ノート:東條英機/ログ/2

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2009年7月19日 (日) 07:13 UTCまでの過去ログ

評論の場ではない[編集]

「東條にとって不運だったのは、自身も一歩間違えればA級戦犯となる身の田中隆吉や、実際に日米衝突を推進していた服部卓四郎や有末精三、石川信吾といった、所謂『戦犯リスト』に名を連ねていた面々が、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていたことであった[24]。 それでも東條は、太平洋戦争時に置かれた日本の立場を必死に訴えたのである[25]。」は、論評ではないでしょうか? 特に「不運であったのは」「必死に」は必要ないと思いますが、どうですか?

ウィキペディアは評論の場ではないため、「日本は米国の指導にもとづき武力を放棄した。一応は賢明である。しかし、世界が全面的に武装放棄していないのに、一方的に武装をやめることは、泥棒がまだいるのに警察をやめるようなものである。」は不要です。 この書き込みは、 121.87.112.247さん(2009-10-05 14:23:42)と 121.87.111.183さん(2009-10-05T00:56:19)によるものです。--miya 2010年1月6日 (水) 14:48 (UTC)

従二位? - 勲等[編集]

従二位とありますが、従二位の項では東条英機が載っていません。どちらが違うのでしょうか。121.103.11.65 2009年8月15日 (土) 20:00 (UTC)

身長163cm[編集]

11月末まで待って、情報源の脚注が付かなかった場合、「身長163cm」を削除します。--rshiba 2009年11月5日 (木) 03:58 (UTC)

『日本陸海軍総合事典 第2版』に掲載されている情報であることを確認しました。尤も「初版」にも載っていることにあとから気づきました。但し、冒頭の定義文に載るべき情報であるのかについては、疑問を感じています。挿話やエピソードとして意味づけることができる場合のみ掲載すべきものではないかと思うのですが...。このままにしておきます。--rshiba 2009年11月30日 (月) 12:58 (UTC)

2010年3月28日 (日) 11:32 210.170.191.194氏の編集において柴崎力栄氏の書き込みが削除され、直後の2010年3月28日 (日) 11:56 QQpowの編集において記事中の身長が削除されました。210.170.191.194氏とQQpow氏は同一人物ですか?ノートの他者の発言を削除してはいけません。一応ノートをリバートするとともに削除された記事も戻しました。--Miwa.SS 2010年3月29日 (月) 02:16 (UTC)

私がノートを消したりするわけないじゃないですか。ノートを消したのは批判者側の人じゃないですか?それはさておき、どう見てもあそこに身長をあえて記載する必要はありません。削除するのが妥当だと思いますが、削除に反対の人は言ってください。--QQpow 2010年3月29日 (月) 03:19 (UTC)

故人を中傷する人格攻撃の宣伝の場になっています[編集]

評価はあくまで政敵側の主張とすべきです。--以上の署名のないコメントは、220.213.8.18会話/Whois)さんが 2009年12月23日 (水) 05:33 (UTC) に投稿したものです。

政敵の主張に限らないようですが。(できるのであれば、)別の評価の出典を出して相対化して下さい。johncapistrano 2009年12月24日 (木) 01:33 (UTC)

これは魔女狩りです[編集]

死人に口無しだからと言って、ここまで偏向した人を罵倒する編集が公正でしょうか?--124.45.154.111 2009年12月24日 (木) 01:16 (UTC)

マイナス評価だけが記述されている訳でないのに気に入らない記述だけを削るとそれこそ公正でなくなります。国定教科書じゃあるまいに。ただ編集者の誇張が含まれる可能性はありますが。johncapistrano 2009年12月24日 (木) 01:33 (UTC)

保護のお知らせ[編集]

ノートでの議論無しに差し戻しが繰り返されていたので、編集合戦として保護をかけました。保護は1か月で自動的に解除されます。解除後に編集合戦が再発しないように、編集内容について具体的にどこがどう問題か、あるいは問題でないか、このノートで議論してください。--miya 2010年1月6日 (水) 14:48 (UTC)

一方的に大量削除を根拠もなく続ける人間がいてはなかなか難しいですね。国内評価全部バッサリですから。--222.7.234.72 2010年3月5日 (金) 00:32 (UTC)


単純な修正についての合意を求めます[編集]

Category:刑死した人物を貼りたいので、Wikipedia:保護の方針#単純な修正に準拠し、カテゴリ貼付の合意を求めます。3日経過しても異議が出ない場合には、管理者伝言板で保護中の修正を依頼します。--rshiba 2010年1月24日 (日) 08:00 (UTC)

まるで便所の落書き[編集]

百科事典として相応しくない。 --124.45.144.116 2010年3月5日 (金) 00:54 (UTC)

取り敢えず半保護を依頼しました。--rshiba 2010年3月5日 (金) 06:06 (UTC)

便所の落書きとおっしゃるならば、まず理由を述べましょう。「百科事典として相応しくない。」は理由になっていません。
この記事部分がWikipedia:基本方針とガイドラインのどこに反するのかを挙げてから、削除要求するなりしてください。
--うにらまくど(Uniramakudo) 2010年3月5日 (金) 08:33 (UTC)

偏見を避ける

中立的な観点に基づいて記述されなければなりません。すなわち、異なった観点について公平に好意的に表現しなければなりません。 --124.45.154.116 2010年3月5日 (金) 09:34 (UTC)

Wikiは人を誹謗中傷する場なんでしょうか?[編集]

ここの管理者はみんな左翼なんですかね? 事実に基づかないただの悪口の羅列じゃないですか。--QQpow 2010年3月5日 (金) 12:07 (UTC)

事実ではなくて、検証可能な情報源の有無です。既存の当該情報源の記述がおかしいと思ったら、別の検証可能な情報源を対置してその記述を相対化する編集をすればよろしい。右とか左とかは関係ありません。--rshiba 2010年3月5日 (金) 12:26 (UTC)
人物評価など、どうせ水掛け論になるばかり。戦後の著名な小説家はみんな口をそろえて東条をバカだアホだと罵った書籍ばかりだから。ウイキペディアの主な編集者は非常に思想が偏っているように見えますね。団塊の世代の左翼の典型的な固定観念に思えます。--QQpow 2010年3月5日 (金) 13:26 (UTC)

評価のセクションについて[編集]

「評価」のセクションは評価とは言い難い記述や執筆者の個人的感想が交じっています。たとえば「東條英機暗殺計画」は「評価」とは言えない上に出典がありません。「評価」であれば、たとえば以下のようにポイントを絞って精選し、誰からの評価であるか明確にしたほうがいいと思います。

  • 政治・軍事関係者からの評価
  • 天皇の信任
  • 対立者からの批判
  • 大衆の人気
  • その他(国内での批判、評価など)
  • 諸外国からの評価

--miya 2010年3月6日 (土) 00:47 (UTC)見出し案修正--miya 2010年3月6日 (土) 07:43 (UTC)

評価以外の内容を生涯に移しました。--Miwa.SS 2010年3月6日 (土) 10:10 (UTC)
早速の編集をありがとうございました。残った部分で、出典の検証が必要と思われる個所にタグを貼りました。--miya 2010年3月6日 (土) 14:09 (UTC)

出典:『東條英機 暗殺の夏』[編集]

吉松安弘『東條英機 暗殺の夏』を単独で出典としている箇所がありますが、単独で出典とせず、事実関係を検証できる出典を追加すべきでしょう。この本は『坂の上の雲』と同じような、いわばノンフィクション小説の類で、事実に沿ったストーリーではあるものの、登場人物の心理描写や発言のほとんどは筆者の創作であると思われます。--miya 2010年3月6日 (土) 14:09 (UTC)

何もかも東条が悪い?[編集]

戦後のマスコミは、あの戦争は何もかも東条と陸軍の責任だと宣伝してましたからね。 だから戦後文化人もそのように書きまくった。 例えば竹槍事件にしても毎日新聞のデッチアゲ事件臭いですよ。 東条が新名記者を召集するよう命令したとする根拠がありません。

現在ある記述について怪しいと思われる場合はTemplate:要出典Template:要出典範囲Template:要検証Template:要検証範囲などのテンプレートをお使いください。「デッチアゲ」とするためには、信頼できる情報源の提示をお願いします。歴史学者の論文、著書等ありましたらご紹介ください。--miya 2010年3月6日 (土) 07:43 (UTC)
東条による懲罰召集の話ですが(新名、松前、前田)召集の人選の権限は連隊区司令部にありそれは師団長の指揮下です。そこへ東条が口出しできるわけがありません。東条が召集を指示したと言う証拠はどこにもありません。松前が召集された直後に東条は辞職し反東条派の政権になっていますから松前がその気になれば召集解除が出来たはずです。前田に関しては前田の遺族が東条の懲罰召集説を否定しています。--124.45.121.91 2010年3月6日 (土) 14:26 (UTC)
事実はどうかわかりませんが、そういう主張があり、やりかねないと恐れられてはいたわけですね?
前田氏の御遺族が「懲罰召集説を否定」なさったことに関する出典(書籍、論文など)をお知らせください。--miya 2010年3月6日 (土) 23:34 (UTC)

前田利為陸軍中将について[編集]

可読性向上のため、ここに小見出しを追加しました。--miya 2010年3月26日 (金) 04:11 (UTC)
前田利為陸軍中将への人事権が「連隊区司令部にありそれは師団長の指揮下」?ありえんでしょ。それに墜落原因は長女酒井美意子の手記でも不明なんですがね。--Miwa.SS 2010年3月12日 (金) 09:15 (UTC)
追記。今、前田について出典とされている「華族の肖像」って写真集なんですよねえ。何ページに書いてあるの?今度図書館で調べましょうか。『ある華族の昭和史』なら第八章に書いてあるけど(こっちは講談社文庫なんで安かった)、こっちには墜落原因は不明としか書かれてないし?--Miwa.SS 2010年3月12日 (金) 12:12 (UTC)

前田の葬儀で東条が弔辞で泣き崩れる描写がある。前田夫人も娘の酒井美意子も東条を恨んでいる様子は無い。 当時予備役の前田を司令官として取り立てたのは東条の意思もあるかもしれないが、当時なら名誉なこと。 しかも激戦地ではないボルネオならば、むしろ優遇した配慮とも言える。本来なら事故扱いの所を、それでは相続税が莫大だからと戦死扱いにしたり、全力で遺体の捜索をするなど、陸軍では前田をかなり優遇していたと言える。 そもそも仮に東条にとって政敵でうるさい人物で嫌いならば、予備役のままの方が都合がいいはず。

写真集の「華族の肖像」何処にありますか?東條が弔辞を読んで泣いたのも「ある華族の昭和史」ですな。また、当初陣没扱いで、国会で「相続税目当てか」と追求されて戦死扱いになったことは帝国議会の議事録に書いてある通りですな。また、酒井の著書を出典とするんならまさに東條と対立していたことがその著書に書いてあるのに「仮に」以降は貴方の推測ですな。貴方実際に読んでいるんですか?はなはだ疑問です。--Miwa.SS 2010年3月12日 (金) 23:42 (UTC)
敵機襲来の痕跡が無いのだから事故死なのはほぼ間違いないでしょ。本来なら当初の事故死扱いが当然。
しかし相続税の問題があるからと陳情などがあって戦死扱いに変えてしまった。東条も黙認した。これが事実でしょう。
不正は不正ですが、むしろ前田家に配慮しすぎた不正。--124.44.49.125 2010年3月13日 (土) 04:26 (UTC)
陳情?帝国議会で質問に取り上げられ結果、大臣答弁で決まっている。貴方ひとつでいいからちゃんと出典を明示してくださいよ。IP氏の主張は出典の無い個人研究ばかりですな。出典が明示されない以上は「ある華族の昭和史」と帝国議会議事録に基づく内容に変えますよ。--Miwa.SS 2010年3月13日 (土) 09:20 (UTC)

現在「搭乗機を撃墜されて死亡したが、東條はわざわざこれを戦死ではなく戦傷病死扱いにして遺族の年金を減額したといわれている」となっているが、搭乗機が撃墜されたとはだれの証言ですか? 講談社の日本人名大辞典では「飛行機事故死」となっている。 それから専門家ではない遺族の書籍の出典ならば、確定した事実であるような編集はしないでもらいたい。--125.175.33.74 2010年3月13日 (土) 17:14 (UTC)

いくらでも公式出典はありますが?まず、前田家へは「戦死」で内報されていますな。次にクチンで行われたボルネオ守備軍葬でも寺内総司令官が弔辞で「壮烈な戦死」と述べていますな。11月20日になって東條が「今回は戦死と認定することはできない」発言以降、事故死扱いになってますけどねえ。これが公報死になり、挙句公報死は戦死となり公式にはあくまで戦死ですが?墜落原因も不明ですがねえ。ボルネオ沖バドの水中から何とか遺骨と遺品が回収されただけ。墜落原因は調べようもなかったんですが?これが各種公式資料に基づく結果。芙蓉でも中央公論でもいいからちゃんと一次資料紹介した文献を出典として示したらどうですか?ネット検索でのつまみ食いなどで原本にも書籍にもあたらない編集方法じゃ嘘ばかり書くことになりますよ。--Miwa.SS 2010年3月14日 (日) 07:26 (UTC)
戦死か事故死かでは、金銭的に遺族にとって大きな差が出ます。
だれでも戦死にしてもらいたいと思うでしょうが、それではみんな戦死になってしまいます。
だから戦死と認定するためには、確かな証拠の提出が必用ですが、それが出来なかった。
だから事故死の扱いとすると言った、当初の東条の主張は正論です。
それから撃墜されたとなってますが、それは証拠の無い憶測なので、そうとわかる編集にしてもらいたいですね。--118.6.162.44 2010年3月14日 (日) 08:00 (UTC)
それから田中新一は自分から杉山に辞任を申し出て受理されてるんですが?
南方への辞令を出したのも参謀本部で、東条ではありません。まるで東条が更迭したようになってるじゃないですか。
だいたい馬鹿な作戦で政府に無謀な要求をし、首相官邸へ乗り込んで罵倒したり殴りかかったりする人物は処分を受けて当たり前です。--118.6.162.44 2010年3月14日 (日) 10:51 (UTC)
出典を出されれば考慮しますがね。形式的に出した辞表がなんですって?更迭された人間が形式的に辞表を出したら更迭じゃないなんて理屈は通じませんね。とにかく貴方は出典を明示してくださいよ。何も出典が無ければ個人の独自研究に過ぎませんから。杉山メモでも何でもあるでしょうが。--Miwa.SS 2010年3月14日 (日) 11:04 (UTC)

あなたは出典を都合よく切り貼りして、何もかも悪いことは東条の仕業だと、偏向した自分の思想で編集しています。 公平性がまるで欠如しています。--220.104.84.43 2010年3月14日 (日) 11:25 (UTC)

貴方のような難癖をつける人間がいるから、出典を複数にしたり、ページ数まで示す形で出典を追加しているんですがね。さらにウィキペディアの基本方針に従って二次資料に差し替えたりね。貴方は、ひとつでもいいから出典示したらどうですか?今の意見は貴方の個人研究に過ぎない。出典が全く示されてないから。そうそう貴方の意見に従えば前田家の娘の書いたものは出典にならんのでしたっけ?その理屈だと、東條嫁の意見を書いた佐藤早苗の著書も、東條孫の書いた著書も出典にならんことになりますが?--Miwa.SS 2010年3月14日 (日) 11:40 (UTC)
あなたは「終戦工作に対しても妨害工作を行っている」と編集しましたが、だれがどんな終戦工作をしていたのですか?--220.104.84.43 2010年3月14日 (日) 11:31 (UTC)
近衛上奏文など近衛絡みのものを書く予定ですよ。今、資料を再読している最中ですわ。貴方は結局一切出典を示せないんですね。--Miwa.SS 2010年3月14日 (日) 11:40 (UTC)
酒井美意子氏の出典があるとはいえ、前田は撃墜された戦死なのに東条によってわざと事故死扱いにあれたとか、明らかに間違った認識をそのまま編集するのは問題。悪意に満ちた編集となっている。出典さえあれば事実をねじ曲げてもいいなんてことはないはず。--118.8.1.1 2010年3月25日 (木) 15:05 (UTC)

(質問)前田利為の死の原因が「原因不明の航空機事故」という点については、Miwa.SSさんも異論ないのですか?--miya 2010年3月26日 (金) 04:11 (UTC)

墜落原因は不明ですよ。実際、「ある華族の昭和史」によれば酒井は、飛行機事故とも「ジェネラル・マエダはB29の編隊が撃墜した」との話を戦後米将軍から聞いたとも書いているんですから。それに、この前田の話が多くの東條書籍と取り上げられるときに話題になるのは現地寺内元帥も戦死とし扱っていた前田の死を東條が陣没扱いにしたことですからね。それが非難されるとコロっと戦死扱いに変えたことですから。そっちを主眼にして編集しましょうか?今は東條と近衛の関係の資料を図書館であさっていたんですが、この前田の件なら半藤一利の本で該当出典持ってますからページ数まで出典付きで出せますよ。--Miwa.SS 2010年3月26日 (金) 06:40 (UTC)
敵機に撃墜されたという証拠が示されなければ、東条が行政の側の基準で法的には「陣没」としたのは正しい判断じゃないですか。寺内が現地で戦死扱いにしたのは慰霊などの儀式でのことで法的なものではないはず。今で言えば過労死で労災認定の基準があるように当時も戦死の扱いにする基準があって、東条はそれに従って判断したまでの話じゃないですか。--61.115.66.85 2010年3月26日 (金) 13:02 (UTC)

『ある華族の昭和史』第八章には「東條とはソリが合わず」とはありましたが「東條によって南方の激戦地に転任させられ」「東條はわざわざこれを戦死ではなく戦傷病死扱いにして」のような情報は見つかりませんでした。ボルネオ方面軍最高指揮官の拝命や「陣歿」と発表されたのが東條の差し金であるという情報が第8章以外に書かれているのであればページ数をお知らせください。また『ある華族の昭和史』ではなく半藤氏の本が出典なのであれば、書名とページ数をお知らせください。--miya 2010年3月26日 (金) 13:34 (UTC)

『歴代陸軍大将全覧 昭和篇/太平洋戦争期』中公新書クラレ250-252頁にて、予備役からの召集、墜落時の状態、戦死の内報、寺内元帥の弔辞、東京での葬儀後に東條が戦死ではなく事故死扱いにしたこと、それに対する財産目当てだろうとの批判など掲載されていますよ。また、『ある家族の昭和史』を読まれたのなら、帝国議会にての大臣答弁は掲載されていたはずですが?--Miwa.SS 2010年3月27日 (土) 00:03 (UTC)
「東條によって南方の激戦地に転任させられ」
「搭乗機を撃墜されて死亡したが」
「東條はわざわざこれを戦死ではなく戦傷病死扱いにして遺族の年金を減額した」
ですからこれらの文章の出典は何ですか?あなたが示した出典とは内容が違いますが?
ついでですがB29は初飛行が1942年9月21日なので「ジェネラル・マエダはB29の編隊が撃墜した」なんて話はありえません。--115.65.21.149 2010年3月27日 (土) 04:01 (UTC)
そんなことは書き加えた人間に言ったら?そもそもこっちが問題にしているのは、前田の親族が○○言ったという今の記事の出典がただの写真集だったりしている点。貴方はせいぜい反論する前にちゃんと出典示して反論されてはどうですか?

今の記事は出典も虚偽だし、内容も虚偽。酒井の著書の何処に今の記事の内容が書いてありますか?そもそも東條については批判する書籍のほうが圧倒的に多いんだから史書を出典にして記事書けば批判要素が多くなるのが当たり前。--Miwa.SS 2010年3月27日 (土) 06:31 (UTC)

最初からそう言えば議論の必用は無いんですが?現在の記事はあちこちで引用されており、引用元は全てがここのようです。こちらの記事が世間に虚偽を蔓延させているのですから、この前田に関する記事は削除が妥当でしょう。--61.45.54.113 2010年3月27日 (土) 07:12 (UTC)

お断りです。『前田利為 軍人編』入手後に書き換えるつもりでしたが、削除というなら、前田を予備役に追いやり、召集して兵もいないボルネオ司令とし、墜落した飛行機が発見され戦死と内報され、クチンでの葬儀も築地本願寺での葬儀でも事実戦死扱いだったのものを築地本願寺葬儀後に、「今回は戦死とすることはできない」と戦死を陣没としたのは東條。これにれいによって腰巾着の富永が戦地における公務死にし、前田家には全財産の登録を命令までしてることをね。結局、帝国議会において「戦場における戦死は公務死」とされて戦死認定されたんだから。これが昭和19年4月段階の帝国議会で寺内元帥の絡んだ話だったから最後に再度戦死になったけど、そうでなけりゃどうなったことやら。--Miwa.SS 2010年3月27日 (土) 10:47 (UTC)

[1]この追加された部分の出典を求めます。前者は『前田利為侯爵編』だとして、後段の酒井の著書って何でしょうね?出版社、頁の出典を求めます。--Miwa.SS 2010年3月27日 (土) 20:09 (UTC)

『ある華族の昭和史』
イギリスのコンノート殿下をはじめ数多のVIPの迎賓館として前田家は政府から望まれ、父もまた積極的に協力してきたのである。しかし貧乏侍どもは「軍人にあるまじき贅沢三昧」としか見なかった。
父が多忙な軍務のかたわら種々の文化事業に情熱を注ぐことにも、反感を持つ軍人は少なくなかった。むしろ外国との交流が多い海軍軍人達に父の真の理解者がいたが、陸軍の田舎侍に文化は無用の長物でしかない。--QQpow 2010年3月28日 (日) 03:45 (UTC)

評価以外の部分で、ざっと見た事実誤認[編集]

関東軍参謀長時代、東条が軍を指揮したかのような記述だが 参謀である東条が直接軍を指揮するわけがない。 「東條兵団」等。

陸軍次官にまるで東条が南進論を推進したかのような記述だが、 実際には上海事変以降、南京攻略や重慶爆撃、南部仏印進駐などは、海軍が進言・主導している。

三職の兼任(参謀総長就任)を東条自身の権限で断行したかのような記述だが 東条にそんな権限は無い

退陣に関わるサイパン陥落だが、まるで東条がサイパンの戦いを指揮したかのような記述だが サイパンでは陸軍に指揮権はないし、東条(陸軍大臣)にも全く何の指揮権もない。 (サイパンの守備は(陸軍部隊も)全て海軍の連合艦隊の指揮下で東条は口出しできない)

終戦工作への妨害・・・だれの終戦工作をどのように東条が妨害したのか? 小磯首相の終戦工作への妨害ならあったが、それは米内海相ら海軍の主導の妨害。

敗戦と自殺未遂に関して、山田風太郎の論評をあえて記載する意味は無い。

東條参謀長が昭和12年8月14日に編成された察哈爾派遣兵団の兵団長を兼任したことは戦史叢書にも書かれた歴史的事実ですが?陸軍次官時代に上記発言をしたことも朝日新聞に掲載された事実ですが?東條が終戦工作反対の部内訓示をしたのも外務省で当の終戦工作をしていた加瀬俊一の回想録に書かれた事実ですが?「かのような」の部分や山田風太郎の部分は貴方の感想なので表現方法その他は論議の余地もありましょうが、三職兼任したことも事実なら、サイパンの陥落が東條内閣の倒閣に繋がったことは木戸幸一、岸信介など証言者いくらでもいますが?--Miwa.SS 2010年3月6日 (土) 19:18 (UTC)
山田風太郎の論評

山田風太郎氏の文章が余りに多すぎませんか?ほとんど一段落丸ごとが「引用」となっています。--miya 2010年3月6日 (土) 23:34 (UTC)

編集内容全体からは、まるで東条一人が何もかも政策を断行していたかのような印象です。東条にそんな大きな権限はありません。陸軍大臣といっても軍の作戦への統帥権はありませんし、首相でも大臣の人事権はありません。海軍に対しては何の権限もありません。事実だと言っても、誇張とバランスを欠いた編集は戦時中の新聞と同じです。--220.213.15.212 2010年3月7日 (日) 04:58 (UTC)
記事全体の分量と段落の分量を考えると、さほど多いとも思えませんが。公刊されている、同時代の一私人の日記(回想ではない)という性質は、この項の他の出典には無い性質のものでありますし、後世からの論評よりも時代性を感じ取れる内容であると思います。箇条書きであり、単純な引用になっているので改変すべきであるというような意見ならば妥当と思いますが、以前の記述のように、山田の東條への否定的な評価だけを「つまみ食い」して残すという意味なら反対です(具体的には自殺未遂の批判のみを書いて、そのほかの部分はスルーするといった編集を指します)。--水晶の兎 2010年3月8日 (月) 12:58 (UTC)
終戦工作への妨害

「終戦工作に対しても妨害工作を行い」とありますが、現在書かれている「訓示」では「妨害工作」というには不足だと思います。東條さんは具体的には何をした/させたということでしょうか。--miya 2010年3月8日 (月) 12:59 (UTC)

腹心の部下とされる人物「三奸四愚」[編集]

「三奸四愚」[編集]

これは誰が言い出した中傷でしょうか? 政敵による揶揄でしょうが根拠があいまいです。 牟田口廉也が東条の腹心だというのも根拠不明です。 それにインパール作戦は牟田口の直訴ではなく、南方軍総司令官の寺内大将が杉山参謀総長に、どうしてもやらせてもらいたいと願い出た作戦です。東条は作戦の許可に関わっていません。--220.213.15.212 2010年3月6日 (土) 17:28 (UTC)

「三奸四愚」は実際に言われていたことです。秦郁彦の「現代史の争点」他多くの書籍にて紹介されていることです。牟田口が腹心ではないのは同意。但し、東條自身はともかく富永は南方軍総参謀副長稲田正純少将を更迭するなどインパール作戦が実施できるように協力してますな。--Miwa.SS 2010年3月6日 (土) 19:32 (UTC)
書籍に多く書かれているといっても戦後の話ですよね。そもそも「三奸」なんて言葉は日本語的でない。

南方軍総参謀副長の交代は寺内の意向でしょう。インパール作戦は初めから寺内の威によって強引に通した作戦で、杉山参謀総長でさえ逆らえないのに富永ごときが人事に口を挟む余地はありません。--220.213.15.212 2010年3月6日 (土) 20:12 (UTC)

あら?東條の大東亜会議でのボースに感動して最終的にゴーサイン出したことは無視ですか?--Miwa.SS 2010年3月14日 (日) 08:35 (UTC)

側近に含めるかどうか[編集]

富永恭司が東條の側近から消えているのはさすがにおかしい。客観的事実で言っても東條の陸相時代から失脚まで次官として側近中の側近として仕えていたし、仏印進駐問題から台湾での敵前逃亡まで、帝国陸軍将官に関する書籍ではおなじみの話ですが。それをバッサリ切るとは。出典として

  • 「太平洋戦争-封印された真実」佐治芳彦 日本文芸社
  • 「東条英機暗殺計画と終戦工作」(別冊歴史読本 17)新人物往来社
  • 「日本陸軍指揮官総覧」新人物往来社
  • 「日本の100人 東条英機」デアゴスティーニ・ジャパン

をあげておきます。佐治の著作には富永が台湾逃亡後に温泉三昧の日々だったことまで書いてありますし、帝国将官のデータベース的な本では常に牟田口と並んで最低の評価をされています。東条の側近中の側近であることはこれも東条本では常に出てきます。--219.162.184.175 2010年3月9日 (火) 00:11 (UTC)

富永は陸軍次官時代は確かに東条陸相の側近ですが、ただそれだけのことで特別に東条との関係が深いという話ではないんじゃないですか。--124.45.100.216 2010年3月9日 (火) 02:09 (UTC)

側近であった時期とその地位/階級を明記してはいかがですか?それを明確にできない人物は外した方がいいでしょう。--miya 2010年3月9日 (火) 10:38 (UTC)

富永と佐藤は東條が陸大教官時代の教え子で、東條が出世するごとにわざわざ自分の腹心として人事を曲げ呼び寄せていたんですがね。--Miwa.SS 2010年3月14日 (日) 08:43 (UTC)
ではその出典とその引用文をここに書いてくれませんか?--61.45.54.113 2010年3月27日 (土) 07:03 (UTC)
お断り。二度手間は嫌なんで。出典頁付でまとめたら本文編集でその希望には答えましょう。現代史の争点245頁、歴代陸海軍大将全覧75頁などね。他に陸軍省軍務局長と日米開戦、東條英機と天皇の時代、額田坦回想録、杉山メモなどな。歴代陸海軍大将全覧が一番よくまとまっているから、ここから引用するよ。もちろん三奸四愚もな。--Miwa.SS 2010年3月27日 (土) 10:32 (UTC)

わざわざ出典付きで書いても「関係ない」とのQQpow氏の主観だけで削除するんなら、よほど関係なく見苦しいくらいの批判者や反対者のことを長々と書いているものも全部したらどうですか?そもそも東條本のほとんどに書かれた富永のエピソードを削除するって本当に東條関係の本を読んでいるのかすら怪しい。--Miwa.SS 2010年4月23日 (金) 00:11 (UTC)

竹槍事件[編集]

東条が新名記者の召集を指示したという根拠が不明です。 毎日新聞は香川大尉がそのような証言をしたかのように書いてますが、ソースがありません。--220.213.15.212 2010年3月7日 (日) 05:15 (UTC)

他の項目も同様ですが、貴方個人の感想ではなく出典をお示しください。--Miwa.SS 2010年3月7日 (日) 07:14 (UTC)

秦郁彦氏は、何もかも東条が悪いと書いてますが。[編集]

おかしいんじゃないですかね。この方の論評は。 秦郁彦氏は東条に私恨でもあるんでしょうか? 例えば参謀本部の田中新一の更迭を東条がやったかのように書いてますが、東条にそんな権限があるわけがありません。秦郁彦氏もそんなことは知ってるはずですが、とにかく東条を悪く印象付けさせたいと、それしか考えていないようです。--124.45.143.183 2010年3月10日 (水) 00:37 (UTC)

お伺いしますが、そのコメントは秦郁彦氏の著書をお読みになってのものでしょうか。それとも、東條英機の本文をお読みになってのものでしょうか。--miya 2010年3月10日 (水) 04:47 (UTC)
氏の本は読んではいません。本編集を読んで出典が秦郁彦『現代史の争点』『昭和史の軍人たち』文藝春秋となっているのでそう解釈しました。田中新一を移動させる判断は参謀本部の方でやっています。
又、「国務と統帥の一致・強化を唱え、陸海統帥部総長の更迭を断行し、自らは参謀総長に就任する。」という記述がありますが、東条に参謀総長の人事権など無いはずです。誰が断行したのか主語がありません。--124.45.143.183 2010年3月10日 (水) 05:21 (UTC)
秦氏は歴史家として中立であろうと努力はしておられるようです。東條がスケープゴート的に「全責任を引き受け刑死」(「東條英機ー戦時下のカミソリ宰相」『笑話史の軍人たち』43-53頁中の43頁)とも書いていますし、赤松秘書官の挙げた「東條の美点」もちゃんと紹介しています(「東條英機の「戦争責任『現代史の争点』195-220頁中の209頁)。「どこまでが東條自身の真意」だったかはっきりしないとも認めています(『現代史の争点』212頁)。上記二つはどちらも短い記事ですので、是非お読みください。議論に際しては、出典とされた資料に本当にその情報が書かれているか、あるいは逆に引き写しになっていないか、をチェックなさることをお勧めします。ちなみに、後で追加された脚注によれば、田中新一の出典は別の人の回想録だったようです。「敵対者・批判者への対応」の中野正剛など一部に秦氏の文章に似た箇所があって気になります。--miya 2010年3月20日 (土) 03:37 (UTC)

秦郁彦氏は『現代史の争点』で、東條は既定の国内法でも犯罪人であろうと語っているそうです。 容疑は「チャハル作戦と、その作戦中に起きた山西省陽高における集団虐殺、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の策動」だそうですが、具体的に東條のどういった行為が犯罪に当たるのか何も示さずに、憶測で人を犯罪者扱いしています。このような方が中立だといえるでしょうか? --以上の署名のないコメントは、124.44.187.222会話/Whois)さんが 2010-03-25T12:34:40 に投稿したものです(miya 2010年3月26日 (金) 04:11 (UTC)による付記)。

「語っているそうです」とおっしゃらないで、まずは『現代史の争点』や『日本憲兵正史』の記述をお読みください。話はそれからです。--miya 2010年3月26日 (金) 04:11 (UTC)

注釈リストと出典リストをわけませんか[編集]

脚注が50近くになり、読みにくく感じます。Help:脚注#参考文献リストと注釈リストを別置したいときの方法を用いて、注釈リストと出典リストをわけませんか?--miya 2010年3月10日 (水) 04:47 (UTC)

著作権侵害の可能性[編集]

この編集から加わった[2]の佐藤早苗『東条英機「わが無念」』によると以下の部分ですが、ここからの丸写しじゃないですか[3]?佐藤早苗の著書を読んで安藤義信氏がまとめた文書まんま。歴史的発言まんまなら違いますが、これは著作権侵害なので以後侵害が続かないように削除すべきでしょう。保護している管理人の方よろしくお願いします。--58.90.66.5 2010年3月12日 (金) 10:52 (UTC)

陸軍悪玉論に対する疑問について[編集]

記事と出典を個別対応させてください。今の記事を羅列し、出典を別個羅列じゃ出典になっていません。未完成です。あと基本陸軍悪玉論は記事があるのでそっちに書かれたほうがいいのでは?--Miwa.SS 2010年3月15日 (月) 01:32 (UTC)

察哈爾派遣兵団(東條兵団)について[編集]

本当にそんな組織が存在したんでしょうか?

盧溝橋事件以前は、関東軍と支那駐屯軍がありました。 盧溝橋事件の後、支那駐屯軍は第1軍となり、新たに第2軍が新設されました。 そして第1軍・第2軍を統括する北支那方面軍という上位の「方面軍」が新設されました。

察哈爾での作戦はこの北支那方面軍が当たり、これに属する第2軍の隷下の第5師団が作戦に当たっているはずで、ですから関東軍や東条がこの作戦に参加したなんて話しは、戦闘序列からいっておかしいと思うのですが。そもそも関東軍全体の参謀長(幕僚)の東条が、小さな部隊を指揮するという話しがそもそもおかしいのです。--124.45.143.183 2010年3月17日 (水) 01:51 (UTC)

東條参謀長が昭和12年8月14日に編成された察哈爾派遣兵団の兵団長を兼任したことは戦史叢書にも書かれた歴史的事実ですが?関東軍の二つの師団から懇請旅団を一つずつ抜いて『関東軍察哈爾派遣兵団』をつくり参謀長の東條がその司令官を兼ねたことは歴史的な事実。防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書86巻 支那事変 陸軍作戦〈1〉-昭和十三年一月まで』朝雲出版社【第二章 北支事変の勃発と不拡大方針】に書かれている事実。--Miwa.SS 2010年3月17日 (水) 03:43 (UTC)
一部の資料に書かれているのは事実でしょうが、それが歴史的事実かどうかは別の問題です。
察哈爾派遣兵団の正式名称は何でしょうか?またそこに隷属する部隊の正式名称は?
軍の記録では、そのような部隊は存在してないようなのですが。--124.45.143.183 2010年3月17日 (水) 04:22 (UTC)

あの~どうしてそんな風に思うのですか?軍の記録も残っていますが?本多旅団(混成第二旅団)、篠原旅団(混成第十五旅団)が参加していますよ。そりゃ防衛研究所で一次資料の閲覧を請求しても篠原旅団の史料以外は、兵団本部や本多旅団の史料とも非公開だけど無いわけじゃないんだが?そもそも防衛庁の戦史叢書そのものが、戦闘詳報など旧軍の公式資料に基づいて書かれたもの。そして当時あったことは当時の毎日新聞にも東條の写真付で掲載されているんだが?関参電第287号アジア歴史資料センターRef:C04012568700[4]などね。公開されている電報資料も参謀次長電など一杯あるんだが?何より察哈爾派遣兵団の兵団長を務めていた当時の東條の愛用ツアイス社製カメラとそのカメラで撮った写真も多々あるんだけど?おまけにあんたの言うように、広島の第五師団が作戦参加したんで、広島師団史にも記録が残っているが?そうそう、東條を肯定的に扱う渡部昇一などもチャハル作戦と東条兵団は絶賛しているけどな。まあ、どうしても幻にしたいんなら東條兵団など幻であるという出典をお示しください。貴方個人の見解は独自研究に過ぎません。--Miwa.SS 2010年3月17日 (水) 07:13 (UTC)

本多旅団、篠原旅団はあったでしょうが、それは関東軍ではなく第2軍の指揮下ではないのか?と言っているんですよ。そうでなくては理屈が合わないから。本当に関東軍隷属の「東條兵団」なんてのが存在したのか?と。
正式に存在したならば正式名称があるはずで、司令官として記録も残っているはずですが見当たりません。
戦史叢書のこの部分はおそらく当時防衛研究所に所属していた秦郁彦氏が書いたもので、公文書でもありませんし間違いもあります。--124.45.143.183 2010年3月17日 (水) 07:46 (UTC)
だからそれは貴方の独自研究に過ぎません。ウィキペディアで主張したいんならちゃんとした出典を持ってきてください。--Miwa.SS 2010年3月17日 (水) 08:34 (UTC)

盧溝橋事件以降、北支で展開する関東軍の部隊は北支那方面軍に編入され、指揮は全て北支那方面軍が行っております。関東軍が北支での作戦の指揮を継続するということはありませんので、関東軍が指揮をしていたという戦史叢書の記述は明らかに誤りですね。そもそも参謀である東条には当初から指揮権はありませんし司令官を兼任するなどありえません。なぜこんな間違いが戦史叢書に書かれているのか不思議です。

いずれにしても北支那方面軍が8/31に正式に発足し、北支で展開する全ての部隊がそこに編入されてそこの指揮下に入っているので、9月以降の例えば陽高事件だとかは関東軍も東條も全く無関係な話です。

いずれにしても出典なき個人の独自研究は記載すべきではありません。多数の研究所に記載された出典のある記述を記載すべきです。貴方の意見は個人の意見の羅列にすぎない。色々書かれてもまったく出典が明示されていない。--Miwa.SS 2010年3月26日 (金) 23:50 (UTC)

中野正剛の自決[編集]

中野正剛の自決は本当に東條の差し金だったのでしょうか?後で飛び交った噂の一つにすぎないのではないでしょうか。『日本憲兵正史』の見方を加筆された方は、この本が中野の自決についてどのような書き方をしていたかお知らせください。保阪正康氏は『東條英機と天皇の時代 下』80頁で「東郷にも驚きだった」としています。26日からの第83回帝国議会に中野を登院させないようにするのが東條の望みであり、そのために都合のよい「自白」を憲兵隊の脅迫で引き出させたいとは思っても、自分の圧力で衆議院議員を自決させてしまうような事態は意図していなかったのではないでしょうか。--miya 2010年3月20日 (土) 03:37 (UTC)

加筆した者ではありませんが。『日本憲兵正史』は10ページ6000字ほどを使って中野正剛の自刃について記載しています。息子の利用に関しては「東条首相の厳命を受けたであろう東京憲兵隊長四方大佐が、この弱点を見遁すはずはない」(p.714上)と書かれており、あくまでも四方という人の判断で、その目的もあくまで自白強要であったようです。この本は、自刃の理由として、息子の安全と引き換えに憲兵に屈したことで「面目丸潰れであり、生涯最大の恥辱であったのではないだろうか」と考察しています。要するに、この本の見解は、自決そのものについては東条の指示・示唆では無いとしているようです。なお、この本はこの件で東条を厳しく非難しているように見受けられます。ついでにいえば、この本は全体としては憲兵制度にはよい面も多々あったことを解説することを目的としているようです。--Freetrashbox 2010年3月20日 (土) 07:23 (UTC)
加筆ありがとうございます。納得できました。ところで、なぜ・いつ頃から東條が特高や憲兵隊の重用(悪用?)に走ることになったのか、解説できれば百科事典らしい記述になるのではないかと感じました。--miya 2010年3月21日 (日) 08:39 (UTC)

このようなエピソードを書くのならば、中野がナチスを賛美する国粋主義で、実際にクーデターの前科のある右翼などとも接触していた事実も書くべきではないですか?東条や政府が異常で、中野はマトモであったかのようになってますが、そんなことはありません。--220.104.98.236 2010年3月25日 (木) 15:50 (UTC)

そんなの中野正剛に書けばいいだけの話じゃないですか。「東條が誰々にこうした」「誰々は東條こう評した」以上のことはその当該人のほうに書けばいいだけ。むしろ今の細川やら高松宮やらへの反論めいた記事こそ削除すればいい。当該人の項目はあるのだから。--Miwa.SS 2010年3月25日 (木) 23:36 (UTC)
中立とは言えない政敵による東条批判を載せるなら、批判している側の高松宮、細川、松前などらが、どういった政治的スタンスの人物かはある程度は示す必要があると考える。なぜなら歴史に全く関心の無い人間にも簡潔に公正中立な情報を提供しなくてはならないから。--61.115.66.85 2010年3月26日 (金) 16:01 (UTC)
その理屈なら東條の教官時代からの腹心の部下の赤松や富永についてもダラダラと書いてもいいことになりますな。リンクしてしまってクリックしてリンク先の記事を読めばいいだけじゃないですか。--Miwa.SS 2010年3月27日 (土) 00:42 (UTC)

「否定的な評価」と「肯定的な評価」[編集]

QQpowさんは「評価」を「否定的な評価」と「肯定的な評価」に分けられましたが、否定と肯定をきっちり分けるのは無理ではないでしょうか。中には徹頭徹尾批判的な人もいたでしょうが、概ねの人々は、勝っている間は称賛し、戦局が悪化するに従って批判するようになっていったのではないかと思います。--miya 2010年3月21日 (日) 08:39 (UTC)

否定と肯定という分け方が妥当かどうかわかりませんが、感情的な中傷に近い批判、中立的な論評、擁護や評価など、これらをごちゃ混ぜにしてしまうと、非常に読みにくくなるんではないでしょうか。徹底批判の文章の途中に評価の編集が割り込んだりして、わけがわからなくなると思うのですが。--QQpow 2010年3月21日 (日) 15:41 (UTC)
否定と肯定にわけ切れていないと思います。「政治姿勢に対する批判」「軍官僚としての実力」は「否定」の方に入っていますが、「軍官僚」としては肯定的な評価もあったのではないでしょうか?また「大東亜主義に対する姿勢」も否定的評価とは言い切れないものがあると思います。逆に「昭和天皇からの信任」にしても、手放しの肯定とは言い切れません。
少なくとも、東條がどう考えどう行動したか、と、それに対する他者からの評価を分けたほうがいいと思います。たとえば「敵対者・批判者への対応」に並んでいる懲罰召集の例は「評価」というより「悪評の原因」(中立的に言えば「東郷の姿勢」とか)と言った方が正確ではないかと思います。ですから記事の構成を、現在の「生涯+評価」から
  • 生涯
  • 姿勢(仮)
    1. 軍人・軍官僚としての姿勢
    2. 政治家としての姿勢
    3. 天皇に対しての姿勢
    4. 民衆に対しての姿勢
    5. 敵対者・批判者に対しての姿勢
    6. 大東亜主義に対しての姿勢(これが必要かどうかは要議論)
  • 評価
のように分けてはどうかと思います。--miya 2010年3月23日 (火) 07:05 (UTC)

姿勢といっても結局は人の評価を前提とした見方で、それを評価と分けられるでしょうか? 姿勢の項目が多くありますが、例えば他にも「日本人としての姿勢」「マスコミに対する姿勢」「裁判に対する姿勢」とか、評価を目的とした姿勢の解釈が無限に出てくるような気がしますが。 自分としては両論併記のためには、それをわかりやすく分類した方が読む人間にはわかりやすいと思います。 しかし、あなたが良いと思うなら良いと思う編集でやってください。 あなたはキャリアがあり偏向した人物ではない事は知ってますから、いちいち文句は言いません。--QQpow 2010年3月23日 (火) 13:41 (UTC)

たしかに「姿勢」と「評価」を分けるのは難しいかもしれません。もうちょっと考えます。なお、私も長い間、戦後に作りだされたステレオタイプな東條像にさして疑問を抱かずにいたので、他の人たちがネガティブな記述をしたい気持ちもわかるのです。でも、歴史の中で誰かを一方的に悪い、と決めつけるのは知性の敗北に等しいーその人物がそうふるまうようになった必然を出典を踏まえて解説できなければ百科事典の名に値しないーとも思います。--miya 2010年3月26日 (金) 04:11 (UTC)

略年表がほしくて過去版を読み返していたのですが、評価については[5]2006-06-18T11:17:56の版]にあるような「現在の一般的な評価」と「悪評の裏に隠れた意外な一面」の対比が原型になっているようですので、QQpowさんの切り分け方でよかった(というと変ないいかたですが)わけでしょう。小堀桂一郎氏のコメント、出典が分かったら復活させたい気がします。--miya 2010年4月3日 (土) 05:45 (UTC)

分割提案[編集]

東條英機の自殺未遂[編集]

使用した武器や未遂への反応が長々と並んでいますが、詳しすぎて記事内のバランスを崩しているように思えます。東條の生涯を通して他の出来事や行動と比較してみたとき、自殺未遂はそれほど(少なくともこれほどに筆を割くほど)重要なこととも思われません。東條英機の自殺未遂のような項目に分割して、親記事内では概要だけにとどめませんか?--miya 2010年3月23日 (火) 07:05 (UTC)

特に反対がなければ、明日にも東條英機の自殺未遂に分割させていただきます。--miya 2010年4月2日 (金) 02:12 (UTC)
分割準備として、段落を少し入れ替えてミニ小見出しを追加しました。9月11日に東條を陸軍省に招き、「杉山元帥、阿南陸相亡きあと・・・」という矛盾杉山元によれば元帥自決は9月12日とのこと)があったり出典不足があったりしたので、加筆なさった方は出典元をご確認いただければと思います。--miya 2010年4月3日 (土) 05:45 (UTC)

東條英機の自殺未遂に分割して、概要を残しました。「米軍MPによる銃撃説」については、他の書籍での言及を見つけられなかったのですが、ほかに検証可能な出典はもっとありませんか?日記と違って回想録は記憶違いの起きやすいものですから、回想録しか出典がないのであれば、その点は明記したほうがよいと思います。--miya 2010年4月6日 (火) 12:52 (UTC)

(追記)『昭和初年~10年代「週刊朝日」の昭和史』455-460ページに『科学朝日』記者・長谷川幸雄氏による「東条大正の自決を目撃す」という記事があり、之を信ずる限り「銃撃説」はなにかの間違いではないかと思われます。--miya 2010年4月7日 (水) 09:20 (UTC)

マスコミの東條に関する報道は、今も昔も全く信用できませんよ。死人に口無しなので遺書だの手記だの好き勝手に捏造された可能性が濃厚です。(直筆のものでも弁護士の言われるままに書かされた可能性が強い)。 本当に自殺なのならば、裁判で当然そのことに質問が行くはずです。検事側は裁判で自殺に関して全く質問していません。どう考えてもおかしいですよ。--QQpow 2010年4月7日 (水) 12:51 (UTC)

それからネットで指摘がありますが、東京(用賀)で自殺未遂した重体の人間を、ジープで横浜の病院に連れて行くというのもおかしいです。車で2時間以上かかるでしょうから(重光葵の手記では3時間20分かかっている)その間に出血多量で死んでしまいます。本当に怪我をしていたかすら疑問です。当時からだれもがおかしいと思っていたようですから、やはり日米当局の策略があったと自分は思います。--QQpow 2010年4月7日 (水) 15:39 (UTC)

敗戦後、東條家の人々は大変苦しい立場に立たされました。その苦境は東條の自殺未遂によって倍加し、生活は困窮し、さらに孫は学校で担任拒否されるほどのつらい目にもあっています。もし銃撃されたのが本当であれば世間の目もそこまで冷たくはならなかったでしょうし、銃撃によるものであれば、東條家にはそれを隠す理由はありません。また検事は訴追に益の無い質問はしないでしょう。それと「弁護士の言われるままに書かされた」とは、東條さんにも清瀬さんにも失礼過ぎるご発言だと思います。
東京では応急手当しかできなかったので、もっと進んだ設備のある横浜の病院に搬送したのでしょう。二次救急三次救急レベルの病院は終戦直後の東京にはなかったのではありませんか。
新聞記者のスクープが信じられないとおっしゃるなら、東京裁判で清瀬さんと一緒に東條を支え続けた赤松貞夫さんの『東條秘書官機密日誌』186-201頁をお読みください。--miya 2010年4月8日 (木) 01:51 (UTC)『東條家の母子草』61頁には担任拒否を「九月の新学期」とのみで日付がなく、自殺未遂以前の可能性があるので打ち消し線を入れました。--miya 2010年4月11日 (日) 05:11 (UTC)

東條英機の遺書[編集]

遺書に関する記述が長々と並んでいますが、詳しすぎて記事内のバランスを崩しているように思えます。東條の生涯を通して他の出来事や行動と比較してみたとき、遺書はそれほど(少なくともこれほどに筆を割くほど)重要なこととも思われません。偽書の疑いがあるならなおさらです。ウィキクォートに移すか、あるいは東條英機の遺書のような項目に分割して、親記事内では概要だけにとどめませんか?--miya 2010年3月23日 (火) 07:05 (UTC)

特に反対がなければ、明日にも東條英機の遺書に分割させていただきます。--miya 2010年4月2日 (金) 02:12 (UTC)

どうぞおやり下さい。ただ、米軍銃撃説と遺書偽造説は記載したいのですが。遺書は直筆の物も逮捕後に書かれたもののようで、東条も了承の上で捏造された疑いが濃厚です。まあお任せします。--QQpow 2010年4月2日 (金) 08:26 (UTC)

遺書本文は分割して要約のみとしました。記事名は見出しが「遺言」だったので、すこし迷って東條英機の遺言としました。
ところで遺書偽造説ですが、「中央公論5月号に・・・」のくだりに疑問があります。加筆された方は本当に中央公論昭和27年5月号を直接ご確認になったのでしょうか。たとえば本当に「A・ホープライト」という名前だったのでしょうか。もし誰かの著書からの孫引きであれば、その点をはっきり書いていただいた方がいいです。--miya 2010年4月3日 (土) 05:45 (UTC)
『昭和良識派の研究』保阪正康 光人社FN文庫 56頁--Miwa.SS 2010年4月3日 (土) 12:58 (UTC)
出典をありがとうございます。「A・ホープライト」という表記は保阪さんのものだったのですね?NDL雑誌検索では E.ホーライトとなっていたので、本当は「アーネスト(Ernest)・ホーライト」じゃないかと思います。--miya 2010年4月3日 (土) 22:40 (UTC)

東條英機と東京裁判[編集]

東條英機に関しては、東京裁判こそ特筆すべきではないかと思いますが、今は東條がこの裁判をどう戦ったか、彼が何を守ろうとしたか、すら書かれていません。簡潔に書ける方がいらっしゃいましたら、加筆をお願いしたく思います。--miya 2010年3月23日 (火) 07:05 (UTC)

資料再考の提案[編集]

出典資料にネットからの二次引用と見られ編集者が原本を当たっていないものが多すぎるような気がします。一定期間置いた後にページ数まで出せないものは全て削除してはどうでしょうか?--Miwa.SS 2010年3月29日 (月) 23:39 (UTC)

東條首相罵倒事件[編集]

この項目に要出典タグを貼らせていただきました。これは別にこれが間違いだという指摘ではありません。ただ、こっちが出典付で書いているところに出典も無く他者が追記され、後に、その部分も含め出典を再度求められ、結果コメントアウトやら削除やらをということをmiya氏がおこなわれているので(西村大将のゴミ箱批判など)、追記者不明な場合はともかく今回はQQpow氏が追記したのは明白なので、この部分への出典の追記を求めます。--Miwa.SS 2010年4月11日 (日) 22:53 (UTC)

Miwa.SSさんが出典付きでお書きになった部分を削ってしまったのであればお詫びします。具体的にご指摘いただければ幸いです。そういう箇所につきましては本当は私の方でチェックすべきなのですが、履歴が膨大で把握しきれませんので、
なお「西村大将のゴミ箱批判」はMiwa.SSさんの加筆によるものでしょうか。外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍編』(扶桑書房、1993年)の西尾寿造の項(184頁)にはゴミ箱批判も東條の怒りも載っていませんでした。もしかして他の出典をご覧になったのではありませんか。あるいは外山操編以外の陸海軍将官人事総覧だったのでしょうか。--miya 2010年4月22日 (木) 12:18 (UTC)

東條英機の兄弟について[編集]

本項目及び東條英教では、夭折した兄2人以外に兄弟は英機一人のような記述になっていますが、長年疑念に思っていたことに文献によっては、実際は弟は何人かいたという記述があります。英機の後に初枝、寿(ひさし)、次枝、富士男、規矩郎、質雄、と生まれたとありますが、そのうちに寿は航空技術者として川崎航空機で活躍したという話があるのですが、終戦直後の新聞記事にひとりは大阪でホームレス(当時の用語ではありませんが)になっており、もうひとりは刑事犯として検挙されたという記事があります。ネット上では「詐欺的な誤報」とするのもありますが、実際のとことは弟はいたのでしょうか?少なくとも東條寿は東條英機から遺言書を渡されるなど、それなりの交流があったようですが。--Carpkazu 2010年4月20日 (火) 15:03 (UTC)

孫の著書にある家系図

孫に当たる東條由布子さんの著書『東條家の母子草』に家系図があり、そこに弟、妹の名前が書いてありました。系図についてはこの方の著書を出典とすればよいのではないでしょうか。--miya 2010年5月10日 (月) 00:18 (UTC)

甥山田玉哉の証言

上法快男『東京裁判と東條英機』(芙蓉書房、1983)178-194頁に「山田玉哉の証言(東條英機の甥・元陸軍中佐)」という節があります。玉哉は182ページで、弟はたくさんいた、「努力勤勉もほどほどな弟」を「皆仕様がない奴だ」などとしてあまり相手にせず、出入り差し止めになった者もいた、弟たちの方でも敬遠していた(玉哉自身も東條が苦手だった)などとしています。このほか、長男英隆の父への反発、いかに公私混交を嫌っていたか、女中の手を握って殴られた話、東條のメモ魔ぶり、組閣の時「内地における熟知の政界人は少なかったため」かつての部下たちを呼び寄せたことなども玉哉の証言には書かれています。--miya 2010年5月10日 (月) 00:18 (UTC)

反東條派の人物に対する疑念[編集]

「反東條派の人物に対する疑念」のセクションで何を説明したいのかよくわかりません。「反東條派の人物」にも非難されるべき点があったと指摘したいわけでしょうか?--miya 2010年5月1日 (土) 23:25 (UTC)

多数の人は「細川日記」「木戸日記」「高松宮日記」「近衛日記」と「昭和天皇独白録」あたりでほぼ全ての情報だと判断し結論を下してしまいますが、これらは公正中立な情報ではありません(そのことを言いたい)。そんなことわかってると言うかも知れませんが、歴史に特に興味の無い殆どの人はわかっていませんし扇動されてしまいます。百科事典は歴史に興味の無い人を考慮して、それらが扇動されない両論併記が不可欠です。でなくては戦前の大本営発の記事と同じになってしまいます。もし記事が米軍兵が鬼畜だという話のオンパレードならば、日本兵の鬼畜の話も紹介する必要があると考えます。指摘の部分は後ほど検証、修正等します。--QQpow 2010年5月2日 (日) 05:19 (UTC)
個人のブログのパクリはやめましょう。検索でもして、ここから[6]、引っ張ってきたんでしょ。抜粋部分が全く同じ。貴方個人の自説に都合のいい部分だけを抜き取っただけでしょ。どうせ保阪正康の『忘却された視点』も読んでいない。他の貴方の書いたものも同じなんじゃないの?だから紹介している著書にページが全く書かれていないんじゃない?--219.162.248.97 2010年5月3日 (月) 00:53 (UTC)

松前重義[編集]

松前重義についてQQpow さんは「松前重義は東条内閣を批判したため懲罰召集されたと自らの書籍で書いている」(差分)と編集なさいましたが、「自らの書籍」とはどの書籍のことでしょうか。少なくとも「二等兵記」では「批判したため」というようなに単純な理由ではなかったですが。技術畑の松前を「宮中グループ」でくくるのも疑問です。--miya 2010年5月1日 (土) 23:25 (UTC)

『忘却された視点』から引用するならば、「東条の報復」であるということを「裏付ける正確な資料はない」が「確かに陸軍の人事当局はこのとき無謀なことをしている」まで書かないと論旨がゆがみます。また「少々自分に都合のいいようにできすぎている」の対象は「大東亜戦争に反対し……」などの言い回しであって、懲罰招集ではありません。--miya 2010年5月3日 (月) 08:44 (UTC)
では再度見直します。しかしその前の「敵対者・批判者への対応」の項目を見て欲しいのですが、「敵対者を召集して激戦地に赴任させるというやりかたも東條特有の方法で・・・」の後、色んな書籍の切り張りで構成されています。見出しが「(東條による)敵対者・批判者への対応」となっているため、以下にに出てくる引用は全て東條が召集したと思わせるよう誘導する記事に仕立てられています。こちらも問題では?--QQpow 2010年5月3日 (月) 10:54 (UTC)
たしかに「東條特有の方法で」という断定は微妙です。こういうことが「あったと考えられている」とするほうがNPOVかもしれません。竹槍事件と松前重義の件は偶然の一致では済まされない経緯がありますが、どこまで東條の意思だったのかについてはこれを「裏付ける正確な資料はない」わけですね。それにしても、黒幕云々は無い方がよいと思います(この一文のせいでこの段落全部が胡散臭く感じられます)。
ところで「自伝で語っている」と書いておられますが、「二等兵記」は実際にお読みになられましたか?『松前重義著作集 二等兵記』のほか『現代日本記録全集 22 戦火の中で』にも収録されています。--miya 2010年5月3日 (月) 22:56 (UTC)
懲罰召集に関する記載のある最古の書籍で自分が確認できたのは「昭和快人録」で1964年です(子供向けの書籍っぽい)。「二等兵記」は1968年。いづれも冨永氏の死んだ1960年より後です。新名氏は1960年以降に戦争に関する書籍を多く出してるようですが、肝心の新名の書籍には「自分は東条によって懲罰召集されたと」言うような発言は一切無いようです。明確に「東条による召集」だと書いてる書籍は、子供向け?の「昭和快人録」の中で香川大尉の証言として書かれているものしか無いようです。--QQpow 2010年5月4日 (火) 12:22 (UTC)
松前の召集に言及している『細川日記』と『高松宮日記 第7巻』は1960年以降の刊行ですが、これらの日記の原本が戦時中に書かれたものであることは信頼してよいのではないでしょうか。なお「二等兵記」の初出は昭和25年のはずです。NACSIS Webcatで「タイトル=二等兵記」「出版年=1950」で検索してみてください。
東京12チャンネル編『証言 4 私の昭和史』「竹槍事件ー懲罰召集された新聞記者ー」のインタビュー記録で新名氏は「東条大将に反抗すれば、指名召集が来るということは、もう予期されていました」「私は懲罰召集をくう。殺されるだろう」と発言していますし、その場に大本営報道部長の栗原悦蔵も同席していて新名の発言を裏付けています。この記事の参考文献案内に挙げられている本『新聞に終始して』(奥村信太郎、昭和23)、『新聞太平記』(御手洗辰雄、昭和27)、『政治』(新名丈夫、昭和31)にも載っているかもしれません。「指名召集」がどのような形でどれくらい行われていたか調べれば、もっと正確なことが分かるかもしれません。--miya 2010年5月6日 (木) 03:12 (UTC)

Miya氏は「本来召集対象外の」の一文を「←その直前に上限は45歳に引き上げられている」としてコメントアウトしていますが、文意を読むに、本来召集対象外の松前を召集する為に、召集上限を45歳に引き上げ、その結果、召集されるはずもなかった40過ぎの老兵が召集されバシー海峡に沈むことになったというものでは?だから多くの書籍で松前召集の結果、対象外だったはずの老兵が召集されバシー海峡に沈んだと書かれているのでは?--Miwa.SS 2010年5月6日 (木) 01:37 (UTC)

上限年齢引き上げが松前氏召集のため、というのはあり得ない話ではないかもしれませんが、新兵対象者不足もまたありうる話ではないでしょうか。「本来」という曖昧な言葉ではなく「○○○○直前の○年○月までは召集対象外だった40代前半」のような書き方なら事実に即していると思います。ただ『細川日記』には「無理なる召集をしたるもの七十二人に及べりと。」(310頁)と書いてあります。現在の「老兵数百人」というのは額田坦回想録からからきた数字しょうか?確認したいのでページ数をお知らせください(この回想録は記憶違いが混じっているようなので単体では出典にしないほうが無難じゃないかと思います)。--miya 2010年5月6日 (木) 03:12 (UTC)
額田坦回想録は166~167ページ。老兵数百人は『現代史の争点』243ページ。他に『歴代陸軍大将全覧 昭和篇/満州事変・支那事変期』206ページ等。--Miwa.SS 2010年5月6日 (木) 03:37 (UTC)
召集の年齢を定めた兵役法の改正は、帝国議会の承認を得て改正してるわけで(40歳→45歳)、東条が勝手に改正できるものではない。--61.115.82.224 2010年5月6日 (木) 05:33 (UTC)
『現代史の争点』を見ましたが、秦さんは出典を挙げておられませんから検証できませんが、「老兵数百人」は秦さんの記憶違いじゃないでしょうか。「二等兵記」には熊本第22部隊について「私どもの隊は約百名足らずで」とあります(ついでに言うと、ほとんどの兵は三十二、三歳まで)。額田坦回想録と歴代陸軍大将全覧には松前に触れていますが部隊の人数は書いてないですね。--miya 2010年5月7日 (金) 15:10 (UTC)
松前の隊はそりゃ無事に到着したんだからバシー海峡には沈まないでしょう。バシー海峡で万単位の多数の将兵が海に沈んだのも事実でしょう。おそらく秦は、松前召集に前後して召集された40代をもって、バシー海峡に数百と書いたんではないですか。まあ、この件は手持ちに数冊はまだありますから時間が取れたら調べましょう。--Miwa.SS 2010年5月8日 (土) 00:19 (UTC)

高松宮[編集]

高松宮についてQQpow さんは「高松宮宣仁親王は松前と政治的に近い反東條派で、松前と同じ主張を手記で書いてる」(差分)と編集なさいましたが、「同じ主張」とは具体的にはどういうことでしょうか。「手記」とはどの書籍のことでしょうか。もし『高松宮日記』であれば、どの巻の何年何月にあるのでしょうか。--miya 2010年5月1日 (土) 23:25 (UTC)

開戦から戦争前半[編集]

東條英機#開戦の経緯と謎ですが、ハルノートへの疑問を東條の生涯に置く必要が見えません。むしろ

  • 「#戦争回避の努力」 - 東條の首相就任直後に始まる必死の戦争回避努力と、それをはばむ参謀本部や軍令部の動き(特に首相や外相にも開戦予定の詳しい情報を知らせないという信じがたい独自性)、主戦論を煽る新聞と国民の動き、
  • 「#開戦」 - 開戦し戦果が上がったとき、新聞、国民、軍部がどんな反応を示したか(欣喜雀躍、もっとやれ!的な)
  • 「#戦争初期」 - 中国と南方の戦局はどう展開したか(それに東條はどの程度かかわったか)および、気を良くして総力戦への備えが遅れたこと

という形で加筆してはどうかと思います。--miya 2010年5月11日 (火) 12:20 (UTC)

お任せします。あまりにも一方的でなければいいのです。開戦の経緯は新規ページが必要だと思いますがそれは後にします。--QQpow 2010年5月12日 (水) 00:29 (UTC)

翼賛選挙と言論統制、憲兵政治[編集]

生涯の下に「#翼賛選挙と言論統制、憲兵政治」という節を作り、ここで戦時内閣の国論統一努力を解説し、同時に竹槍事件(1944年)、松前の召集(1944年)、中野正剛の自決に言及してはどうでしょう。--miya 2010年5月11日 (火) 12:20 (UTC)

どいぞやってください。編集合戦になるかも知れませんが、それは又その時です。--QQpow 2010年5月12日 (水) 01:10 (UTC)

脚注33でエラー[編集]

本文記事の脚注の33でエラー出ています。これは、当該部分のrefを削除すればいいのでしょうか? --Herohero2 2010年5月17日 (月) 01:19 (UTC)

修正しました。--miya 2010年7月7日 (水) 00:26 (UTC)

昭和から西暦への置き換え提案[編集]

現在昭和~年で書かれているものを西暦~年に変更することを提案します。 文中で張られているリンクや関連項目はほとんど西暦表示であり、比較しながら見ようとすると大変見づらくなっているのが提案の理由です。--121.114.146.197 2010年7月6日 (火) 15:24 (UTC)

日本近代史に関しては、和暦併記の方が分かりやすい場合も多いと思いますので、西暦のみへの変更には反対です。ただし片方だけ(しかもばらばら)だと見づらいのは確かなので、とりあえず片方だけの部分を併記に修正すべきではあるでしょう。トップが「明治17 年(1884 年)」だったのでそれに合わせて西暦を括弧に入れてはどうかと思いますが、この順序については固執しません。--miya 2010年7月7日 (水) 00:26 (UTC)

関東軍参謀長の項目について[編集]

東條英機#関東軍参謀長の項で綏遠事件について触れていますが、これは日中戦争開戦前の1936年の事件です。 本文にもあるように東條が参謀長になったのは1937年で、 36年当時は関東憲兵隊司令官です。 東條がこの事件に関わったかはともかく、この表記は明らかな間違いですので修正すべきだと思うのですが。

例えば上の陸軍入隊の一部と合わせて、関東軍時代の表記に改める等したらどうでしょうか。 --123.224.87.87 2010年8月3日 (火) 15:20 (UTC)

コメント依頼のお報せ[編集]

Wikipedia:コメント依頼/Dosok-3 他IP において、当記事及びノートで各種の編集を行った QQpow124.45.144.116220.213.8.18124.45.154.111222.7.234.72124.45.121.91124.44.49.125118.6.162.44220.104.84.4361.115.66.85115.65.21.14961.45.54.113220.213.15.212、 以上のユーザーの多くと同一と見られるユーザーの編集姿勢に対するコメントを募集しております。公平かつ広く意見を募るため、当時の状況を知る多くの方々のコメントが必要となっております。お忙しい所恐縮ですが、よろしくお願い申し上げます。また同時に、他のページで被依頼者のものである可能性のある編集等をご存じの方には、適切な措置をお願い致したく存じます。--119.30.214.216 2010年9月13日 (月) 04:06 (UTC)ログインを行わずに編集してしまいました。上記IP書き込みは私の書き込みに相違ありません。失礼致しました。--Hman 2010年9月13日 (月) 08:57 (UTC)

上記コメント依頼ですが、残念ながら被依頼者との折り合いが付かず、投稿ブロックという段階に至ることとなりました。議論場所はWikipedia:投稿ブロック依頼/Dosok-3 他IPでございます。お忙しい中恐縮でございますが、引き続き皆様のご意見を頂戴致したく存じます。よろしくお願い致します。--Hman 2010年9月19日 (日) 18:07 (UTC)
上記ブロック依頼が被依頼者の一部アカウントのブロックと言う事で落着致しました事を、ご報告申し上げます。大変お騒がせ致しました。--Hman 2010年10月5日 (火) 07:24 (UTC)