ノート:吉田享二

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「和田山町本町公民館」の設計者は岡田信一郎でも吉田享二でもなかろう。こちらのページ[1]の記事(一の湯の件)から勘違いしたと思われるので、本文から削除します。 --忠太会話2013年6月11日 (火) 11:14 (UTC)[返信]

城崎復興との関わり[編集]

本文に「北但馬地震(1925年、大正14年)後、早稲田大学の復興グループとして参画。大谿川沿いの弓形橋群と王橋で岡田信一郎とともに城崎の復興に関与していることがわかる。 城崎温泉一の湯・まんだら湯、また城崎小学校の設計者として町史に記されている。」とありますが、下記の点が気にかかりますので、ご教示をお願いします。

  • 「早稲田大学の復興グループとして」ということは、大学の事業としての取組だったのか。
  • 大谿川沿いの弓形橋群と王橋の建設に関わったという史料はあるのか。(こちら[2]のP12にも書いてはありますが、推測のみで裏付け無し)  --忠太会話2013年6月11日 (火) 12:20 (UTC)[返信]
上記本文の典拠が見当たらず。あやふやなネット情報を継ぎ合わせて書いたものと思料されるため、修正しました。(北但震災記、城崎町史、吉田享二先生追想録などを参照済み) --忠太会話2013年6月22日 (土) 12:55 (UTC)[返信]

小野田セメント[編集]

山陽小野田市の太平洋セメント(旧小野田セメント)事務所[3](1928年、近代産業化遺産)は旧東京工業試験所に通じる趣きがあります。 --忠太会話2014年8月29日 (金) 12:22 (UTC)[返信]