ノート:宇治市立東宇治中学校

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書き換えは、各Wikipedianの責任だとは言え、精華町と言われても・・・[編集]

沿革の章(見出し)の部分で、原資料として、 精華町史編纂委員会『精華町史(本文編)』797頁,1996年が注記されていますが、精華町宇治市に隣接しておらず、宇治市立図書館にも、精華町史一般図書としての所蔵も無く、大学図書館から取り寄せれば、閲覧に制限も受けるし、加筆補綴原稿の制作に困っています。 当時の、新制中学新制高校整備に対しての教育界のある種の情熱とか、小学校教育に対する「『教科書を教える』から、『教科書で教える』へ」と言う大変革は、様々な書籍・史料を見ると載っていますが…なんで、精華町史なんでしょう?
なんとか、完成度を上げるためにも、宇治市歴史資料館の資料を援用して、増補改訂しようとしたのですが…バサっと削除と言うのは、諸先輩には、篤い想いや、筋道が有ったと思いますので、此処で一旦お尋ねします。
あたしは、宇治市史と、Webページ、宇治市歴史資料館資料程度でも、沿革の章(見出し)の記載は有る程度完成度を上げ得ると思っているのですが(『旧帝国陸軍省・芝東借り上げ地』などは、結局、(犯罪捜査並みのレベルまで突き詰めれば)正確な話は判りません。勿論、独自研究を載せないため、個人的に知る関係者の証言や、未評価の個人的な資料は採用しないからでも有りますが…)…皆様のご意見、情報を求めます。--みぃにゃん会話2013年2月20日 (水) 04:11 (UTC)[返信]

その部分が加筆されたのは2011年10月15日(差分)ですが、加筆したユーザーは20日程前の9月25〜26日に同一資料を用いて精華町関連の記事を編集しています(履歴)。偶然見かけた記述をもとに当記事にも加筆した、と見るのが自然だと思いますので、出典の差し替えや加筆・書き換えは問題ないと考えます。--Tkmkz会話 2013年2月20日 (水) 04:44 (UTC)[返信]
初版執筆者です。この度は加筆を検討していただいているようで、ありがとうございます。精華町史を出典として使用している理由ですが、Tkmkzさんが言われている通りです。戦後に新制中学校が設立された教育改革は全国的に行われたものであるため、全国にある多くの自治体史にその記述が見られます。
宇治市史にその記述があるかどうかは未確認の状態ですので、私の手元に資料がある自治体史として、より近隣の久御山町史を出典として加えさせていただきました。久御山町史なら宇治市の図書館にある可能性が高いため、加筆の資料としてぜひご活用ください。不親切な出典を使用して申し訳ありません。
また、教育関連の資料をお持ちであれば、自治体史よりもそちらの方が出典としてベターであるため、必要に応じて自由に加筆・改変をしていただいて構いません。何かご質問がございましたらこのノート、または私の会話ページに宜しくお願いいたします。--Crown user会話2013年2月20日 (水) 09:50 (UTC)[返信]

コメント字下げを戻します)Tkmkzさま、Crown userさま、平日にも拘らず、迅速で丁寧なお返事ありがとう御座います。こちらこそ、我侭を書いて、申し訳有りません。 また、Crown userさま、『早速に、最寄り駅の加筆補綴!』どうやって褒めようかと、困ってしまうほどです。改めて、此処で、敬意とお礼を申し上げます。
さて、わたしは、宇治市民には違いないが…宇治市の教育関係者や、東宇治中卒業生では無いので、ご指摘のような、教育関係の特別な資料に触れる立場では有りません。わたしが、東宇治中の#沿革の項目(見出し)を『加筆補綴して、少しでも完成度を上げたい。』また、『少し位なら、良い方向で編集できそうだ』と思った理由は、先に、宇治黄檗学園の記事を読んで、整合性を取りたいという想いと、加筆補綴の目星として、宇治市歴史資料館が、収蔵品整理を本格化し、報告書を出し始めて数年…近代史=現代史に当たるものまで、一応、刊行されてきた。 →『公刊されたなら、特別な手続きや、理由は無くても閲覧や、複写は、出来るであろう。』 → 『それを見た後なら、大学の卒論等では無くても、更に原資料も閲覧出来る可能性も幾分は有る。』と言う事です。
(東宇治中学校の原稿に役立ちそうか?)わたしは、今迄に、木幡池旧大日本帝国陸軍:大阪造兵廠・火薬製造所(宇治火薬製造所及び、枚方禁野火薬庫)、および、宇治火薬庫について、『(もし出来たら程度だが)何らかの公表の機会か、Wikipediaの立項が出来たら良いなあ』と思って、暇な時に調べて来た資料の副産物が東宇治中学校の原稿に役立ちそうで、追加の調査や、原稿を書くための時間は必要だが、具体的には下記のとおりです。
わたしの、下書き中の原稿で気が付いたポイントと困っている点を、先に書きます。『(ノートを活用して)項目の記事(原稿)には書けない。→著作権や、プライバシーの問題は無いが、原資料が独自研究の範疇になりがちな問題の有るもの』を、問題ない範囲で出来るだけ解り易く箇条書きにします。

  1. 沿革の続き※より新しい部分※は、概ね、1980年代まで書けそうだ。→近年になるほど、Web上に記録が有り、1980年代までなら、宇治市史や、既に(過去の)記録になって、公開されたり、宇治市中央図書館の行政資料室・参考資料室などで、閲覧可能なもので摺り合せも可能であり、まさか、全部摺り合せなくても、地元民・地域住民・宇治市民として、既知と言い切れるものなら、複数のsauceが一致、或いは、内容が対立し、並立しない資料が無ければ原稿は書ける。
  2. その際に、公的Webや、公刊資料から、直截書ける事柄が注釈明示可能だ。※全部注釈明示は無理だか、典拠(参考文献)は載せられるし、既に一部の重要資料は典拠として明示済みだから、宇治市史や、公刊資料(規模的にミニコミだが、曲がりなりにも報道機関である、城南新報や、洛南タイムズや、資料館の刊行物、宇治市図書館の郷土資料=※『使えないものの方が多い』のは、上記『旧軍関係の調べ』で経験済み、(学校関係では、水害の避難記録とかが多い)※)を補遺出来る
  3. 創立=由緒の加筆補綴※完成度を上げる※には、問題が有る。複数の公的資料が、旧帝国陸軍:芝東借り上げ地と、宇治小の余った(或いは余らせた)教室を用いて、(義務教育である)新制中学校を何とか生徒収容可能なだけ確保した。ことを示しているが、立場の『左寄り・右寄り』を問わず、旧帝国陸軍芝東借上げ地の事は、あやふやな記録と発表が多く、※具体例を挙げると※『宇治病院関連資料や、宮前農場と、開拓団(主に、軍関係者が、戦後、軍用地の一部で、帰農を試みた)の記録や証言と、公的資料や、定説?が一致しない。』
    このため、
    (1)有る程度の検証が出来たこと(根拠明示可能な推察)は、それに沿って、大言壮語しない様に書く。
    (2)一方側が公的資料で、尚且つ内部矛盾が無い場合で、相手側が、個人的記録や、根拠が不明の場合は、『公的資料で、尚且つ内部矛盾が無い側』に沿って記述する。
    ・したがって、この由緒・創設期の部分は、それほど現在の記事と内容は変わらない。今よりは、若干、明確な文章に換えられる
  4. 旧軍関係との疑問や、不一致、あやふやなどの、問題点(解かり易い例)として、宇治に駐ちゅうさつしていた高級将校:宮前少将(事実上の退役後、戦後正式な退役迄の名目的昇進の可能性有り)が、少なくとも軍医大佐だったと言う、かなり信憑性の有る証言。→※しかし、『宮前元少将さんに付随する記述・証憑が、必ずしも公的記録と一致しない。』など、矛盾も多い。→※ただ、最近、死ぬまでに記録・論述されていた高齢者の証言・手記・経験談が、御本人逝去と共に、一部は資料館等に採り上げられたのか?お墓の調査(無縁墓整理も兼ねる)記録などと共に、公的資料にも取り入れられたものもあり、この場合は採用し得る。(これも、東宇治中学校に役立つものは稀まれ)
  5. 後は、既に加筆されてしまっているが、アクセスや、近隣の事には、多少の整理加筆は出来る。
  • 以上から、今よりは、多少ともましにはなると思って、問い合わせと、書き換え(主に補綴)提案をしました。
    stubを取れるか否かは、解りません。只、放置するよりは良いだろうと思います。

(付記したい事)わたしは、Wiktionaryかも【カモ・鴨・鳬・賀茂・加茂・鹿毛・かも】と、郵便の国際史部分の増補改訂原稿、京都市左京区の霊鑑寺(尼門跡寺院)の原稿制作をしているので、それと併せつつ、無理しない範囲での執筆となると思います。それ以外は、個人利用者:みぃにゃんに書いている通りです。--みぃにゃん会話2013年2月20日 (水) 17:19 (UTC)[返信]