ノート:三上

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表現の恣意性について[編集]

文中に「今日では馬にのって移動する者も少ないが、これは「公共交通機関を利用しての移動中」などに置き換えることも出来る。」とあり、言わんとする所はよく判るのですが、「公共交通機関を利用」する時間をも有意義に利用すると言う啓発的発想に置き換えることになってしまい。乗馬の姿勢や運動及び疲労感などの運動感覚的要素、集中や人馬の一体感などの心理的要素を踏まえての作文三上と解釈することを、無意識のうちに否定している様に思われるのですがいかがでしょうか? 運動感覚的には「オートバイの運転中」を馬上と置き換えることも出来ると受け止める人があったとして、どちらの解釈にも一理在り決して否定できるものではありません。かと言って「オートバイの運転中」を併記するまでもないことは言わずもがな。恣意的としてただ削除してよいものか、月一利用者には判断がつきません。ウィキペディアは何ではないかでも読んで来ますのでご意見いただければ幸いです。--Monte Fango 2011年12月6日 (火) 08:21 (UTC)[返信]

該当箇所記述者です。その辺りで「公共交通(など)」となっているのは結果論みたいなもんで、馬であれば進む方向を指示してやれば障害物は勝手によけるし進路に問題があれば勝手にとまるのではありますが、現代の自動車にせよ自転車にせよ手前で運転しているのに上の空で考えてたら危ないことこのうえないし、通俗的にはお抱え運転手を擁して他人に運転させている移動中に考えるというのは無理があるし…で、消去法で行けば「公共交通(など)」位しか残らかろうと考えての記述だったのですがね…そこを啓発的だとかなんとかだというのは、読者がどう受け取るかの意識レベルの問題でしかなく、それは記述者の側からしてみれば「読者のクオリアは責任の範疇にない」としか申し上げようがない(この辺りは免責事項にも掛かりそうですが)事柄かと存じます。そこを想像たくましくして(私的な想像を含んだ独自研究を根拠として)恣意的だと決め付け除去や編集をすれば、混乱と批判しか呼ばないのではないのでしょうか。ところで三上の馬上は、乗馬競技や早駆けなんかの激しげなそれではなく「馬の背に揺られて遥々と」といった風情の牧歌的なそれだと解釈しているのですが、そんなスポーツ乗馬みたいな解釈をしている文献があるのでしょうか?--夜飛/ 2011年12月6日 (火) 08:56 (UTC)[返信]
早速のご意見ありがとうございます。「馬の背に揺られて遥々と」だと私も考えますが、馬に乗るときには乗馬競技や早駆けなんかの激しいものでなくとも馬の動きに合わせて体重を移動しないと馬も嫌がりますが、自分のお尻も痛くなります、まさに呼吸を合わせるものです。更に付け加えますと、乗馬の姿勢は交感神経、副交感神経の働きを調整するとの記事も読んだことがあります。馬に乗ることがない人でも、帰宅後にトイレに入ったときや就寝前にある種の安堵感や気の抜けるような感覚を覚えたことのある人は居るのではないでしょうか?枕上、厠上にも同様の身体的反応があるのかも知れません。それがリラックスの効果なのか、ある種の心理状態や脳波が出るのか私は知りませんが、何かを真剣に考えている人が、ふとその緊張感から開放された瞬間に良い着想に恵まれる、という話は良くあることです。実は私が問題の記載に違和感を覚えたのは、この身体的条件や心理的条件への考慮が見られないからです。第一、百科事典に慣用句の表現を置き換えをする必要が有るのかという問題でありウィクショナリーにでも当該ページを作成してリンクする方が曖昧さ回避として適切なのではないですか?。--Monte Fango 2011年12月7日 (水) 12:14 (UTC)[返信]
むしろそのような、私的な見解(「身体感覚や心理的条件が重要なのかもしれない」という憶測)を放り込んでしまうのはどうか(WP:NOR)と思いますが…また、啓発的だとか何とか称していたの(Monte Fangoさんの主張?)は何処いっちゃったのですか?吉田兼好が緩々随筆を仕上げるように心に浮かんだそこかしこを小生に投射され意見を求められても困るのですがね…元より「読者が思い描くあれやこれやは記述者の責任の及ぶところではない」し、まして何よりMonte Fangoさんの見解が世に遍く大衆の総意や大勢だというのでもないのですから(なんか「Monte Fangoさんが群れている図」を勝手に想像してムズムズ中)。
なお慣用句を置き換える必要性の有無に関しては、現代意訳の範疇でしょう…床の上でモヤモヤするのも便所でボーっとするのも、おおよそ人間である限り普遍的ですが、馬上に揺られて移動する(まあ揺れに身を任せるのか乗馬姿勢を取るのかは兎も角として)のは、ほとんどの現代人は体験しない(いわゆる体験乗馬みたいな短時間の乗馬では交通移動を含まず意味が違いましょうし)でしょうから。まあ、Monte Fangoさんはご自身が電車に揺られても名句を思い付いたりしなかったなど私的な体験を通して公共交通機関を利用しても文章が浮かんでくるかどうかには懐疑的…なのかもしれませんが、それはそっと小生の心にしまっておきましょう。--夜飛/ 2011年12月7日 (水) 22:16 (UTC)[返信]
だから、同列だって言ってるの、もっともらしい理由をつけたところで、どれも同じ「バイクに乗っているとき」と私が付け足しましたか?いらない文章なのです。原文に「風呂の中は考え事するのにちょうどいい」と無いんだから風呂は関係ない。公共交通機関も関係ない。自分に有用なように置き換えをするのは、各自の自由だとしてWikipedia上ですべきことではない。貴方の持ち出す公共交通機関はどんな独自研究(WP:NOR)以外の研究やら発想に基づいて一般的と主張するのですか?風呂で作詞する人も居るだろうし、釣りをしながら考え事する人もいる。で?作文三上とどのような関係が?意訳の範疇とやらで風呂やらバイクやら入れられたら迷惑です。自身の経験とかまったく関係ないのです。だから、最初から恣意的ですよ。と指摘しているのです。まぁ後半部分はご自身が恥ずかしくなく書いていらっしゃるのでしょうから、そのまま晒してご自身の励みにでもしてください。--Monte Fango 2011年12月8日 (木) 15:50 (UTC)[返信]
(インデント戻し)まあ小生としても、最初からただ現代意訳を持ち込むのはどうかと問われれば「在っても無くても」と答えたところですが、Monte Fangoさんが奇妙な混ぜ返しから入るもんだから、むしろそこまで逸脱視点を抱く読者がいるのかと驚き禁じえない次第でありまして、欧陽脩のいた当時の交通事情から鑑みた現代意訳はなおのこと外すべきではないのじゃないかと危機感を抱いています。それこそバイクだ(スポーツ?)乗馬(馬に乗る行為に主体があって移動することは重要じゃないケース)だなんていう視点で議論を混ぜ返す視点が(Monte Fangoさんだけかもしれないが)あるならば、現代意訳は必須かなあと感じる次第。まして啓蒙的だとか何とかという主張にいたっては行間読み過ぎな感もあり、それこそウィキペディアの記述者側が如何こう対応する必要も無いんじゃないかな?と思うところです。
もっとも実際問題として、記述側に含まれる「など」が示すとおり、公共交通機関での移動は「ほんの一例」に過ぎず、要はあまり激しくない緩々とした移動に際して耕筆に勤しむイメージさえ抱いて貰えればいいのですから、そこを「など」に入る以前で文章を追うのをやめてしまって『「公共交通を利用して思索をめぐらそう」と主張している』かのように解するのは、これもまた記述者としては汲む必要の無い読者側の態度のように感じます。--夜飛/ 2011年12月8日 (木) 22:20 (UTC)[返信]
なお、風呂云々に関しては、意訳にすらならんでしょう。そんな(相手の言質も無い)たとえ話や同一視を唐突に持ち出すのは、ぶっちゃけていえば詭弁の域にしかないので無視しました。あしからずご了承ください。--夜飛/ 2011年12月8日 (木) 22:30 (UTC)[返信]
毎度、早々の返答痛み入ります。現代意訳が公共交通機関でなければならない理由が明示されていない以上、夜飛さんの言は詭弁の域にも達し得ないのですが、もうその心配をする必要もなくなりました。Wikipedia内に「作文三上」の記述を見つけましたので曖昧さ回避としては、そこにリンクを貼って出来上がりです。閑話休題。これまでの経緯がありますから今すぐに編集することは避けて明日にでも内部リンクを貼ることと致しましょう。今回のやり取りを通じまして新しい発見もありましたので御礼も含めて、欧陽修ページに件の公共交通機関を持ち出す際には、「(馬に乗る行為に主体があって移動することは重要じゃないケース)だなんていう視点で議論を混ぜ返す」と仰るからには欧陽脩は馬に乗ること以上に移動を指して馬上と表現し「要はあまり激しくない緩々とした移動に際して耕筆に勤しむ」それは激しいものではなかったとする論拠を明示願いたいです。私は欧陽脩が激しい乗馬を示唆したとは一度も言っていませんし、馬に小一時間も乗ると走らせなくとも体は火照り適度に消耗するという事実を言ったまでで、現在でも思いをめぐらすのに散歩や自転車を愛用する人は居るでしょうに、それらとは明確に違っているのでしょう。編集とは関係ありませんが、私はいろいろな経験の不足の為か言語活動から身体感覚が喪失し、それがゆえにネット上などで心無い発言が絶えないのではないかと危惧し、夜飛さんではありませんが、危機感を抱いています。が、私見を記載しようとは最初から考えても居りません。なぜならWikipediaは百科事典だからです。Wikipediaの記事である為に公共交通機関の記載が必要な理由と出典を明記することを望みます。--Monte Fango 2011年12月9日 (金) 03:36 (UTC)[返信]
現代意訳が公共交通機関でなければならない理由が明示されていない」とのことだが、悪いがいの一番に理由を述べています。それを無視しての発言、不誠実ではありませんか。
まあ性質として詳しく述べれば、移動という行為の途上において当人が能動的なのか受動的なのかの類似性を持って、あるいは現代的観点において通俗的な概念として扱いうるかどうかで「など」と括りつつ一例を挙げた理由を申し上げたのですがね。それを無視して要素も何も違う事柄(スポーツ乗馬的なものとかバイクを運転するとか)や集中や人馬の一体感とか副交感神経の何やかんやな(あからさまな)独自研究を無制限に同一視する行為をさして詭弁だと指摘しましたが、いわんや詭弁か否かは程度問題を含んでおり、逆に程度問題を一切無視して同一視に走れば詭弁以外の何者でもないでしょう。当初からどうも的を得ないMonte Fangoさんの発言が奇妙なので気には掛かっていたのですが、如何せん斯様に場当たりな発言はいただけません。
まあ、馬上槍試合で名文浮かぶオモシロ文豪がいたらそれはそれで興味深い限りですが、実際問題として自動車の運転に集中すべき状態やスポーツ乗馬で馬の手綱を握って進行方向に集中しなければならない状態なんかでのうのうと文章を構築しようとすること自体無茶な話(分別ある大人なら常識的にわかる範疇)ではありますが、それはさておき件の「馬の背に揺られて遥々と」というイメージ自体は小生が三上を知った時点でその元情報源(書籍失念)にあったイメージだったかと思います。ただ、そのイメージ自体はそう世間様一般の扱いとそう違わないらしく、こんなドキュメントもあるくらいですし、そこを体を動かすほうに主体がある(つまりスポーツである)乗馬と混同することは、知らずに言ってるなら無知を恥じ入る必要がありそうだし、知っててなおそう主張するなら詭弁以外の何者でもありません。まして合理的説明もなしに「それはあなたのほうだ」と批判した相手に鸚鵡返しするのは、詭弁というより幼稚なディベート技法そのものじゃないですか。そんな益体ない応酬がやりたいならどうぞいってください。--夜飛/ 2011年12月9日 (金) 09:16 (UTC)[返信]
スポーツ乗馬にこだわりますね。よろしいですか、馬の背に乗りぶらぶら散歩、牧歌的な情景ですが同じ時間かけて自分の足で散歩するより馬の背の方がよっほど疲れますよ。と言った内容しか述べていないのですが、身体感覚はよほどお嫌いと見えます。付け加えると馬の背は案外と高く見晴らしが良く、広い平原や刈り取った畑の中を行くのは大変気持ちよいです。これもやはり身体感覚ですが、心情的なものも加えられていることでしょう。自転車に乗るにもコツがあります。スポーツとして自転車に乗る人も居るでしょうが実用でも同じコツが必要になります。馬に乗るには障害を越えたり駆けさせたり(私はその手のことはした事ありませんが)激しい運動でなくても腰を入れて乗るのです。これがコツです実用でも同じ。いの一番に公共交通機関への置き換えが必要な理由を述べているとのことですが、必要性はどこにも語られていないようですが?そもそもWikipediaに解釈は必要なのでしょうか?中立に立って記述されるべきなのではないですか?私の発言を見て危機感を抱いたとのことですが、何の危機ですか?持論を否定される危機?置き換えをする前に、もし必要であるならば時代的考証でも付け加え正しく理解されるよう手助けするのが筋なのではないですか?曖昧さ回避ですることではないでしょうけれども。同じように生理学的考証もあっても良いかもしれません、しかし、ここではすべきではないでしょう。私が啓発的と言ったのが行間の読み過ぎだそうですが、提示いただいたドキュメントでも同様の解釈がなされていますがいかがですか?そして、私はその解釈は否定しておりません。良く判るのですが、暗に他の見解を否定する可能性があるので、その見解も他の見解もここには必要ないでしょうと最初から述べております。最後に確認いたしますが曖昧さ回避であるここに欧陽脩の当該セクションへのウィキリンクを貼ることには異存ないでしょうか?できれば私Monte_Fangoと夜飛さん以外の方のご意見もお聞きしたいところですが、明日の夜に編集すると言うことで宜しいでしょうか?私は22時位にまた訪れることとします。ご意見お待ちいたしております。末筆ながら身体的感覚から三上を解釈するのは独自の発想ではありません、私も本の名前を忘れましたが確か河合隼雄さんだったと思います。本棚を探しておりますけどついつい読み入ってまだ当該ページにいたりません。しかし見つかったとしても、ここには要らないことかと思います。--Monte Fango 2011年12月9日 (金) 14:20 (UTC)[返信]
最初に「乗馬の姿勢や運動及び疲労感などの運動感覚的要素、集中や人馬の一体感などの心理的要素を踏まえての作文三上と解釈する」とかおっしゃったのはMonte Fangoさんでしょう…お忘れですか?そんな移動手段としてのそれではなく乗る行為そのものに(過剰ととれるほどに)注視する態度を示すならばこそ、それらスポーツ乗馬と区別つけがたい要素を切り離す必要性を感じるんですよ…なおもご自身の体験なのか乗馬と疲労の関係について述べられてますが(嘆息)。
身体感覚云々なんてのもどうでもよろしい。そんな主張レベルの事柄がやりたければ、ロンドンのハイドパークでゴミ箱ひっくり返してよじ登り、声高らかに述べ立ててりゃあいいです。まあ意地悪く見れば「乗馬慣れしてない現代人の疲労と欧陽修の感覚とを同列に並べるな(検証不能)」ともいえますがね。
まあそれはともかく、その行為が現代ではすっかり廃れてしまったがために現代意訳が必要な必要なことは、図らずもMonte Fangoさんが(身体感覚が伴わない云々で)証明してくれたわけですが、それを抜きにしても現代人であるところの読者に記事内容を、それも「馬上」がスポーツや娯楽のためではなく移動手段としてのそれであることを端的にイメージさせる上で有効な手段でしょう。
また啓発的だとの主張に関しては、添付したELが著者の意見を述べる啓発的内容だったからといって、記事が啓発的とはならないでしょう。そういう解釈もまた、小生がMonte Fangoさんに不信感を抱く理由になります。他の見解を抱こうと読者の勝手であるし、それは「など」に含めてしまえばいいだけのことです。それを断片的な解釈でさも否定されたように感じるのも読者の勝手ですが、そんな主張をノートページで投げかけるのはどうかと感じますね。--夜飛/ 2011年12月9日 (金) 22:39 (UTC)[返信]
私たち(人類)は全ての物事について同じ見方をしているわけではありません。複数の異なる論理に基づいた意見同士が競合するときや、他の視点から見ると矛盾が生ずる意見があるとき、一つの意見を固守する人は他の意見を間違いと信じ込み、知識と思わなくなってしまいます。冷静に対応いただくことはできませんか?22時に再び訪れます。願わくば第三の利用者のご意見も賜りたいところです。--Monte Fango 2011年12月10日 (土) 08:20 (UTC)[返信]
(インデント戻し)クオリア的なモノについては、もはや本項がどうとか言うのから遊離するだけで、それを論じることに意味はありません。それをやりたきゃ、まさしく「ハイドパークへGo!」なんですよ。第三者意見を募るなら、Wikipedia:コメント依頼を利用されてはいかがですか?--夜飛/ 2011年12月10日 (土) 08:52 (UTC)[返信]
早速の返答痛み入ります。それに気付いて反応する私も自嘲を禁じえませんが、シンプルに申し上げて曖昧さ回避の本来的あり方に基づいて当該セクションへリンクすることに異存ないことが確認とれさえすれば、恣意性について合意の形成する必要も無いのです。記事を存続させるので有れば必要にもなりますが、ここですべきことではありません。--Monte Fango 2011年12月10日 (土) 09:24 (UTC)[返信]
第三者意見を欲していながら、コメント依頼は必要ない…と?どうも不思議なスタンスですね。恣意性があるかどうかのコメントを求めていたのでは?まるで夜更けの公園であらぬ行為をしながら、社会的に問題があるなら他人から注意されるはずなので、注意を受けない一連の行為は問題ないのだと主張するみたいな理屈ですね。まあ、何処に恣意性が見出されうるかにも拠るかもしれませんが。--夜飛/ 2011年12月10日 (土) 11:19 (UTC)[返信]
何も不思議はありません。シンプルに申し上げたはずの「当該セクションへのリンク」に関しての返答もできない様な方との有意義な対話はできないと既に2度目のインデント戻しの前に判断し、Wikipedianとしてなすべきことをなすだけのことと決めたからです。第三者の意見を求めたのは、お気づきのことと思いますが2度目のインデント戻しの直前の私の書き込みはWikipedia:中立的な観点#なぜウィキペディアが中立的であるべきかの冒頭で、このノートの記述だけでも自分の書き込みに対する執着は甚だしく、中立的立場を保てていない夜飛さんから自分の身を守るためです。少なくとも私の目には、夜飛さんはご自身の説の正当性を十分に証明できていませんし、私の主張に対しても何ら返答いただいておりません。が、Wikipediaは理論の優劣を決めるところでも論戦するところでもありません。対話の成立の可能性が無い限り、おっしゃるとおり、この事を論じることに意味はなさそうですから、曖昧さ回避ページを有るべき姿に編集する、それだけで満足だと言うことです。--Monte Fango 2011年12月10日 (土) 13:33 (UTC)[返信]
ますます持って意味不明ですね、何から何を守るというのでしょう?小生としては理由はすでに述べたとおりであり、Monte Fangoさんはそれを納得しないのみならず無視したいだけのようですね。いやいや、まったく持って対話をするという姿勢が感じられず、その恣意性は不可思議なほどです。まあ、該当セクション云々には今ひとつ具体性がないのですが欧陽修#欧陽修の言葉にリンクを張るということですかな?そんなのは小生にお伺い立てねばならんことですか?「できれば私Monte_Fangoと夜飛さん以外の方のご意見もお聞きしたい」とのことなのでコメント依頼を提出するのかと見ていれば出す気がない様子なので、もうどうでもいいのかと思ってましたよ。まして本(ノートページ上の)節のタイトルに掲げられた内容とも関係ないとくれば、本筋として扱う必要も感じないとみなされて仕方ないでしょうに、それを本筋に切り替えてしまうのは、もはや対話以前ですね。--夜飛/ 2011年12月10日 (土) 14:14 (UTC)[返信]
コメントコメント依頼から。議論がひと段落しているようにも思えましたが依頼された後からはコメントがついていないようなので。率直に、恣意的かどうかという点に関して言えば恣意的というまでも無いと思います。が、曖昧さ回避における記述としては蛇足感が否めません、「今日では~」のくだりは確かに無くてもよいと感じます。で、Monte Fangoさんがコメント依頼必要ないでしょうって言うのは、まあつまり現在の状況からこれ以上変えないのなら恣意性云々以前に議論を続けること自体必要ないではありませんか、という風に私には読み取れたのですがいかがでしょうか?恣意性があってもなくても曖昧さ回避としては適切に記述されてるページにリンクさせればよいのだ、と。議論の大半に「何の話をしているんだろう?」と感じてしまいましたが、つまるところは曖昧さ回避のページをどうするかが要点なのですし…。--はぬまん 2011年12月14日 (水) 18:57 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。本節「表現の恣意性について」に関しては、実質開設者による当初の話題放棄と別件へのずれ込みにより、当人にはどうでもよくなってるのかもしれないのがなんとも。ところで欧陽修#欧陽修の言葉(セクションへの直リンク)は「在っても無くても」だと感じています…昨今、節名を差し替えられデッドリンクにこそならないものの、どのセクションへ飛ぶことを意図したものか判らなくなってしまう場合もありますから…ついでに言うと件のセクション名は語録のような印象を受けるが、単に「逸話」としたほうが収まりがよさそうな気もするし。一方、欧陽修の項では「三上」のキーワードに掛かる記述を探さねばならないほど長大な大項目というわけでもないので、単に人物記事であるところの欧陽修にリンクしてあるだけでも曖昧さ回避の趣旨は達成できるものと考えています。--夜飛/ 2011年12月15日 (木) 09:21 (UTC)[返信]
はぬまんさんコメント有難うございます。提案テンプレートを貼って調度1ヶ月となるので戻ってまいりました。私はWikipedia編集に当たっては極力、合意形成の上で編集したいので中立性を保った議論のために「合意形成のためのコメント依頼」も考えたのですが、仰るとおり曖昧さ回避として有るべき姿を保つのであればこれ以上の議論の必要も無いので、どなたかが出してくれたようですが、コメントの依頼も出しませんでした。2つ目の書き込みに示したWiktionaryへの誘導、もしくはその後にWikipedia内に見つけ出し提案した欧陽修#欧陽修の言葉へのリンクを、もっと強調すれば判り易かったのでしょうかね?「何の話をしているんだろう?」な対話にお付き合いいただきましたこと、重ねてお礼申し上げます。提案テンプレートは解決済みとして外しておこうと思います。--Monte Fango 2012年1月10日 (火) 05:47 (UTC)[返信]