ノート:伊集院忠棟

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伊集院忠棟の石山本願寺参拝について[編集]

伊集院忠棟が一向宗信徒であるという説は、鹿児島大学教授であった桃園恵真(故人、敬称略)が提唱された物ですが、忠棟自体に関する良質な史料が殆ど残っていないので、謎が残るところです。

ところで「伊集院忠棟夫妻が石山本願寺を参拝し、親鸞の木像を強奪した」話は、お話としてはおもしろく読ませていただいたのですが、重大な矛盾があります。

  • 伊集院忠棟は石山本願寺が存在したころに、摂津国、或いはその近隣を訪れた記録がない

ということです。状況から考えても、忠棟が豊臣秀吉に重用されて京阪地方で活躍したころには当然石山本願寺は焼亡して無くなっており、跡地には大坂城が建っている状態ですので、夫婦で石山本願寺を参拝するというのは物理的に不可能です。一方、石山本願寺が建っていたころには南九州はまだ戦国時代の大混乱の中にあり、家老であった忠棟が夫婦で畿内に参拝という物見遊山に出向けるとは思えません。

この話には何か裏付けとなる史料があるのでしょうか。皆様のご意見をよろしくお願いします。--こぶまき 2008年9月23日 (火) 07:59 (UTC)[返信]

この文章を書きましたhesollaです。 この内容の出典ですが、郷土研究家の方だと思われますが橋口嵐山氏(本名:橋口与蔵)が1970年代に「宮崎日々新聞」に寄稿、掲載されたものを個人にて出版しなおされた「諸県興亡」という本です。橋口氏がどの史料を元にこの本を書かれたのかは記述されておりませんので元の出典に関しましては残念ながらわかりかねます。橋口氏の著作には、ネットで調べただけですが「薩摩藩禁制の真宗」、「動乱の諸県」という著作があるようでそちらに同様の研究内容および史料の記述もあるかもしれませんが、地方誌であり、またこれらも1970年代に書かれているため入手は困難な状況です。

橋口氏独自の入手史料等あるのか、あるいは氏が時系列、場所等の勘違いをされている可能性もあるかもしれませんが現状では分かりかねますので、出典として不十分なようでしたら消去してくださっても構いません。--hesolla 2008年9月24日 (水) 10:36 (UTC)[返信]

こんにちは。早速の御回答誠にありがとうございました。地元の郷土史家が書かれた本に載っている説で根拠不明とのことで残念です。また橋口嵐山(橋口与蔵)氏のご指摘の本は確かに都城市立図書館に所蔵があるのみで、国会図書館や諸大学図書館にも所蔵が無く、他都道府県民が追跡確認するのはかなり難しい状況であることも確認させていただきました。ただ、全く史料がない状況から書かれた話でもないようなので、逸話として別項で取りあえず残しておくのが良いと考えますが、如何でしょうか。--こぶまき 2008年9月24日 (水) 13:12 (UTC)[返信]
早速のご意見ありがとうございます。逸話という形で問題ないようでしたら、そのように書き直させていただこうと存じます。ただ、こちらのノートにこぶまき様が記述されましたのがまだ昨日のことですので、他の方からの情報等寄せられる可能性や反対意見等もあるかもしれませんので、一月ほど様子を見た上で何ら問題ないと判断できましたら修正したいと考えますが如何でしょうか。--hesolla 2008年9月24日 (水) 13:43 (UTC)[返信]
では、1ヶ月後の10月24日を目処に、再編集をよろしくお願いします。--こぶまき 2008年9月25日 (木) 03:36 (UTC)[返信]

はじめまして、紹益と申します。上記の件について、私が調べたことを申し述べます。①神道大系文学編五参詣記(昭和59年 神道大系編纂会)に「中書家久公御上京日記」が収録されています。これは、島津貴久の四男である家久が、天正三年に約五箇月かけて九州、中国、近畿の著名な社寺を参拝したことを記した日記です。その解題に、「天正二年ころ、島津氏家臣の間に伊勢参宮を中心とした上方の社寺参詣の希望者が多かった、和田某もその一人であった。島津義久は、伊集院忠棟上洛の随従を条件として、これを承認した。」とあります。従って、石山本願寺との関係は不明ですが、当時、伊集院忠棟が上洛したことは事実ではないでしょうか。②季刊南九州文化第四号(昭和55年)に「北郷時久と伊集院忠棟(下) 神谷正雄」が収録されています。それには、「忠棟が石山本願寺から強制的に入手した仏像は、庄内の乱後、忠棟の家臣により持ち出され、現在、熊本県八代市の正教寺に現存している。」と記されています。正教寺には何らかの史料が残されているのではないでしょうか。--紹益 2008年10月5日 (日) 04:00 (UTC)[返信]

紹益様、お調べいただきましてありがとうございます。忠棟が石山本願寺に行ったかどうかは判然としないまでも、上洛したことと、仏像を無理強いして入手したことは間違いないようですね。逸話として書き込む上で心強いものとなりました。庄内の乱の私のミスの件も含めまして、本当にありがとうございました。--hesolla 2008年10月7日 (水) 12:49 (UTC)[返信]
入手経緯はさておき、親鸞の木像が正教寺にあるのは確かなようです。参考:くまさん倶楽部2003年9月1日号P02--丁度氷 2009年12月5日 (土) 06:42 (UTC)[返信]

hesolla様、 蛇足ながら付記します。庄内の乱の資料の1つに、「庄内陣記」があります。著者及び成立年代は不明ですが、明和年間以降と推定されています。島津久光旧蔵の玉里文庫本で、現在は鹿児島大学図書館が所蔵しているものを北川鐵三が翻刻したものが、「島津史料集」として昭和41年に刊行されています。その中に、「忠棟は一向宗に帰依して、数代不易の禅宗を改めて国禁を侵し、彼宗旨に念執浅からずして、寄りより彼僧等を国中に引き入れ…」と記されています。編集される上で参考にしていただけると幸いです。--紹益 2008年10月19日 (日) 06:39 (UTC)[返信]

紹益様、度々ありがとうございます。蛇足などととんでもないです。10月5日の書き込みにてお教え戴いた情報と絡めまして、忠棟が一向衆であった可能性が格段に上がったように思いますし、それは忠棟及び庄内の乱を今後考察していく上で非常に重要な情報であるように思います。何より、まだまだ不勉強な私にとっては値千金の価値ある情報で非常に感謝感激しております。--hesolla 2008年10月19日 (日) 15:18 (UTC)[返信]

本文の記述について[編集]

主な記述の出典元が庄内陣記や庄内軍記であるとのことですが、庄内軍記は半世紀以上後に、庄内陣記は100年以上後に島津氏側の視点で書かれた軍記物です。そのまま本文にするのは問題があるのではないでしょうか。--模様砂漠 2008年11月4日 (火) 13:02 (UTC)[返信]

  • 庄内の乱に関する研究の際は、「庄内戦記」、「庄内陣記」が一番詳しく書かれているということもあり(他に詳細に書かれた史料が島津家が東京大学側に売却した大量の史料の中にまだ埋もれているかもしれませんが)、現状この2誌を引用するしかなく、またそれが一般的であると考えます。私達は学者ではありませんので、一般的のそれを超えた分を記述することはできません。またそれは違反行為である独自研究の記述にもなるかと存じます。史料自体に信憑性があるかないかの話になれば世の中にある史料のすべてが疑わしいとも言えるものでしょう。また、間違いであると言いきれるものでもなく、書かれた当時は信頼のおける文書等の史料が存在していたかもしれません。実際、宮崎県小林市の歴史を記した小林市史という本に目を通したことがありますが、幾つかの文章は当時の市長である志戸本氏(先祖は土豪との事)の蔵にあった文書等を引用したとあり、そういった一般に姿を現さない、あるいは失われた史料等もあってしかるべきで、それを両誌が引用した上で書かれた可能性も否定はできかねます。確かに軍記物ではありますが、これが想像で書かれたとも書かれてないとも現状は誰も言いきれないところでしょう。ですので私は、現状一般的であるこの両誌から用いることは現段階では何ら問題ないと考えます。また、これらの件に関しまして新たな発見がなされた場合には当稿を改めればよいのではないでしょうか。--hesolla 2008年11月4日 (火) 14:36 (UTC)[返信]

ちょっと言葉足らずでしたが、庄内軍記・陣記は生の史料であって、史料批判を経ていないものですのでそのまま使うのにはちょっと問題があると思った次第です。Wikipedia:信頼できる情報源には「一般に、ウィキペディアの記事は一次情報源に基づくべきではなく、むしろ一次情報源となる資料を注意深く扱った、信頼できる二次情報源に頼るべきです。」とありますので、むしろ忠棟について書かれた研究書によって書かれるべきではないでしょうか。また、根白坂の戦いの記述も余所とはだいぶ違うようです。--模様砂漠 2008年11月4日 (火) 15:37 (UTC)[返信]

  • 確かにおっしゃる通りです。ただ、「信頼できる二次情報源」=「研究書に書かれている内容」というわけではないはずです。例えば、研究結果が時間を経て間違いであったとする場合があるのを鑑みれば、そこには多分に研究者の結論という主観的な内容が記述されていたという捕え方もできます。Wikipedia:信頼できる情報源には「編纂された全集の中に登場する歴史文書」という項目もあります。現状入手可能な「庄内軍記・陣記」とも疑わしいような発行元から刊行されたわけでもありませんですし、いまだ研究材料とされているということは少なくとも否定には至っておらず肯定する向きもあるということでしょう。史料批判を経なければ信頼を置けないというのも一理あるかと存じますが、それを経なければ情報源たらずと絶対視するのも幾分乱暴かと存じます。確かにそれなりの注釈等はあってしかるべきかもしれません(それゆえの脚注ともいえましょうが)。しかしながら絶対的な研究結果が果たされていない現状におきましては、今ある情報をもって項目を記しても百科事典の役割は損なわれないのではないでしょうか。所詮は個人の見解に過ぎませんが、私はそう考えます。-hesolla 2008年11月4日 (火) 17:45 (UTC)[返信]

現在の記述では、その「庄内軍記・陣記」の記述がそのまま事実として書かれている点を問題視しています。この書き方では、この時代の一時史料や諸研究より「軍記・陣記」の記述が正当であるという『独自研究』となります。『軍記・陣記』は研究者の方も利用する重要な史料ですが、伊集院忠棟の生涯に関係する唯一の史料ではありません。たとえば陣記は忠棟成敗を忠恒・義弘が共謀の上で義久の承諾を得て行ったこととしていますが、義久は石田三成宛書状で「忠恒の単独犯行」と主張しています。これら相反する記述を検討するのが研究者の仕事です。しかしもしもこの項目で陣記の内容が間違っていても陣記全体の内容が間違いであるということにはなりません。史料の信頼性というのはそういうものです。ただ、この陣記・軍記の記述を確定した事実のように書くことが問題であるということです。例として源義経をあげますが、「義経記」や「平家物語」、「吾妻鏡」の内容をそのまま事実であるとして書かれてはいません。--模様砂漠 2008年11月5日 (水) 04:47 (UTC)[返信]

  • おっしゃることがようやく理解できたように思います。模様砂漠 さんが他の方の大量の書き込みをノートにおいて議論なさらず削除されておりましたので、基本方針である「他の参加者に敬意を払う」に反するのではないかという思いがあり、その人となりに良い印象を持ち得ませんでしたのでいらぬ先入観を抱いていたようで、かつ多分に余計な書き込みをしてしましました。失礼いたしました。さて、おっしゃっている事に関してですが、軍記、陣記に於いての説などの別項を設け、そちらに現状の記述を移すなどされてもよろしいかと思います。私は残念ながら「信頼できる二次情報源」につきましては詳らかではございませんので、その点におきましては大量に削除された文章も含めまして模様砂漠 さんにお任せしたく存じます 。また、ノートにおきまして議論なさる場合は以下のような、{{告知}}を本文ページに貼られるなどされた方が宜しいかと存じます。私はたまたま自身の投稿記録からこのページにおきます(最新)の文字が消えていたため気付きましたが、おそらく殆どの方が気付いてらっしゃらなかったと思います。では、私の意見は以上という事でお願い致します。-hesolla 2008年11月5日 (水) 14:54 (UTC)[返信]

すいません、大量の書き込みを議論もなく削除したというのは、「徳川家康の影武者説」の記述ですか?あれはよく見ていただければわかるのですが、故人が「自分の説に対して自分の死後に行われた批判」に対して反論しているという奇怪な設定の文章です。しかもノートで一ヶ月前にコメントアウトする旨の記述があり、それ以降はコメントアウトされていた部分です。さらに一ヶ月間に渡って無反応であったので削除が適当だと思って削除したまでです。それ以外では華族の項で叙爵に関する部分を整理加筆したところ、削除に見える部分があったとも思いますが、他には思い当たりません。このページでは節の追加と、時系列にそった文の入れ替えをしましたので、それが削除に見えたのでしょうか。
質問のテンプレートのご紹介ありがとうございました。私も手元の資料が十分とは言えませんので加筆依頼を出しておきます。--模様砂漠 2008年11月5日 (水) 13:44 (UTC)[返信]