ノート:斎藤利治

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本文中唯一の出典の信長公記の記述を削除するのは、おやめください。--Sabkakusikaku 2009年4月5日 (日) 03:19 (UTC)[返信]

であれば、わざわざ分離せずに本文に繰り込んでください。特記する必然性がありません。--丁度氷 2009年4月5日 (日) 03:22 (UTC)[返信]
  • いずれにしろこれは「斎藤利治の記事」であって、ここで編集合戦になるくらいならお互いのノートで話し合ってからにしてください。そうでなければ記事は削除で。--Miyazakimango 2009年4月5日 (日) 03:26 (UTC)[返信]

こちらは、履歴を追跡削除されているもので、すべて出典が担保されているものです。先方の会話ページにも投稿したのですが・・・--Sabkakusikaku 2009年4月5日 (日) 03:30 (UTC)[返信]

本文の履歴に「月岡野の戦いの出典を削除しないでください。」とありますが、そういう意図であれば月岡野の戦いに出典を書いてください。斎藤利治で特記する必要がありません。--丁度氷 2009年4月5日 (日) 04:16 (UTC)[返信]

「斉藤新五という名前も重要である。」というのなら、せめて名前ぐらい正しく書いてください。>Sabkakusikaku氏
「斉」と「斎」は全くの別字です。--丁度氷 2009年4月5日 (日) 11:34 (UTC)[返信]


すみません、無知なもので教えて欲しいのですが、「織田信長家臣人名辞典」ISBN 978-4642027434によると、名が「新五郎」と登録されていて、「長竜という諱が伝わるが、信用の限りではない。竜福寺文書には斎藤新□□、利□」とある」(□は欠落)と書かれているんですが、(この本の「新五郎」も何が出典なのかも書いてないのでわからないのですが)現在の「新五郎」は仮名で、「利治」が正しい諱である、というのは何が出典となっているのでしょうか?また同じく生年についても出典は何が元となっているのでしょうか?詳しい方がいましたら補記をお願いします。--ポテンシャル0 2009年10月18日 (日) 18:52 (UTC)[返信]

出典の検証による除去、修正[編集]

主な点は以下の通りです。

  • 織田信忠の筆頭家老であるという記述がありましたが、そのように書かれている出典が確認できませんでしたので、修正・除去します。
  • 「斎藤道三の婿である織田信長は、道三死後、近親の者に斎藤家を取り立てようとし、美濃国譲状を道三に託されて渡した利治を家臣として取り立て、美濃の要所である加治田城主とした」とあったのは、出典の『富加町史』の推測であっため、除去します。「のちに利治は美濃国の大半の領土を治めた」とあったのは、美濃は信長、次いで信忠が支配し、西美濃には西美濃三人衆(四人衆)の領地もあるなど、事実に反するので除去します。
  • 「信長や信忠の感状と手紙が多々残っている」とあったのは、出典の『富加町史』には合わせて4通が載っているのみで、特記するほどのこともないと思われますので除去します。
  • 「武勇・知略・伝統芸・文化に長けていた。これは幼少の頃より父道三の学を身につけたこと(長良川の戦いも敗れる直前まで道三と共にいた)、信長と歳も近くその学や思想を互いに学び取ったこと、更に平井信正より学んだことや佐藤忠能の養子となったこと、加治田衆との関係も大きい」とありましたが、出典の『富加町史』の該当部分にはそのような記述は全くなく独自研究に当たるので除去します。
  • 「織田家の一門衆として、信長や信忠からの信頼は絶大であった。これは武将としての才覚に加え、信長の正室・濃姫との血縁、土岐氏一族と譜代家臣、縁故の明智光秀、姉が嫁いでいる姉小路頼鋼など、美濃国での地縁的な結びつきの強さや、信長が斎藤家本家(頭領)を利治に継がせていた事も大きい」とあったのは、出典がなく独自研究と思われますので、除去します。
  • 「織田家に利治がいることにより、美濃国衆(西美濃三人衆・加治田衆・道三からの譜代の家臣や国人衆など)を味方にすることに影響を与えた」とあったのは、出典に挙げられていた 『備藩国臣古証文』や信長の書状からは全く読み取れない独自研究なので除去します。
  • 「信忠近衛軍・美濃衆旗頭・織田・斎藤の一門衆として独立軍団長(信長勅命)として軍を率いた」とありましたが、出典の『富加町史』にそのようなことは書かれておらず、利治を軍団長とした他の出典も見たことがありませんので、除去します。
  • 「飛騨国大名・姉小路頼綱は道三の娘を妻にしており、利治とは美濃国と飛騨国が隣接していることもあり信頼関係であったという。月岡野の戦いの時においても、飛騨国を通り北陸へ向かい、姉小路氏や三木氏の支援を受けている」とありましたが、出典の『富加町史』にそのような記述はなかったので除去します。
  • 「利治が本能寺の変で討ち死後、加治田城の留守居役の兄利堯はすぐさま岐阜城を乗っ取り、一時美濃国主になったことは、光秀や利三、美濃国衆、姉小路頼鋼や六角義郷(伊勢息女の母)など、他に多々繋がりがあったからだと言える。姉小路頼綱も同様、本能寺の変後に飛騨国を完全に統一したことも深い繋がりが考えられる」

とあったのは、出典の『富加町史』にそのような記述はなく独自研究と思われますので、除去します。

  • 「本能寺の変では信長、信忠と共に一門衆・側近として行動し、信忠と共に妙覚寺にて宿をとっている。明智光秀は閲兵を望むので軍を本能寺に向ける旨を知らせ、信長もそれを承諾したため警戒していなかった。また、中国遠征軍として美濃国人衆、元美濃三人衆や加治田衆はまだ岐阜を発っておらず、利治の軍は後日、閲兵で合流予定であった」とありましたが、これは出典として挙げられている主に複数の一次資料による情報の合成であり、また内容的に人物の節に載せるようなものでもないので除去します。
  • 主な家臣・与力の節で、加治田衆はともかく、他の美濃衆や西美濃三人衆が利治の家臣や与力になったという出典はないので、除去します。

--立花左近 2012年1月22日 (日) 14:47 (UTC)[返信]