ノート:福井昭雄

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鈴木武右衛門と同様の理由です。申し分のない教育学部教授として描いては、中立性が保てません。--利用者:朴明哲

私は、文教大学独特の、アット・ホーム主義の犠牲者です。そうして、私の犠牲は、鈴木武右衛門を主任とする美術専修により生み出されました。

私には、軽度発達障害があります。年齢相応の社会技能がありません。社会技能に関して、小学生よりはあると思うのですが、大学生よりは完全に下です。恐らく、中学校高学年でも、私よりおとなの世界を知っているはずです。

私は、勉強だけはできるので、都内の某有名私立大学を卒業した後、長年の夢だった小学校教諭免許を取得するため、30歳を過ぎてから、文教大学に再入学しました。しかし、私を待ち受けていたものは、静かな学習の時間ではなく、大学生に対する先輩の立場を強制される時間でした。「あなたには物足りないだろうけれども、付き合ってあげてよ」と言った中川素子教授の視線が印象的でした。私を見ずに、私の背後にある私のイメージ(高学歴&人生経験?)に語りかけていたのです。また、構成担当の朝倉直巳教授は、縮尺の話をしているときに、空間認知に関しては軽い知的障害である私に向かって、「おい、お前なら分かりそうだな、なあ、先輩」と人の弱みをほじくる行為をしました。これが都心のマスプロ大学なら、私が自分の単位さえ取得していれば、誰も文句を言わなかったはずです。

どう逆立ちしても大学生の先輩が務まらない私は、大学版登校拒否に陥り、中途退学を余儀なくされました。その後、学生課を通して抗議したのですが、鈴木武右衛門は、「障害があるならば、教育学部に来るな!!」と暴言を吐きました。担任であった福井昭雄は、「入学写真の君は輝いていたよ」と返答しただけでした。つまり、高学歴&人生経験?といった第一印象を変えることを、退学という現実を前にしても、変えようとしなかったのです。

教授の暗部を隠しては、記事が中立でなくなります。実証できないのであれば、中立の立場を取り、最初から福井昭雄を掲載しなければいいのではないでしょうか。--利用者:朴明哲