ノート:国吉康雄/改稿案

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太平洋戦争と国吉[編集]

1941年日米開戦の際、国吉はニューヨークに住んでいたためにアメリカ西海岸の日系人強制収容の対象にはならなかったが、敵性外国人として当局によって取り調べやカメラ双眼鏡の没収、またニューヨーク市外に出る際には許可が必要といった措置を受けた[1]法律上はアメリカ国籍を取得できなくとも、既に「アメリカ人画家」としてのアイデンティティを持っていた国吉は傷ついたプライドを回復し、また自身がアメリカに敵対しない事を証明する必要に迫られた[2]。 一方で国吉は自らを育んだアメリカの民主主義を守る必要を感じ[3]満州事変以降の日本の中国侵略に対しては日米開戦前から疑問を抱いていた[4](※客観性に問題あり、評論者の憶測にすぎないのでは?)、

1941年12月12日、国吉はまずニューヨーク在住日本人美術家委員会の名で声明を出し、日米戦争に際してアメリカを明確に支持すると表明した。これには保忠蔵トーマス永井鈴木盛ロイ門脇といった在米日本人・日系美術家が加わった[5]。この他にも国吉は同様の声明をルーズベルト大統領ニューヨーク州知事、更に多くの知人宛てに送った[6]

やがて国吉はアメリカの戦時情報局(OWI)から対日プロパガンダの仕事を受ける。1942年ハワイからの対日ラジオ放送に参加し、アメリカ民主主義の正当性を日本に向けて主張した[7]

一方で当時の国吉には在米日本人・日系人社会(特に西海岸)との意識のずれがあったという指摘がある。国吉は在米日本人・日系人社会について、閉鎖的である、本国政府に従順すぎるといった批判を行っている[要出典]が、日米戦争に際してアメリカ政府側に無批判に立ち、他の在米日系人に対して優位な感情を持つ傾向は、国吉のみならず東海岸に居住していた日本人・日系人に共通して見られた事でもあった[8]

また国吉の対米戦争協力の個々の行動についても批判がある。OWIから「日本側の残忍な拷問や虐殺」のシーンをポスターに書くよう要請された際、国吉はこれに応じて日本兵が乳児や女性を殺害しているなどのシーンのポスターを描いたが(具体的な事例の紹介が必要)こうしたものは批判精神を欠いた、ただ残虐なだけのものであった(こうした残虐なポスターは結局採用されなかった)[9]。また、インタビューの中で国吉は(日本兵の士気を削ぐためとはいえ)、(※事実記載のみが必要)日本の民間に対する爆撃を肯定しかねない発言を残している。これは日本の支配者側として戦争を遂行している日本の軍国主義者と、被支配者側である日本の一般国民を区別している国吉の基本姿勢[要出典]とも矛盾していた[10]

この時期の国吉は不安と孤独感に苛まれ、戦争の悲惨さと虚無感が彼の作品に影響を与える。国吉の代表作の一つである「誰かが私のポスターを破った」(1943年)は、アメリカの好戦的なナショナリズムや、国吉らのリベラル派画家への反感が背景にある。一方で国吉は静物画での比喩的心理表現や造形的な楽しみを見出し、「110号室」(1944年)はカーネギー・インスティチュート全米絵画展で1等賞となった。終戦前後になると国吉は貧民層を描いた「一日の終わり」(1945年)など、現実に回帰した作品を手掛けた。また「飛び上がろうとする頭のない馬」(1945年)や、「祭りは終わった」(1947年)では、排外的になるアメリカの世相への失望を表したとも言われる[誰?][11]

戦後~晩年[編集]

戦後の国吉はアメリカの美術家に対する公私の援助拡大を志向し、美術家組合(artist equity association)を1947年に設立して自ら会長となった。国吉のもとで美術家組合は急成長し、ニューヨークが世界の美術界の中心になっていく事に貢献する。一方で戦後アメリカの激しい反共主義を背景に、国吉や組合も政治的な攻撃を受けたが、国吉はこれを冷静にかわした[12]※具体例を1948年ホイットニー美術館で国吉の回顧展が開かれた事は、アメリカ美術界で国吉が確固たる地位を得ていた証であった[13]※近年のWangらの心理分析の研究が抜けている。

国吉は1950年ごろから体調を悪化させていく。1952年6月にはアメリカは移民帰化法を裁可し、国吉らアジア人移民一世にもアメリカ国籍取得の道が開けたが、国吉は国籍取得手続きの終了を待つことなく、1953年胃癌で死去した[14]。国吉は晩年、もう一度日本に帰って回顧展を開き、自身の作品を日本に問おうと希望していたが[要出典]、叶わなかった[15]

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  1. ^ 小沢160-161頁、山口166頁
  2. ^ 小沢161-162頁、山口149-153頁
  3. ^ 山口157-159、166-167頁
  4. ^ 久我46頁
  5. ^ 山口149-150頁
  6. ^ 山口150、153頁
  7. ^ 山口153-167頁
  8. ^ 小沢162-165頁
  9. ^ 山口171頁
  10. ^ 山口170頁
  11. ^ 山口173-175頁、177-193頁、村木84頁
  12. ^ 山口201-215頁
  13. ^ 山口215-218頁
  14. ^ 山口231-236頁
  15. ^ 村木84頁

--以上の署名のないコメントは、124.97.184.30会話/Whois)さんが 2014年3月8日 (土) 06:55 (UTC) に投稿したものです(122.29.157.5による付記)。[返信]

ログインの勧め[編集]

本ノートの作成者に自己同一性を測るためにログインと相互のCUを提案中。--Watson system会話2014年3月8日 (土) 11:43 (UTC)[返信]

上記案について意見を加筆、オレンジ部分
評:事実記載と評論家および執筆者(IP氏)の意見や憶測が混在している。それらは最小限に抑え、事実記載のみに限定化の必要あり。ただしノート:国吉康雄にも記しましたが、今回のようにまとまった改定案を作ってそれを張り替える方法には反対します。--Watson system会話2014年3月13日 (木) 23:22 (UTC)[返信]

WP:SOCKで無期限ブロック中の利用者:Watson system会話 / 投稿記録 / 記録はもう永久に議論に参加する権利はございません。ブロック解除依頼の手順はWP:GABを参照してください。WP:RULES 
うーぷすうーぷす会話2014年8月31日 (日) 09:59 (UTC)[返信]
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国吉康雄の記事内容の改善の為のノート[編集]

このノートは、国吉康雄の記事内容改善のためのものですので、記事内容改善に関する議論のみをお願いします。ありゃこりゃ会話2014年11月14日 (金) 22:54 (UTC)[返信]

利用者:ありゃこりゃ会話 / 投稿記録 / 記録さんは無期限ブロックされました。詳細はLTA:RYOTAをご覧ください。--123.225.83.13 2015年1月14日 (水) 20:16 (UTC)[返信]