ノート:市原則之

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中東寄りの笛が吹かれるようになったのは、1994年広島アジア大会から。シェイク・アーマドが亡くなった父親の後を世襲する形でアジアハンドボール連盟(AHF)とアジアオリンピック評議会の会長になり、そこから雲行きが怪しくなったという。クウェート人は小柄なため、浮上したのがハンドボール。欧州では絶大な人気を誇っていることもあり強化が始まった。当初は日韓とは大きな実力差があったが、強化が進んで実力が向上したあたりから、クウェートの息がかかった審判が担当し始めた。それだけでなく各国の実力者に対しても画策があり、市原にも何度も“悪魔の囁き”があったという。この度のアジア予選やり直しは、市原を始め協会役員の様々な外交努力の成果だが、現在国際ハンドボール連盟(IHF)の会長は、2000年にAHFが支持して選出されたエジプトハッサン=ムスタファのため、AHFに断固たる処置が取れず今日に至っている。またこれまで中東の笛をもろともせず勝ってきた韓国が堪忍袋の緒が切れ、IHF加盟組織159カ国・地域に不正を示す証拠となるDVDを送ったのも、やり直しの切っ掛けを作ったという[1]

降って湧いたような2007年暮れから“ハンドボールバブル“で、競技普及のチャンスを生かせるか、選手ともども統括者としての手腕も問われる。

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  1. ^ Sports Graphic Number 文藝春秋社 2008年2月7日号 p9。