ノート:佐伯惟教

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疑問点[編集]

西園寺氏の関連項目に佐伯惟教の名を加えるにあたって)帰参時期を確認しようとしたところ、いくつか疑問点が見つかったので、まとめておきます。

苗字の読み仮名
大分歴史事典』の佐伯惟教の項(にかぎらず中世の豊後佐伯氏)では「さいき」としています(一方、古代佐伯氏は「さえき」としています)。ただし、この記載だけでは「さえき」を誤りとできるかどうか分からないので、各記事で「さえき」の表記もあえて残しています。
姓氏対立事件までの動向
『大分歴史事典』では二階崩れの変での事績について裏付け史料はなく、史料的には1556年の姓氏対立事件が初見であるとしています。
「亡命」・「逐電」
「亡命」というのは漢和字典や国語辞典によるともともとは戸籍を脱して逃亡することで、新字源や広辞苑によると史記や万葉集にもみえる古い言葉のようですが、佐伯惟教の場合に妥当な表現でしょうか。
「逐電」という表現も多少引っかかります。このあたりは当時の大友義鎮と佐伯惟教の関係にもよるかもしれません。たとえば、佐伯惟教がこの時点では臣下というより従属的同盟者であったとすれば「逐電」という表現には無理があり、より中立的な「(豊後)退去」のほうが妥当な気がします。
立花鑑載討伐への参加
『大分歴史事典』では佐伯惟教の帰参は立花鑑載討伐の翌年、すなわち1569年としています。
「亡命生活」
1568年の立花鑑載討伐に参加していたとすれば、佐伯惟教が大友氏から離れていた期間は「13年以上」ではなく、約12年になります。帰参が翌年だとすれば確かに13年です。なお、佐伯惟教に関する記載の出典は不明ですが、緒方洪庵では帰参を1571年としています。

なお、武家家伝 佐伯氏も参照しましたが、こちらは参考資料として大分歴史事典と佐伯市史を挙げています。以上、ちゃんと調べたわけではありませんが、とりあえず気がついた疑問点を挙げておきます。--KAWASAKI Hiroyuki 2010年7月10日 (土) 05:12 (UTC)、2010年7月10日 (土) 08:17 (UTC)加筆[返信]

「佐伯」の読み仮名[編集]

218.110.44.42さん、加筆どうもありがとうございます。とはいえ、どの程度信頼できるかは検討が必要でしょうが、専門家によって執筆された二次資料である『大分歴史事典』を出典も示さずに否定するのは独自研究でしかないと思います。ノート:豊後佐伯氏をご参照ください。--KAWASAKI Hiroyuki 2010年7月24日 (土) 06:53 (UTC)[返信]

終了 現状は「さえき」を通例としつつ脚注で「さいき」を併記しており、妥当だと考えられます。なお、前述のノートはノート:佐伯氏 (豊後国)#「佐伯」の読み仮名に移動しています。 --KAWASAKI Hiroyuki会話2015年5月8日 (金) 06:05 (UTC)[返信]