ノート:聖徳太子

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(題目なし)[編集]

593年に推古天皇が即位すると、(中略)翌593年に摂政となり...とありますが、推古天皇の即位と聖徳太子の摂政就任とどちらの年が正しいのでしょうか。あるいは「翌」が間違いなのかも知れませんが... a perfect fool 10:38 2003年12月31日 (UTC)

a perfect foolさんのおっしゃっている部分は、一見論理的には誤っているようですが、暦法の問題を考えると問題は一応消えます。
推古天皇が即位したのは、日本書紀によれば、崇峻天皇5年12月8日で、聖徳太子が摂政になったのは、推古天皇元年4月10日です。それゆえに、推古天皇即位の年(崇峻天皇5年)の次の年(推古天皇元年)に、聖徳太子は摂政になったといえます。
ですが、崇峻天皇5年も推古天皇元年も西暦の年代ではありません。そこで、西暦に換算します。崇峻天皇5年はおおむね西暦592年(一応ユリウス暦を前提に進めています。)に相当しますが、崇峻天皇5年の最後の1ヵ月半は西暦593年になります。(旧正月が今の日本の暦で、1月終わりから2月はじめぐらいになることと同じようなものです。)それゆえに、崇峻天皇5年12月8日は、西暦593年です。また、推古天皇元年4月10日は、西暦593年です。
誰か、うまくこのことを記事の方に表現してくれませんか? 私には簡潔にまとめられなさそうです。 Auf 10:58 2003年12月31日 (UTC)
暦の違いでしたか... 西暦上では同じ年でも、確かに少なくとも「その年」とは書けませんものね^-^;
例えば、もしかしたらこれは望ましい表現ではないかも知れませんが、もし「次の年」という事を強調したいのであれば、当時の元号を使う以外ないのかも知れません。あるいは、「翌年(593年)」とか「翌年(西暦では593年)」といった表現の方が文章的な違和感は緩和される様な気もしますが、如何でしょう。a perfect fool 19:21 2003年12月31日 (UTC)

「Nnhさんが書いた文」でいいと思います。太子の概略を書き、実績を書くのが何故いけないのか、その理由をこのノートへ書いておくべきです。理由も書かない、ログインもしないでは、ウィキペディアの秩序を乱すもとです。「日本の歴史」関係に理由も書かないで、気に入らない部分を削除する人がよくあります。やめて下さい。
まあ、日本史関係は、どなたでも知っておられることばかりなので、皆さん気軽な気持ちで書き換えるのでしょうけれど、内容をよく読んでから書き換えたらいいと思います。それから、日本歴史は誰でもがよく知っておられるということの外に、知らず知らずのうちにその人の立場というか、考え方というか、思想みたいなのが絡んでいるのだろうと思います。知らず知らずのうちにです。どうでしょうか。Shikire 05:23 2004年1月25日 (PST)


ずっと気になってはいたのですが、Aufさんの暦についての説明の書き込みに

『崇峻天皇5年12月8日は、西暦593年です。また、推古天皇元年4月10日は、西暦593年です。』
とありますが西暦593年の12月8日の後に、西暦593年4月10日が来るのでしょうか。
また、歴代天皇の一覧では33代推古天皇の在位は592年12月8日から628年3月7日となっています。
暦についての知識がないのでよく理解できません。どなたかすっきり表現してくれないでしょうか。

いまさらすみません。(2005年11月30日 (水) 11:16 JST 60.237.119.249さん)

月日まで新暦換算されていない(年だけを出して議論している)ので判りづらくなっているのだと思います。上に書かれている中で、「12月8日」、「4月10日」は旧暦、「西暦593年」は新暦です。月日まで換算すると、崇峻天皇5年12月8日はユリウス暦593年1月15日、推古天皇元年4月10日はユリウス暦593年5月15日です。「歴代天皇の一覧」は、旧暦の正月における新暦の年を年末まで使用することにしていますので(その旨注記があります)、「592年」と書かれています。(本当は全部新暦換算を併記すれば良いのでしょうけどね……)nnh 2005年12月15日 (木) 08:13 (UTC)[返信]


聖徳太子の誕生日[編集]

574年2月7日

聖徳太子架空説[編集]

「ただもし聖徳太子の存在を否定するとなると、では何故架空の話をでっち上げる必要があったのかを説明しなければならない。(蘇我一族(極悪人の扱い)との関係を説く人もいるが、合理的な説明はなさそうだ。)」の記述は不明です。説明が無いということはないでしょう。その点についてのたとえば大山誠一の説明や、対する反論などを紹介することはできないのですか? Shinobar 2006年4月22日 (土) 12:19 (UTC)[返信]

ちょっと調べても、次のようなものが見付かります。Shinobar 2006年4月22日 (土) 23:34 (UTC)[返信]

  1. 毎日新聞
  2. BUNMAOさん
  3. 新しい歴史教科書を作る会

面白い動きがあるものですね。イエスや仏陀が実在の人物ではない云々という説を唱えるものは以前からありましたが、こんどは聖徳太子虚構説ですか。リンク先の毎日新聞によると、大山氏の発言として、

'まだ学問的に納得できる反論はない。今後も絶対ないという自信がある」と言い切っている

ここまで「言い切っちゃう」と、反論不能性とかで疑似科学と呼ばれる可能性もありますけど。大山氏は学術雑誌に論文としてこの説を投稿しているのでしょうか。それが学者生命をかけて主張しているかどうかのポイント。しばらくワッチします。紫苑 2006年4月23日 (日) 11:35 (UTC)[返信]

反証不能ですよ。日本史には720年の『日本書紀』を遡る文献資料がありませんから(たぶん焚書に逢ったんでしょう)。中国の資料を使うか、あとは物証ですが、もう新しいものは出ないでしょう。それから、大山氏をはじめ、聖徳太子虚構説を唱えている人たちは、立派にアカデミックな人たちです。戦前の有名どころでは津田左右吉とか。Shinobar 2006年4月23日 (日) 14:17 (UTC)[返信]

架空説についてあまり (今の方向で) 記事をふくらませる必要、日本書紀に架空の話が記載されているかもしれないことについて理由の提示の必要はないのではないでしょうか。架空説に対してのみここで (日本書紀の記述の信憑性について) 説明が必要だとは思いませんし、「合理的な説明はなさそうだ」の部分にいたってはほぼ編者の主観のように読めます。Shinobarさんが引用されている部分の文章が丸ごと不必要なものではないでしょうか。かなり前からある「ただし、実在を否定する決定的な史料は無い。」の一文もかなり恣意的な気もしますし、架空説についてWikipediaの編者が評価をしようとしているような、2つめの段落自体が不要のようにも思います。後ろの即位説や九州王朝天皇説のように説の説明だけに留めておいて、それを評価するような記述は避けておくのがよいのではないでしょうか。評価的なことを記述する場合は、学者等の意見や説を紹介するに留める、あまり分量が多くなるようだったら聖徳太子の記事には説の紹介だけを残して単独で別記事をたてる、という方向性ではどうでしょう。219.2.18.25 2006年4月30日 (日) 02:27 (UTC)[返信]

2006年4月30日 (日) 13:37 に「一般的でない仮説」にされちゃってますが、聖徳太子像のほとんどが虚構であるというのがむしろ主流のようですよ。『聖徳太子虚構説を排す』が出版されていますが、こちらのほうがトンデモ本であることが目次だけ見ても分かります。教科書の表記が「聖徳太子」から「厩戸王」に変わるのは「聖徳太子」が信仰にもとづく表記だからということでしょうが、そうして区分けしたときに、厩戸王の実績で確実なものは冠位十二階と遣隋使の2つしか残りません。これとて、厩戸王が当時の政権の指導者であればという仮定の上のものです。大山誠一の説が必ずしも主流でないというのは、主には聖徳太子信仰がいつ、なにゆえ発生したかという部分に攻防が移っているようです。 Shinobar 2006年5月1日 (月) 00:22 (UTC)[返信]

「一般的でない仮説」の表題を戻しました。 理由:

  1. 大山説は史学の定説ではない。
  2. 他の2つの仮説も定説ではない。したがって「一般的でない」が必要。
  3. なお「仮説」とは別に蔑称でもなんでもなく、科学的な方法段階のひとつです。

紫苑 2006年5月1日 (月) 14:38 (UTC)[返信]

諸説(仮説)にしました。理由は非実在説が有名になれば定説でなくとも「一般的」になるためです。なお私見では科学では定説においても仮説であると存じます。Izayohi 2006年5月1日 (月) 22:55 (UTC)[返信]

「仮説」は問題ないが、「一般的」という言葉に価値判断が含まれている。何を「一般的」と呼ぶか。世間に聖徳太子が歴史的人物と信じる人は多いが、研究者の間では、それは怪しいというほうが常識。「定説」があるのなら他を「異説」と呼べばよいが、では「定説」はあるのか? Izayohiさんの「諸説(仮説)」が適当だと思います。Shinobar 2006年5月1日 (月) 23:17 (UTC)[返信]

議論を受けて「一般的」を避けて、「定説」でない仮設としました。紫苑 2006年5月2日 (火) 02:46 (UTC)[返信]

この件に関し「定説」は無いと思います。「通説」ならあるのかもしれませんが。Shinobar 2006年5月2日 (火) 05:20 (UTC)[返信]


①大山先生は学術雑誌に論文として投稿されています。 石田尚豊先生は「大山先生は弘前大学で学術論文として紀要を書かれた」と述べられていますが(公開講演『 聖徳太子は実在するか 』)

  1. 弘前大学國史研究100「聖徳太子」研究の再検討(上)
  2. 弘前大学國史研究101「聖徳太子」研究の再検討(下)

を指すようです。

②『日本書紀』(720年)のほかに文献資料として、『古事記』(712年)、『播磨国風土記』(713年-717年頃)があります。

古事記には上宮之厩戸豊聡耳命とあり、中巻以降原則として即位した人物が持つ「命」という尊称が見られます。倭建命などもそうですが、廐戸皇子は特別扱いのようです。播磨国風土記(713年-717年頃)には「聖徳王の御世」とあり、当時既に廐戸皇子を聖徳王と呼称したようです。

③大山説では「(1)継体朝以後の系図の信憑性は高い(2)廐戸王は実在した」とみなし、廐戸王の実績で確実なものとして「(3)寺院を建立した(4)斑鳩宮を建立した」をあげています。

④物証ではありませんが、『古事記』以前の書『上宮記』は鎌倉時代後期まで伝存していたとのこと、私見ですが今後新たに発見される可能性があると思います。--黄金もち 2008年4月2日 (水) 17:45 (UTC)[返信]


聖徳太子虚構説と実在説(通説、教科書的な説)との違いについて大雑把にまとめてみました。
実在説の要約①廐戸皇子は実在の人物②聖徳太子の事跡はあるていどの核となった事実に誇張、粉飾が施されたものである。どの部分をどの程度まで事実と考えるかについては研究者によって意見がわかれる。③どの時期から聖徳太子信仰が始まったかについては、研究者によって意見がわかれる。
聖徳太子虚構説と実在説で①は共通
聖徳太子虚構説は②について核となった事実を最も小さく見る立場。
実在説は②についてあるていどの核となった事実を認める。ただし、どの部分をどの程度まで事実と考えるかについては研究者によって意見がわかれる。
聖徳太子虚構説は③について日本書紀以降とする。
実在説は③について聖徳太子存命時から日本書紀以降とする。時期については研究者によって意見がわかれる。
聖徳太子虚構説は蘇我王権説と結びつく、実在説は蘇我王権説と無関係。

聖徳太子虚構説は一般的ではない仮説、特徴的な説、少数説だと考えてよいと思います。ところで、「原則として即位した人物が持つ「命」という尊称」についてですが「命」は男女に関係なく重要な人物にあります。原則として即位した人物が持つわけではないようですよ。--ハエ叩きと虱潰し 2008年4月8日 (火) 20:24 (UTC)[返信]

意外な影響[編集]

2006年4月24日以来「聖徳太子が残した現代への意外な影響」の項目が付加されているが、一般に知られている影響を挙げずに「意外な」影響だけを挙げるというのはおかしい。また、十七条憲法が与えた影響だけを指摘するならば、十七条憲法の独立記事があるので、そちらに記すべきである。Shinobar 2006年4月26日 (水) 00:43 (UTC)[返信]

聖徳太子虚構説のタイトルについて[編集]

「聖徳太子虚構説」というタイトルが史学用語として定着いるのでしょうか?もしそうでないなら、タイトルは「事跡の多くが後世の仮託とする説」として、本文に大山氏の名と氏か掲げるいわゆる「聖徳太子虚構説」として紹介すべきかと。厩戸王の存在及び冠位十二階と遣隋使という大きなの2つの事跡を認めてる以上、虚構説は大げさな表現で、本や名を売るための刺激的な表現にすぎないのでは?これを言い出すと超人伝説と別名のある人はみな虚構説がなりたちます。 「弘法大師虚構説」「役行者虚構説」「水戸黄門虚構説」などなど 板の魔術師 2007年1月6日 (土) 18:13 (UTC)[返信]

「聖徳太子虚構説」が史学用語として定着いるわけではありませんが、大山氏の論陣は史学界の中でそれなりの1派を形成しているように思います。大山は2001年の『聖徳太子と日本人』のあとがきで、「聖徳太子は実在の人物ではなく、…藤原不比等・長屋王らと…道慈らが創造した人物像である」とはっきり述べているので、これを「聖徳太子虚構説」あるいは「聖徳太子非実在論」と呼んでも構わないのではないでしょうか?Shinobar 2007年2月13日 (火) 01:51 (UTC)[返信]

唐本御影[編集]

唐本御影 の木版画複製(1941年 出版)を WikimediaのPrince Shotoku.jpgに投稿しました。

唐本御影の項目には、画像を追加しましたが、この項目で利用できるなら適宜ご利用願います。

ReijiYamashina

黄金もちさんの編集に対するコメント[編集]

近年の歴史学研究において、太子の事績とされてきたことが次々と否定されてきており、その存在自体すら疑問視する見方もある。

近年の歴史学研究において、太子の事績とされてきたことを否定する研究があることから、太子の存在を疑問視する見方もあり、反論もある。

と書き換えていますが、例えば、十七条憲法のように、原本が存在せず、その実在を示すような歴史的記録資料が存在しない(少なくとも見つかっていない)という事実があるから事績とされたものが否定されているという言い回しになるわけです。否定する研究、というかき回しだと、論証も検証も経ていないかのように感じられます。

また「論証されている」という言い回しを「説がある」といった風に書き換えることも疑問です。論証されているというのは学会とうですでに大勢の支持を得ているという意味になりますが、説があるという言い方では、そういう人もいる、程度の意味になります。 --219.125.226.195 2008年2月14日 (木) 16:14 (UTC)[返信]


2008年2月11日の編集は2008年2月10日付けの中日新聞の社説書き換わる聖徳太子像 週のはじめに考える の影響を受けたもののように見受けられます。私見ですが、社説の内容は些か偏ったもののように思われます。

ちなみに毎日新聞は次のよう。謎解き日本史

話は変わりますが、「東天皇敬白西皇帝」は日本書紀の一節ですが、「唐帝からうけたという辞」ではありません(爰天皇聘唐帝 其辭曰 東天皇敬白西皇帝)。--黄金もち 2008年2月15日 (金) 03:55 (UTC)[返信]

藤枝晃さんの論には勝鬘経義疏についてのもの(藤枝晃「勝鬘経義疏」『聖徳太子集』岩波書店 1975)の他に、法華経義疏についての論があったでしょうか。「三経義疏は仏教の注釈書で太子自筆とされる法華義疏も現存しますが、これらも敦煌学権威の藤枝晃京大教授によって六世紀の中国製であることが論証されてしまったのです」とする中日新聞の社説には誤解があるのではないでしょうか。--黄金もち 2008年2月15日 (金) 04:20 (UTC)[返信]

 三経義疏に関する疑義は、藤枝晃「敦煌学とその周辺」に、あったようです。ただ、そこでは「論証」しているわけではなく、「大陸製の経典を聖徳太子筆にした」と考えているということだけですね。法華義疏については、原本が敦煌ででているわけではありません。正直いって、この本の3章以降は、推敲を経ない遺稿をもとにしているので、間違いもあり慎重にあつかうべきものだと思います。まだ仮説段階を出ていないものだと思います。  隋書 倭国伝の「日出処天子致書日没処天子無恙」も注ではなく本文に入れて欲しいと思いました。ReijiYamashina 2008年2月21日 (木) 07:30 (UTC)  [返信]

近年の歴史学研究において、太子の事績とされてきたことを否定する研究があることから、太子の存在を疑問視する説もあり、反論もある。

このくだり物凄く不自然な言い回しに見えます。このページ自体ほとんど実在説をベースにしていて、それにたして虚構説という反論がある、という文章に見えますが、さらにそれに対して反論があると書くと「Aの反論にBとというのがある、さらにBに対してAという反論がある」と同じことを繰り返しているように見えます。--202.181.244.30 2008年2月21日 (木) 13:17 (UTC)[返信]

「反論もある」が大山説に対する個々の反論を指しているならそう不自然でもないのでは。日本書紀、上宮聖徳法王帝説などが実在するとしているから、実在説がベースになっています。--黄金もち 2008年2月22日 (金) 03:07 (UTC)[返信]

「蘇我王権説」についてはこの部分で述べられていますね。

「さらに注目されるのは用明・祟峻・推古の三王朝を否定し、蘇我馬子の王権があったとする大山氏の論文。推古以前の王家の人々の墓は河内(大阪)にあるのに対し、これらの人物が活躍していた飛鳥を中心とする大和(奈良)には、蘇我氏四代(稲目、馬子、蝦夷、入鹿)が葬られている。蘇我稲目を埋葬した巨大な古墳などを身近に見ていた飛鳥の人々にとって、蘇我氏こそが王だったと主張する。」(日経新聞2004年1月10日朝刊36面〔文化〕「白熱架空説巡り論争」 文化部 中野稔)--ハエ叩きと虱潰し 2008年3月6日 (木) 13:44 (UTC)[返信]

「かつて太子の実績とされていたことの多くが虚構であったことが明らかになっており」・・・虚構であったのは具体的には何でしょうか。--黄金もち 2008年9月27日 (土) 03:51 (UTC)[返信]

全面的書き直しの提案[編集]

私は理系の人間で歴史学者でないので自ら率先してやる気はあまりありませんが、日本歴史学会や歴史学会の出している広報誌やジャーナル(っていうのかな、文系でも)などを図書館等で散見すると、聖徳太子はいなかったよ説のほうが有力、主流なんじゃないでしょうか?聖徳太子はいたよ説を裏付けるよな研究論文や調査報告は最近出て無いようですし、wikipedia内で参考文献に挙げられているものも新書にすぎず研究報告ではないようです。

最初に言ったように私は歴史屋さんではないので自ら率先してやる気はありません。

後、脚注が膨大になっているのでスタイルを変更しました。--Kulole 2008年10月13日 (月) 11:09 (UTC)[返信]

本文中にも触れられていますが、正直、聖徳太子はいなかったよ説は現在の学界でそれほど有力とは言えません。かつての騎馬民族渡来説と同様、マスコミの耳目を引くので注目はされていますが、現在に至っても厳密な検証に耐えた説とは言い難いものがあります。現在の本文の内容は双方のバランスの取れた記述になっていると思うので、全面的書き直しの必要は感じられません。--トホホ川 2008年10月13日 (月) 13:07 (UTC)[返信]
私も大幅改稿不要に一票です。提案者のKuloleさんは理系の方だそうですので、流儀の違いなどで、見え方の違う部分があるかもしれません。まだ、大多数の歴史学研究者は聖徳太子非存在説を支持しているとは言いがたいと思います。これは、なかなかややこしい問題を含んでおりまして… 「聖徳太子と実際に6世紀末に呼びかけられていた人」が存在したわけではなく、6世紀末当時、呼ばれていたのは「厩戸」(「皇子」の呼称が当時存在したかは不確定)であろうと思われます。この厩戸の存在についても非存在についても確定的に証明することは著しく難しいところです。ただし、関連する多くの史料や、法隆寺の発掘状況などから、厩戸が存在した蓋然性は高く、多くの研究者から支持されています。そして、厩戸は後の時代に大きな影響を与えます。いわゆる太子信仰にもとづいて、さまざまな伝説が厩戸に付され、「聖徳太子」の名が定着します。この厩戸の生涯そのものと、後々の信仰の被対象者まで含めた歴史的な用語が「聖徳太子」であるといえます。この「聖徳太子」の主要とされる事績と「厩戸」の事績が一致しないのでは?という疑義が、(真っ当な)聖徳太子非存在説と呼ばれるものです。では、歴史的には厩戸を聖徳太子と呼ばないのかというと、これはなかなか難しい。
したがって、聖徳太子非存在説は、歴史学が過去の人物をどのように呼称すべきか、理解すべきかという歴史学の方法論に疑義をさしはさむことが本来の目的であったと理解しています。なので、「厩戸」自体の存在を否定している「ジャーナル」(日本史学界系では「論文」と呼ぶことが多いでしょうか。研究者の査読を経たまとまったペーパー)レベルの論文はいまのところないように思います。
したがって、いまのところは、百科事典の「聖徳太子」という項目で考えれば、厩戸の生涯と、呼称問題、太子信仰の根拠となる事績と太子信仰、そして関連諸説という現在の項目の流れは、改稿が必要なほどではないと思います。雑多に書かれていたり、こまごまと手をつけたい場所はありますが。出典に関しても、たしかに一般書レベルのものも多いですが、専門研究職の方がかかれたものが多いので、問題ないと思います。論文レベルで古代史の一人の人物のみをまとまってとらえたものが出ることは決して多くないので、最新成果を書くには穏当な出典ではないかと。--ごまふあざ 2008年10月13日 (月) 14:16 (UTC)[返信]

聖徳太子虚構説[編集]

この項目ですが、もう少し上手にまとめることは出来ないでしょうか?文章の話題がアッチコッチに飛び回っていて少々脈絡が無いものになっています。脚注も異様に長くなっていますし。誰もやらなければ私がやります、あまり詳しくないですけど。--114.183.91.173 2009年9月11日 (金) 16:04 (UTC)[返信]

利用者:60.36.28.222さんの編集でかなり大胆に再構成されましたが、既存の記述を大幅に削っていること、やや虚構説に寄り気味なこと(いささか独自研究気味な勇み足の記述が見られます)、"わけのわからないバラエティ番組の常連学者達とは違い"などの表現が百科事典にふさわしくないこと、などからいったん差し戻しました。少しノートで要点を整理・吟味してから記述を修正した方が良いと思います。--トホホ川 2009年9月18日 (金) 16:23 (UTC)[返信]

順番を大幅に入れ替えてはいますが、削ってた部分は、ほぼ同じ内容の記述がある部分と、反論の反論、みたいになっている部分だけにとどめています。 特につけたしなどはしていないので、既存の記述に比して独自研究的な部分が増えていると言うことも無いと思います。 少なくとも既存の記述は、話があちこちに飛んでいて読みにくく感じます。

百科事典的でない部分を訂正しておきなおしました。--220.220.72.113 2009年10月8日 (木) 14:15 (UTC)[返信]

聖徳太子即位説[編集]

これだけですか?せめて参考文献とか無いと単なる噂話みたいで。--112.136.33.115 2009年9月13日 (日) 11:05 (UTC)[返信]

引用について[編集]

引用は、たんに引用内容を記載するだけでなく、自分の文章を構成してください。Wikipedia:引用のガイドラインを参照のこと。「ウィキペディアでは、その資料を引き写すのではなく、あなたが十分その内容を理解し、咀嚼し、百科事典にふさわしいあなた自身の表現で執筆することが求められます。」 --西方 2011年4月2日 (土) 08:02 (UTC)[返信]

道後湯岡碑銘文[編集]

「道後湯岡碑銘文」節の注において、梅原猛氏の碑文訳文が全文記載されていましたが、著作権問題もさることながら、そもそも、碑文の全文を掲載する必然性がない。よって、削除した。--西方 2011年4月2日 (土) 09:52 (UTC)[返信]

タイトルについて[編集]

他の方も既に言ってると思いますが、厩戸皇子が正式タイトルで、聖徳太子は呼称としての説明や、転送のほうがいいと思います。--220.145.128.167 2012年6月5日 (火) 11:17 (UTC)[返信]

聖徳太子之死(621年3月)[編集]

『日本書紀』

二十九年春二月己丑朔癸巳,半夜,廄戶豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮。


『扶桑畧記』

廿九年辛巳二月廿二曰,聖德太子薨于斑鳩宮,時年四十九。


『聖德太子傳曆』

五十歲,廿九年辛巳春二月,太子在斑鳩宮。


--202.99.125.36 2013年8月20日 (火) 04:16‎ (UTC)[返信]

出典の問題[編集]

ウィキペディアで本を出典に使う場合はページ番号の明記が必要です。この記事の出典の多数は、著者やタイトル等はあってもページ番号がなく、出典明記が不十分です。またウェブサイトを出典としている箇所もありますが、ほとんどはリンク切れしています。

個人のウェブサイトや新聞・ニュース等が出典として使われていますが、そもそもウィキペディアでは出典は原則として学者が書いた二次資料です。そもそも個人のウェブサイトを情報源として使うことは許されていません。参考:個人のウェブサイトやブログ、そのほかの自己公表物あるいは自費出版物は、二次資料として使用できません。--240D:0:3908:F100:5D38:9DC8:B4EF:622E 2017年2月18日 (土) 13:34 (UTC)[返信]

太子信仰について[編集]

太子信仰節の「親鸞が、太子信仰を有していたことは著名で、親鸞を観音の化身としたことが、既に妻・恵信尼の書状によって知られる。」という文章の意味がよくわかりません。聖徳太子を観音菩薩の化身とする信仰があったという説明のなかで、親鸞を観音の化身としたという話が出てくる必然性があるものでしょうか?それとも書き損じで文意が変わっているのでしょうか。

そもそも、聖徳太子が如意輪観音の化身であるという信仰は12世紀半ばからとのことですので、親鸞について詳しく書く必要がない気もしますが。--茂林寺たぬき会話) 2017年2月23日 (木) 14:06 (UTC)[返信]

早速の改善、ありがとうございます。より理解しやすくなったと思います。--茂林寺たぬき会話) 2017年2月24日 (金) 07:40 (UTC)[返信]

セクション名の変更について[編集]

現在のセクション名「日本書紀に見られる記述」から、「略歴」へ変更しました。理由は現在記述されている内容が、『日本書紀(以下、書紀)』の内容を網羅できておらず、また『書紀』以外の史料も参照されているからです。以下、具体的に挙げます。

  • 『書紀』の敏達5年の菟道貝蛸皇女との結婚、推古11年の秦河勝への仏像の下賜、同年の大楯などの製作、推古13年の丈六仏像の製作、推古14年の『勝鬘経』講義、同年『法華経』講義と法隆寺への施入、推古15年の神祇祭拝、舒明即位前記の遺戒について記載されていません。
  • また、『書紀』に記されている「兼知未然」や「片岡飢人(者)伝説」については、本節ではなく「そのほかの伝説」節に記載されています。
  • 敏達天皇3年(574年)生まれと記されていますが、これは『上宮聖徳法王帝説』の「甲牛の年生まれ」を引いたものです。『書紀』に生まれ年は記されていません。また、没年を推古天皇30年(622年)と記していますが、これも『法王帝説』に記載を元にした定説で、(これは補足として記載されてはいますが)『書紀』は没年を621年と記しています。
  • 『三経義疏』について触れていますが、これは8世紀の『法隆寺縁起』に記されたものです。
  • 「四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を設置した伝承がある。」の記述は、10世紀の『四天王寺縁起』に記されたものです。

なお、「略歴」という名称に拘りがあるわけではありませんので、他の名称への再変更に反対はしません。--あずきごはん会話) 2022年4月17日 (日) 05:26 (UTC)[返信]