ノート:社会学

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掲載内容について[編集]

起点[編集]

社会学の目的や研究対象がよく分からない編集になっていたため元に戻しました。必要な情報を削除する必要もなく、個人的趣味で編集し哲学的な古い社会学を前面に出した文章にする必要はないので。改変したい場合はノートで合意を得てからにしてください。個人的趣味を前面に出さないよう、十分ご注意ください。--Policex 2008年2月18日 (月) 07:35 (UTC)[返信]

反論その1[編集]

 「社会学の目的や研究対象がよく分からない」とのご指摘ですが、私はPolicexさんが「元に戻す」前の解説のほうがわかりやすくてよいと思います。

 また、「必要な情報を削除する必要は無い」とのご指摘ですが、「元に戻した」という文章自体には特別必要ではない情報が多く、不適切な記述も散見されます。特に日本の社会学会の動向についてなされている記述は、本来書くべきことから逸脱しており、すべてカットしたほうが良いと考えます。以下にいくつか例を挙げておきます。

例1 「2.社会学の目的」の「しかしながら、日本では長年、~国際学会での発表実績もある。」の記述すべて。社会学の目的についての記述ではない。ここは、社会学が何を研究対象にし、どのようなことを解明しようとしてきたかを解説すべきであり、日本の社会学会を批判的に取り上げるべきところではない。また「海外の理論を輸入することが社会学の目的とされてきた」とあるが、適切とはいえない表現。「海外の理論に倣うことが慣例となってきた」とでも記述すべき。「目的」の意味を取り違えているように思われる。

例2 「3.社会学の方法」の「近年の日本においては、~世代交代とともに、上述のような状況も大きく変わりつつある。 」の記述すべて。これは社会学の方法論について解説すべきところを、日本の社会学は過去の実績をなぞるだけだと非難しているばかりで、これも本筋から外れている。

 Policexさんが「元に戻した」解説のほうが「個人的趣味」に走っているように見えますが・・・。

--M.M 2008年2月22日 (金) 23:50 (UTC)[返信]

反論その2[編集]

まったくもってM.Mさんに同感です。M.Mさんご指摘の二点は、完全に批判のために書かれており、wikipediaの目的から大きく逸脱しています。批判的記述がいけないというわけではありませんが、あくまでもそれまでの日本社会学会の達成と蓄積をきちんと描写してから、それに対してこのような批判もあるというかたちで書くのが百科事典としてのルールでしょう。今のままでは、これまでの日本社会学は無意味だったという誤解を生むことになり、先達たちの貢献を無にしてしまうことになります。

日本の社会学界がながらく理論的・学説的な方向への偏向があり、現在は統計的技法を中心としてデータを用いた実証主義的社会学にヘゲモニーが移りつつあるのも確かかもしれませんが、それを一方的な物語として構成してしまえば、およそ客観的な学説史とはいえなくなります。理論・学説研究者の側からはまったく逆の物語を描くことも可能でしょう(たとえば、日本の社会学は、実証主義によって席巻され、ナイーブな経験主義・科学主義によって、道具的合理性の支配する場となってしまったというような)。実際、理論系の社会学者にとっては、実証主義や科学主義といった用語は、洋の東西を問わず、かなり昔から軽蔑的なimplicationを持った言葉です(たとえばAnthony Giddens, Positivism and Sociology, 1974 をご参照ください)。

何よりも問題なのが、この二つの部分が、私感と個人的な意見に基づいているとしか思えない点です。唯一ソースとしてあげられているのが、「反社会学講座」というのはどうでしょうか。あの本がなかなか面白くてよくできた読み物であるのは否定しませんが、客観的なソースとして足る学術的文献とは到底いえません。

以上の理由から、上記二点は削除すべきだと思います。 --Masaqiologo 2008年3月13日 (木) 04:38 (UTC)[返信]

Policex氏からの意見表明[編集]

議論は結構ですが、社会学の実情を知らない素人による誤解が多いですね。いかにも学部生か勉強不足の院生がいいそうなことですが、百科事典は2ちゃんねるではないので、いいかげんな情報を書くべきではありません。

まず、M.M さんのご意見

また「海外の理論を輸入することが社会学の目的とされてきた」とあるが、適切とはいえない表現。「海外の理論に倣うことが慣例となってきた」とでも記述すべき。「目的」の意味を取り違えているように思われる。

個人的に思われる、というのは自由ですが、それは個人的意見であり誤解です。私は数十年間研究を続け社会学の内情もよく知っていますが、東大や京大の社会学者達が、理論社会学や歴史社会学を今でも重視しているのは事実です。その理論や歴史の社会学というのは、要するに海外の理論の輸入だけです。彼らが自分たちで理論を作って国際学会で発表するようなことは現在でもありません。先日、海外の学会で東大出身の社会学者を見かけましたが、学会にはほとんど出ずに家族と観光に励んでいましたな。

次にMasaqiologoさんのご意見

日本の社会学界がながらく理論的・学説的な方向への偏向があり、現在は統計的技法を中心としてデータを用いた実証主義的社会学にヘゲモニーが移りつつある

それも個人的な誤解です。いまだに東大、京大、早稲田、慶應などでは、古いタイプの理論の輸入のみで、統計の知識がない社会学教員がそろっています。そうでないというなら、統計分析が得意で国際学会で発表もしている社会学者の名前を示してください。いたとしても、残念ながらごく少数なのが事実です。--Policex 2008年3月18日 (火) 09:34 (UTC)[返信]

Policex氏の意見に対する反駁・その1[編集]

Policexさん、おはようございます。
さて、上記のPolicexさんのご意見ですが、いずれも私やMasaqiologoさんの書込みの内容を把握しておられない的外れな意見ですので、まずは書込みの内容を吟味の上で、ご意見をいただきたいと思います(このような書き方をすると、「個人的に思われる、というのは自由ですが、それは個人的意見であり誤解です」との書込みがされそうですが…)。
まず、「個人的に思われる、というのは自由ですが、それは個人的意見であり誤解です」とのご意見ですが、それこそ個人的意見で誤解というほかありません。「『目的』の意味を取り違えているように思われる」というのは、純粋に日本語の「目的」という単語の用法を間違って使用しているという意味での記述です。例えば、輸入業者は商品を輸入することが目的なのではなく、最終的に輸入した商品を国内で販売し、利益を上げることが「目的」となるわけです。したがって、日本の社会学者が「海外の理論を輸入」することは、輸入業者の場合と同様に、「手段」である「輸入」の後に「目的」があると考えるのが普通です。
「先日、海外の学会で東大出身の社会学者を見かけましたが、学会にはほとんど出ずに家族と観光に励んでいましたな。」とのことですが、ご自分が見かけたごく少数の事例をもって、日本の社会学者を一般化して語るのはいかがなものでしょうか。Policexさんは統計学がご専門のようですが、このような作為的な標本抽出は、統計学において信頼にたるデータとみなすことは無いと思いますが。
「私は数十年間研究を続け社会学の内情もよく知っていますが、東大や京大の社会学者達が、理論社会学や歴史社会学を今でも重視しているのは事実です」とのことですが、鈴木栄太郎や福武直などの先人による地域社会研究もPolicexさんに言わせると、海外理論にならった没個性的な研究ということになるのでしょうか? どうもPolicexさんがおっしゃっている「日本の社会学界」は、ご自分が関係しているごく狭い範囲のことを日本の社会学会はすべてそうだと断定しているようにしか思えません。言っておきますが、これは個人的意見ではありませんよ。
それから、Policexさんは社会学史のことを「歴史社会学」とおっしゃっているようですが、これは勘違いですよね。
Masaqiologoさんへの批判らしき記述についてですが、「日本の社会学界がながらく理論的・学説的な方向への偏向があり、現在は統計的技法を中心としてデータを用いた実証主義的社会学にヘゲモニーが移りつつあるのも確かかもしれませんが」という記述の太字を除いた部分を持ち出して、あたかもMasaqiologoさんの意見であるかのように書かれていますが、書込みの内容を吟味せずに批判をしている典型ですね。まったく的外れな指摘としかいえません。
私が先に申し上げたことを改めて要約すると、Policexさんが元に戻した内容は、「社会学の目的」および「社会学の方法」という内容にふさわしくないということです。例えば、Policexさんが家電量販店でプリンタの性能について店員に尋ねたとします(念のため、仮定の話です)。そのとき、店員が「このメーカーのプリンタはサポートがしっかりしているから安心です」とか、「このプリンタは、メーカーの企業努力によってこれだけ安くなりました」なんて話を聞かされたらどうします? 「肝心の性能についてはどうなんだよ」と聞き返しませんか? つまり、知りたい情報ではなく特別知る必要も無い情報ばかりが載っていたとしたら、見る側は失望しますよね。
社会学の目的」および「社会学の方法」は、社会学はどのような目的をもつ学問なのか、社会学はどのような方法によって社会を分析しているのかということを説明するところであって、日本の社会学会は海外の理論に倣っているばかりだという記述は、上の家電量販店の例と同様に、ここでは必要の無い情報なのです。お分かりいただけましたでしょうか?

--M.M 2008年3月20日 (木) 01:02 (UTC)[返信]

Policex氏の意見に対する反駁・その2[編集]

これだけ議論が噛み合わないというのは驚きです。少し唖然としました。M.Mさんの書き込みにしても、私の主張にしても、論点は相当はっきりしていると思うのですが。故意に無視して瑣末な点を取り上げられておられるのか、それとも(考えがたいことですが)論点を読み取ることが本当におできにならないのか、率直に言って、どちらにしても相当ずさんな議論であると申し上げなければなりません。統計ができるできないよりも、議論・論証の能力、あるいは議論することに対する真摯な姿勢こそが社会学者のみならずあらゆる研究者にとって根本的なものだと思いますが。相手の主張をひとまずちゃんと読んで理解してから反論されるよう、強くお願いいたします。

M.Mさんの上記の書き込みから、Policexさんが元に戻した内容が、「社会学の目的」および「方法」の項目にふさわしくないというM.Mさんご指摘の点は明らかだと思います。前回の書き込みで私が指摘したのは、批判のみで、それまでの達成や蓄積の部分を無視した記述は、百科事典にふさわしくないし、先人の功績を無にしてしまうことになるということです。つまりわれわれ三名は「百科事典は2ちゃんねるではないので、いいかげんな情報を書くべきではない」し、「個人的趣味」を書くべきではないというところは一致しているということになります。

われわれの意見が分かれるのは、どこが百科事典にふさわしい記述であり、どこが個人的意見になっているかということですが、私にとっては、Policexさんが元に戻した内容は、どうしても個人的意見以上のものには思えないわけです。統計がご専門のようですので、統計的技法を擁護されるのは当然かと思いますし、今までの日本の「古い」社会学を断罪されるのもご自由ですが、百科事典やウィキペディアはそのようなことを書く場ではありません。そんなことは、手元にある社会学辞典なり、百科事典なりのいずれかをひもといていただければ、一目瞭然のことと思います。日本のこれまでの社会学が間違っており、それを変えたいとお望みならば、そのテーマでシンポジウムなりワークショップなりを開いて議論をするという方法を取られるのが筋であり、理にもかなっていると思いますが(数十年のキャリアをお持ちの研究者ならばいかようにでも可能なはずです)。繰り返し言いますが、百科事典もウィキペディアもそのような主張の場ではありません。Wikipedia:中立的な観点をお読みください。

百科事典の記述である以上、論文と同じく客観的なソースが必要であることも言うまでもありませんが、前にも指摘したように、当該箇所の記述にはそのようなものはまったく見当たりません。Policexさんは「数十年間研究を続け社会学の内情もよく知って」おられるため、そんなものは必要なく、ご自身の認識が正当であり真実であるとお考えなのかもしれませんが、それでは客観的な主張とは到底言えません。ご自身がどれだけの学識をお持ちなのかわかりませんが、少なくとも、客観性を維持するために主張の裏づけとなるソースが必要なこと、そしてそれが『反社会学講座』などではなく、学術的なものである必要があることは研究者ならば最低限の知識としてご存知なはずです。なによりこのこともやはりウィキペディアの方針に反しています。Wikipedia:検証可能性をご覧ください。

Policexさんは、あたかも、「数十年間研究を続け社会学の内情もよく知って」おられるPolicexさんと比べて、M.Mさんや私は「実情を知らない素人」あるいは「学部生か勉強不足の院生」なので、認識が間違っていると言わんばかりですが、少なくとも私には該当しませんし(M.Mさんも議論の水準から判断してどちらにも当たらないとしか思えません)、なによりも、学問的な議論の場では、大先生であろうと若手であろうと学生であろうと対等なのが当然です。そうでなくては学問の健全な発展などというものはありえません。「数十年間研究を続け」られた方がその程度の学問的常識を会得されておられないのは、同じ社会学者として非常に残念です。議論の場において重要なのは、誰の権威がもっとも高いのかではなく、誰の議論がもっとも合理的に論証されており、説得的であるか、です。付け加えておけば、M.Mさんのご指摘の点も、私が前回指摘した点も、社会学の実情がどうこうという問題ではまったくなく、百科事典としての記述がどうあるべきかということですので、そのような言い方では反論になっていません。

また、M.Mさんもご指摘のように、Policexさんは学説史と歴史社会学を混同されているようですが、両者はまったく別のものです。最近の院生で学説研究をやっている人というのはかなり少数でしょうし、学説史は確かに古いものといえるかもしれません。しかし歴史社会学はアナール学派の影響等により比較的最近発展したものです。もちろん、ルーツを探れば、ウェーバー、あるいはコントにさえ遡れるでしょうが、そんなことを言えば、統計的社会学のルーツも少なくともデュルケムにまで戻れます。混同されてないのであれば、Policexさんがなぜ歴史社会学を否定されるのかわかりません。もし歴史社会学的方法を意味なしとされるのであれば、歴史学自体も否定されるのでしょうか。

さらに、「日本の社会学界がながらく理論的・学説的な方向への偏向があり、現在は統計的技法を中心としてデータを用いた実証主義的社会学にヘゲモニーが移りつつある」というのが誤解であるというご指摘ですが、M.Mさんが代わりに指摘してくださった通り、私の議論の本筋とは関係ない問題ですし、「のも確かかもしれませんが」という日本語の持つ当然のニュアンスを理解していただければおわかりでしょうが、はっきりそうだといっているわけではなく、仮定の話としてそう規定しているわけです。つまり、われわれの論議の対象となっている当該箇所ではそう描かれており、たとえそれが本当だとしても、そのような学説史の描き方には問題があると言うのが私の論点です(こんなことは説明するまでもなく明らかなはずですが…)。そもそもこれは、Policexさんが擁護されている箇所にある認識の言い換えですよ(「世代交代とともに、上述のような状況も大きく変わりつつある」とあります)。それを否定されるというのならば、Policexさんも当該箇所には問題があるとおっしゃっているということになりますが。

誤解であるのが明らかであるため、この点に関してさらに反論する必要はないかと思いますが、批判に対してはできる限り応答するというのが学問的なルールですので、もう少しだけ付け加えておきます。Policexさんは、日本の社会学者が海外の理論の紹介や翻訳ばかりで自分の理論を作らないと度々おっしゃいますが、それは誰かの学説研究しかしないということを意味しているのでしょうか。もしそうでないのなら意味がわかりませんし、そうならばその認識は間違っています。学説研究だけで研究者としての生涯を終える人はむしろ少数派で、大体の人はそれをもとにして自分の理論を構築しようと試みているはずです。井上俊にしろ、富永健一にしろ、吉田民人にしろ、橋爪大三郎にしろ、厚東洋輔にしろ、大澤真幸にしろそれは同じです。このような理論家たちの名前を挙げていけば数限りないですが、逆に学説研究しかせず、海外の理論の輸入と紹介で終わる人の名前はあまり思いつきません。

ここまでは、前回の書き込みでの私の論点の再展開とご指摘に対する反論ですが、社会学に携わるものとして少々言い足りませんので、「個人的意見」が入るかもしれませんが、すこし百科事典としてどうあるべきかをはなれて議論を付け加えます。

社会学において方法論上のコンセンサスが存在しておらず、常に方法論上の論争が行われ、しかしそれゆえにこそ豊饒な理論上・方法論上の探求が生まれてきたことは共通認識だと思いますが、それを全て無視、あるいは否定し、統計学だけが社会学における唯一の客観的な認識論的基礎付けであると主張するならば、それこそ浅薄な科学主義・実証主義の非難をまぬがれないでしょうし、ほとんどの社会学者はそのような主張に与しないでしょう。それは日本でもヨーロッパでも北米でも同じはずです。自然科学的方法をナイーブに社会学に適用することは、常に批判されてきましたし、統計的―帰納的証明法に内在する真理への究極的な到達不可能性や社会的行為者の意味を理解することの困難といった問題も広く知られてきたことです(だからといって社会学における統計的研究法を否定するというわけではもちろんありません)。

それゆえに、百科事典において社会学を客観的に記述するためには、社会科学のほかのどの部門にも増して、さまざまの方法・技法や理論上の学派を公平に取り扱うことが必要であるはずです。ところが、いま議論になっている箇所の記述の仕方や、Policexさんの書き込みでは、統計に基づいた研究だけが社会学的に、あるいは社会的に価値のあるものであると言わんばかりですし、その根拠が、国際学会での発表の多寡や、アメリカにおける研究の趨勢というだけでは議論になりません。

国際学会で発表していないからといって、その研究者の研究が無意味になるわけではありませんし、研究者としての価値がなくなるわけではありません。もちろんある学問分野の発展には、グローバルな研究者共同体に参加することが必要なのはいうまでもありませんが、その意味では、Policexさんが盛んに攻撃されている海外の理論の翻訳や輸入もインプットとしての役割を果たしていると評価するべきでしょう。とりわけ自然科学ほどユニバーサル・ランゲージとしての英語の地位が確立していない社会学のような分野においては、アクセシブルでない言語で書かれた重要な文献をアクセシブルにするために、翻訳や紹介をする研究者の役割というのは一定の割合で必要とされるはずです。

そもそも社会学の伝統からすれば、統計―帰納法的な研究法というのはひとつの方法でしかなかったはずです(しかし重要でかつ欠かせない方法であることを認めるのにはやぶさかではありません)。このような実証主義的・科学主義的な「説明」の伝統に対して、意味の「理解」を志向する解釈学的・精神科学的伝統が対立してきたのは社会学の研究者には周知のことだと思いますし、ギデンズやハーバーマスが指摘する通りですが、このような対立は不毛なものでは決してなく、社会現象の自然現象とは種類の異なった複雑さ、主観性・間主観性といった人間社会に特有の問題に直面して、さまざまな社会学者たちが、社会的現実になんとかアプローチするために、認識論上の基礎付けの確立を試みてきたことの表れとみなすべきです。

Policexさんはこのような社会認識上の問題を「古い哲学的な」社会学として切り捨てるのかもしれませんが、このような問題と、その認識の上に立った方法論上の探求を基礎として、現在の社会学は成り立っているのであって、それを全て「古い哲学的」社会学として意味なしとしてしまえば、社会学の健全な発展は望むべきもありません。そもそもあらゆる科学において、それまでの伝統や蓄積を無視した発展がありえないのはいうまでもないでしょう。そしてそれはデータの蓄積だけではなく理論の蓄積でもあります。ポッパー的な仮説演繹的な体系としての科学観であれ、クーン的な科学革命の連続としての科学観であれ、このことを否定するものではないはずです(単線的な発展図式は否定されるでしょうが)。--Masaqiologo 2008年3月21日 (金) 19:52 (UTC)[返信]

後から読み返すと、ちょっと大人気無く感情的になって筆が走りすぎてしまったきらいもある気もします。まあ正直申し上げて少々頭に血が上っていたのは確かですので…。個人攻撃にはならないように配慮したつもりではいますし、論点も明確なはずですが、少し要点を整理しておいたほうがいいのかもしれません。

色々なことを書きましたが、根本的な点は、批判を目的とした現在の記述が百科事典にそぐわないということと、その記述をバックアップすべき学術的ソースが存在していないということのふたつです。この二点が削除すべしとする根拠ですので、Policexさんには(あるいは削除に反対されるほかの方)、これらの点とM.Mさんの指摘された「目的」と「方法」の項目にそぐわないという点に対して応答していただきたいと思います。ひとまずその他の点については括弧に入れていただきたい。日本の社会学会の現状認識といった問題にしても、あくまで副次的な論点ですので。

その他の点についても反論したいというご意向でしたら、もちろんそれらについてのご自身の主張を書いていただいて結構ですし、正当な批判に対しては真摯に返答させていただきます。ただし、それは上記の諸点とは別問題、あるいはそれらを解決してから議論すべき問題とお考えください。論点によってはWikipediaのノートという場を借りて論議するにはふさわしくないこともありえますし。--Masaqiologo 2008年3月24日 (月) 08:22 (UTC)[返信]

Masaqiologoさん、こんばんは。M.Mです。
とりあえず、「社会学の目的」と「社会学の方法」の該当部分について、削除の可否を問うてみてはいかがでしょう。内容的にもかなり偏向している記述ですので、あまり長いこと放置せずに早期に決着をつけたほうが良いのではないでしょうか。
少なくとも、Masaqiologoさんが指摘されているとおりWikipediaの編集方針にはそぐわないと思いますので、その点から削除の是非を他の方々にも判断してもらうのが一番手っ取り早い方法でしょう。現状としては、
・私とMasaqiologoさんは、該当部分の削除に賛成
・Policexさんは、該当部分の削除に反対(我々の反駁に対して何も回答が無いので、依然として反対であると判断しています)
ということで、他の方々の判断を仰ぎましょう。
--M.M 2008年3月24日 (月) 13:51 (UTC)[返信]
追伸 少々議論が長くなってしまいましたので、項目立てしてみました。--M.M 2008年3月24日 (月) 13:53 (UTC)[返信]

Wikipedia:お知らせに、ここでの議論および投票への参加の呼びかけをしてまいりました。--M.M 2008年3月28日 (金) 11:25 (UTC)[返信]

M.Mさん、いろいろとありがとうございます。皆さんの意見を頂戴して決めるということですね。了解しました。--Masaqiologo 2008年3月29日 (土) 01:16 (UTC)[返信]

コメント[編集]

  • (除去に賛成)「個人的趣味で編集し哲学的な古い社会学を前面に出した」「よく分からない」文章に編集し、Policexさんに差し戻しを受けた者です。このあたりについては後で検討したいのですが、まずは、M.MさんとMasaqiologoさんがご提起された事案について。「社会学の実情」に通じたPolicexさんのご見識には耳を傾けるべきところ大かと思っております。しかし、ここWikipediaの公式方針では、「出典がなく、検証不可能であるならば、専門家を自称する編集者が、直接的・個人的知識をもとに寄稿することは禁止されています。……専門家の方々におかれましては、自分達が専門家だからといってウィキペディアで特権的な地位にあるわけではないということをご理解いただき、ウィキペディアの記事を充実させるために、公表されている情報に基づいてご自身の知識を提供くださることをお願いいたします」とあります(Wikipedia:独自研究は載せない#専門家の役割)。したがって、Masaqiologoさんがご指摘のように、残念ながら、「第三者の媒体による信頼できる情報源」が明記されない限り、当該記述は除去されるべきです。唯一挙げられている「反社会学講座」にもそのような記述はないようです……(ちなみに、反社会学講座で批判されているのは、ジャーナリスティックな疑似社会学であって、正統な日本社会学批判を意図したものではない。いわゆる啓蒙書の類。この書を本項の記述に用いること自体が、社会学に対する無知や誤解を蔓延させるものではないでしょうか)--Clem 2008年4月1日 (火) 02:56 (UTC)[返信]


Clemさん、こんばんは。M.Mです。私は、Clemさんが編集された記事はなかなか整理されていてわかりやすいと思います。Policexさんがいうところの「よく分からない」というのは、ご自分にとって理解できない内容という意味であると私は解釈しております。Policexさんがいうところの「哲学的な古い社会学」(どうやら理論社会学や過去の学説を総称して、このようにおっしゃっているようです)は「よく分からない」ということでしょう。
Policexさんの論理の粗をいちいち取り上げているときりが無いのでこのぐらいにしておきますが、私個人としてはClemさんが編集された記事を復活させ、問題となっている該当箇所をカットしたらどうかと考えています。他の方々も賛成されるのであれば、この方向でいきたいと思います。
ところで、Policexさんは私とMasaqiologoさんが反駁をしているのにもかかわらず無反応なのですが、どうしたのでしょうか? このままだと当のご本人不在のまま事が決まってしまいます。いちおうPolicexさんの利用者ページに議論への参加を持ちかけたほうがよいでしょうか? --M.M 2008年4月2日 (水) 11:46 (UTC)[返信]
M.Mさん、こんにちは。M.Mさんによる反論がなされてから、二週間以上、Policexさんからご応答がありません(さらに、その間にはPolicexさんに対して、Masaqiologoさんによる詳細な反論もなされました)。複数の人間を巻き込んだ合意形成の途上にあることはPolicexさんもご承知のはずですから、訳もなく二週間も不在になされるはずはありません(そうでなければ、いたずらな遅延、迷惑行為になってしまいます)。おそらく、Wikipediaにアクセスできないやむを得ないご事情があるのか(ただし、単にご多忙であるだけならその旨、明記されてしかるべきです)、あるいは、持論を撤回されたのでしょう。そして、他の方による当該記述の除去に対する反論も「信頼できる情報源」の提示も、現在まで出ていません。
当該記述は名誉毀損に当たる疑いもありそうですから、情報源が出ない以上、M.Mさんがおっしゃるように、早期に決着を図るべきであると考えます。コメント依頼から一週間経っていますし、形式上は合意形成がなされたとしてもおかしくはないはずです。ただし、Policexさんがやむを得ず議論に参加できない可能性を鑑み、(Policexさんのページにご連絡をした上で)「暫定的な合意」がなされたことにしてはいかがでしょうか。すなわち、除去部分の復帰に関する今後の議論の余地を残した合意です(ただし、復帰を求める場合は、上記のM.MさんとMasaqiologoさんのご指摘に応じることをその条件とする。もちろん、他の記述に関する編集はこれまで通り、万人がルールに則ったうえで自由かつ大胆に行なえることに変わりはありません)。いかがでしょうか。--Clem 2008年4月5日 (土) 05:25 (UTC)[返信]

(インデント戻)Clemさん、こんばんは。Clemさんからのご提案にしたがって、利用者‐会話:Policexへ4月12日(土)を期限として反論がある場合は議論へ参加するよう呼びかけてまいりました。これまでの間に何もアクションがない場合はClemさん編集の記事へ差戻しをしたうえで、該当箇所の削除およびIPユーザーさん(59.138.247.246)の追記箇所の反映を行うということにしたいと思います。特に他の方からも反論はないようですし、「暫定的な合意」ではなく「確定された合意」とみなしてもよいのではないかと思います。--M.M 2008年4月5日 (土) 09:53 (UTC)[返信]

記事差戻決定[編集]

4月12日(土)を期限として記事差戻への反論を待ちましたが、当事者のPolicexさんからの回答はなく、他の方々からも特に反論はありませんでしたので、合意が確定されたものとみなし、4月13日(日)0:00を経過した後に差戻を実施したいと思います。なお、Policexさんは現在、投稿ブロックの措置をとられていますので、現在のところは編集に参加できないということを付け加えておきます。--M.M 2008年4月12日 (土) 01:22 (UTC)[返信]

4月13日(日)01:45頃、Policexさんの記事差戻、不適切箇所の削除および節の入替を行いました。--M.M 2008年4月12日 (土) 16:49 (UTC)[返信]

M.Mさん、一連の件、ありがとうございます。ただ、恐れながら、「Clemさん編集の記事へ差戻しをしたうえで、該当箇所の削除およびIPユーザーさん(59.138.247.246)の追記箇所の反映を行う」を基準とすると、ところどころ編集がうまくいっていないように思います。たとえば、現在の版の「日本の社会学とその課題」の記述は、まさしく今回の議論の焦点となった箇所であり、したがって全除去されるものと考えておりました。いかがでしょうか。当方の勘違いでしたら申し訳ありません。--Clem 2008年4月13日 (日) 11:47 (UTC)[返信]
いやあ、節が別立てだったのと、書き振りが「社会学の目的」と「社会学の方法」と異なっていたので、とりあえず残しておきました。よろしければClemさんのご判断で編集していただければと思います。よろしくお願いいたします。--M.M 2008年4月13日 (日) 21:16 (UTC)[返信]
ご回答ありがとうございます。M.Mさんのご配慮に感謝申し上げます。かの節は、今回、議論となった文章がベースになっていますが、そもそもは、M.Mさんによる冒頭でのご指摘にあるように明らかに「社会学の目的」と「社会学の方法」にそぐわない内容と判断し、移動し節立てたものです。さらに、内容自体にも問題を感じたものの一方的に除去するのも乱暴だなと思い、とりあえず中立的な表現に編集させていただきました。そして今回の議論で、この内容に関する問題点もMasaqiologoさんより的確に指摘され合意に至りました。したがって、当方に当該文章に対する思い入れはもはやありません。そこで、今回の合意内容にしたがって、さきほど節全体を除去致しました。他の部分については、改めて案を提示致したく思います。(以上は、今回の議論に参加されていない方のための補足的な説明を加えています。)--Clem 2008年4月15日 (火) 12:39 (UTC)[返信]

差戻後の編集にあたって[編集]

僭越ながら、今回の差し戻しの編集を契機として、記事全体を見直してみようという提案です。「個人的趣味」に当たりそうなものは極力避け、既存の文章を生かし、なおかつ、Wikipediaの自由原理を損ねないようにしつつ、以下、8点にわたり指摘致します(ただし、ノートで議論すべきは、大幅な改稿や編集競合の場合とあるので、その条件に該当しない細かい点は省略)。参照対象は、2008年4月15日 (火) 20:05版です(4月19日時点で最新)。

  • (1)冒頭定義文1―「社会学(しゃかいがく, sociology)とは、社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム(因果関係)を解明するための学問である。」
「社会現象」と言い切るところや「解明」という言葉に、実証主義、客観主義に偏した匂いを感じる。したがって、解釈学的伝統や観測者問題を含めた定義文に変更したい。たとえば、「社会学(しゃかいがく, sociology)とは、「社会的」とされる現象や相互作用について、その実態やメカニズム(因果関係)を説明・理解する学問である。」など。
  • (2)冒頭定義文2―「その研究対象は、行動(行為)や相互作用といったミクロ・レベルのものから、集団や組織研究、人と人との関係、ネットワーク、地位と役割など集団レベルのもの、さらに、家族、コミュニティ、農村、地域社会、権力構造、より大規模な社会の構造やその変動(社会変動)などマクロ・レベルまである。」
ミクロ、メゾ、マクロの区分に錯誤あり。また、ミクロ/マクロの区分自体、社会構築的なものである以上、冒頭でミクロ/マクロをリジッドに設定したような記述も避けたい(詳しくは本文中でまとめることにして)。したがって、試案として、「その研究対象は、ミクロな行為、行動、相互行為からマクロな社会構造に至るまでさまざまであり、そうした事象の「社会的な」側面に着目することで、その形成や維持、変動、連関の過程を問題にする。」(←いまいち)
  • (3)概要節、第1段落―「社会学([仏]sociologie = [羅]socius + [希]logos)という用語は、 オーギュスト・コント云々」。
「歴史」の節に移動し、フランス革命後の当時の混乱した社会状況とあわせて記述したい。現状の歴史の節の出だしに唐突感を感じるため。
  • (4)概要節、第2段落―「社会学は、一言で言えば、さまざまな社会的現象の実態云々」
冒頭部と重なるため、カット。
  • (5)概要節、「社会学のテーマ」項
第二段落で社会変動について述べているところに、第三段落が「他の研究分野として、様々な社会構造やその時代的変化、すなわち社会変動の研究がある」と続くのはおかしい。この部分は、2008年2月13日 (水) 19:49版をベースにしていただきたい。なお、やや個人的趣味になるかもしれないが、この「テーマ」の前に「歴史」の節を持ってきた方がバランスがよいと思う(英語版参照)。本文冒頭部で、簡単に触れてもいるので。
  • (6)社会学の方法節
第一段落と、「社会調査」の冒頭部とが一致。この定義文はあくまで「経験社会学の」方法なので、第一段落はカット。すると、この節は、経験社会学の方法のみを述べていることになってしまう(しかもその内容は経験実証的な社会調査の近年の動向のみ)。「社会学の方法」は、やはり学説史の展開と切り離せないので、歴史の後に移動し、現状では、「社会調査」と節題を改めておくのがよいと考える。2008年2月13日 (水) 19:49版を参照。
  • (7)関連項目節
「権力」、「NPO」、「マスコミュニケーション」など逐一挙げていたらきりがない。社会学全般に関連する項目に限る、といった基準をそろそろ設けてはどうか(コメントアウトでその旨記しておく)。「疑似科学」は、反社会学講座のページの関連項目でよい。
  • (8)外部リンク節
関連項目と同様、社会学全般に関連するサイトに限ってはどうか。家族社会学会や数理社会学会などは、それぞれ家族社会学数理社会学のページに置いておけばよい。

以上、おかしな内容も多々あろうかと思いますが、ご寛恕いただければ幸いです。また、以上の内容に絶対的なこだわりはありません(あくまでたたき台という思いです)。よろしくお願い致します。--Clem 2008年4月19日 (土) 13:27 (UTC)[返信]

Clemさん、こんばんは。お疲れ様です。私もつねづね「社会学」の導入記事でありながら、なかなか内容が充実しないなあなどと思っていたところでした。私も微力ながら、すこしでもお手伝いできるようにがんばりたいと思います(現状では、どう見てもスタブ・レベルですしね)。ちなみに、私もウィキプロジェクト 社会科学の末席にちょこんと座らせていただきました。いくらかでも、スタブつぶしが進むよう尽力したいと思います。
ところで社会学の定義についてですが、ちょっと気になる点が・・・。気になるところは「「社会的」とされる現象や相互作用について、その実態やメカニズム(因果関係)を説明・理解する学問である。」の太字部分です。「社会的とされる現象」というのは、あまりピンとこない表現のような気がします。社会学についてあまり知らない人が「社会的とされる現象」と書かれていても何のことだか分からないような気がするのですよ。「社会における様々な事象」(もっと短くして「社会的事象」でもいいのですが)というような表現のほうがよろしいのでは? 「社会現象」とそんなに変わらない表現ですが、多少ニュアンスは変わるのではないかと思いますが。それから「理解する学問」というと理解社会学の説明に特化されてしまうのではないかと思います。「追究し、説明しようとする学問」というのではいかがでしょう。--M.M 2008年4月19日 (土) 14:11 (UTC)[返信]
M.Mさん、ありがとうございます。ご指摘のように、私も、看板記事でありがながら社会学の深み、おもしろみがまったく伝わってこないのを気にしています(差戻前は、別の意味でのおもしろさがありましたが)。正統な社会学事典はモノ(書籍)化したかたちでいくらでもあるので、こちらでは、Wikipediaの自己組織性原理に寄り添いながら、正統/非正統の境界を越えた知識空間の形成に一役買えればと思っています(最近は、Wikipedia全体で「正統性」を目指す動きが強く、やや窮屈な感じですが)。よろしくお願いします。
まず、「社会的」の件です。確かに、「社会的とされる」は分かりがたいですね(初学者の方に、「おや?」と立ち止まってもらうのを期待したいのですが、やめます)。「社会的とされる」は「現象」と「相互作用」の双方にかかっているので、「社会的な」に改変するのではいかがでしょうか。ここでの「社会的」には、「モノとしての社会に関わる」という意味と「コトとしての社会に関わる」(ジンメル流に言えば「社交」)という二つの意味がこめられています。一般に「社会」と言ってしまうと、前者の意味で捉えられがちであると思います(後者の意味の場合には、最近、「ソーシャル」というカタカナ言葉がマスメディアで見聞きされます)。
次に、「理解する」についてですが、これは、「説明」のほうに客観主義的な立場を、「理解」のほうに主意主義的な立場を担ってもらったつもりでした(ディルタイ「自然をわれわれは説明するが、精神生活はこれを了解する」(精神科学の項より))。しかし、M.Mさんにさえ伝わらないところをみると、表現方法に問題ありですね。この二つの立場がある/あったことを何とか伝えたいのですが……。「説明」の記事を新規立項してリンクを張れば、説明/理解の対比に気づいてもらえるでしょうか(ゆくゆくは、この二分法を超える現代社会学の地平が本文で記述されていけばよいなと考えています)。--Clem 2008年4月19日 (土) 15:51 (UTC)[返信]
他の方々からご意見がないようなので、とりあえず、上記(1)の定義文以外を反映させてみました。いかがでしょうか。--Clem 2008年5月12日 (月) 01:34 (UTC)[返信]

「複数の問題」テンプレート除去の提案[編集]

Template:複数の問題が2015年5月から貼られており、「一つの出典」、独自研究の可能性、正確さへの疑問が指摘されています。しかし、ノートなどで具体的な指摘がなく、議論されている様子もありません。そこで、このメンテナンス用テンプレートは除去すべきだと考えます。なお、ノートでの説明なくこうしたメンテナンス用タグを貼るのはWikipedia:妨害的編集#妨害的編集の事例に記載された「妨害的タグ貼り」に該当すると考えます。--j8takagi会話2017年2月13日 (月) 02:38 (UTC)[返信]

報告 提案から1週間経ちました。反対意見はないので、テンプレートを除去します。--j8takagi会話2017年2月20日 (月) 02:47 (UTC)[返信]

「学界報告・討論・論文寄稿軽視問題」について[編集]

社会学の説明として特に必要なのか疑問です。例えば、政治学など他の社会科学の分野でも、学会を軽視してコメンテーター活動に終始している人もいますし、社会学だから学界を軽視しやすいということではないと思います。ですので、社会学者の中でそういう批判があるということ自体は引用が伴っていて正しいとしても、社会学を説明するには適さないと思うのです。--たっとむ会話2019年3月3日 (日) 15:14 (UTC)[返信]

コメント 要不要については分かりませんが、少なくともWikipedia:中立的な観点に反した内容であるように思われます。当該セクションはこの記事の他の項目と比較しても明らかに強調箇所が多く、しかも単一の学者による主張のみを取り上げているように見えます。対立する主張を取り上げたり、強調箇所を減らしたりして中立性を向上させるべきではないかと考えます。--UsagiNeko会話2021年6月1日 (火) 15:32 (UTC)[返信]