せっかくの自分の編集に対し批判がましく一部復元したのはケシカラン、という貴方の感情に基づくように思われます。これは「表記の統一」に関する膨大な議論の発端にも通じる話です。そして今回の貴方の行動はその議論で繰り返し述べられた「内容を充分に知らない者は編集に手を出すべきでない」に反します。そしてさらにこれだけ限定した分野で日本でのということになると「第一人者」も充分あり得ることで「大言壮語」にもあたらないと思いますし、「定評がある」も同様ですから、これらに関しての貴方の編集はこれも繰り返し述べられた「皮相的基準だけで機械的に編集をしてはいけない」にも反しているように思われます。
とは言っても、ここで私が手を入れれば、双方が学界外の人間で決定的な根拠を持っていない現状では、編集合戦になることは必定です。ですから現行文面は適切ではないと思いますが、私は手を引きます。しかし、もし貴方が本当にウィキペディアを愛しておられるのならば感情や面子にとらわれず、きちんと調べられてご自分の手で適切な表現にお戻しになることを希望します。--Midz 2010年2月19日 (金) 06:14 (UTC)[返信]
「偉い」かどうかはまた価値判断ですが…。「Wを研究している」とは述べていません。「Wを思考基盤として哲学研究をしている」かどうかは、御本人の頭の中を覗かねば、いや覗いてもわからんでしょう。一方、ウィトゲンシュタインを中心に…参照している、というのは、本人の著作で直接的に確認できる事実です。「外部の素人がその人の一般向け著作をいくつか読んで簡単に分かる、というものでは」ないのなら、「我々よりも事情に通じていると思われる原執筆者」という判断をなさっている Midz さんがどう感じるかというのがどう利いてくるのかわかりません。また、なぜ一般向け著作しか読んでいないとお考えなのかわかりません。野矢茂樹本人は専攻を「哲学」としており、広く哲学研究を行っていることを否定する紹介文にもなっていません。わたくしの感情に基づく編集と想像なさるのはご自由ですが、それが事実であるとの前提に基づいた批判は失当でしょう。「きちんと調べられてご自分の手で適切な表現にお戻しになることを希望します」と言われましても、そもそも「きちんと調べた上での適切な表現」であるならば、直しようがないでしょう。--Jms 2010年2月19日 (金) 11:33 (UTC)[返信]
「Wを思考基盤にして研究をしている」は何もご本人の頭の中を覗かなくても、その道の人ならば学会での講演を聴き、研究論文の列をたどることで判断の出来る事柄です。 そのような資質と見識があると思われる原執筆者の見解を否定して削除するにはそれ相応の調べが必要です。素人の貴方がご本人の一連の研究論文を「きちんと調べた上で」編集なさったとはとても思えませんが。--Midz 2010年2月21日 (日) 00:47 (UTC)[返信]
わたくしの編集について、調べた上で編集しているとは「とても思えない」と Midz さんがお考えだということ、また、「思考基盤にして研究をしている」ということを「学会での講演を聴き、研究論文の列をたどることで判断の出来る」事だと Midz さんがお考えだということ、は、承りました。なにをもって Midz さんが「その道の人」や「素人」と判断なさるのかは、わたくしにはわかりませんでした。--Jms 2010年2月21日 (日) 01:39 (UTC)[返信]
またまた話が不利になると「わからない」と言って進行を妨げる貴方のパターンが再現したようです。貴方には難しい注文かも知れませんが、面子などにこだわらずにウィキペディアのための素直な編集をして下さるよう希望します。なお貴方も何かをお調べにはなったでしょうが、「野矢氏の一連の研究論文をきちんと調べた上で編集なさった」とは「とても思えない」と私は述べたのであることを念のため書き添えておきます。--Midz 2010年2月22日 (月) 06:14 (UTC)[返信]
有利不利、といった観点ではとらえておりませんので、「話が不利になると」というのはあたりません。面子などにこだわらずに、と言われても、そもそも面子を気にしていない (Jms とか Midz って一体どこの誰?) ので、こだわりようがありません。内容についてはより適切な表現は求めますが。Midz さんが、御自分で詳しくないと仰っている分野について、誰かが「その道の人」や「素人」であるとどうやって判断できるのか、それがわたくしにはわからない、ということです。--Jms 2010年2月22日 (月) 11:37 (UTC)[返信]
「その道の人」については一応説明しましょう。ここで問題になっている文言は一人のIP氏が挿入したものです。そしてその編集は「W研究の第一人者」とあったのを「Wを思考基盤とする哲学研究の日本での第一人者といえる」と修正したものです。この編集はもとの表現を詳しくしただけでなく、意味も微妙に変えています。ですから、もとの文章を読んでそれを不満足と考え、それを補うために、意味まで違ってくるので旧の文章だけからでは頭に浮かぶはずのない「を思考基盤とする哲学研究」という文言を持ってきたのは、この人が野矢氏をめぐる哲学界の情況に精通して、その内容に自信を持っていることの現れであろうと考えます。つまり、そのような人でなければそもそもこの文言を思いつく筈がない、という判断です。 これが「その道の人」の意味です。この文言はそのような背景を含んでいますから、それを否定して削除するには、哲学界の空気か、さもなければ野矢氏の一連の研究論文かについて、それなりのきちんとした調べが必要だ、というのが私の主張です。如何でしょうか?。
ちなみに面子といえば、貴方は「表記の統一」の議論で「Midz案は論理的に矛盾していて検討の価値なし」という強引な主張を繰り返された面子もあって、今でも同じような主張をなさることでしょう。しかし、例えば収拾案を出されたKs aka 96氏は行きがかり上Midz案に論理的な破綻を見つけようと試みてどうしても果たせず、「氏もMidz案には論理的には何ら問題なしと認識している」との私の纏めに、「そのように理解されるのであれば、そのように」という消極的ではあるがはっきりした是認を与えています。興味があれば詳細は同氏の会話ページの「過去ログ5-107」をご覧下さい。 -Midz 2010年2月23日 (火) 10:28 (UTC)[返信]
…「Midz案は論理的に矛盾していて検討の価値なし」という主張が妥当であるかどうか、という議論はありえると思いますが、それを「面子」と考えるのは特定の価値判断ではありませんか (それ以上の議論をここで展開するのはあまりに範囲外ですので、しません)。「その道の人」という点についての主張は承りました。Midz さん御自身について、その道の人であるか、あるいは素人であるかという判断をなさることに関して、検証可能性的な疑義をはさむつもりはありませんが、Midz さん以外の方、特に、それが社会的実体として何者であるかについて自明でないおそらく他者について、なにをもってその道の人であるか、あるいは素人であるかと Midz さんが、いかなる判断基準をもって判断なさっているのか、わたくしにはわかりません。Midz さん以外のどなたか (それが Midz さん以外の方であるということは、Midz さんには自明であると前提していますが) が、「哲学界の空気」なるものに通じていない、あるいは、「野矢氏の一連の研究論文かについて、それなりのきちんとした調べ」をしていない、というのを、Midz さんはどのようにしてお知りになり、ウィキペディアの如き記録の残る媒体においてそれが事実である、あるいはあたかも事実であるかの様に指摘なさるのか、わたくしにはそこがわかりません。しかし、その指摘をなさるのですから、なにか確定的な事実を把握なさっているのだろうとは思うのですが。--Jms 2010年2月23日 (火) 11:43 (UTC)[返信]
またも私がたまたま使った言葉「その道の人」についてそれの「判断基準」などという代物が持ち出され、迷宮に導かれそうですので、此処でもう一度、問題を確認しておきます。問題は、2006年にあるIP氏が導入した文言「思考基盤とする哲学」に貴方が反対して削除した編集が妥当かどうか、というものです。私はこの文言の導入のされ方から見て、このIP氏が野矢氏や氏をめぐる情況に充分精通しており、この文言は妥当なものと判断して、それを前回コメントできちんと説明しました。それに対して貴方は「きちんとした調べをしていないとどのようにして知ったか」というような取り留めない言葉を並べるだけで、例えば「私が氏の研究論文をいろいろ調べた結果、かくかくの事実が判明したので、その文言は妥当ではない」というような正面からの反論はまったくしていません。しかし、貴方にそのようなまともな反応を望むのはないものねだりでしょうから止めておきます。そして第三者に判断して貰うための材料はすでに一応整っていると考えますので、この辺で資源や時間の無駄遣いの議論は終りにしたいと思います。どうかよろしく。--Midz 2010年2月25日 (木) 05:13 (UTC)[返信]
つまり、Midz さんは野矢茂樹の著作にあたらずに判断している、ということですね。で、Mdiz さんは「Jms は野矢茂樹について素人である」と考えており (その考えがどういう理由によるのかわかりませんが)、Jms は野矢茂樹について素人であるから、野矢茂樹の一連の研究論文を「きちんと調べた上で」編集したとはとても思えない、とも考えている、ということですね。もし、野矢茂樹の著作をまだお読みでないなら、書籍としてまとめられている分で十分ですので、読まれることをおすすめします。既にお読みでしたら、お読みの範囲で結構ですので、「思考基盤とする」を「参照する」としてはいけない出典を挙げてください (これは、この議論の最初からお願いしていることです)。--Jms 2010年2月25日 (木) 10:20 (UTC)[返信]

末木剛博の影響[編集]

活動の項に禅を通じて末木剛博と交流があった事は書かれています。それ以外に、末木の影響で大学院時代から北海道赴任まで茶道を稽古しています。茶道の師匠は斉藤宗幸と言い、網野善彦の従姉妹に当たります。また、末木恭彦と同門でした。(自註末木恭彦自筆年譜(稿本))--行險樓会話2021年4月6日 (火) 14:18 (UTC)[返信]