ノート:大樋焼

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大樋焼裁判 ~大樋焼「本家争い」訴訟~[編集]

大樋焼本家と名乗る窯元が複数存在しており、大樋焼の歴史記述に注意が必要ではないか? 大樋焼裁判[1] --Longissue 2009年7月29日 (水) 17:52 (UTC)[返信]

では、具体的にどのように記述すればよいか、ご例示ください。--アイザール 2009年7月29日 (水) 17:54 (UTC)[返信]

資料によると「大樋家」本家本元は7代で途絶えており、この記述は必要だと思います。

初代 大樋長左衛門 正徳2年正月21日没   享年82歳
二代 大樋長左衛門 延享4年8月23日没   享年62歳
三代 大樋勘兵衛  享和2年3月26日没   享年75歳
四代 大樋勘兵衛  天保10年10月27日没 享年82歳
五代 大樋勘兵衛  安政3年2月11日没   享年58歳
六代 大樋朔太郎  安政3年6月25日没   享年28歳
七代 大樋道忠   明治27年10月6日没  享年61歳

この地方の「大樋焼」の窯元は数十件存在したようですし今も複数あるようです。その中で現在「大樋長左衛門」を名乗りはじめた「奈良家」が「本家」を強くPRしているようですが、他にも大樋焼本家を名乗る窯元があるので、その事実を整理して記述するのが良いのではないでしょうか?--Longissue 2009年7月29日 (水) 18:06 (UTC)[返信]

それは、上記されている、裁判所による判断ですね。たしかにそれもまた真実の一つですね。参照しましょう。ただ、何といっても「大樋焼」の記事なのですから、美術史、陶磁芸術研究、地域史などの分野で、その点に言及している資料はないものでしょうか? それらがあるならば、より多くの立場の人が納得できる記事内容に修正できるのではないかと思います。ぜひ、他の編集者さんのご意見も聞きたいところです。ただ、私は本記事を保護した当人なので、この記事に関してはしばらくの間は、あまり積極的に執筆するのは控えたく思います。--アイザール 2009年7月30日 (木) 00:48 (UTC)[返信]

そもそも陶芸の歴史は、芸術史や美術史ではなく工芸分野の日本の工芸史ですが、正統な芸術史には完全な状態で書かれていないのかもしれません。茶道関係書物も含めそれら文献資料を閲覧してみます。wikiに書かれている大樋焼関係の記述は広告宣伝的に書かれ、「大樋長左衛門」関係者が執筆編集しているようでしたので、百科事典としての機能をはたしていないため、事実に忠実なものを編集すべきでと思います。現在の状況では大樋焼で使用しているところの「本家」というのは、単に、この地方で大樋焼スタイルで焼いている窯元です、ということに過ぎないようです。初代からの大樋家が7代以降窯元を生業としていないのをいいことに、その他の大樋スタイルの窯元が「ウチが大樋○代目」と付加価値を付け、初代から脈々と続いているかのように見せかけているということだったのでしょう。--Longissue 2009年7月30日 (木) 07:06 (UTC)[返信]

当事者として参加しますが、ノートへの加わり方が理解できていないこと、そして今、海外出張中につき時間が無いために乱文かもしれませんがで失礼いたします。 この大樋焼の記述を読んだ方が心配され私に問い合わせがきたことで、貴殿が載せようとしている文章を読ませて頂き、我家においては逆に中立性に欠けていることで心を痛めています。私は作家として当事者として参加させて頂きたく思います。 まず明確にしておきたいことは、貴殿(LONGISSUE/アイザール)が話題にされている大樋勘兵衛と称する側の当事者、あるいは関係者でないと推定し、またこの閲覧を見る人たちの為に、私の考えを述べさせて頂きます。 現在、大樋焼を生業としてする方々は大樋勘兵衛と称する人物以外にも存在することは理解頂けていると思います。我家はその方々の先人も含めて長い間、良好な関係を築いて今日があります。そもそも大樋勘兵衛と称する人物の父親は、「大樋長楽堂」としての販売店を営み、やがて作家 大樋長楽と称し、息子は「大樋 長」と称するようになっていきました。昭和40年代には自らの商品に鉛が混入されており、それが社会問題となり関係者すべてに迷惑をかけたことがあります。その頃から特に、他の大樋焼に従事する窯元の方々と当家との絆は強くなったと思います。同時期に私の祖父は九代長左衛門として日本工芸会正会員として活動しておりました。 茶会を催す時には茶会記が記されますが、使われた作品が大樋焼茶碗の場合「黒茶碗 九代長左衛門作」あるいは「飴茶碗 九代長左衛門作」と記されます。仮に「黒茶碗 長楽作」あるいは「飴茶碗 長楽作」とあれば今、大樋勘兵衛と称する人物の父親であると思われるでしょうが、実は京都に「小川長楽」という伝統ある名家が存在しており混同を与えておりました。 また、八代長左衛門は裏千家十三代円能斉家元から斉号「似玄斉」を賜っています。また、九代長左衛門が裏千家十五代鵬雲斉家元から斉号「陶土斉」を賜れば、同時期に大樋勘兵衛と称する人物の父親は高僧から「陶玄斉」を与えられたことになるのですが八代、九代の一字ずつであり、与えたというその高僧はこの事実を知らずに、尋ねられた名前を与えたと述べられております。また九代は歴代長左衛門のなかで唯一「大樋印」を横字にしたのですが、それも同じスタイルで大樋長楽と称した方が用いられています。しかも、その方は亡くなりましたが大樋焼何代目などと称したことはなかったはずであります。 そして、その息子は「大樋 長」と称して生業を立てていましたが、今は全く大樋焼とは関係のない子孫をみつけだし、私の祖父 九代長左衛門が亡くなった後に「長左衛門」を名乗ったことで裁判となりました。それ以後の結果はご承知の結果であります。(裁判では長左衛門とは名乗れなくなりました)これから記述することが最も大切なことであると思います。

現在、大樋勘兵衛と称している方には、私における曾祖父である八代長左衛門の時代、すなわち七代長左衛門からの継承時期には誰の存在もないことです。 八代は大樋焼の生業を引き継いだことで、貴重なほとんどの初代から歴代長左衛門の作品を大樋美術館に所蔵しているのです。八代、九代、十代と歴代長左衛門として継承されてきたことで、現在の大樋焼の発展があったことは他の大樋焼窯元も認めてくれているはずです。 いつの間にか「長左衛門」「大樋焼本家窯元」我家は途中参加の大樋焼、「長左衛門」「大樋焼本家窯元」ではないことにご理解頂けないでしょうか?

お願いがあります。 裁判の記述を載せることが辞典なのでしょうか? もう一度、原点に帰って考えてください。 そのような記述は芸術、工芸、茶道には関係ありません。 歌舞伎の世界もそうですが、いかに作品として結果を残すかが大切なのです。 我家はその努力を八代、九代、十代と歴代長左衛門として怠ったことが無いことはお解り頂けるのではないでしょうか? 貴殿(LONGISSUE/アイザール)が双方、あるいはどちらかが、貴殿が話題にされている大樋勘兵衛と称する側の当事者あるいは関係者でないならば、再考された文章を閲覧してみてください。私も歩み寄り参加させて頂き良いものにしたいと思います。もし合意が計れなければ、閲覧を中止してもかまいません。 貴殿(LONGISSUE/アイザール)が双方、あるいはどちらかが、大樋勘兵衛と称する側の当事者あるいは関係者である場合。 もう誹謗、中傷で我々に戦うのは止めてください。これからは互いが良い時代を築き上げていくべきです。私には既に後継者がいて学習に勤しんでいます。良い環境で互いが生きていくべきではありませんか?--大樋年雄2009年8月06日 (木) 02:07 (UTC)[返信]

大樋年雄さま、ようやく議論の場に足をお運びいただき、嬉しく思います。Longissueさま、ぜひ、上記のご意見を精読の上、お考えをご表明いただければさいわいです。
裁判の件を記述するかどうかについてですが、私個人の考えを述べますと、「裁判があったという事実が、信頼性あるメディアによって報道されたという出典。そして、その裁判が日本工芸美術界に一定の影響を与えたという内容を論じた、信頼性の高い論評」が存在するのなら、記述するべきかと思います。逆に言えば、和解勧告という一次資料が存在するだけの場合は、記述しなくてもよいのではないか、ということです。Longissueさまのご意見をお聞きしたく思います。
それともう1点、大樋年雄さまが上記にお書きの、大樋焼の来歴などが、第三者にも確認できる資料や文献などは存在しますか? 存在するなら、記事の向上に大変役に立ちます。--アイザール 2009年8月6日 (木) 00:46 (UTC)[返信]

アイザール様 早速にコメントを頂き、そして紳士的な対応を頂き安心いたしました 私は現在海外出張中にです。帰国後、対応させて頂きますが8月20日以後となります。 それと、Longissueと称する方も参加されるのであれば、アイザール様のような紳士的な方なのか、大樋勘兵衛と称している方の関係者なのか?私といたしましては対応が違ってまいります。 また、そうなのであれば堂々と私のように名乗り出てください。仮にそうなれば初めて双方が冷静に会話できるのではないでしょうか?--大樋年雄2009年8月07日 (木) 01:28 (UTC)[返信]

「大樋勘兵衛と称する側の当事者あるいは・・・・・・。」→全く関係ありません。百科事典としての記載内容に疑問を感じたため編集に参加しています。wikiは関係者が自身に都合よくPR記事を書く場ではありません。大樋年雄氏関係者はこの視点にズレがあるように感じます。裁判事例の記述は「大樋焼」の歴史、客観的事実の裏付になる資料だと存じます。大樋年雄氏が「これからは実力で」とお考えなら、あえて事実を抹消せず、ありのままの歴史を明確に開示すべきではないでしょうか?日本工芸美術史上においても、大樋焼の履歴事項を明文化するのが善いと思います。また「大樋焼」に関する記載事項、記載内容は大樋年雄氏個人が判断すべきものではなく客観的なものです。百科事典の性質をご理解ください。文献などの資料の裏付による公正な編集が望まれます。-Longissue 2009年8月8日 (土) 14:11 (UTC)[返信]

大樋年雄
大樋焼」、「大樋美術館」、「大樋長左衛門」、「大樋年雄」など「大樋焼」関連項目の編集につき、「Wikipedia:自分自身の記事をつくらない」、「中立的な記述」を熟読いただきますようお願い致します。--Longissue 2009年8月9日 (日) 03:34 (UTC)[返信]

アイザール様 Longissueと称する方は、第三者を装った大樋勘兵衛と称する本人か、または極めて近い関係者であると断定せざるえません。それは記述した文章が中立性に欠けており、行為自体問題があると思います。 下記のような文を他の人が書き換えるはずはありません。彼らのホームページを見ても明らかです。

7/26の履歴によれば 裁判 大樋焼は現在窯元が二つあり、それぞれが本家を主張し裁判になった[1]。現在は弟子筋の奈良家が「大樋」を名乗って家元として活動しているが、初代長左衛門の血縁子孫ではない。もともとの大樋焼本家は九代目大樋勘兵衛窯として別に窯元があり、歴代大樋焼当主の作品を多数所有している。現当主は勘兵衛、子息は朔芳である。

とあります。このような書き方は大樋勘兵衛と称する側だけが述べていることです。またその文章は、他の大樋焼に従事されている方々からにも異議があると思います。逆に言えば彼らの書き方には中立性に欠けています。彼らには八代長左衛門の時代には誰の存在もありません。歴代大樋焼当主という言い方にも含みがあります。おそらく、我々が初代から今日までの多くの貴重な大樋焼歴代の作品を大樋美術館が所蔵しているからです。

誰を私が信じていいのか、アイザール様に冷静に判断して頂こうと思います。しかし、アイザール様がLongissueという第三者を装った大樋勘兵衛と称する側と同一人物である疑いを抱いてしまうほど、今まで長い間にわたり大樋勘兵衛と称する側から誹謗や中傷を受けてまいりました。努力を重ねている人に誹謗や中傷を繰り返すことで何かが得られるような考え方は、今の社会問題でもあります。インターネットの利便性もありますが、今回の問題のようなことにもなります。ウィキペディアの大樋焼、ましてや大樋年雄の項目にまで入り込み裁判の記録を載せるような行為は作家活動の妨害にしか思えません。なぜなら彼らが閲覧しようとする文章は大樋勘兵衛と称する人物側が有料で掲載させた文章であって、それ以外でマスコミがそのような取り上げはしたことはほとんどないからです。その彼らの言い分がウィキペデアイアに載っていることは逆に中立性に欠けているのです。もちろん心配された方からの忠告もありましたが、私が注意を払わなければ文章はそのままとなってしまいます。そして、他の大樋焼に従事している方々のほうが遥かに謙虚な努力をされていることも追記させて頂きます。

以下に述べることに間違いがありますでしょうか?

父は文化功労者、日本芸術院会員という国の規定し、認められた職務と立場であり、間違いなく十代長左衛門です。 それを意図的に割愛されていませんか? そして、八代、九代、十代、そして今日までの大樋焼に従事する方々との努力で今の大樋焼があるといっても過言ではないと思います。社会もそのことは認めてくれるはずであります。そして大樋勘兵衛と称する側には、八代長左衛門の時期、九代長左衛門の晩年期以前には誰も存在していないことは明確です。

しかしながら、このようなことではいけないとも思っています。共存共栄の考えに沿って生きていくならば、今の我々が修正しなければならないと思っています。金沢という町、他の大樋焼に従事する方々のためにも、私は守ることは守ります。変えなければならないことは変えていきます。今回そのことを学んだ気がします。

中立という曖昧な立場や考え方はあり得ないことかもしれません。大樋焼はアイザール様が述べられているような「裁判が日本工芸美術界に一定の影響を与えた」そのような考え方ではなく、産地としてではなく作家が生き抜く結果が今までの大樋焼であり、少なくとも我家はそうであることを認めていただけるのではないでしょうか? 前田家、裏千家、楽家、それぞれの恩恵で今があるのです。 謙虚に自らが残す作品で人から評価を得ていくことが、作家の姿ではないでしょうか? 公募展で落選を繰り返しその世界を悪く言うような次元では、明日はありません。 裁判の事実は隠すことではありません。調べれば誰でも解ることです。そのことを大々的に載せて、自分たちだけが以前からの大樋焼本家だと主張する?そのような裁判ではなかったはずです。事実を湾曲させた言い方は彼ら以外、誰も認めることはないと思います。

私にも言い過ぎたことがあるかもしれません。 アイザール様が中立の立場であるならば、 アイザール様の良識あるお考えを述べて頂ければ幸いです。 このノートはおそらく他の人も見ていると思います。 私は隠れず堂々と主張させて頂きました。そして断じて誹謗、中傷で芸術は成立しないことを信じていきます。 大樋勘兵衛と称する側が第三者を装って参加していることは明確です。 真実はひとつです。皆がそれを見ていることを忘れないでください。 どうか、今後のためにもご意見をお聞かせください --大樋年雄2009年8月12日 (木) 02:50 (UTC)[返信]

はじめまして、lemonzと申します。
いくつかのウィキペディアでも編集参加させていただいております。
「大樋焼」に関して一度編集したのですがすぐ訂正されてしまいましたが、、、
自分は楽焼に興味がありまして、あちこちとHPを観ていたらここにたどり着きました。
まだ、あまり焼物のことは詳しくないのですが、裁判に関してPDFの内容を拝見しましたが、
百科事典として載せることは好ましくないと思います。
私が一度編集したように「大樋焼は現在窯元が二つあり、それぞれが本家を主張し裁判により和解」
これくらいの文面で良いのでは?PDFまで掲載するのは不適切に思います。
それに、このPDFを裁判所サイトからリンクさせていますが許可は必要ないのですか?
裁判所サイトには「当サイトに掲載されいている個々の情報(文字,写真,イラスト等)は,著作権保護の対象となっています。」
と記載があります。
だれでも、裁判と聞けば良い印象はないでしょう。それをわざわざ和解しているのに内容まで公開しなくて良いと思います。
よくよく考えてみれば
「今日の大樋焼は勘兵衛窯、長阿弥窯、喜仙窯など金沢市内で複数の窯元も存在している」と記載がありますよね。
となると、複数の窯元の内の2つの窯元の裁判に過ぎず、「中立的な記述」ではないのではないのでしょうか?
裁判と関係のない大樋焼窯元に対して問題があるのではないでしょうか?
第三者(私)から見て間違いなく大樋焼と大樋焼で喧嘩しているような内容に見えます。
私個人としては伝統的な日本の文化を大事に大切に継承していって欲しいです。
文章を見る限りLonqissueさんは大樋勘兵衛側に関係してると思うんですけどね~。
大樋年雄さんがノートに参加されてますね、本人ですよね?すごいですね!(余談)--Lemonz 2009年8月12日 (水) 03:09 (UTC)[返信]

最近陶磁器関連の記事の中で頻繁に更新されていたので興味深く見ていた者ですが、大樋焼きに関しては奈良さん、大樋さん、双方とも独自のHP等で各々の来歴や大樋焼き自体について紹介なさっていますが、少なくともWikipedia上ではどちら側にも共通の歴史、大樋焼きの特徴についての記述さえあればよいのではないでしょうか? 裁判記録の記載の有無が一つ問題になっているようですが、奈良さん、大樋さんそれぞれのHPを参考URLとしてリンクしておけば、裁判に関して窯元それぞに独自の主張やお立場があることが明確に、公平に閲覧者に伝わると思います。 なぜ大樋焼のページが保護されるような事態にまでなっているのか不思議だったのですが。記事の履歴を見てみますと、2009年以降編集されている方で、アイザールさん、Longissueさん、工口いわよさんを除く、大樋年雄さん、Hoooooさん、Hokokokoさん、Lemonzさん、実力勝負さんは大樋焼き関連の記事しか編集なさっていないようです。大樋年雄さんはご本人とのことですが、Hokokokoさんは大樋年雄さんのご子息のことまで記述されていたり、奈良さんの関係者、もしくはファンの方々のようにお見受けしますが、あまり近しい方々が編集なさるのは事態が紛糾する要因になりかねないように思います。誰でも閲覧できる一次資料さえ明示されていれば、大樋焼きに関する記述も第三者によって自ずと充実していくのではないのでしょうか?--くんくん 2009年8月14日 (金) 15:19 (UTC)くんくん[返信]

この陶芸は、初代長左衛門からその子孫の道忠までとその門人により藩主の御用窯として大樋焼の制作が続けられ、その後も門人達及びその子孫の制作活動の結果、今日も存在しているということのようです。--Longissue 2009年10月27日 (火) 14:46 (UTC)[返信]

追記です。大樋焼というのは明治時代、既に直系本家が消滅し「大樋勘兵衛窯」も本家を名乗っているように、以降は弟子筋がそれぞれ窯元本家名称で制作活動をしているのが実態。そもそもこの地では「本家」という概念自体が曖昧に使用されているのではないか?文献リサーチでも大樋焼の歴史で7代以後の確認はできなかった。長左衛門の創始した大樋焼が金沢の工芸品として、大樋焼の作風として定着しているが、現代においてどこが本家であるとの裏付はし難いのが現状である。--Longissue 2009年10月29日 (木) 01:32 (UTC)[返信]

適当に覗いてましたが、変化がでてきましたね。
Longissusさんに質問です。
なぜ関連項目から「大樋長左衛門」・「大樋年雄」・「大樋美術館」を削除して、
新たに外部リンクを作って「大樋焼」・「九代目大樋勘兵衛窯」を作られたのですか?
それも、外部リンクの「大樋焼」は複数の窯元の内の一つである九代目大樋勘兵衛窯のHPにリンクされています。
私なら、外部リンクに今も存在してるか別として「九代目大樋勘兵衛窯」・「大樋長左衛門窯」・「大樋長阿弥窯」・「大樋喜仙窯」
としますけどね。(大樋年雄と大樋美術館はこの場合抹消かな?)
ご返事お待ちしてます。(私なりに訂正しましたが)
Longissusさんのノートの一部
「大樋勘兵衛と称する側の当事者あるいは・・・・・・。」→全く関係ありません。
Longissusさんのノートの一部
wikiに書かれている大樋焼関係の記述は広告宣伝的に書かれ、「大樋長左衛門」関係者が執筆編集しているようでしたので、
百科事典としての機能をはたしていない
関係のない方がなぜ九代目大樋勘兵衛窯をアピールしているのですか?
なぜ自分で「大樋焼関係の記述は広告宣伝的」とおっしゃっているのに複数の窯元の一つだけを残したのですか?
すいません。伝統工芸関連のWikiで、もめていたり、ご本人や当事者を見つけたら参加してます。
人間国宝のご本人とノートを通じて会話が出来た時はとてもうれしく、興奮しましたね。
第三者(中立)として、とても疑問に思いましたので。
Longissusさん間違っていますよ、あるいは矛盾していると思いますよ。
よろしくお願いいたします。
※全文を読みやすいように調整してみました。(文章はいじってませんよ)
--Lemonz 2009年10月29日 (木) 06:21 (UTC)[返信]

lemonzさんの前記されている意見に全くの同感です。 longissueさん、説明してください。 皆さんがあなたの意見を待っています。 逃げないでしっかりと答えてくださいね。 広告宣伝的と自分で謳ってるくせに、今、現在の編集内容では誰も納得しませんよ。言行不一致ってやつですね。 あなたの内容は他の大樋焼窯を排除したい、その姿勢が鮮明に現れています。  Hokokoko

 第三者から見て、「大樋焼」ページの現在の記述は概要を知るにあたって、ちょうどいいと思うのですが、どういう点でよくないのでしょうか?事実とは明らかに異なる記述がなされているならば問題ですが、今のところ事実無根のことは記載されていないようです。特に、前回、私が「九代大樋勘兵衛窯」「十代大樋長左衛門窯」双方にある時点以降の歴史に関して異なる主張がおありのようですので、それぞれ開設なさっているHPを外部リンクに載せたらどうかと提案しましたが、現在はそのようになっておりますし、「大樋長阿弥窯」、「大樋喜仙窯」(「大樋焼松雲窯泉喜仙」のことでしょうか?)の現在2つの窯はHP等開設なさっていないので外部リンクに記載されていないのは妥当だと思います。しかし本文記述から除外されてしまっているのは復元されてしかるべきだと思います。

 どなたが当事者かどうかうんぬんするよりも、記述の中立性が担保されているかどうかが議論されるべきだと思います。2つの窯の間で裁判があったことも、和解されて、現在は他にもいくつかの窯が大樋焼という伝統を受け継いでいらっしゃることも事実なわけですし、どなたかの思惑に沿うような記述になるように差し戻すような編集をするよりも、両者にとって共通の歴史の詳細を詰めていく編集が望まれます。

 Longissueさんが広告宣伝活動のテンプレートを貼付なさったのは、おそらく「大樋焼」ページと「大樋長左衛門」さん、「大樋年雄」さん、そしてお二方の私設の美術館である「大樋美術館」のページの執筆がほぼ同様の方によってなされており、大樋焼の歴史と大樋焼の歴史の一端を担う大樋長左衛門窯の歴史が、ほぼイコールの関係のように記載されていたためと思われます。

 いずれにしても、Hokokokoさん、Longissueさん、Lemonzさん、みなさんがお互いにどちらかの窯の関係者ではないかと疑心暗鬼になられるのは、みなさんが今のところ大樋焼関連ページの執筆にしか携わっておられないからのように思われます。みなさん陶磁器関連の芸術分野にたいへん深い造詣をお持ちでいらっしゃるようですので、他のまだ記述の少ないページの編集にも参加なさるとよろしいのではないしょうか?第三者にとって非常に有益なものになると思われます。そして、みなさん編集方法が若干強引な印象を受けますので、本文をいきなり改変なされるのではなく、ノートで合意を形成されてから、新規の記述をなさることが望まれます。--くんくん 2009年10月31日 (土) 14:43 (UTC)[返信]


Longissueさん現れませんね。
くんくんさんこんにちは。
>大樋焼関連ページの執筆にしか携わっておられない
そんなこと何処でわかるの?Wikiのことあまり分かっておりません。
アカウント3つ持ってるからかな?
当初Wikiの使い方分からなくて間違えてアカウント3つも出来てしまって、、、、。
--Lemonz 2009年11月4日 (水) 23:13 (UTC)[返信]
 あくまでみなさんの投稿履歴を一通り見たところの印象です。たとえ、記事名的には他の記事であっても、大樋焼への言及追加やリンク付与だけであったりするので。
 Lemonzさん、多重アカウントは非推奨ですし、解消方法については私も詳しく存じ上げませんので、、個別の編集者に質問なさるよりも、ご自身の会話ページから利用案内、FAQ、ヘルプ等ご覧になられた方がよろしいかと思われます。思いつく限りの範囲ですと、Lemonzさんが他のアカウントで大樋焼以外に関しても編集されていたのなら、その他のアカウントをここに公開なされば、一方的な誤解も解消されるのではないでしょうか。
--くんくん 2009年11月7日 (土) 01:44 (UTC)[返信]

ずっと、この次元の低い醜い争いの閲覧を見ながら耐えてきました。 もちろん、中立的な方や、当家への理解ある意見などで、救われた気持になったこともあります。 今一度、原点に振り返って頂きたく登場させて頂きます 私が、過去に私の書いた文章を皆様、再読してください。 アイザールさん、くんくんさん、は中立的、Lemonさん、Hokokokoさんは私は本当に存じ上げません。おそらくファンの方ではあると思います。 Longissueと称する人物は間違いなく大樋勘兵衛と称する同一の人物です。誹謗、中傷、妨害だけに徹しきっています。 ウィキペディアの大樋長左衛門のサイトまで編集してきています。 そして、私は作家は自らが自らの手で創り上げた作品、そして品格が伴ってのことが実力勝負であると申し上げてきました。 過去においては、彼らの作家としては紳士的ではない繰り返される行為、誹謗、中層に耐えきれず、法に委ねるしか方法はありませんでした。 裁判を終えて、当方としては争わず、これからの時代はそれぞれの子孫や他の大樋焼に従事する方々のためにも、共存共栄を試みてきました。 しかし、今回のようなことが生じても 作家として品格を保つ、あるいは武士道のような道徳観で、耐えていかなければならないことは理解しております。 しかし、彼らの行為は忍耐の限界を超えるものがあります。 少なくとも大樋勘兵衛と称する方、ないし関係者の活動は作家としての考え方よりも、当方に対する敵対行為のみに終始しているのではないでしょうか? 日本伝統工芸展に出品することを目標とされていますが、わずかの入選回数よりも、落選ないし不出品の回数が圧倒的に多いはずです。 今年の日本伝統工芸展においても、入選者には名前はありません。 このようなことを言わなければならないほど、私は冷静さを失いつつあります。そして憂いを感じています。 極力、ウィキペディアでの登場は控えますが、どうか皆様、中立的に何が正しいのか合意を形成していただきたく思います。 皆様の意見が中立的であるならば、当方において仮に不利なことであっても寛容さを持ち合わせております。利用者:大樋年雄 2009年11月10日 (土) 00:57 (UTC)[返信]

  • 2003年3月6日付、朝日新聞朝刊ほか各紙報道記事の概要は以下の通り、
<大樋焼宗家一族と血縁のない大樋焼「本家窯元」を名乗る陶芸家、「十代大樋長左衛門(本名:奈良年郎)」と「九代目大樋勘兵衛(本名:村田元雄)」の先祖が「大樋長左衛門」を名乗り、双方で互いに名称使用差し止めなど称号をめぐる「本家争い」が続いていた。1987年に訴訟に発展し、1992年に和解が成立したが、奈良年郎が改めて提訴したため村田元雄も反訴したが、一審判決は双方の訴えを棄却した。2003年3月5日、裁判長は「いずれかが本家窯元の継承者だと認めることはできない」として両者の共存を認める判決を言い渡した。>

大樋焼関係の事実確認可能な基礎情報は、裁判所ホームページ判例一覧「大樋焼裁判」[2] --Longissue 2009年11月10日 (火) 09:43 (UTC)[返信]


くんくんさんこんにちは。
アカウント記載しようと思ったのですが個人情報ですので、記載するのやめました。
信じてくれないならそれで結構です。
相当書き込みましたがPCの故障等の理由で使っていませんので。
Wikiの仕組みのも興味なく今日にいたります。
すいません、信じてください。笑
--Lemonz 2009年11月11日 (水) 03:22 (UTC)[返信]


  • 追記します。

1999年7月3日付、及び2003年3月6日付の『朝日新聞』朝刊ほか各紙報道記事(一部)は以下の通り、

十代大樋長左衛門が九代目大樋勘兵衛に対し氏名権侵害及び不正競争防止法違反で名称差し止めや損害賠償を求める訴えを起した大樋焼「本家争い」訴訟で、金沢地裁は双方の請求を棄却する判決を言い渡し、裁判官は本家がどちらかは判断せず、事実上、両者の共存を認めた。「双方の共存認める判決 大樋焼本家争い訴訟で金沢地裁【大阪】」 朝日新聞(朝刊)1999年7月3日号

2003年3月5日、大樋焼「本家窯元」を名乗る陶芸家、「九代目大樋勘兵衛」と「十代大樋長左衛門」が互いに名称使用差し止めなどを求めていた「本家争い」訴訟の控訴審判決が名古屋高等裁判所金沢支部であった。大樋焼宗家一族と血縁のない「十代大樋長左衛門(本名:奈良年郎)」と「九代目大樋勘兵衛(本名:村田元雄)」の先祖が「大樋長左衛門」を名乗り、双方で称号をめぐる争いが続いていた。1987年に訴訟に発展し、1992年に和解が成立したが、奈良年郎が改めて提訴したため村田元雄も反訴したが、一審判決は双方の訴えを棄却した。裁判長は「いずれかが本家窯元の継承者だと認めることはできない」として両者の共存を認める判決を言い渡した。「高裁、共存認める判決、大樋焼の本家争い訴訟/石川」 朝日新聞(朝刊)2003年3月6日号、「大樋焼控訴審判決 双方に名称使用上の制限命じる=石川」 読売新聞(朝刊)2003年3月6日号

大樋焼項目の編集に反映すべき事項だと考えます。--Longissue 2009年11月22日 (日) 17:36 (UTC)[返信]

  • 争っている両者が作家名として「大樋」を名乗っているため新聞記事の記載に沿って「本名」を括弧に入れました。大樋姓の宗家が存在し、その他の作家が「大樋」名を使用してあたかも血縁があるかのように名乗っていたことも問題として裁判所資料の記述にあり、十代大樋長左衛門、九代目大樋長左衛門だけの記載ではなく、争いを説明するには「本名」も必要です。十代大樋長左衛門の本名は奈良年郎で、本名も実際使用されています [3] [4]。--Longissue 2009年12月8日 (火) 09:57 (UTC)[返信]
血縁がないことの記述は残しており、さらに本名を記載する必然性が見出せなかったため本名については除去しました。お詳しい皆さんが必要であると判断されるのであれば、記述していただいて結構です。--あるふぁるふぁ 2009年12月8日 (火) 10:15 (UTC)[返信]
  • あるふぁるふぁさん、裁判資料と上記の新聞記事概略を読まれて編集されていますか?この問題は裁判当事者だけではなく、その先代、先々代・・・から名称使用で重複があったため争いになったことも書かれています。新聞記述にも「先祖が」と書いてあります。「確認可能な資料」がキチンと存在しますので編集内容の文言にご注意ください。宜しくお願い致します。--Longissue 2009年12月8日 (火) 10:50 (UTC)[返信]
「先祖」の部分については確認いたしました。現在のLongissueさんの編集で異議ありません。失礼いたしました。
後段の「控訴審判決が名古屋高等裁判所金沢支部であり、一審判決は双方の訴えを棄却した。」は文意が通りません。新聞記事では別日付の紙面であるため一審を知らない人のために説明が必要と考えたのでしょうが、この記事では直前に一審の記述があるため、ここに「一審判決は双方の訴えを棄却した」と記述することは重複であり不要です。
また、2行改行されていないため段落が変わっておらず、そうであれば改行は不要です(Wikipedia:改行時の注意点)。--あるふぁるふぁ 2009年12月8日 (火) 11:10 (UTC)[返信]
Wiki百科事典としてよりよくなれば問題ございません。--Longissue 2009年12月8日 (火) 12:12 (UTC)[返信]
ではその部分のみ戻します。ご指摘ありがとうございました。--あるふぁるふぁ 2009年12月8日 (火) 12:17 (UTC)[返信]

外部リンク節について[編集]

こんにちは。 関連項目に全てを集結させて、外部リンクをなくす事をご提案いたします。 理由は現在HPが存在しないと思われる「大樋長阿弥窯」「大樋焼松雲窯泉喜仙」を追加記載するのが妥当と思われるため。 しかし外部リンクだとリンクがないと思われる「大樋長阿弥窯」「大樋焼松雲窯泉喜仙」が記載できない。 よって、外部リンクではなく関連項目に集結するのはいかがでしょうか?

「九代目大樋勘兵衛窯」リンク有り
「十代大樋長左衛門窯・大樋美術館」リンク有り
「大樋長阿弥窯」リンクなし
「大樋焼松雲窯泉喜仙」リンクなし

よろしくお願いいたします。--Lemonz 2009年11月5日 (木) 07:50 (UTC)[返信]

こんにちは。
返事ありがとうございます。
それでは「九代目大樋勘兵衛窯」「十代大樋長左衛門窯・大樋美術館」「大樋長阿弥窯」「大樋焼松雲窯泉喜仙」
を公平に掲載するにはどのような方法があるのでしょうか?
4つの窯元は大樋焼に関連していると思うのですが、その内の2つがHPがないだけの事で大樋焼です。
よろしくお願いいたします。
--Lemonz 2009年11月5日 (木) 10:29 (UTC)[返信]
陶芸分野は専門外ですので「Wikipediaのルールでは…」というお話しかできませんが、お詳しい方の間で2つの窯元だけを記載することが著しく公平性に欠けるということで合意が得られるのであれば、外部リンクの節を全て除去することになろうかと思います。
外野から見ている限りでは、現時点の「金沢市内では複数の大樋焼窯元が存在し」を「現在金沢市内では『九代目大樋勘兵衛窯』『十代大樋長左衛門窯』『大樋長阿弥窯』『大樋焼松雲窯泉喜仙』など複数の大樋焼窯元が存在し」と改めれば良いように思えるのですが、それでは足りませんか?--あるふぁるふぁ 2009年11月6日 (金) 00:47 (UTC)[返信]
こんにちは。
公平に見えれば意義ございません。
--Lemonz 2009年11月6日 (金) 08:33 (UTC)[返信]
外部リンクがある所に関しては、それを記載し、本文に関しては、あるふぁるふぁさんの文案を採用すことに賛成です。
--くんくん 2009年11月7日 (土) 02:00 (UTC)[返信]
  • 現状の編集で良いと思われます。--Longissue 2009年11月10日 (火) 09:43 (UTC)[返信]
  • 複数の大樋窯がある中で「○代目」を名乗っている「九代目大樋勘兵衛窯」と「十代大樋長左衛門窯」だけホームページが存在し、また大樋焼「本家争い」をした大樋焼産地の中でも中心的な役割を担っているようですので、この2つをリンクすればよいと思います。--Longissue 2009年11月22日 (日) 18:46 (UTC)[返信]

合意形成のお願い[編集]

longissueさん、編集されないで、意見を述べてください。 アイザールさん、意見をお願いします。   Deeean

私はこれ以上は、積極的に意見を述べるのは、しばらく控えます。これまでの様々な意見を熟読した上で、Deeanさんのご意見を順序だててご開陳ください。--アイザール 2009年11月6日 (金) 18:17 (UTC)[返信]

アイザール様、すみません。 焼き物関連に興味があって、編集させて頂きました。 大樋焼、かなりもめているんですね。 longissueさんが主体となって、編集なさっているみたいですね。 事実と異なるような記載があるように思われます。 裁判とかのせる必要あるの? 大樋焼をはじめとした伝統工芸の印象が著しく損なわれませんか? そんな裁判とか紹介しなくてもいいんじゃないの?結局、本家の方が敗訴されてるんだから、不都合じゃないですか。 本家の方もいい思いをしないと思います。 --Deean 2009年11月6日 (金) 18:20 (UTC)[返信]

今気づいたことなのですが、みなさんはlongissueさんの編集態度、内容に否定的ですよね。それなのに、なぜアイザールさんはlongissueさんが独断で編集するのを許可して、私たちが編集するのは許可されないんですか?--Deean 2009年11月6日 (金) 18:42 (UTC)[返信]

率直に言うと、たまたま私が気付いたのがDeeanさんが編集されていたときだからです。どうぞ、このノートで他の編集者と「合意形成」を行って、この記事をどうするかの指針を決めてください(Wikipedia:合意形成)。
ただ散漫に思うところをつぶやいたり、単発的な編集を続けるだけでは、いつまでたっても記事はこのままです。「この部分は、これこれの理由で、こういう文章に書き改めるべきではないか」と議題となる箇所それぞれについてご提案ください。それに対して、賛成案、反対案、対案、改良案などを他の編集者から募り、折衷案となる文章に絞ってください。それが決まれば、それを無視した独断の編集は差し戻されます(もちろん、現状の保護状態の記述がどうであれです)。時間は無尽蔵にありますので、みなさんで情報を持ち寄ってください。
あと、「私たち」とおっしゃっていますが、もしかして、この記事の編集に参加されているアカウントの中に、別人のフリをした同一人物がいたり、個人的に徒党を組んだりしている人はいませんか? もし、そういう人がいたら、それはルール違反ですのでお気をつけください(Wikipedia:多重アカウント)。
陶芸を愛する方たちの、良識を信じたく思いますので、よろしくお願いします。--アイザール 2009年11月6日 (金) 18:54 (UTC)[返信]

単純な話で、お互いの窯元に歴史部分で相違があるのなら、そこの部分は除外して、大樋焼とは?だけを書けばいいじゃないですか? なんか裁判とか、窯元がたくさんあるから、絶対もめますよ。 ここはシンプルに、大樋焼とはいかなるものか、だけを書けば、みなさん円満に解決すると思います。大樋焼の方々にも迷惑がかかりません。 わざわざ、あの有名な大樋年雄氏まで編集に参加してくださいました。 でも、longissueさんはどうしても、大樋勘兵衛窯を入れたいんですね。大樋知邦さんは陶芸されてないし。これは記述の公平性、信憑性に関わると思います。 この際、そんなことを書かないで、宣伝的にしないで、大樋焼が何なのか、だけを書きませんか? 皆さん、意見をお待ちしてます。第三者から見て、この編集合戦は醜いです。--Deean 2009年11月6日 (金) 18:55 (UTC)[返信]

アイザール様 「私たち」と言ったのは、今までに編集に参加された方の総称で言いました。 語弊があり、誤解を招く言葉であったことをお詫び致します。 私は、事実、つい一週間程前から、参加しています。 longissueさん、Hokokokoさん、Lemonz--Lemonz 2009年11月7日 (土) 05:33 (UTC)--Lemonz 2009年11月7日 (土) 05:33 (UTC)さん、くんくんさん、意見お待ちしています。--Deean 2009年11月6日 (金) 19:00 (UTC)[返信]

まあ、それはともかく、その、「そこの部分は除外して、大樋焼とは?だけを書」いた文案をご提示ください(ただ、そのまま記事からここにコピペはしないでくださいね。著作権侵害状態で削除する必要が出るかもしれませんので、やるなら、履歴を継承してください)。ひとまず、私はしばらく傍観いたします。ぜひ、他の編集者にも声をかけてください。--アイザール 2009年11月6日 (金) 19:03 (UTC)[返信]
 Deeanさん、私は長くつづく所にお家騒動はつきものだと思いますし、そのことの記載が問題だとは思われません。天皇家や徳川家のような権力者、トヨタや西部のような企業にもそういった歴史があったことは衆知の事実ですが、もっと大きな流れの中で、過去、そして現在の役割、意義を揺るがせるものではないわけです。大樋焼の技術が各窯元の中で磨かれつづけていれば、おのずと評価はあがっていくものではないでしょうか。しかし、伝統なんとかといった分野においての血縁関係を根本においたどちらが何代目か、直系か、といった騒動には常々虚しさを覚えますね。
 ちなみにDeeanさんやLemonzさんは、大樋年雄さんの編集に少なくとも好意を寄せておいでのようですが、Wikipediaにおいては、自らの記事、もしくはかなり密接な関係にある記事についての編集に深く携わることは推奨されておりませんので、(Wikipedia:自分自身の記事をつくらない)、(Wikipedia:存命人物の伝記)を参照なさることをおすすめします。--くんくん 2009年11月7日 (土) 03:18 (UTC)[返信]
こんにちは。
>大樋年雄さんの編集に少なくとも好意を寄せて、、、、
大樋年雄さんの記事に関して好意ではなく「裁判」という部分を削除しただけです。
削除した理由は大樋焼窯元が複数あるうちの2つの裁判に過ぎないことだから、他、以前にも記載しました理由。
大樋年雄さんの記事はそれくらいしか編集しておりません。
好意ではなく不適切に思われたのが理由です。
--Lemonz 2009年11月7日 (土) 05:33 (UTC)[返信]
こんにちは。
>大樋焼が何なのか、だけを書きませんか?
私はそれで(Deeanさん)賛成です。
--Lemonz 2009年11月7日 (土) 05:45 (UTC)[返信]

アイザールさん、くんくんさん、Deeanさんは中立的、Lemonさん、Hokokokoさんは私は本当に存じ上げません。おそらくファンの方ではあると思います。 Longissueと称する人物は間違いなく大樋勘兵衛と称する同一の人物です。誹謗、中傷、妨害だけに徹しきっています。 ウィキペディアの大樋長左衛門のサイトまで編集してきています。 そして、私は作家は自らが自らの手で創り上げた作品、そして品格が伴ってのことが実力勝負であると申し上げてきました。 過去のノートをもう一度お読み頂きたく思います。--参考 大樋年雄2009年8月06日 (木) 02:07 (UTC)

過去においては、彼らの作家としては紳士的ではない繰り返される行為、誹謗、中層に耐えきれず、法に委ねるしか方法はありませんでした。 裁判を終えて、当方としては争わず、これからの時代はそれぞれの子孫や他の大樋焼に従事する方々のためにも、共存共栄を試みてきました。 しかし、今回のようなことが生じても 作家として品格を保つ、あるいは武士道のような道徳観で、耐えていかなければならないことは理解しております。 しかし、彼らの行為は忍耐の限界を超えるものがあります。 少なくとも大樋勘兵衛と称する方、ないし関係者の活動は作家としての考え方よりも、当方に対する敵対行為のみに終始しているのではないでしょうか? 日本伝統工芸展に出品することを目標とされていますが、わずかの入選回数よりも、落選ないし不出品の回数が圧倒的に多いはずです。 今年の日本伝統工芸展においても、入選者には名前はありません。 このようなことを言わなければならないほど、私は冷静さを失いつつあります。そして憂いを感じています。 極力、ウィキペディアでの登場は控えますが、どうか皆様、中立的に何が正しいのか合意を形成していただきたく思います。 皆様の意見が中立的であるならば、当方において仮に不利なことであっても寛容さを持ち合わせております。利用者:大樋年雄 2009年11月10日 (土) 00:57 (UTC)[返信]

もう一度だけノートに参加させて頂きたく思います 私は本文を変更しませんので、皆様検討してください 本文は意味不明の「歴代陶工」という扱いで、まるで長左衛門という称号が初代、2代だけしか実在していなかったような掲載をしてあります。これは事実とは相違しています。祖父九代長左衛門が他界した直後に、彼らが勝手に名乗った「長左衛門」という称号を裁判において、当然のことながら当方は許され、彼らは使用差止めの結果を受けたために承知の上で意図的に 「長左衛門」の名前を割愛しています。長左衛門を名乗る前の名前(江戸時代、戸籍法はありません)、すなわち作品を制作する以前の名前だけを載せています。ゆえに「歴代陶工」とするしかありません。 正しくは全ての歴代は「長左衛門」として作品を残してきており、大樋美術館はそれらを多く所蔵しており、多数の美術館、コレクターが認めている既成事実でもあります。

現在閲覧されているもの 歴代陶工 ▪ 初代 大樋長左衛門 正徳2年正月21日没(享年82歳) ▪ 2代 大樋長左衛門 延享4年8月23日没(享年62歳) ▪ 3代 大樋勘兵衛 享和2年3月26日没(享年75歳) ▪ 4代 大樋勘兵衛 天保10年10月27日没(享年82歳) ▪ 5代 大樋勘兵衛 安政3年2月11日没(享年58歳) ▪ 6代 大樋朔太郎 安政3年6月25日没(享年28歳) ▪ 7代 大樋道忠 明治27年10月6日没(享年61歳)

正しくは下記のようであって、大樋焼歴代の作品を所蔵する美術館などとも共通見解が取られております。 たとえば、五代大樋長左衛門として作品は多く残っておりますが、五代大樋勘兵衛としての作品の存在が確認されていないという事実をふまえて、あえて 五代 大樋 長左衛門(勘兵衛・土庵)1799~1856 として記してあります。このことも皆様からの合意を得られればと思っています。 

大樋焼歴代 初代 大樋 長左衛門(芳土庵)1631〜1712 ニ代 同 長左衛門(芳土庵)1686〜1747 三代 同 長左衛門(勘兵衛・芳土庵)1728〜1802 四代 同 長左衛門(勘兵衛・土庵)1758〜1839 五代 同 長左衛門(勘兵衛・土庵)1799〜1856 六代 同 長左衛門(朔太郎)1829〜1856 七代 同 長左衛門(道忠)1834〜1894 八代 同 長左衛門(宗春・松涛・以玄斉)1851〜1927 九代 同 長左衛門(陶土斎)1901〜1986 十代 同 長左衛門(年郎•陶冶斎)1927〜

長左衛門を全ての歴代が襲名してきた事実は、大樋美術館はそれらを多く所蔵しており、多数の美術館、コレクターが認めている既成事実でもあります。 文化や美術の辞書として、裁判記録、大樋焼と関係しない子孫が登場する必要があるのでしょうか? どうか合意を計って下さい。利用者:大樋年雄 2009年11月10日 (土) 02:18 (UTC)[返信]

まず、はっきりさせてください。 私は、大樋焼(陶磁器)のファンです。それで、参加させて頂いています。 longissueさん、冷静になってください。 やはり、あなたの編集された履歴を見ますと、「大樋勘兵衛」に固執しています。 それはどう考えても、誰が考えても、大樋年雄さんが言っていることは正しいし、説得力があるように思えてなりません。 大樋年雄さんが、またノートに参加されたみたいです。二回目ですか? 浅はかな知識で、勝手に意見を述べるより、大樋焼を継承されている当事者の方の意見は大変、貴重なものがあります。みなさま、どうかお考えください。この編集合戦で、被害に遭われているのは、間違いなく、大樋焼関係者の方々だと思います。 こんな醜いことはもうやめませんか? これらの編集合戦のせいで、大樋焼の見方が変わってしまいそうで嫌だし、なにしろ、大樋焼関係者の方に申し訳ない気持ちでいっぱいです。大樋年雄さんのノートを見て、編集することに罪悪感すら持ち始めました。 大樋焼直系とか、継承されているのは、どちらかはっきりしないのであれば、記載しない。これが唯一の解決法だと思います。 大樋焼はどんな焼き物でどのような歴史背景があり、生まれたのか。そこだけでいいと思います。 lemonzさんもこの意見には、同意されました。ありがとうございます。

くんくんさん、あなたはどう思い、考えますか? このままだと、大樋焼の歴史観相違により、この事態は永遠に続きます。歴史ある大樋焼のイメージダウンは避けられないと思います。 事実、大樋年雄さんが大樋勘兵衛さんの作家姿勢、態度、モラルを批判しており、大樋勘兵衛窯のイメージダウンは必至です。 なにしろ、美術界で発言力のある大樋年雄さんのご意見です。 大樋勘兵衛窯の知らなくてもいいことを、大樋焼に興味があり、検索した閲覧者はこのwikipediaを通じて知ることになります。間違いなく、マイナスの影響が出ると思います。大樋勘兵衛窯の方々にも申し訳ない気持ちになります。 伝統工芸は本来、そういうものではないと思います。

みなさま、本当にもうやめた方がいいと思います。どう思われて、この編集に参加されているかは存じ上げませんが、もう解決の時期に来ていると思います。 くんくんさん、あなたの意見を聞かせてください。 longissueさん、どう思いますか?あなたの意見を以前と同様のように貫かれますか?--Deean 2009年11月11日 (水) 17:10 (UTC)[返信]

 そもそも陶磁器関連の何々焼といった呼称がまぎらわしさの元だとは思うのですが、例えば、同じ石川県の金沢には九谷焼という磁器がありますが、九谷焼のノートでは古九谷が有田のものであるかどうかの記述について異議が唱えられたことがありました。これは出典の明記を求めるものであったため、現在は実際に出典が明記されていますし、出典に沿った形で記述が変更されています。
 つまり本文中の記載内容に対して疑問があった時は、出典を求める、出典があれば明記される、なければ、該当箇所の記事が削除されるという流れになると思いますが、大樋焼に関しては、Longissueさんが疑問を感じられ、出典を探しだし、実際に確認したために記述変更という流れを一人でやっておられるわけですが、少なくとも裁判関連に関しては、事実のようなので削除されるべきものではないと思います。
 Wikipediaは調べものにも使われたりする性質のものでもあるので、イメージうんぬんの話は重要ではないと思います。仮にLongissueさんが奈良年朗さんが現在大樋長左衛門として活動されていることを抹消されているなら問題ですが、あくまで村田元雄さんとも併記されているわけですし、裁判でもどちらが本家かは確認できなかったわけですよね?というか単純な疑問なのですが、大樋さんという家系は戸籍上存在する、もしくはしたのでしょうか?村田さんも奈良さんも屋号はともかくお名前からは判断できないのですが。九谷焼の加藤土師萌さん、吉田美統(吉田稔)さん、徳田八十吉さんが本家争いなどされたことは、当然血縁関係ではないのでないとは思うのですが、関連のある佐賀県の磁器についても、酒井田柿右衛門や、今泉今右衛門さんの家系がそれぞれの家系で争われたことも聞いたことがありません。大樋さんという家系が存在するのならともかく、両者ともに屋号の継承のみが問題であるのならば本家かどうかなどが争われる必要自体がないように思われます。
 現時点での解決策とては歴代陶工については大樋年雄さんの提示された文案を採用し、脚注でLongissueさんの調べられた記録へのリンクがあるといった形でいいように思います。
 歴史観が異なっていらっしゃるのは、Longissueさんによって初めて私にも知り得るところとなりました。芸術分野に限っても、フランスのサロンや印象派、日本の日本美術院や日展なども方向性の違いや、主要なポストの方の争いによって、団体の分岐や、改組などの歴史があったことはそれまでの事実の積み重ねが記載されてきたことで、現在私たちにも明らかな事実として受け入れられていますし、様々なジャンルや各団体に対して私たちの公平な目が保たれることにもつながっていると思います。
 私の意見としましては、何度か申し上げているように、両論への一端が示されることが重要だと思います。もしも、分岐以前の事実しか記述されないとすると、それは現在までの歴史のつながりが欠けてしまうわけですし、かといって、両方の主張を長々と併記するわけにもいかないからです。--くんくん 2009年11月12日 (木) 23:44 (UTC)[返信]

くんくんさん、ありがとうございます。 大変、丁寧に答えて頂き感謝しております。 それでは、そろそろ折衝案、解決案の文面を模索して行きたいのですが、まず最初に、歴代陶工は大樋年雄さんが述べられたもの、複数ある窯元については、それぞれを明記する。(例えば、大樋勘兵衛窯しかないような書き方はしない) そして、リンク先はどうしますか? 二つの窯元しかHPはないのですが、リンクさせますか? また、大樋家は存在するのかというご質問ですが、longissueさんが大樋知邦さんという方を明記していますが、この方が直系なのでしょうか?現在は、全く違うご職業をされている方らしいのですが、明記する必要はあるのでしょうか? 裁判記録に関しましては、大樋焼の歴史として、そういうものが紹介されるということに対して、違和感を感じています。載せない方がいいような気もします。(longissueさんはどうしても、載せたいみたいですね) くんくんさん、もしよろしければ、解決案として、大樋焼本文を編集して頂けないでしょうか?ご意見、よろしくお願いします。--Deean 2009年11月13日 (金) 14:56 (UTC)[返信]

「歴代陶工」に関するデータは裁判所ホームページ、判例一覧「大樋焼裁判」 [5]が実際、裁判で使用した資料ですからデータとしては確かです。大樋知邦氏は大樋家直系子孫で大樋家当代当主 [6]であり、その記載とも一致します。裁判資料によると大樋家の血縁者のような紛らわしい問題、大樋家直系代々の墓の問題まであったそうです。裁判資料をよくご覧ください。 --Longissue 2009年11月22日 (日) 17:56 (UTC)[返信]