ノート:軍師

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いくらなんでもビスマルクやゲッペルスは勘弁してください。おおよそヨーロッパの人物を「軍師」として挙げるのは不適切以外の何者でもありません。
中国の人物でも管仲やらの政治家を軍師として挙げるのは止めてください。実戦の将軍として活躍した人物を軍師として挙げるのも止めてください。
それから参謀に区分される人も軍師に挙げるのは止めてください。軍師という存在自体が「架空の存在」に近いものであるだから、「三国志演義」「水滸伝」や日本の戦国時代の軍記物に登場するような人物以外を挙げるのは止めてください。らりた 2006年3月25日 (土) 13:12 (UTC)[返信]

一覧削ってみました。本当に軍師と呼ばれたことがあるのはこのくらいでしょう。Kuro-hato 2007年3月8日 (木) 13:53 (UTC)[返信]

三国志を抑制する理由[編集]

君主の覇業を助けた有能な武将は安易に軍師と関連付けられるケースが多々あります。代表例は言うまでも無く三国志。まさに軍師の宝庫と言っていいでしょう。策謀に長けた名将が数多く登場するのは事実ですが、史実と演義との境界が曖昧になりやすい上に、近年のゲームの影響もあって、人数を抑制する努力をしなければ無限に増えてしまいます。一概に各人の能力を比較することは出来ませんが、世界史全体の時代区分との兼ね合いもあり、代表的な人物を複数挙げるだけでも多すぎるということをご理解ください。Kuro-hato 2007年3月16日 (金) 16:06 (UTC)[返信]

なんというか、ここだけじゃなく名君暗君といった類の項目全部に「出典の明記」をつけて回りたい気分だ。誰がどの本で言うとんねん、ていう感じかな。独自の研究まるだしじゃん、てね。--61.211.22.141 2007年3月16日 (金) 16:19 (UTC)[返信]

陳平[編集]

陳平は確かに有名な謀将です。私も削除に関しては大分迷いました。

しかし、前述のように同時代の君主に対して複数の軍師を挙げると(特に中国の場合)三国志の軍師数も軒並み増えていくのではないかという懸念が一点。兵法書三略でも有名な張良と同時代の同君主に仕えたにも関わらず「三傑」に入っていないので張良という軍師の次点であると言えることが一点。陳平の本領は劉邦の生前よりも、むしろ死後に呂氏の専横を阻止したことが最大の功績と言われることが一点。以上の理由から、私は陳平は劉邦の軍師として名前を挙げるまでもないと考えました。

豊臣秀吉の二軍師を残したのは「羽柴の両兵衛」と並び称されている上に、竹中半兵衛の死後に黒田勘兵衛が後任に当たるという世代交代が秀吉一代の間に完全に出来ていることが理由です。

本来ならば私が二回目に陳平を削除した時点で編集保護がかかるはずですが、現在その様子はありません。差し当たって私が陳平を削除することは今後ありませんのでご安心ください。Kuro-hato 2007年3月16日 (金) 16:23 (UTC)[返信]

名士論[編集]

諸葛亮について。渡辺義浩氏は『三国政権の構造と名士』にて諸葛亮が荊州名士のとりまとめを行い、劉備勢力内での荊州閥を作り、それに対して劉備は法正などを重用することで益州閥を作り、対抗した。としています。あと、房玄齢、杜如晦は政治家であり、軍師とはまず言わないと思うのですが?らりた 2009年10月13日 (火) 12:30 (UTC)[返信]

渡辺氏という方をよくは知らないのですが、荆州名士でありながら貧乏で理解者が少数であった理由はどのように説明されますか?劉表一族に連なるという説明であれば、蔡瑁を含め、彼等は何故諸葛亮に協力せず、曹操に連なったのでしょうか。また、法正を重用しているのは彼が、益州領有の功労者だからです。これは劉備ですら、功績の多い法正を叱責できない事からも自明かと。 曹操も劉備も政治家です。群雄と呼ばれる国家の主席への助言、国家戦略規模で助言する人物は全てが政治家と言ってよろしいでしょう。軍師の代名詞張良もまた、軍事下手の政治家としての軍師です。房玄齢、杜如晦は隋唐演技でも有名な軍師ですので、記載してよろしいのでは? --220.215.133.3 2009年10月14日 (水) 17:44 (UTC)[返信]

渡辺義浩氏は現在の日本の三国時代研究において最も注目されている人です。「名士」論を基にした前出の専門書『三国政権の構造と名士』の他にも多数の研究を発表されており、三国志学会の事務局長を勤めておと『三国志研究入門』なども著されています。一般向けにも歴史群像シリーズなどを執筆されており、また三国志検定にも関っています。現在の日本の歴史学界で「三国時代」を取り上げる際に真っ先に名前が出てくる人です。
渡辺氏の「名士」論に付いては貴族 (中国)#渡辺義浩で少し書いていますが、「名士」の資格は「財産は関係なく」「他の『名士』に『名士』と認められることが必要」ということです。荆州名士の中心人物であったホウ徳公に認められた諸葛亮には「名士」たる資格は十分にあります。
「房玄齢、杜如晦は隋唐演技でも有名な軍師なので」という理由で掲載するなら周瑜を削除するのはおかしいということになります。少なくとも日本の『演義』を元にした観点では周瑜は諸葛亮に次ぐ軍師の代名詞として扱われています。らりた 2009年10月21日 (水) 12:28 (UTC)[返信]
理解者が少ないと記述にあります。また、地元でもなく、一族も離散中、門地もなく、年齢も若い諸葛亮が、蔡瑁や荀イク達と同じように、荊州名士層を抱き込めるような存在とは思われない。また、そのような記述もない。ホウ徳公に認められた人物が諸葛亮以外に存在していないならまだしも、一人の名士(伏竜の号からも隠れた名士では?)と認められた事が即、中心人物になる事が一般論としてこの場に書き込まれる事に違和感があります。また、それほどの名声があれば士官要請の記述があってしかるべきでは?(士官要請を断る記述は名士として確立している人物はほぼ、記述があります)
周瑜は「帷幄で謀略をめぐらす」という顧問的な立場から外れているのではありませんか?そもそも誰の軍師でしょうか?

--203.141.155.245 2009年10月22日 (木) 11:39 (UTC)[返信]

それはあなた個人の意見。それに対して渡辺氏の意見は専門家の意見。あなた個人の意見は必要としていません。Wikipedia:独自研究は載せないを参照のこと。
>周瑜は「帷幄で謀略をめぐらす」という顧問的な立場から外れているのではありませんか?
というなら房玄齢、杜如晦は更に外れているのであるから「房玄齢、杜如晦を入れて周瑜を外すのはおかしい」といっているのですよ。らりた 2009年10月22日 (木) 11:53 (UTC)[返信]
正史のどこに諸葛亮が名士として、人心を集めたと書かれているのかと聞いている。なぜそれが独自の研究になるのか?逆の事は記述されている(理解者が少ない)記述もされていない事を、一般的とし、記述されていることを独自の判断とする理由は何か?
周瑜は将軍としての事績があり、帷幄の臣としては対象外であるが、房玄齢、杜如は外れていない(この両者を帷幄の臣として対象外としている理由は何か?)と申し上げている。有名では無いという意見に対し、隋唐演義で有名と書いた。隋唐演義で有名だから軍師としているわけではない。--203.141.155.245 2009年10月22日 (木) 13:29 (UTC)[返信]
だから「正史のどこに諸葛亮が名士として、人心を集めたと書かれているのかと聞いている」「逆の事は記述されている(理解者が少ない)記述もされていない事を、一般的とし、記述されている」のような「あなたが『三国志』を読んで分析した結果」は独自の研究にしかならないのですよ。専門家である渡辺氏の言説を否定したいならば他の専門家の言説を持ってきてください。あなたの言葉ではダメだと言っているのです。ウィキペディアの基本理念です。
ついでに言えば諸葛氏自体が諸葛豊という『漢書』に伝が立てられるくらいの人物を排出した名族ですし、おじの玄は袁術から太守に任ぜられるくらいですし、「諸葛亮伝」には単に「自分を管仲・楽毅に比したが周りの人は認めなかった。ただ崔州平・徐庶元直はそれを認めた」ということであり、「交友関係が狭かった」とはどこにも書いてない。むしろ「周りの人は認めなかった」んだからそれら「周りの人」と付き合いがあったということは明白でしょう。
「有名では無いという意見に対し、隋唐演義で有名と書いた。隋唐演義で有名だから軍師としているわけではない」
「有名では無いという意見」なんて私は言ってません。房玄齢、杜如晦は政治家なんだから軍師としてあげるのはおかしいといっているのです。
「『隋唐演義』という創作世界で両者が軍師として有名だから」という理由で挙げるのならば「『三国志演義』という創作世界で周瑜は軍師として有名だから」周瑜を削除するのはおかしいといっているのです。
帷幄の臣としては対象外云々をいえば純粋に「君主の下で軍事のみに助言するような存在」は幻想の存在です。張良も諸葛亮も政治・政略・軍略など全般的な活躍をした人物です。
そして「周瑜は将軍としての事績があるから」軍師ではないを是とするならば「政治家としての事跡があるからら房玄齢、杜如晦は」軍師ではないとしないと論理が通りません。
上記の理由で周瑜を削除するならば房玄齢、杜如晦も削除されなければ論理としておかしいということです。らりた 2009年10月23日 (金) 12:09 (UTC)[返信]
申し訳ないが、渡辺さんにどれほど私淑しているかは知らないが、客観性のある(渡辺さん独自の見解ではない)証拠を求めている。自分のは研究などではなく、明確な正史の記述の要求だ。(何故正史にその功績が乗っていないのか?蔡瑁や荀イク達のように、名士として統治に尽力を尽くした場合、その記述があります。その事実、莫大な功績だからです)

専門家を探してみたが、専門家が渡辺さんの名士論に反応している人が見当たらない。客観的に定説であるかどうかを知るべく、賛同している文書を求む。 有名無名は列記する取捨にあります。列挙している軍師の中で政治家ではない人物は居ますか?また、楽毅は否で、周瑜は是である理由もお願いします。--203.141.155.245 2009年10月23日 (金) 14:01 (UTC)[返信]

私淑している訳でもなんでもなくて「ウィキペディアン(要するに素人の)見解」と「研究者の見解」とが対立した場合は研究者の見解を優先すべきであるという当たり前のことを述べているのですが。「ある研究者の見解」と対立する「他の研究者の見解」が存在するならばそれを載せるのは別段問題はありません。あなた個人の見解をウィキペディアに反映させないようにと言っているのです。
>専門家が渡辺さんの名士論に反応している人が見当たらない。
はっきりいってそれは単なる調査不足です。渡辺氏の名士論に付いてはまだ定説とまでは言えないでしょうが、最近のこの時代の研究で最も注目されているというのは疑いないことです。
「これだけまとまった形での批判論文が提出されるのも、渡邊『名士』論の存在感の裏返しと言えようか。」(「史学雑誌」回顧と展望2006年度版)
念のため言っておきますが、「定説じゃないから載せるのはおかしいだろう」などという意見はあり得ません。ある研究者がこう述べている、他の研究者はこう述べているという書き方はあっても「ある研究者がこう述べている」という事実自体を消去する書き方はありません。それは明白な事実であり、それを「取り上げるべきことではない」とするならばそれは削除する側にその理由を示す義務があります。
自分が史料を読んでそうとは取れない。だからおかしい」というのはそれはまさしくそれこそが「独自の研究」に他ならないということを自覚してください。そのようなものはウィキペディアに反映させてはいけません。
ついでに言うと。渡邊氏への批判は『「名士」論』そのものに対しての構造的あるいは史料的な批判が主であり、諸葛亮が名士ではないなんてそんな個別瑣末的な事象についての批判は聞いたことがありません。もしそのような物があるならば教えてください。
前にも言ったとおり、諸葛氏自体が名族であり、諸葛亮の若い頃の生活がどうだからといって名族でなくなるというものではありません。これは平等を最大の価値とする現代日本に当てはめてみてさえ明らかなことです。
繰り返しになりますが203.141.155.245さんには「ウィキペディアンが史料を読んで判断する」ことは「独自の研究」であることを理解してください。らりた 2009年10月27日 (火) 12:24 (UTC)[返信]

「繰り返しますが、創作は許されていません。もちろん創作で埋めた歴史家も多数居るでしょうけど、少なくとも建前上はそのようなことが非難される事柄であることは間違いありません。」君の文です。論旨が明快で筋が通っている文だと思う。読み取れないとするなら「歴史家の創作ではないとする」その具体的正史の記述を求める。 「批判論文が多く有る論文を軍師の項にのせる事は不適切ではないか?」また、論文の是非はこのような軍師の項目で定説のように記述されるよりも諸葛亮の項目にて記述されるべき大事な論であるだろう。まず諸葛亮の項に記述されるべきでは?--203.141.155.245 2009年10月28日 (水) 05:03 (UTC)[返信]

>批判論文が多く有る論文を軍師の項にのせる事は不適切ではないか?
と言うだろうと思っていましたけどね。もうどうでもよくなりました。さようなら。らりた 2009年10月28日 (水) 11:51 (UTC)[返信]
少しだけコメントを。まず正史、二十四史は完璧な史書などではありません。(そもそも完璧な史書など存在しません。)正史、二十四史はそれ自身が歴史資料として検証、批判の対象にもなります。無条件に妄信できるものではありません。渡邊氏は『史学雑誌』などにも論文が掲載されている著名な研究者です。正史に載ってないから渡邊氏の研究はおかしい、掲載すべきでないというのは少なくともwikipediaでは成立しません。--ポコポコ 2009年10月30日 (金) 00:01 (UTC)[返信]
「批判論文が多く有る論文」、正史記述もない研究を一般論としてこの項に記述するべき内容ではないのではないか?せめて注釈に論文出典を記述していただきたい。(諸葛亮の出典だけ未掲載)また「一説として」と注釈に記述することが適切な内容ではないのか?。諸葛亮の後継は呉懿またそうですね。--220.215.133.3 2009年10月31日 (土) 05:16 (UTC)[返信]