ノート:源希義

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希義の生年久安6年(1150年)の出典は保立道久『義経の登場』の「義朝と熱田大宮司家」日本放送出版協会出版なのですが、どの史料に拠ってるのかが不明で、『尊卑分脈』で死亡年が治承4年、享年らしき数字31と見られるので、これかなと思いますが、もう少し調べてみます。--小者 2008年8月4日 (月) 13:04 (UTC)[返信]

国会図書館近代デジタルライブラリー版の「尊卑分脈」では31という数字が確認できませんでした(没年齢の記載なし)。どの出版社発行の『尊卑分脈』なのか教えていただけましたら幸いです。一方1152年説のほうですが『平治物語』(岩波書店「新古典大系」所収分)に永暦元年(1160年)に数え年9歳で土佐に配流になった事が記載されております。--219.105.194.146 2008年8月4日 (月) 21:46 (UTC)[返信]
希義の配流時の年齢ですが、『平治物語』本文ではなく、脚注の参考資料として紹介されている『清〇眼抄』(〇=けもの偏+解)の永暦元年三月十一日条の流人記事の中にあります。(『平治物語』本文に書かれていたような書き方をして失礼しました。以下は『清〇眼抄』(群書類従第7に所収)より抜粋です)「大納言経宗 阿波。章貞。 中納言師仲 下野。信隆。 別当惟方。長門。能景。 兵衛佐頼朝。伊豆。支忠。 同舎弟希義 土佐。年九。予。」なおIPが変わってっていますがこのノート記事の投稿者は上記の219.105.194.146です。--119.31.139.107 2008年8月5日 (火) 01:01 (UTC)[返信]

自分が見た尊卑分脈は書籍で吉川弘文館の国史大系・尊卑分脈3巻なのですが、書店で立ち見だったのでもう一度確認したら、この三十一という数字はどう見ても土佐配流の日付三月十一日の事ですね。失礼致しました。同社の源平合戦事典の希義の項目では生年不詳、没年は1182年に?付きでした。吾妻鏡でも希義の享年は書かれていないので、保立氏の久安6年(1150年)説の根拠がわからないですね・・。とりあえずわかりやすいようにテンプレートを入れましたので、今後典拠が判明次第、脚注で入れたいと思います。他にどなたかわかる方がおられましたら、書いて頂けるとありがたいです。--小者 2008年8月5日 (火) 09:02 (UTC)[返信]

生年1150年説の出典が未だに示されていないのでとりあえず1150年の方は消去させていただきます。不都合がありましたら再度編集をお願いします。--219.105.192.34 2011年8月12日 (金) 20:54 (UTC)[返信]