ノート:宇佐美定満

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宇佐美貞満(生誕年不詳―1564) 貞満の死は長尾政景と舟遊びちゅうに溺死したとあるが政景に謀反の疑いがあり主君謙信に忠臣の心がおおかった貞満がわざと船を揺らし自ら死んだという説もある。遺書にこの仕業が謙信の指示と思われると困るため自らの居城を落としてくれと記していたらしい。

記事改訂[編集]

定行関連の記事はほぼ高橋修氏の研究の丸写しです。出典不明な記事・脚注は排除しました。出来るだけスリムな記事を目指したつもりですが、お気づきの点があればご意見願います。--Karifu seito会話2018年9月17日 (月) 12:06 (UTC)[返信]

定満と定行を分離する(というか、『北越軍記』について加筆するということでしょうが)のはもっともだと思うのですが、本記事の主題が宇佐美定満であること、定満の名は一次史料で確認できるとのこと、定行は『北越軍記』にだけ事績等があり創作されたものという結論ならば、並列させる必要性がないように思います。本記事を定満としてまとめ、『北越軍記』の定行について別節で説明する方がいいのではないでしょうか。言葉で説明するより差分を見てもらった方がいいと思うので、出典タグ等の修正も含めて、やって見せます。--Quark Logo会話2018年9月17日 (月) 12:35 (UTC)[返信]
  • 言葉足らずのようでしたので、改めて説明をさせて頂いたうえで差し戻しを致します。(1)要点は一次史料における宇佐美駿河守(定満)と二次史料における宇佐美駿河守(定行)の事跡の分離にあります。両者を同一視、あるいは定満をモデルに定行が創出された、といった記述は書籍・ネット上でも散見されており、両者は不可分の関係にあります。一方史学研究において両者は峻別された存在です。こういった状況を読み手の方に理解していただくために、両者が並列するような記事構成にしています。(2)琵琶島在城問題については主に一次史料に関わる事柄ですので定満の記事に含めています。(3)定行の事跡については『東国太平記』や『上杉将士書上』等にも記述がありますが、そこまで含めると記事が長文・複雑化するので触れていません。新沢・高橋両氏はもちろんそれ以前の諸研究においても定行については『北越軍記』の記述を主な材料として論考を行っていますので、それに倣ったまでです。(4)『越佐史料』や上越市史等が定行関連の参考文献とされていますが、この修正は誤りです。(5)書状類の典拠の殆どが『越佐史料』等ではなく高橋氏の書籍になっていますが、この修正は誤りです。(6)畿内で起こった享禄・天文の乱と越後享禄・天文の乱は別の事象です。乱の経緯については前嶋敏氏による新見解もあって記事が複雑化するため最低限の記述にとどめています。以上、ご理解のほどよろしくお願いします。--Karifu seito会話2018年9月18日 (火) 11:36 (UTC)[返信]
差し戻しは(ウィキペディアのルール上)不適切ですね。ま、いいや。
  • 1については、宇佐美駿河守としたいということを、あなたの版では読み取れません。記事名を「宇佐美駿河守」に替えたいならば、改名手続きが必要です。記事名が「宇佐美駿河守」なら並列でも理屈は通るでしょう。
    • 1-2「二次史料における宇佐美駿河守(定行)」とおっしゃいますが、二次史料というのは、一次史料を編纂・集成したものなので、あなたの書かれた物のなかに、それは存在しませんね。二次史料といったら『越佐史料』みたいなものです。『北越軍記』が一次史料に基づく二次史料であると認定すると、軍師・定行が実在することになるわけで、論旨に合いません。一般論として軍記物は確かな史料とは認定されてはいません。
  • 2琵琶島在城問題は事績ではなく、一つのコラムとして節にわけました。基本敵に人物の記事は「編年体」風に書くのが慣例で、それ以外の特別な話題は別節するからです。今回は節を一つ下げてみます。
  • 4 ここでは、文章を記述するのに「参考文献」として何に利用されたかが問題です。そして一部は、出典にとして引かれていなかったので、整理して欲しいという意味で分けようとしたものですが、不明としか言いようがなかったので途中で止めました。参照方法を付けて書こうかとも思いましたが、要ページ番号でわかるだろうということで、改善されるだろうと期待しましたが、ま、中途半端で意味がわからなかったと思います。分ける必要はないとしても、この場合は、適切に参照の場所を明示してくださいということで今回はタグを置いておきます。
  • 5 なってません。高橋は、高橋義彦の方であり、脚注のリンクを辿ると参考資料の書籍に辿り着く構造が、ウィキペディアの出典記述です。高橋は紛らわしかったので、高橋義彦を高橋、高橋修はそのまま高橋修としています。ハーバード式になっているので、著者・編者名、出版年数、ページが基本のセットです。ちなみに高橋修は1回しかひかれてなかったです。
6点を参考にして分かる部分は訂正しますが、話の内容だと、出典表示が正確ではないようなので、正確に記述してください。ページ番号記述、参照方法の改善、資料整理が必要です。それは本文を書いたあなた自身ではないと不可能だと思います。史料を参照できるほどの記述ならばページ番号は必須です。参考文献や脚注は、著作権等の問題のほかに、百科事典として、後学の人々のための道しるべなのです。--Quark Logo会話2018年9月18日 (火) 21:49 (UTC)[返信]
  • 脚注違いについては当方の見誤りでした。お詫びいたします。

(1ー2)本記事における一次史料・二次史料とは史学用語としてのそれを指しています。諸研究はその一次史料と二次史料を用いて定満と定行の事跡と存在を峻別しているものの、一方で前述の通り不可分の存在として語られている状況もあり、ページ分けは不適切と思われますので、今回は両者並列の記事構成としました。琵琶島在城問題については本文記事のとおり諸説あって定まっていませんので、謙信の家督継承後の事柄として限定は出来ません。 (4)定行関連記事は前述の通りほぼ高橋修氏の研究成果に拠っていますが、結果として記事に対する脚注がほとんど無く、これを不審とされる方もいらっしゃるかと思います。よって念のため付記をしました。今回は本文冒頭部に一文差し込みます。ページ数について、例えば「「藩制成立史の総合研究-米沢藩」は長尾景通に比定している。」という部分は参考文献としてあげた新沢論文の記述をほぼそのまま引いていますが、「藩政~」のページ数明示も必要であれば調べます。なお「藩政~」本文における記載そのものは確認済みです。同様の箇所があれば順次追記します。ただし越後享禄天文の乱の経緯のように複数の書籍を参考にして執筆した箇所についてはページ数の明示は致しかねます。また『定本上杉謙信』は西澤論文以外の論考も適時利用しております。 (5)a.上杉氏研究の書籍論文等においては(越佐-巻数-ページ数)といったような表記が多用されており、それに倣う。b.ご指摘の通り同姓は紛らわしい。c.『越佐史料』は複数の史学者が編さんに協力しており高橋義彦を著者とまでは断言出来ない。以上3点を理由として越佐・高橋の組み合わせを用いています。以上ご理解のほどお願いします。--Karifu seito会話2018年9月19日 (水) 10:49 (UTC)[返信]

まず最初に今まで話してないことを云いますので、番号を新しくします。
① 節の構造の理解が間違っています。ウィキペディアの記事は記事名の「=記事名=」の第1の節なので、記事内すべては「==節==」から始まるのがルールです。(Help:ページの編集#見出し
② 個別参照法になっているので、それをリンクに戻さないでもらいたいです。利便性が低下します。(Wikipedia:出典を明記する/個別参照法)。
この方式は一見、取っつきにくく見えますが、実は簡単で、かつ融通も利きます。書名を付け加えたりもでき、自分の好きな項目で書けます。この方式を用いる理由は、繰り返しを避け、表記を簡単にするためです。記事は脚注が100以上になることはざらなので、いちいち書名などを書いていると長くなるためです。
③ ページ番号は参照方法タグが提示されて要ページ番号が付けられた場合、ウィキペディアでは出典の明記は記述者の義務なので、改善する以外で外すことはできません。タグ剥がしは違反行為の一つになります。参考文献内に参照されているかどうかわからないものがあります。Wikipedia:出典を明記する#出典の示し方を参考にしてページ番号を示してください。本一冊全てというのは曖昧すぎるためです。該当の項目の章のページ数でもいいし、もちろんよりピンポイントに示すことがより良いです。(Wikipedia:検証可能性Wikipedia:出典を明記する
検証可能性はウィキペディアでは非常に大切なのことです。誰が見ても分かる状態にしておかねばらならず、記述者が自分だけで理解していてもダメなのです。
(4)も③と同様です。「ほぼ高橋修氏の研究成果に拠ってい」るからこそ著作権上の問題も発生するために、必ず脚注にページ番号を示さねばなりません。出典の明記はしなくてもよい行為ではなく義務です。
参考にしただけではなく、引用があるのならばさらに厳しい処置が必要で、引用はそれとわかる記述にしなければなりません。(Wikipedia:著作権で保護されている文章等の引用に関する方針
基本的にすべての部分が、どこから(どの本から)参照したか、本のどの部分から参照したか、明示する義務があります。明示されてない部分は、誰でも、いつでも、削除して良いというルールです。
「定本上杉謙信』は西澤論文以外の論考も適時利用しております。 」とのことですが、書いてないことは、他人にはわからないのです。それこそが、出典の明記のルールに反してるということなのです。適時利用の度に、脚注を設けて、どこを利用したか明示する義務があります。でなければ、読者からは、その部分は参照されていないと判断するしかありません。記述者しかわらかない情報になってしまい、埋もれてしまうからこそ、出典の明記が三大方針にされているのです。
何か厳しく云ってるようですが、これは記述した本人である・あなたしかできないことだから、云っているのです。このまま放置されると、出典不明の部分が残って、要出典範囲がついたりします。それは非常に良くない、勿体ないと思います。--Quark Logo会話2018年9月19日 (水) 11:29 (UTC)[返信]
:タグは出来るだけシンプルな物を使用して下さい。当方タグに関して完璧な知識を有しておりませんので、議論に割く時間や性急な改善要求とあいまって追記・修正作業が著しく滞っています。執筆者の負担減にもご配慮願います。--Karifu seito会話2018年9月21日 (金) 13:55 (UTC)[返信]
  • 一応、タグの中の「要ページ番号」とかされている欄にページ数を書き込むだけで良いようにしているのですが・・・。基本的には必要な情報がわかれば、細かいところの雑用はこちらでやっておくつもりです。あと、「性急な」について一言いわせてもると、自分は出来る時間にすぐ返信はしますけど、ウィキでは周知一週間がメドになるので、一週間以内にされればよいということになっています。別に急かされているわけではないので、ご自身のタイミングでやられてください。--Quark Logo会話2018年9月21日 (金) 22:23 (UTC)[返信]
  • ??? 調査とは。参考文献を見て執筆したのなら、自分の記憶で、本をまためくってみれば、すぐページ番号ぐらいわかりませんか? 何にしても書誌・ページ番号を出してくれれば、あとの体裁は誰でもできるということです。--Quark Logo会話) 2018年9月23日 (日) 22:38 (UTC)追記--Quark Logo会話2018年9月23日 (日) 22:47 (UTC)[返信]
 追記 言い忘れましたが、国会図書館サーチ[1]による書籍情報では、1971年版の越佐史料で高橋義彦しか書いてありませんでした。ほかに編者がいる場合、参考文献の書誌情報に書き足す必要がありますので、足してください。著作権絡みになるので、書誌情報も可能な限り正確に書くべき類のものです。編者は複数(editor1、editor2、・・・)書くことができます。--Quark Logo会話2018年9月19日 (水) 11:35 (UTC)[返信]
:例えば『群書類従』は塙保己一の門人が複数人編さんに携わっていますが、彼らの名が一般的な書誌情報に載ることはありません。『新撰菟玖波集』のような歌撰集も同様です。それでもWikipediaでは編者すべてを調べ上げてそれを記載すべきですか。--Karifu seito会話2018年9月21日 (金) 13:55 (UTC)[返信]
  • 一般的には、塙保己一のように、代表的な人物だけでいいわけですが、あなたが「複数の史学者が編さんに協力しており高橋義彦を著者とまでは断言出来ない」とおっしゃるので、それならば必要と思われる編者は全員書けばどうですか?ということなんですよ。普通は書誌情報に出てこないものは書かないのですが、編者(著者ではない)が高橋義彦だけでは不満ならば、ということです。越佐も自分で作った略語になるので、書名なら正しく書名にしないと良くないと思いました。そして書籍には冒頭か末尾に編者は書いているので、そこを見て記述されれば、正確だと言えます。普通は高橋義彦編で表示するだけで、国会図書館の書誌情報に従えば間違いないので、高橋を使うのが妥当だと私は思います。「複数の著者が執筆している編纂物(アンソロジー)の場合は、「--編」と書き共同執筆者名は要らない」がガイドラインになってますが、詳しく書く分に制限は特にないです。--Quark Logo会話2018年9月21日 (金) 22:23 (UTC)[返信]
  • 私は高橋義彦を「著者とまでは断言出来ない」と言っただけであって「編者(著者ではない)が高橋義彦だけでは不満」などと言っていませんし、思ってもいません。改訂当初より「普通の書誌情報」(勿論NDLサーチ済)に従って編者を高橋義彦単独の表記にしているのがその証左であって、改めて指摘されるまでもありません。ですから更に「ほかに編者がいる場合、参考文献の書誌情報に書き足す必要があります」と言われれば当然「編者すべてを調べ上げてそれを記載すべきですか」という疑問を私は抱くわけです。それから「越佐」の略は「自分で作った略語」などではなく前述した通り「上杉氏研究の書籍論文等においては(越佐-巻数-ページ数)といったような表記が多用されており、それに倣」ったまでです。--Karifu seito会話2018年9月23日 (日) 15:22 (UTC)[返信]
  • 水掛け論になって言い方が悪かったかもしれませんが、出典の表記は、紙媒体の「上杉氏研究の書籍論文等」とウィキペディアでは異なるので、ウィキペディア共通の方式に則って変えるということです。出典明示をイチイチしていかなければならないので、書籍の記述を引用していくとわけにはいかないのです。
    基本的には、なぜ高橋義彦氏を著者なり編者と断言出来ないと思っているかこちらには理解できません。書誌情報に明記してある以上、編者で間違いないと思います。編者を調べ上げるといっても、書籍の冒頭か末尾に明記されてあるはずです。ページをめくるだけでわかるはずで、そこに高橋氏以外が書いてないならば、それはその人だけ、共著や共同執筆者がいれば、著作権者なので絶対に明記されてあるはずです。それ以外の結論はありません。書いてないことを探せといっているのではなくて、常識の範囲内で明示されいるモノを書き写す、ただこれだけのことです。というか、まず、共著者が書いてあるのか無いのか、それすらこっちにはわかりませんけど。何に疑問をもって、何のこだわりなのか。もしかして、書誌情報に書いてないけど、きっと沢山の史学者が編さんに協力しているはずという想いならば、無関係です。著作権の権利関係の表示に過ぎないので、人々の努力とかそういうことを問うているわけではありません。出典表示とはそういうことではないです。--Quark Logo会話2018年9月23日 (日) 22:38 (UTC)[返信]
 追記2 琵琶島在城問題については「謙信の家督継承後の事柄として限定は出来」できないから、節を戻したわけですが? 家督相続前後は時間で区切っただけなので、一つの節の中にあるべきです。同じ高さの節に入れていることこそ、家督相続後の事を記述しているように見えます。前回の私の記述の方が言い分に合うと思います。--Quark Logo会話2018年9月19日 (水) 11:46 (UTC)[返信]
:合うと思います、という個人感想には答えようがありません。変えることによる閲覧者のメリットを提示してください。--Karifu seito会話2018年9月21日 (金) 13:55 (UTC)[返信]
  • だから節構造というのは、同じ高さのものは、話の続きになるわけです。高さを変えると別の話ですよということなるわけです。番号で示した方が云ってることが伝わりやすくなるかと思いますが、1.2と1.3ではなく、1.1.2と1.2に分けることで、明確に続きではなくなるということです。文章・節構造の意味という内容で話していますが、云ってる意味はわかりますか? 個人感想の話ではありません。入り子構造は同一の話題の小節分けになるので、時系列不明だからこそ入り子から出したわけです。で、家督相続前後は同じ時系列で語られているので、入り子内であるべきなのです。この二つを分けたということです。--Quark Logo会話) 2018年9月21日 (金) 22:23 (UTC)  追記 節構造ですが、目次は1から始まってますが、実際には0があって、0が記事名になります。0は表示されませんが、見ているページの表題がウィキペディアの全体からみると章になってます。--Quark Logo会話2018年9月21日 (金) 22:37 (UTC)[返信]
  • ですからあなたの言われる通りにしたとして閲覧者にはどのようなメリットがあるのですか。性急に答えを出さずとも現状のままにして、不具合を感じ方が多ければいずれ誰かが修正するのでは。--Karifu seito会話2018年9月23日 (日) 14:40 (UTC)[返信]

改名提案・宇佐美駿河守[編集]

「宇佐美駿河守」への改名を提案します。現状の記事が宇佐美定満と宇佐美定行に分けられたため、ページ構造上、宇佐美定満#宇佐美定満(宇佐美駿河守定満) or 宇佐美定満#宇佐美定行(宇佐美駿河守定行) と、前者が二重になることから、記事のタイトルは共通部分である「宇佐美駿河守」の方が適切でしょう。

改名議論においては上の節の話も参考にしてください。--Quark Logo会話2018年9月19日 (水) 02:45 (UTC)[返信]

  • 実在が確定している人物と不確定の人物とでは前者を優先すべきと考えます。また記事本文にあるように、定行が改名して定満になったとする軍記類もあります。諸研究では峻別にため定満と定行の表記を使い分けているという事です。--Karifu seito会話2018年9月19日 (水) 10:58 (UTC)[返信]
実在人物を優先するなら並列でない方がいいのでは?でも並列に書くとおっしゃる。何をどうしたいのかよくわかりません。現状は「#宇佐美定満#宇佐美定満」になってるので、そこを最初に取り除いたら戻された。並列に書くという??? 優先するのか並列にするか。--Quark Logo会話2018年9月19日 (水) 15:01 (UTC)[返信]
「宇佐美駿河守」にすることで何がどうなるのわかりません。既述のとおり定満と定行が混交されている状況もありますので峻別はハッキリとしたいのです。--Karifu seito会話2018年9月21日 (金) 14:09 (UTC)[返信]
  • だから、まず、定満・定行の並列なのか、定満を優先させるのかを、決めなくてはならなくて、前者の編集だと、記事名が1番節になるので、宇佐美定満の節の中にまた宇佐美定満ができ、かつ宇佐美定満の節の中に宇佐美定行ができるといっているわけです。完全に並列だというのならば、宇佐美定満節の下に作らないということなので、別の節名が必要じゃ無いのかということです。定満を優先するというのなら、記事名も当然宇佐美定満でいいので、変える必要もないわけです。で、私が最初に言ったように、宇佐美定満ついての文章を本論として、宇佐美定行については別論として付属する編集にしたらどうかということになるわけです。私の主張は後者ですが、並列するというから、じゃ、記事名は変えた方がいいんじゃないかと言ってるわけです。あと、節名を並べるにしても、定満と定行でなくて、1次史料と軍記物という並べ方もある。その場合も、記事名の変更は必要ないでしょう。--Quark Logo会話2018年9月21日 (金) 22:23 (UTC)[返信]
  • 立証??? だから、最初の宇佐美定満を主題とする節構成でいいのではないのかと言ってるのですが? こちらが何を言ってるか、まずわかってますか?話についてきてませんよね? --Quark Logo会話2018年9月23日 (日) 22:38 (UTC)[返信]
コメント 改名ということですが、本名がわかっている人物のページ名をわざわざ通称にする必要はないと思います。一方で、宇佐美定満のページの中に宇佐美定満と定行の二人が並列で書かれていることには二人が別人のように見え違和感があります。
 前提条件として確認しますが、Quark LogoさんとKarifu seitoさんのお二人とも定満は史書に書かれた実在する人物で、定行は軍記物(読み物)で描かれた定満としてよろしいでしょうか。このような場合、「三国志(正史)」と「三国志演義」の関係に近いかと思います。例えば姜維ですと、史実に当たる節を「生涯」、読み物での活躍は「三国志演義での活躍」となっています。なので、現在の宇佐美定満の節を「生涯」に、宇佐美定行の節を「北越軍記での活躍」あるいは「北越軍記にみえる宇佐美定行」のようにすればよいのではないでしょうか。--たびびと551会話2018年9月26日 (水) 18:33 (UTC)[返信]


返信 構成について、そもそも私の最初の案(i)は宇佐美定満の優先です。それがリバートされ、Karifu seito氏が「両者は不可分の関係にある」とまでおっしゃって並列にするというので、第2案(ii)に修正したところです。(iii)は現在版ですが、宇佐美定行を虚構の人物(もしくは虚構との混乱)と推定するならば、そもそも並列である必要性はありません。Karifu seito氏の返事待ちですが、並列か優先かどっちだと思っているかよく分かりません。

私の最初の案(i)
=宇佐美定満=(記事名)
==事績==
===謙信期以前===
===謙信期以後===
==定満の琵琶島城在城について==
==『北越軍記』==
===宇佐美定行の事跡===
===「軍師宇佐美定行」の創出===
==関連作品==
付属節

第2案(ii)
=宇佐美駿河守(改名案)=(記事名)
==宇佐美駿河守定満==
===1次史料における事跡===
====長尾景虎の家督相続以前====
====長尾景虎の家督相続以後====
===定満の琵琶島城在城について===
==宇佐美駿河守定行==
===軍記物における事跡===
===「軍師宇佐美定行」の創出===
==関連作品==
付属節

現在版(iii)
=宇佐美定満=(記事名)
==宇佐美定満==
===定満の事跡===
====長尾景虎の家督相続以前====
====長尾景虎の家督相続以後====
===定満の琵琶島城在城について===
==宇佐美定行==
===定行の事跡===
===「軍師宇佐美定行」の創出===
==関連作品==
付属節

だから最初のように、本記事を定満を中心にして、定行について追記する方式がウィキの記事としては自然だと思います。つまりこうです。

=宇佐美定満=(記事名)
==事跡==
===長尾景虎の家督相続以前===
===長尾景虎の家督相続以後===
==定満の琵琶島城在城について==
==宇佐美定行==
===定行の事跡===
===「軍師宇佐美定行」の創出===
==関連作品==
付属節

これがなぜダメだとおもっているのか、Karifu seito氏の説明はよくわかりません。最初の案なら改名する必要はないですが、不可分な並列ならば、記事名が問題になる。分けられると思うのですが・・・。--Quark Logo会話2018年9月27日 (木) 05:10 (UTC)[返信]

返信 概ねⅰに賛成ですが、歴史人物の場合、最初の節は「生涯」で始まっているので「事跡」を「生涯」にした方が良いと思います。--たびびと551会話2018年9月27日 (木) 07:26 (UTC)[返信]
コメント - 事跡とされてある理由は、事跡しか書いてないからでしょう。人物の生涯について記述されているわけではなく、記録の残る、軍記物等で記述された逸話など、断片情報のみが記述されてあります。
他の記事で私が一般的に人物伝の記事でやる手法は、経歴を並べるとき(資料が系譜などで情報の羅列の場合など)は「経歴」を、人物の生まれから死まで人物伝としてまとめるときで文章が相応に長いときは「生涯」を、人物について断片や極めて概略しかわからない場合は「略歴」を使うことにしてます。
ただこの記事は、Karifu seito氏が書いているので、そこはこだわる必要はないかと。確かに事跡しか書いてないし。私は(i)にあるように、当初、事績と事跡のニュアンスを使い分けようかとも思ったのですが、伝わりにくかったので次の編集から自分でボツにしました。--Quark Logo会話2018年9月27日 (木) 11:59 (UTC)[返信]