ノート:司法省法学校

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ノート:法学校から転送)

改名提案[編集]

「法学校」という現在の記事名は、「曖昧でない」「認知度が高い」「見つけやすい」(Wikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるには参照)という観点から妥当ではないと思われるため、「司法省法学校」に改名することを提案いたします。具体的な理由は以下のとおりです。

  1. 「法学校」はLaw schoolを意味する一般名詞であり、時代や地域を限定しない法律学校全般に関する記事(さしあたり法律学校 (旧制)ロー・スクール (アメリカ合衆国)ならびに法学部法学研究科法科大学院への誘導)とすべきである。
  2. この学校を独立項目として掲げているほとんどの辞典(事典)が「司法省法学校」を項目名としている。
    • 「司法省法学校」: 1969『明治官制辞典』、1985『平凡社大百科事典 6』(改訂版である1988『世界大百科事典 12』も同じ)、1993『日本史大事典 3』、1997『日本史広辞典』、2012『明治時代史大辞典 2』
    • 「司法省の法学校」: 1971『日本近代教育史事典』
  3. この記事にリンクしている記事およそ110件(Template:明治時代の法律学校またはTemplate:東京大学の源流・前身諸機関を介しているだけの記事、関連項目のみリンクのある記事を除く)について記事中の表記を調べたところ、「司法省法学校」が100件ほどであるのに対し「法学校」はわずか3件(東京大学大学院法学政治学研究科・法学部民法典論争一瀬勇三郎)、他は「司法省明法寮」「司法省法律学校」「司法省正則法学校」「東京法学校」であり、圧倒的に「司法省法学校」が多い。

なお、司法省が生徒を募り法学教育を行っていたのは明治5年から明治20年までで、明治17年に正則生徒を文部省に移管してからは速成生徒のみを養成していました。この間、明治9年募集生の入学誓約書雛形に「私儀今般御省法学校ヘ官費入学相願候上ハ…」と書かれるまで「法学校」という表現は用いられず、明治10年以降、同省の職制に「法学校ヲ総提シ…」「法学校ニ関スル一切ノ事務ヲ整理シ…」「法学校ニ関スル処務ヲ整理シ…」というくだりが見られるようになります。これを受けて法制史家の手塚豊は「法学校」を「正式な名称」「学校機構自体の名称」ととらえており(『著作集9』6、58、62頁)、また『東京大学百年史』通史一の「法学校・東京法学校」、資料三の「年表」は基本的に「法学校」で通しています。手塚、東大百年史とも、「法学校」が一般名詞ではなく校名として用いられていたことを検証しているわけではないのですが、これが正式な校名であったとしても、前記の理由からウィキペディアの記事名としては妥当ではないと考えます。--庚寅五月会話2017年7月11日 (火) 14:56 (UTC)[返信]

チェック 異議がありませんので改名を実施しました。--庚寅五月会話2017年7月19日 (水) 20:53 (UTC)[返信]
報告 法学校はひとまずロー・スクールへの転送ページとし、先方で誘導を行っています。--庚寅五月会話2017年7月20日 (木) 15:06 (UTC)[返信]