ノート:ダライ・ラマ

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定義部の全面的変更について[編集]

もとの文章(2009年9月22日 (火) 02:50時点における版の文面)があまりにツッコミどころが多かったので、新たな定義分を書き下ろしました。この文章の記述について疑問がおありでしたらお知らせください。解説いたします。もとの文の疑問点を列挙しておきます。

チベット仏教最高の宗教的権威であると同時にチベットの政治上の元首を兼ねる法王(チューキ・ゲーポchos-kyi rgyal-po)とされた

ダライラマ5世が獲得した地位は「チューキ・ゲーポchos-kyi rgyal-po」という呼称であったのか?

チベット仏教およびゲルク派の最高位と誤解されることが多いが

1642年以降については正しい。「誤解」ではない。

宗教的権威はあくまでゲルク派の最高位であるGanden Tripaの次にあたる[要出典]

ガンデン・ティパ(ガンデン寺座主)職は、ゲルク派の宗祖ツォンカパを初代とする(ガンデン寺が建立され、ツォンカパがその座主となった年がゲルク派立宗の年と位置づけられている)ゲルク派内の要職であることは間違いないが、ガンデン寺座主がチベット仏教界全体の最高位になったことはない。

モンゴルの属国の目付けのような役割い[要出典]から出発した

意味不明。 もとの文章についても、全文をピックアップしておきます。--Dalaibaatur 2009年10月2日 (金) 03:46 (UTC)[返信]

ガンデン寺座主がチベット仏教界の最高位と述べたのではありません。ガンデン寺座主がゲルグ派の(名目上の)最高位であると述べたのです。ついでにチベット仏教に法王がいるなどというのは「キリスト教」の法王は最高であるというのに等しい誤りだと思います。他の派はダライラマを自らの派の最高位などと認めていません。Vapour
明治の末から大正の初期(1900年代-1910年代初頭)にチベット入りし、日本人のチベット認識の土台を形成した河口慧海青木文教多田等観らの記録は、いずれも当時のダライラマが宗派を超えたチベットの宗教界の最高権威であったことを述べています。Vapourさんが、1世紀にわたる日本人の常識を覆す新説を百科事典の記述として主張なさりたいのであるなら、当時(1642年以降20世紀初頭まで)の、チベット人著者によるチベット語の文献より、そういう記述のある一節をご提示くださるようおねがいしておきます。--Dalaibaatur 2009年10月3日 (土) 16:20 (UTC)[返信]
一世紀も前の文献はあくまでも一次資料に過ぎません。それをベースにする編集は単なるあなたの独自研究です。現在の学者の学術文献を使ってください。例えばhttp://www.buddyzm.edu.pl/download/geoffreysamuel.pdfでイギリスのチベット研究を専門とされるサミュエル教授は他宗のラマがその選出の「お墨付き」をダライ・ラマに求めた事例は、あくまでも以前から恒例となっていた世俗の権力者に認可を求める行為と理解されるべきで、ダライ・ラマが世俗の元首であったことを示すに過ぎない、宗教的な元首としてではない、と明確に法廷で証言されています。「宗派を越えたチベット仏教界の最高権威」などとはチベット仏教をカソリック教会の如く誤解した、ダライ・ラマ本人さえも主張することのない暴言です。こんなたいそれた主張が事実なら類似の発言・記述がそこらのチベット系のサイトに載っているはずです。100年も前の文献しか引き出せないのはこの主張がでたらめである証拠です。Vapour会話2012年12月13日 (木) 04:00 (UTC)[返信]

ついでに「1世紀にわたる日本人の常識を覆す新説」と褒めてくれるのは嬉しいんですが、実際は単にあなたが100年も前の時代遅れの認識を事実と誤認されているのではないですか。最新の研究はあなたの認識と全く異なりますよ。百年前の文献よりも現代の文献を読んだらどうですか。Vapour会話2012年12月13日 (木) 04:30 (UTC)[返信]

Vapourさんのいう大学教授も「他宗のラマがその選出の「お墨付き」をダライ・ラマに求めた」と述べているじゃないですか。「百年前の文献」の記述を裏付けていますね。--Dalaibaatur会話2012年12月14日 (金) 22:13 (UTC)[返信]
英語の文献は読めないんですか。歴代のダライ・ラマや他の俗にいうチベットの支配者の領土は実際はチベット民族の半分の人口にも及ばない。そのなかで、それぞれの寺院や宗派はその各地の地主や支配者に、就任にあったって「お墨付き」を求める場合もあれば、単なる「報告・顔合わせ」を行ったという事実があります。領主に「お墨付き」がもらえなかった場合は、領土の外に引越したり(現ダライ・ラマのインド亡命がその典型)、その領主の死亡あるいは気が変わるまで潜伏という場合もあります。そういう事実も踏まえて、ダライ・ラマが行なっていた「お墨付き・報告・顔合わせ」は、ラサの領主としての立場で、教主というものではないわけです。あなたの理屈だとチベットのラサを支配していた清國やモンゴルや現在の中華民国はチベット仏教の教主ということになりますね。古い文献を勝手に素人が解釈するととんでもない記述になってしまうという典型。ついでに、あなた、チベット仏教徒、とくにゲルグ派以外の人と直接に話したことがあるんですか。そうしていれば「ダライ・ラマが教主」などという誤解は一発で解けるはずです。何度も言いますが百年も前の文献は史料に過ぎません。Vapour会話2012年12月16日 (日) 08:52 (UTC)[返信]
2年ほど待っていますが、「河口慧海青木文教多田等観等の記述」を「時代遅れの認識を事実と誤認」だと指摘する「最新の研究」とかいうものを、検証可能性を満たす形で、ちっとも提示してくださいませんね。--Dalaibaatur会話2014年12月19日 (金) 04:54 (UTC)[返信]

2009年9月22日 (火) 02:50時点における版の文面[編集]

ダライ・ラマ5世以降は、宗派を超えたチベット仏教最高の宗教的権威であると同時にチベットの政治上の元首を兼ねる法王(チューキ・ゲーポchos-kyi rgyal-po)とされた。現在のダライ・ラマはダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ。1959年のチベット蜂起の際にラサからインドに政治亡命し、以降はインド北部のダラムサラに居住し、チベット亡命政府の国家元首とされている。
歴史的にはチベットの元首にあたるためチベット仏教およびゲルク派の最高位と誤解されることが多いが宗教的権威はあくまでゲルク派の最高位であるGanden Tripaの次にあたる[要出典]。よってチベット仏教どころかチベット仏教一派のゲルク派の最高位でさえもない[要出典]。ただしGanden Tripaは高位のゲルク派のラマの合議による任命制であるためこれにこれにダライ・ラマが大きく影響力を持つことなどゲルク派の「実質的」な権力を握っているのはダライラマであった。またチベット仏教ではゲルク派が最多数派であることなどやダライラマの世俗的権力から他の派に対する影響力も大きかった。またその呼称がモンゴル語であることからも見られるようにモンゴルの属国の目付けのような役割い[要出典]から出発したことから他国の政治的影響を受けることも多く、また幼年期にはダライラマの摂政が実権を握るなどの時期も存在し、その政治的権勢にも時代で変遷が見られる。

チベット仏教は統一された団体ではありません。よってダライラマをチベット仏教の「最高権力者」とするのは問題だと思います。最多数派のゲルグ派の実質の権力者であるためにチベット仏教で最も幅を利かす存在という主張には、ならそれなりに理があるのは確かです。しかし在家集団のニグマは寄り合い集団のようなものでトップが存在するとは言いがたい集団ですし、サキャ派の長は代々コーン家の血統が担っています。またカギュ派においては派内の最大部派のカーマ・カギュで誰が座長であるのかをもめているような状態です。ついでに言えばゲルグ派はキリスト教に例えればローマカソリックというよりギリシア正教会のような組織になっておりダライラマがが他のラマを好き勝手に任命できるようにはなっていません。Vapour 2009年10月2日 (金) 19:34 (UTC)[返信]

「ダライラマが他のラマを好き勝手に任命できるようにはなっていません。」という記述について
上引のこの一節は事実としても、1642年以降、非ゲルクの諸宗派が自分たちの指導者にダライラマのお墨付きをもとめるようになったこともまた事実です。あなたのいう「派内の最大部派のカーマ・カギュで誰が座長であるのかをもめている」事例をより詳しく見てみましょう。
カルマ派の管長職にギャルワ・カルマパという化身ラマの名跡があります。カルマ派がこの名跡の第17世としてウルギェン・ティンレードルジェ(1983- )を即位させるにあたっては、候補者の捜索・認定・即位の各段階において、中国政府の許可・了解を求めるとともにダライラマの認定をあおぐ、という手順を踏んでいます(中国人民政府が建国以来はじめて認定した化身ラマで、即位は1992年)。その後カルマ派の首脳部を構成する4人の化身ラマ(シャマルパ・シトゥ・ギャルツァプ・パオ)のひとりシャマルパは、自分だけでターイェードルジェを別のギャルワ・カルマパとして擁立し、同派は分裂しました。
チベット仏教の諸宗派が現在統一組織を有しているかどうかという問題と、1642年以降、諸宗派がダライラマという名跡の権威をうけいれてきた、という問題は、まったく別個の問題となります。このシャマル派のほかにもチベット仏教の諸派の中にはブータンの国教であるロ・ドゥク派や、シューデン派などのように、ダライラマの権威のもとにはない伝統宗派や新興集団が存在しますが、ダライラマという名跡の位置づけとして、"宗派を超えたチベット仏教の最高権威である"という表現には全く問題ないと考えます。
「ガンデン・ティパ(ガンデン寺座主)の次にあたる。」という記述について
カム地方の南部のムリ(中国の区分でいうと四川省の木里県)のムリ・ゴンチェンというお寺の寺史(16世紀から1733年までの期間が扱われている)によれば、同時の座主の化身ラマ・ジャムヤン・トゥルクは、ダライラマ政権の発足を聞いて1647年に使者を派遣して祝意をしめし、以後、寺史に登場するジャムヤン・トゥルクの転生者は2代にわたりすべて歴代のダライラマから認定をうけています。ガンデン・ティパからではありません。ドメー・チェンジュンというアムド地方の諸寺院のあゆみをあつかった書物でも、1642年以降、座主の認定権をダライラマが行使するようになっていく事例が満載されています。「安多政教史」という名前で現代中国語にも翻訳されていますので是非ご検討ください。スムパケンポが1747年にまとめた『パクサム・ジョンサン』という仏教史の概説書にも、ダライラマ五世が「全宗派の大ラマになった」という一節があります。--Dalaibaatur 2009年10月2日 (金) 20:27 (UTC)[返信]
一世紀も前の文献はあくまでも一次資料に過ぎません。それをベースにする編集は単なるあなたの独自研究です。現在の学者の学術文献を使ってください。例えばhttp://www.buddyzm.edu.pl/download/geoffreysamuel.pdfでチベット研究を専門とされるイギリスの大学のサミュエル教授は他宗のラマがその選出の「お墨付き」をダライ・ラマに求めた事例は、あくまでも以前から恒例となっていた世俗の権力者に認可を求める行為と理解されるべきで、ダライ・ラマが世俗の元首であったことを示すに過ぎない、宗教的な元首としてではない、と明確に法廷で証言されています。「宗派を越えたチベット仏教界の最高権威」などとはチベット仏教をカソリック教会の如く誤解した、ダライ・ラマ本人さえも主張することのない暴言です。こんなたいそれた主張が事実なら類似の発言・記述がそこらのチベット系のサイトに載っているはずです。100年も前の文献しか引き出せないのはこの主張がでたらめである証拠です。Vapour会話2012年12月13日 (木) 04:00 (UTC)[返信]
前節でもふれたとおり、Vapourさんのいう大学教授も「他宗のラマがその選出の「お墨付き」をダライ・ラマに求めた」と述べていますね。--Dalaibaatur会話2012年12月14日 (金) 22:13 (UTC)[返信]
お墨付きはあくまで世俗の権力者としてです。あなたの理屈だと、現在の共産中国がチベット仏教の教主になってしまいます。重複になるんで、上の説明を読んでください。Vapour会話2012年12月16日 (日) 08:55 (UTC)[返信]
これに関しては、ニュージーランドで法廷で争う事態にまで発展し自分の引用したサミュエル教授が法廷証言で、ダライ・ラマは史的にもカルマ派の長のラマの選出に直接関わることはなく、その「認定・顔合わせ」もあくまで世俗の支配者としてであり、歴史的にも数回の事例が存在するだけである。今回のように、未だカルマ派で合意が成立していない段階でダライ・ラマが介入することは前例のないことであり、また、ギャルワ・カルマパの選出に一番直接的に関わるのはシャマルパであり、彼がダライ・ラマの認定に明確に反対しているため、ダライ・ラマの認定によってギャルワ・カルマパが誰であるかが決着ついたと結論できないと証言しています。またシャマルバはこのダライ・ラマの「前例のない介入」に公式な非難声明を発表しています。Vapour会話2012年12月17日 (月) 07:58 (UTC)[返信]

1642年以降、ダライラマの名跡が宗派を超えたチベット仏教の最高権威となったことを示す資料[編集]

18世紀中葉のチベット人学者の記述[編集]

スムパケンポが1747年にまとめた『パクサム・ジョンサン』の記述を紹介します。この本は1930年代にイタリアから出版され、日本でも景印出版されるなど、古くから研究分析されてきた書物で、チベットに対する国際的な理解の土台となっている書物です。1990年代には中華人民共和国でも洋装本として刊行されました。私の記述を検証してみようという方が最も安価に入手できる中国の甘粛民族出版社の版(ISBN 7-5421-0085-8)によって、ページ数を示しておきます。問題の記述はラサ3大寺のひとつデプン寺の歴代座主を述べている箇所にあります。

(原文)de rjes rgyal dbang lnga pa blo bzang rgya mtsho ste/(中略)dgung lo drug steng 'bras spungs su byon nas paN chen rin po che la gtsug phud phul te se 'bras kyi khrir phebs/ brgyad steng yang de nyid las dge tshul dang nyer gnyis steng bsnyen rdzogs kyi sdom pa smad 'bul rgyun ltar bzhes te bstan pa bdag por gyur/ (中略)yang khong bod kyi spyi bla chen por song gshsi phyogs ris med par (中略) p.588
(和訳)そのあとは、勝自在5世ロサンギャムツォで、(家系についての記述,中略)、御年6歳にデプン寺にいらっしゃって、パンチェン・リンポチェに「はじめての髪」を献じて、セラ・デプンの法座にお就きになった。8歳で沙弥戒を受け、22歳で比丘戒は低地率の伝承を承けて、「宗教の長」となった。(中略)また、彼は「チベットの全宗派の大ラマ」であるので、宗派をとわずに、(以下、諸宗派の様々な宗教家たちと、かれら一人一人から受け継いだ教えの名称を列挙)。
継為第五世達頼洛桑嘉措。(中略)年六歳時, 入哲蛙寺, 向班禅活仏献出髪新, 登色拉、哲蛙寺法座。八歳従班禅承沙弥戒, 二十二歳時, 按"下律伝承"比丘戒, 成為教法之主。(中略)雖身為全藏区的大教主, 但無門派之見, (後略)
蒲文成・才譲訳『如意宝樹史』甘粛民族出版社, 1994, p.467

この部分にクッキリと明示されているように、ダライラマが「チベットの全宗派の大ラマである」が故に、ゲルク派ではない諸派の学者たちから彼らの派で伝承されてきたその派の教えを受けた、と述べられています。ダライラマ五世の自伝には、その模様がさらに詳細に描写されています。 スムパケンポは、ダライラマ5世より以前の座主たちに対しては、ダライラマ2、3、4世を含め、「宗教の長」とは呼んでいません。ダライラマ五世につづくツァンヤンギャムツォとイェシェギャムツォの二人の座主は、いずれもダライラマとして即位し、10数年の在位ののち廃位させらた人物(後ツァンヤンギャムツォが正式の6世、イェシェギャムツォが偽の六世と位置づけられた)ですが、スムパケンポはこのふたりのいずれもダライラマをさす「勝自在(rgyal dbang)」とよばず、「宗教の長」とも呼んでいません。七世ケサンギャムツォの記述は、以下のとおりです。

bod spyi'i mgon dam pa yin kyang da ltar gtso bor dge ldan pa'i bstan pa'i bdag po mdzad de 'gro kun rdzogs ldan gsar ba'i dga' ston la bkod bzhin du bzhugs pa 'di yin la/ p,591
彼は全チベットの聖なる保護者であるが、いまは主としてゲルク派の「教えの長」をなさって、一切の生き物たちが「ゾクデンの新しい宴」(?)にいることができるようにしている(?)
他是全藏区的救主聖士, 現主要以格魯派教主身份, 正式為安置一切衆生于圓劫新宴而精進不懈。(p.469)

とあり、やはり「宗派を超えた宗教界の権威」として描かれています。 以上のように、甘粛民族出版社という、中華人民共和国の出版社から発行された文献、中華人民共和国の研究者による現代中国語訳にも、ダライラマという名跡が「ゲルク派の教主」であったとか、宗派を超えた仏教界の最高権威として描かれていることを、つよく指摘しておきます。--Dalaibaatur 2009年10月3日 (土) 01:36 (UTC)[返信]

前述したチベット仏教研究を専門とされる大学教授の文献を読んでもらえばよくわかりますが、その主張は間違いです。あなたの発言は史料批判のやり方を知らない素人が勝手な独自解釈をするとこう間違うというお手本のようなものです。WIKIPEDIAではあくまでもその記述や発言に責任を持たなければいけない学者やマスコミの引用のみをベースに編集するという方針がなぜ存在するかこれで理解していただけるでしょうか。Vapour会話2012年12月13日 (木) 04:43 (UTC)[返信]
そして2年の歳月がながれましたが、「青木・多田・川口らの記述」を「謝りだと指摘する」「大学教授の文章」について、Vapour氏は、ちっとも「検証可能性を満たす」形では提示してくれません。「検証可能性を満たす」とは、自分の主張の裏付けとなる記述について、読者が「検証」できるよう、著者・著作の名称・(収録文面名)・問題の記述の掲載ページ・行などを明記することです。--Dalaibaatur会話2014年12月19日 (金) 05:55 (UTC)[返信]


18世紀中葉のチベット人学者の記述は「一次資料」にあたるか?[編集]

この資料には、欧文や現代中国語による部分訳、全文訳もおこなわれています。上記で示した私の和訳が勝手なウソ訳ではないことを示すため、蒲文成・才譲らによる本書の現代中国語訳『如意宝樹史』(甘粛民族出版社, 1994)の翻訳も併記しておきました。にもかかわらず私の個人ノートの方に「Wikipediaは独自の研究を行う場所ではありません。これはWikipediaの三原則の一つです。あなたが独自に収集した一次資料を元にした解釈を記事にするのは問題だ」という非難をしてきた方があったので、大変困惑しています。--Dalaibaatur 2009年10月5日 (月) 06:13 (UTC)[返信]

1747年に書かれた文献は学術的に一次資料に分類されると思います。これを論ずるのは独自研究になりますので、Wikipediaにおいてはあくまでこの資料を論じている学者の意見の記述にとどめなければならないと思います。Wikipediaは真実を追究する場所ではありません。その役割は学会あるいはマスコミにあります。不特定の素人集団によって編集されているWikipediaが自らに課した戒めのようなものと理解すれば分りやすいと思います。Vapour 2009年10月5日 (月) 08:15 (UTC)[返信]
パクサムジョンサンは、原著は18世紀の執筆ですが、中国版の場合、貢却才旦という方がテキストの文面を校訂し、見出しをつけて段落分け、章立てをして1990年10月25日に「前書き」を脱稿、1992年に出版されるというプロセスをたどりました。戦前のイタリア版、1970年代のインド版も、それぞれ出版にあたり当時の校訂者の手が同様にくわえらえており(1970年代の日本版はイタリア版をそのまま復刻したもの)、したがってそれぞれ1930年代、1970年代、1992年発行の現代の書物と考えるべきです。「これを論ずるのは独自研究にな」る場合とは、「不特定の素人」さんがこれら「現代のテキスト」に基づいて書いた記述を、「著者スムパケンポの手書き原稿」や「18世紀の木版本」を閲覧してきた人が批判したり書き換えようとするような場合でしょう。
以上より、この資料に関しては、図書館に申し込むと自由に閲覧・複写できたり、書店で購入できたりする現代の書物であるので、「学術的に一次資料に分類されると思います。これを論ずるのは独自研究になりますので、Wikipediaにおいてはあくまでこの資料を論じている学者の意見の記述にとどめなければならない」というVapourさんの主張には同意しません。「一次資料」とは、この資料の場合なら著者の手書き原稿とか18世紀の木版摺のテキストを指すべきであって、Vapourさんの用法は拡大解釈しすぎでしょう。--Dalaibaatur 2009年10月6日 (火) 22:14 (UTC)[返信]

Vapour さんが(2009年10月3日 (土) 04:15時点における版)の「編集内容の要約」で他人の文章を「根拠のない主張」と決めつけて削除なさっておられるので、明確な「根拠」のサンプルをご紹介しました。私は、当時のダライラマの位置づけを明らかにする最上の根拠は「当時のチベット人自身の記述」と考えますので、[1]このノートの第2節の末尾でも、

Vapourさんが、1世紀にわたる日本人の常識を覆す新説を百科事典の記述として主張なさりたいのであるなら、当時(1642年以降20世紀初頭まで)の、チベット人著者によるチベット語の文献より、そういう記述のある一節をご提示くださるようおねがいしておきます。--Dalaibaatur 2009年10月3日 (土) 16:20 (UTC)」

とお願いしております。 他人の文章を「根拠がない」と決めつけて削除しておきながら、いざ明確な根拠が提示されると「真実を探求する義務は学会にあってWikipediaにはありません」とか「Wikipediaは独自の研究を行う場所ではありません」と騒ぎだすのはいかがなものでしょうか。 私の会話ノートへのご投稿によれば、「百科事典からの引用も含めた学者の著作」をご覧になっている由。百科事典はともかく、論文については、きちんとした学者であるならば、論文の読者が自説を検証できるよう、根拠とした文献名や、根拠となる記述があるページや行を記載してあるはずです。したがって、Vapour さんは、ご自分の依拠する学者さんが「当時のチベット人自身の記録」を利用しているかどうか、利用しているとすれば「いつ誰が書いた文献」の「何ページの何行目」を根拠としているか、述べることが可能なはずです。--Dalaibaatur

Vapour さんが、ご自身の主張の根拠を提示しやすいよう補足説明をいたします。「ダライラマの地位はガンデンティパに次ぐ地位」という記述が学者の論文または学術書の一節であるならば、著者の学者はその記述の付近に注番号をつけているはずです。その番号の注をごらんになると、文献の略号を示すアルファベットと数字3-4文字程度の組み合わせがあり、pp.-またはff.-a or b, ll.-という表現でページまたはフォーリオの番号が提示されてあるはず。さらに場合によってはチベット語の原文が引用されていることがあるかもしれません。単行本なら凡例部か巻末に、論文なら本文のうしろあたりに参考文献一覧表があり、著者・文献名・テキストのバージョンと略号の対比表がついているはずです(たとえばダライラマ五世の自伝の略号がN5D)。したがってVapour さんは、おてもとの学術書または学術論文を注意深くチェックなされば、すくなくともご自身の依拠する学者さんが自説の根拠とした文献の名称、その著者名、学者さんが根拠とした一節が収録されているページ・行番号などを提示することが可能なはずです。--Dalaibaatur 2009年10月6日 (火) 10:09 (UTC)[返信]

例えばhttp://www.buddyzm.edu.pl/download/geoffreysamuel.pdfで、チベット仏教を専門とされる大学教授があなたの個人解釈を明確に否定しています。現代語訳だろうが中国語訳だろうが100年も前の史料は一次資料の粋を出ません。日本書紀が現代語訳されれば現代の学者が書いた歴史の教科書に等しいと主張するようなもんです。「宗派を越えたチベット仏教界の最高権威」などという大それた主張が事実なら、常識で考えてもググるだけでその裏付けが簡単に取れずはずです。百年も前の文献しかその主張の根拠がないのなら非常に高い確率で虚偽であると言えます。Vapour会話2012年12月13日 (金) 13:17 (UTC)[返信]

コメントスムパ・ケンポの「パクサム・ジョンサン」には、ゲルク派内部の特定の勢力の政治的立場を正当化するプロパガンダ的な側面があって、歴史資料としての信憑性そのものに問題があると指摘されてきていますよね。ダライ・ラマ五世の死後に、ジュンガルモンゴル軍を率いてダライ・ラマ五世の残存勢力を壊滅させてガンデンポタン政権の権力を掌握した人たちが、自らの政権を正当化するために書き記した歴史書だからです。それに、そもそもガンデンポタン政権が全チベットに対して統治権を掌握していたわけではなく、デルゲを中心としたカム地方などはそれに含まれると言えるのでしょうか?外国語への全訳があることが資料の公平性の証明にはなりません。「パクサム・ジョンサン」の主張のみを代表しようとするような記述は客観性を欠くといえるでしょう。Vapourさんがいうように、ジェフリー・サミュエルのような最新の研究成果を反映させるべきでしょ。あとはマシュー・カプステインとか、サム・ヴァン・シャイクとかね。 --サンギェ・ドルジェ 会話2012年12月14日 (金) 12:45 (UTC)[返信]
サンギェさんに。清朝の撫遠大将軍としてグシハン一族を1723-24年に屈服させた年羮堯は、チベットの東部地方(いま青海とか四川・雲南などに組み込まれている地域)を観察して、「明末以来」、グシハン一族の「貢納民」とされていたと指摘しています。この時期、清がグシハン一族との連絡係として西寧に駐在させていたジャンセオ(常色,jangseo)は、「バルカム地方のタングートたち」が「自分たちは昔はグシハンの貢納民で、いまは左翼・右翼のグシハン一族の貢納民だ」と訴えているという書簡を清朝の朝廷に報告しています。そして、そのグシハン一族は、グシハン以来この時期まで、ダライラマからハン位やその他の爵位をうけていたことが「現代」の「最新の研究」で明らかにされていますから、ダライラマがチベット全域の権威であることを示す同時代資料は、「ゲルク派のプロパガンダ史料」とあなたが呼ぶ史料だけでなくたくさんの中国資料からも裏付けられます。
Vapouruさんに。あなたは、「非情に高い確率で虚偽といえます」と想像を膨らませるのではなく、せっかくサンギェさんが名前だけご紹介くださった「最新の研究」をご覧になり、それを「典拠」として記事を増補なさってはいかがでしょう。
おふたりおよび読者に。Vapouruおよびサンギェドルジェ両氏の編集は、具体的な「最新の文献」を検証可能性を満たす典拠として提示することなく、私がこのノートで典拠を明示した記述を削除しただけなので、とりあえずもとの記述を復活します。--Dalaibaatur会話2012年12月14日 (金) 22:13 (UTC)[返信]
ですから、お墨付き・顔合わせは史実ですけど、そこから「チベット仏教の教主」は単なるトウシロの勝手解釈なんですよ。何度も言いますが、最新の学者の研究を大学図書館でちょっと検索すればダライ・ラマがチベット仏教の教主なんて暴言はとてもできるものではありません。何度も言いますが、100年も前の史料をベースにした記述は独自研究であり、Wikipediaの編集方針に明確に違反するだけでなく、あなたの誤解に基づいた記述はなぜこのような編集方針が存在しなければならないかの典型例であると言えます。Vapour会話2012年12月16日 (日) 09:16 (UTC)[返信]
コメント この点について、Vapourさんに完全に同意します。ダライ・ラマがグシハン一族に爵位を与えたというのは史実ですが、それは、チベットの全地域、全宗派に対する最高権限を持っていたということを証明するには不十分です。--サンギェ・ドルジェ 会話2012年12月16日 (日) 10:09 (UTC)[返信]
コメント論理的にいうと、17世紀から20世紀の間に、ゲルク派政権の権勢がカム地方にどれだけ及んでいたかという問題の評価は、当時のゲルク派政権が書いた史料や、グシハン一族のようなゲルク派政権を承認して外交のカウンターパートとしていた勢力の残した史料だけを見てたら不十分で、ゲルク派と敵対していたカム地方デルゲ政権側の政治家が書いた史料もみないとならないのではないかと思います。
石濱裕美子さんや手塚利彰さんのような、チベット・モンゴル関係史を中心にチベット史を語ろうとする人たちは、モンゴル軍の武力で蹂躙された人たちの痛みを全く分かっていないところがあって、ヒマラヤ南麓側やカム地方などの中央チベットの政治勢力の下に属さなかった人々を無視してしまう傾向があるのではないかと思っております。そこにはもう少し目配せをしていただきたいというのが正直なところです。
それに、チベット統一理念ということでいうと、ダライ・ラマ五世本人の超宗派主義的なものと、ダライ・ラマ五世の死後のゲルク派純粋主義的なものとでは、「ガンデンポタン期(1642-1959)」と一緒くたには出来ないくらいに本質的に大きく異なります。それは、ダライ・ラマ五世時代の歴史的な記述とパクサムジョンサンを詳細に読み比べてみると分かってくるでしょう。
『パクサム・ジョンサン』の書かれた政治的な立場や史料としての信憑性については、きちんとした討論の場で検証していく必要があるというのが私の認識です。ここは若手チベット研究者の議論の場ではないですからね。
ところで、Dalaibaaturさんの一連の記述、テングリノールこと手塚利彰さんの主張されている内容と完全に一致するんですよね。 http://www.interq.or.jp/neptune/amba-omo/sh.html Dalaibaaturさんが手塚さん御本人、もしくは近い位置にいらっしゃる研究者だったり、手塚さんの主張を引き写している場合、このあたりのもろもろの記述は独自研究に相当しますから、Wikipediaの記述としてはあまり適しませんね。--サンギェ・ドルジェ 会話2012年12月16日 (日) 06:55 (UTC)[返信]
Googleには学術論文を検索する、GoogleScholarなるものが存在するのを御存知ですか。これでGanden Tripaぐぐってみるとゲルグ派の法王はダライラマでなくGandenTripaであると明記する学術論文が山のように出てきますよ。ほら、これ[2]。ついでに、あなたは公式の場ではダライ・ラマがガンデン・ティパに頭を下げるという事実を知っていますか。それでもダライ・ラマがゲルグ派どころかチベット仏教全部の法王と主張するんですか。Vapour会話2013年6月29日 (土) 02:35 (UTC)[返信]
正確には、「一部の宗教行事では」です。詳細は、こちらに記述。この引用部では、その「ガンデン・ティパがダライ・ラマによって任命されている」ことも記述されています。--Dalaibaatur会話2015年3月24日 (火) 07:39 (UTC)[返信]

現代チベット人学者の記述[編集]

「活仏ではない普通のラマ」が出家してからガンデン・ティパに上り詰めるまでのプロセス(学習する書物、各段階の資格試験、就任するポスト)を解説したツルティム・ケサン著(新井慧誉訳)『チベットの学問仏教』山喜房仏書林, 1979の記述より。著者は幼少時に出家し、日本人にチベット仏教を教えるためダライラマに派遣されて1974年来日、のち大谷大学教授。
(1)ラサ3大寺で顕教の学習課程を修了して博士号(ゲシェー号)を取得した者のうち、最高ランクのラランパ・ゲシェー号を取得した者は、毎年正月の大祈願祭の際にラサ・トゥルナン寺で行われる国家試験により、「順位を得た者」(1位-7位)と、「順位を得なかった者」に区別される。
(2)ゲルク派では顕教の学習課程を終えた者はギュメ寺(下密院)かギュト寺(上密院)に進むが、ラランパの1位または2位を得た者は、ダライラマに任命されて、ギュメ寺・ギュト寺のラマウンゼ職、両寺の僧院長、ケンスル職に順次就任、その後はギュメ寺の所属者はチャンツェ・チョェジェ、ギュト寺の所属者はシャルツェ・チョェジェに就任する。
(3)チャンツェ・チョェジェとシャルツェ・チョェジェから交互に7年の任期でガンデン・ティパに着任 (チベット語原文はpp.50-55、和訳はpp.13-18)。
・国家試験の主催者、ガンデンティパに至る各職の任命者はダライラマである
・「ガンデン・ティパ」職に対する認識として「de 'dra'i dga' ldan khri pa ni dge lugs pa'i dbu khri che shos red/このようなガンデン・ティパはゲルク派の最高指導者です(pp.18, 54)」という記述がある
・「ガンデン・ティパ職」の訳注は以下のとおり

87)dgah ldan khri pa。ゲルク派全体の法主で、管長にあたる役職である。長尾雅人博士は「ガンデンの坐牀者」と訳され、その地位はガンデン寺が「黄教の中心であり本山である点からして、最も尊敬せられる最高の栄誉ある地位である。それは活仏に非ざる普通のラマが、自らの学問と徳とによって登り得る最高の地位であって、現在も亦、ダライや班禅等の化身の活仏に次いでは最高のものである」(長尾雅人『西藏仏教研究』44頁)と説明されている。そして、ガンデンティパの職は、後にダライラマやパンチェンラマ<班禅>の法位が確立するまでは、ゲルク派における最も高い栄誉ある地位であったという。(後略)

以上、同書より、ダライラマとガンデン・ティパの地位に関連する記述を紹介しました。--Dalaibaatur 2009年10月6日 (火) 22:14 (UTC)[返信]

名目上はダライ・ラマが格下であるが、実際はその任命権をダライ・ラマが握っているとの記述は多くの英語のサイトでも確認できます。でもこれは「宗派を越えたチベット仏教界の最高権威」との主張とは別ですね。Vapour会話2012年12月13日 (木) 04:20 (UTC)[返信]

ツルティム・ケサン氏によるガンテン・ティパの地位[編集]

Dalaibaaturさん、こんにちは。Sieと申します。横から失礼いたします。Dalaibaaturさんのチベットに関する博識ぶりには驚嘆しており、いつも、まことに勉強になります。今回のVapourさんとの論争も、興味深く拝見いたしております。脇から見ている限りでは、Vapourさんの主張はDalaibaaturさんに太刀打ちできていないし、かなりの強弁が含まれていて百科辞典にはふさわしくない、と感じました。

ただ、Vapourさんの御主張の中にも聞くべきところはあるのでは、と思います。それというのも、Dalaibaaturさんも名前をあげておられるツルティム・ケサン氏(と、正木晃氏の共著)の『増補 チベット密教』(ちくま学芸文庫、2008年)の110・111頁には、次の記述があるからです。
  • ガンディン・ティパは「チベット最高の宗教人として、僧院内で顕教・密教の両面にわたる指導をおこなうのである。チベットの聖俗両面にわたる最高指導者といえば、ダライラマを思い浮かべる方が多いだろうが、こと宗教面に限っては、ガンデン・ティパのほうがダライラマの上位にある。この点は、ガンデン大僧院における両者の座席を見ると、すぐ了解できる。ガンデン・ティパの座席は、ダライラマの座席の約三メートルほど上にあるからだ。それほど、ガンデン・ティパの地位が、ひいては密教の地位が高いということである」
この記述がどこまで正しいのかは私には判断できませんが、日本における著名なチベット人学者の著書で、文庫版になっていてかなり普及している書物であることを考えると、無視することはできないと存じます。
もちろん、チベットとチベット仏教全体の中においてダライ・ラマが最高の指導権を握っていたことは事実ですが(もちろん、ダライ・ラマに逆らう勢力が無かった、という意味ではない)、上記の記事が正しいのならば、ことゲルク派の中においては、ダライ・ラマはガンデン・ティパに敬意を表し、ゲルク派首座の地位を意図的に後者に譲っている(または委任している?)ようにも感じます。あくまで個人的な感想として聞いていただきたいのですが、ダライ・ラマとガンデン・ティパの関係は、単純に「どちらが上」という一言では割り切れない部分を持っているように思いました。
いずれにせよ、興味深い論点がでてきましたし、ゲルク派の項の中にもガンデン・ティパについての記述が含まれていることですし、Dalaibaaturさんの手によって、ガンデン・ティパという独立項目を作っていただくことを希望します。それから、お願いですが、ダライ・ラマの項目に加筆された結果、「定義」の部分が膨らみすぎて、「概要」の部分との重複が目立ちます。次の機会に、記述を整理していただければ幸いだと感じております。--211.2.40.124 2009年10月8日 (木) 02:22 (UTC)Sie[返信]
興味深い記述の紹介ありがとうございます。河口慧海の一節にも、ご紹介くださったツルティム・正木両氏の記述と符合するような、ガンデン寺の内部で挙行される法式におけるティパと「法王」の席次に関する記述があります(これも次節にピックアップしておきました)。すくなくともガンデン寺内で行われる行事では、ダライラマがティパより下位の席次につくという場面が、1642年以降も継続して存在していたことは確かだと思います。--Dalaibaatur 2009年10月8日 (木) 07:29 (UTC)[返信]
旧版にはいかのような記述がありました。新版ではどのようになっているでしょうか?
 むろん五世はゲルク派の総帥である。しかし出身がニンマ派の家系だったことなどから、ニンマ派にすこぶる親近感をもち、自身でもニンマ派に伝わる密教の修行法を実践し、著書も著わしている。(p.066)--Dalaibaatur 2009年10月9日 (金) 14:01 (UTC)[返信]
私の手元にあるツルティム・ケサン/正木晃『チベット密教』(ちくま学芸文庫230、2000年)には、ガンデン・ティパについて次のようにあります。
 三年間の管長職を無事つとめあげると、キュメー寺ならジャンツェ・チュージェ、ギュトゥー寺ならシャルツェ・チュージェという人にあたる。そしてこれらの人材の中から、ツォンカパの代理人として、全ゲルク派の指導者たるガンデン大僧院の管長、すなわちガンデン・ティパが選出されるのである。この事実は、ゲルク派がいかに密教を高く奉じているかをじつに端的にものがたる。
 ガンデン・ティパに選出された者は、七年間の任期中、チベット仏教最大の宗教行事である正月のモンラム祭とツォク・チュー祭のときに、全チベットの人々にむかって説法するなどの対外的な職務のほか、ふだんはツォンカパの代理人として、いいかえればチベット最高の宗教人として、僧院内で顕教・密教の両面にわたる指導を行うのである。 (pp.115-115)
旧版ではここで文章が終了。Sieさんがご紹介くださった増補版の一節はこの後に接続していると思われます。
 この著者の記述は、ガンデン・ティパの席がダライラマの席より上にあること。モンラム大祭(宗祖ツォンカパの創始)やツォク・チュー祭で説法すること。河口の記述は、ガンデン寺に宗祖ツォンカパの「坐台」があり、この席はガンデン・ティパの指定席であり、ダライラマは例外的に着座できる場合もある、というもの。
 ガンデン・ティパ職は宗祖ツォンカパを初代とし、その後の座主たちはツォンカパの後継者と考えられてきたのに対し、ダライラマの名跡は、ツォンカパの弟子を初代としています。もともとはガンデン・ティパが「上位」だったわけです。
 ガンデン寺における席次やモンラム大祭は、いずれもツォンカパにさかのぼるゲルク派の古い伝統を有する事象。この二つにみえるティパの「上位」は、1642年以前の伝統がその後も引き継がれたものと解釈することも可能(←まだ「独自研究」レベルの説ですがw)。「ガンデン大僧院における両者の座席を見ると、すぐ了解できる」のは、ガンデン寺で両者が同席した場合の位置関係だけです。この事例だけで著者が「こと宗教面では」と述べているのは、拡大解釈のし過ぎであると考えます。たとえばタシルンポ寺において本尊の開眼供養が行われた際、導師は同寺の管長パンチェンラマが務め、この儀式に参加したダライラマ五世は、導師をとりまく一人として列席した、という記録があります。したがって「宗教面における上下」についてティパがダライラマより上と主張するためには、ティパが上位に位置する事象をより広く提示する必要があると思われます。たとえばダライラマが管長を兼任しているセラ寺かデプン寺において法式が執行される場合のダライラマと、ガンデン・ティパの席次をチェックすることは、この件を考える上で非常に有効でしょう。--Dalaibaatur 2009年10月9日 (金) 02:57 (UTC)[返信]

Dalaibaaturさん、こんにちは。河口慧海の記述の紹介も、ありがとうございました。

ツルティム・ケサン、正木晃『チベット密教』の内容、2000年原版と2008年増補版では多少の違いはあるとは思っていましたが、上記の引用部分は相違するところなのですね。確かに、貴兄が引用された部分のあとの記述であり、これは増補版での付け加えのようですね。あえて増補版でこれを付け加えたということは、ツルティム・ケサン、正木晃の両氏は、この記述の内容にかなりの自信をお持ちなのだ、ということが伺えます。「ガンデン寺内の席次1例だけではまったく根拠は不十分です」とおっしゃるお気持ちがわからないではないのですが、wikipediaの性格上からするとまた「独自研究だ」との非難が聞こえてきそうですので、その他の根拠を追究するよりも、いろいろな説に加えてツルティム・ケサン、正木晃説も淡々と紹介する、という手もあると思います。
「むろん五世はゲルク派の総帥である。・・(後略)」は、増補版でも64・65頁に残されています。「著書も著わしている」が「著書も書き残している」に改められているだけで、内容は一緒です。
これまでご提示いただいた資料を併せ考えると、「ダライ・ラマはチベット仏教の最高権威であり、当然ゲルク派の最高指導者でもあるが、チベット国王でもあるという立場から、ゲルク派だけのことに専念するわけにはいかない。そこで、ゲルク派の指導権はガンデン・ティパに譲って(または委任して)いる。そうだからこそ、ゲルク派の宗教儀式においては、ダライ・ラマはガンデン・ティパに最高の敬意を表し、意図的に後者の下座に座る」、というのが、まんざら的外れでもないように感じています。以上はあくまで私の感想ですが・・・
再びお願いします。ぜひ、ガンデン・ティパの項目を作ってください。--220.147.187.54 2009年10月9日 (金) 13:11 (UTC)Sie[返信]
すいません、文章を修正している間にコメントいただいてしまったようで。--Dalaibaatur 2009年10月9日 (金) 14:04 (UTC)[返信]
ご紹介した多田等観には、ダライラマがたんにチベット国内だけでなく、モンゴルや中国などのチベット仏の寺院や化身ラマに対して座主の任命権や化身の認定権を行使した、とあります。Vapourさんに紹介したムリ寺の事例では、座主の転生者の認定や管長の認定は歴代のダライラマが行い(ガンデン・ティパの関与は一切みえない)っており、多田の記述を裏付けています。「こと宗教面に限っては、ガンデン・ティパのほうがダライラマの上位にある」というからには、この種の「権威と権限」の面でも「ガンデン・ティパが上位」にある事例が提示される必要があります。しかしながら「ガンデン寺の内部における席次の上下」は、ガンデン・テイパがこれら宗教行政の方面でいかなる権威・権限を保有・行使していたのか否かを何ら明らかにするものではありません。「ガンデン寺内の席次」の事例1つで「こと宗教面」とまで敷衍してしまうのは、「自信がある」というよりは、「拡大解釈」のきわみというべきでしょう。本書の共著者の一人ツルティム氏は別の著作(上に紹介した「チベットの学問仏教」)ではガンデン・ティパの職掌を「モンラム大祭における導師・説法・回向、ガンデン寺内における学問の指導」(pp.18, 55)としか述べていません。「ガンデン寺においてティパの席がダライラマの席より上座に位置している」という事実の紹介はダライラマという地位に対する通念に再考をもとめるものとして紹介する意義は多いにあるとおもいますが、いくら優れた学者の言説であっても、裏付けのないまま飛躍してしまっている解釈や主張の部分については鵜呑みにすべきではなく、また記事の文面にも出すべきではないと考えます。--Dalaibaatur 2009年10月10日 (土) 18:36 (UTC)【2009年10月13日 (火) 21:30 (UTC)1行追加】[返信]
ガンデン・ティパの項目、ご指名にこたえて執筆したくおもいますが、以上のような次第で諸説の併記はせず(いまノートに名前があがった河口、多田、青木、ツルティムの諸氏はすべて自ら僧侶としての修行まで体験した人たちですが、学者もいろいろありますから。自説のうらにしっかりした根拠がある・ないという問題だけでなく、いまのチベットでは学者が自身の確信する学問上の真実をかならずしもありのまま自由には表現できないという問題もある)に、諸説が一致して承認している事実や、諸説が自説の根拠として提示した事例(「ガンデン・ティパをゲルク派の最高指導者と表現するチベット人の言説」や、ガンデン寺の座主の席がダライラマの席の上位にあること等)を提示する、という方向でいきたいと思います。--Dalaibaatur 2009年10月9日 (金) 23:50 (UTC)[返信]

Dalaibaaturさん、こんばんは。ガンデン・ティパの項目を新設していただいたこと、確認いたしました。Vapourさんから異論が提出されるかもしれませんが、同項の大略としては、私は異存ありません。私も新しい事実がわかったら、ガンデン・ティパ項に加筆させていただくかもしれませんが、よろしくお願いいたします。--220.147.188.50 2009年10月10日 (土) 14:50 (UTC)Sie[返信]

ガンデン・ティパの記事では、いままでこのノートで紹介された「ガンデン・ティパ」の上位を示す事象(席次の事例とチベット人の言説)はぜんぶ取り上げました。おそらく、Vapourさんが私のノートで紹介した学者さんたちが自説の根拠としたのは、多田がダライラマのものとして記述した宗教面における広汎な権威・権限について、ティパの上位性を全面的に立証できるようなものではなく、おそらくは「ダライラマよりも上位にある分野」のサンプルをいくつか提示するにとどまるだろう、と思っています。いずれにせよ、学者の言説であっても、学者の言説であるというだけで無批判に並列するのではなく、根拠のあるものについてその根拠の効力が及ぶ範囲で取り上げるということで、この記事やガンデン・ティパの文章を、自身も執筆し、他の投稿者にもそれをお願いするという方向でいきたいと考えています。--Dalaibaatur 2009年10月10日 (土) 18:36 (UTC)[返信]

2009年10月8日 (木) 07:34での編集で、「『ダライラマの権威の成長』という節をもうけて『定義』部分をスリム化」という編集を加えられたのですね。読みやすくなりました。私の要望を早速にお聞き入れいただき、ありがとうございます。--220.147.187.54 2009年10月9日 (金) 13:21 (UTC)Sie[返信]

コメント ツルティム・ケサン氏は元ゲルク派僧侶で故ティジャン・リンポチェのお弟子さんでした。故ティジャン・リンポチェはダライ・ラマの師でしたが、ゲルク派純粋主義をとるシュクデン信奉の指導者の立場であり、超宗派主義的な立場のダライ・ラマ十四世とは相容れない部分がありました。ツルティム・ケサン氏もティジャン・リンポチェの政治・宗教的な立場を擁護する立場にあることを忘れてはなりません。とくにダライ・ラマの地位をめぐる議論においては、その点を差し引いて当事者によってかかれた一次資料であると認識して批判的に利用すべきものだと思います。 --サンギェ・ドルジェ 会話2012年12月17日 (月) 08:02 (UTC)[返信]
コメント百科事典の記述の問題ですから、諸説あるなら、「検証可能性を満たす形で典拠を提示」し、その典拠の記述の範囲で描写すればいいだけの話です。--Dalaibaatur会話2014年12月19日 (金) 05:55 (UTC)[返信]

河口慧海多田等観青木文教等による20世紀初頭の観察記録[編集]

以下には日本のチベット学のさきがけ河口慧海多田等観青木文教等の記述を紹介します。いずれも、ダライラマが、たんにチベット国内のみならず、チベット仏教圏全体の最高権威であることを指摘しています。彼らは学者であるだけでなく、20世紀初頭に当時のチベットを直接に見聞した「同時代の証言者」でもあります。ダライラマという名跡が「チベット仏教において最上位に位置する化身ラマの名跡」「宗派を越えたチベット仏教界の最高権威」であるのか、「ガンデン・ティパ」に次ぐ地位であるのかどうか、という観点からかれらの記述をまとめますと、ダライラマこそが

(1)チベット仏教全体の法王と位置づけられている
(2)チベットのみならずモンゴル、満州、中国でもチベット仏教寺院の管長を任命したり化身ラマを認定している
(3)ラサ3大寺(セラ・デプン・ガンデン)で、未来のガンデン・ティパを含む全ての出家者に僧侶の資格「比丘戒」を授ける。
(4)ガンデン寺の座主職(ガンデン・ティパ職)と、ラサ3大寺ける学堂長以下の各職の任命をおこなう。
(5)ガンデン寺の行事において、ガンデン・ティパの下座につくこともある。

などで、定義部の「チベット仏教において最上位に位置する化身ラマの名跡」や「ダライラマの権威上昇」の節の「宗派を越えたチベット仏教界の最高権威」という記述を裏付けるものとなっています(というか、彼らの記述を土台として「 2009年10月2日 (金) 12:32の定義部の変更」を行った)。
Vapourさんの「一次資料」に関する定義によると、かれらの記録は「一次資料」となり、「20世紀初頭のチベット」を記述する根拠としてつかえない(私のノートでのご投稿によれば同時代の証言者の記述は「一次資料であるがゆえ」に「素人」は記事執筆に直接もちいてはならず、彼らの証言は、現代の学者が彼らの文面について何か論じた場合に、その学者の記述だけを用いることが許されるらしい)ので、Vapourさんによるこのような勝手な「一次資料」の定義には決して同意しないと、ここでも繰り返し強調しておきます。
以下の文章をごらんになる諸氏が検証しやすいよう、いずれも現代の文庫や新書のページ番号を記しておきます。入力間違いはあるかもしれませんが、だいたい下に引用したとおりの文章がしるされています。--Dalaibaatur 2009年10月7日 (水) 19:48 (UTC)/改訂:2009年10月9日 (金) 02:21 (UTC)[返信]

河口慧海[編集]

   『チベット旅行記』(三),講談社学術文庫265、(1978)より
今より四百年ばかり以前にゲンズン・ズプという人があった。そのゲンズン・ズプは新教派の開山のジェ・ゾンカーワの弟子であるが、このゲンズン・ズプが逝れる自分に、乃公は今度どこそこに生まれて来るといったそうです。ところがその名指しした場所に生まれた者があって、生まれて暫くすると自分の寺に帰りたいと言い出した。
その寺とはどこかと聞くと、タシ・ルフンプー寺であるといったそうです。してみればゲンズン・ズプの生まれ変わりに違いない、なぜならば遺言とその子供の言うことが一致して居るから、というて連れて来て育てることになり、だんだん生い育ったところでそれが第二の法王になられた。その方が死なれて第三代、第四代まで非常に確実な世であったです。(中略)第五代の法王はンガクワン・ギャムツォ(言力海)という方で、(中略)つまりこの法王からしていよいよ政教一致ということになったからです。この法王まではいわゆる宗教ばかりの法王であって少しも政治を執らなかった。(pp.175-176)

   『チベット旅行記』(四)講談社学術文庫266、(1978)より
しからば法王は俗人であるかというに決して俗人でない。妻君もなければまた酒も飲まずしてちゃんと小乗の比丘の守るべき事を守って居らるればこそ、セラあるいはレブンあるいはガンデンというような大きな寺の僧侶がみなこの法王の具足戒を受けるのです。(pp.50-51)

   『チベット旅行記』(四)講談社学術文庫266、(1978)より
チベットの最高僧を師とす
ところがここに最もよい教師というのは前大蔵大臣の兄さんでチー・リンポチェという方がある。これは父違いの兄さんでシナ人のお子だそうです。このチー・リンポチェはやはりセラ出身の方で七歳位から僧侶になられたそうですが、この時には六十七歳であって、その前年にガンデンのチー・リンポチェというチベット最高等の僧の位に就かれた。このチー・リンポチェという意味は坐台宝という意味で、新教派の開山ジェ・ゾンカーワの坐られた坐台がガンデンという寺にある。その坐台へ坐ることの出来るのはチベットでただ二人。それは法王とそのチー・リンポチェとである。しかし法王は常に其坐に坐れる訳じゃない。チー・リンポチェはガンデンに住んで居れば〔法式の時は〕いつもその坐に坐られるのです。
 で法王は生まれながらにしてその位置を占めて居るのですが、このチー・リンポチェは仏学を学んで博士となった後に、ほとんど三十年も秘密部の修行をしなければならん。修学というよりむしろ修行である。その修行の功徳を積み学識と徳行との二つが円満に成り立ったところで、チベットではこの人よりほかにこの坐台に坐るべき方はないという高僧になって始めて、法王の招待によってこの位に就かれるのです。けれども屠者、鍛冶屋、漁師、番太の子供はその位につくことはもちろん出来ない。普通人民の子供でありさえすれば、誰でも五、六十年の修行を重ねて学徳兼備の高僧となればこの位に就くことが出来るです。(p.86)

多田等観[編集]

『チベット』岩波新書91、1942より
第一章ラマ教概観 第一節ラマ教とはなにか 三ダライラマ
ダライラマは首都拉薩の大本山に君臨し、ラマ教全体の法王であり、また西蔵の国王でもある。(p.9)

第一章ラマ教概観 第二節ラマの教団 二 四箇の本山とタントラ学院
ガンデン寺は(中略)。この寺の法主をガンデン・テパといひ、また黄帽派の統帥者とあがめられ、ダライラマとパンチェンラマに次ぐ地位である。ダライラマ空位のときには、摂政として法王の地位に著くこともある。(pp.13-14)

第一章ラマ教概観 第二節ラマの教団 三 寺院の組織
 上来述べたのは、ラマ教黄帽派の本山であるが、次にその組織内容について概観を試みよう。寺院の内部組織は、総括してこれをツォチェン(大学堂)と呼んでゐるが、その下には幾つかのタツァン(学堂)が含まれてゐる。各学堂の下にさらに多数のカムツェン(地方班)があり、またその下にミツェン(郷土班)があることになっている。(中略)この大学堂には数名の学堂長(ケンポ)と、二名の司法僧(シェゴ)と二名に会計僧(チソ)とがあって、その合議によつて、寺全体、即ち大学堂の意向が決定せられる。(中略) 寺院内の司法僧は警察官を兼ねたもので、安寧秩序を維持し、地方班から候補者を出し、ダライラマが之を任命する。(中略) 大学堂の中にある学堂は、大体自治的な組織になってゐる。しかしその長はダライラマが学問僧の優秀な者から任命するのであつて、衆徒の訓育を任務としてゐる。(pp.14-16)

第一章ラマ教概観 第二節ラマの教団 九 ラマの教圏
 ラマ教伝播の範囲は、西蔵の本土を中心として、南はヒマラヤ山脈の南麓、ネポール、シッキム、ブータンの諸地方である。そして西はカシュミール方面から中央亜細亜に及び、東は支那の甘粛省、四川省、雲南省等の地域にわたつてゐる。また北は内外蒙古、シベリヤ南部に、北東は満洲国に及び、満鉄本線の西部地域、謂ゆる蒙古地帯にまで波及し、頗る広汎な地域に亘つてゐる。
 さて、かやうな広漠なラマ教圏の中心は言ふ迄もなく拉薩である。(中略)巡礼者は、三大寺を始め、拉薩の旧跡に参拝することは勿論であるが、ダライラマを拝顔しうれば無上の幸福だと考へてゐる。(中略)  曾て清朝は理藩院を設け、領土内のラマ行政を執行せしめたが、それは要するに形式上の機関にすぎないもので、実質的には西蔵のダライラマが之を行ったのである。即ち支那三大霊跡の一たる五台山の管長札薩克(ザサク)ラマの任命はもとより、北京雍和宮の座主の任命、および庫倫の大活仏哲尊丹巴(ゼエツウンダムパ)の選考はすべてダライラマの権限に属し、その他蒙古方面の化身ラマの決定も皆ダライラマの意志に従わねばならなかった。殊に、歴代の哲尊丹巴は西藏の中央に転生すると信ぜられてゐるが、それは当に、西藏がラマ教の中枢であるとの信仰を、如実に示す一つの証拠といへるものである。(pp.41-45)

青木文教[編集]

『秘密の国 西藏遊記』中公文庫560(1990)より
彼は西藏の国王であると同時に西藏、蒙古、中亜の諸国並びにヒマラヤ地方のラマ教徒の信奉するところの大法王である。(p.284)

現代の典拠[編集]

上で、細切れにいろいろとご意見の提示がありましたが、私は以下、新節を設けてこちらでお答えします。
  1. カム地方をはじめ、地方におけるダライラマの権力・権威に関して参照すべき研究者としては、上に名の挙がっている石濱・手塚氏のほか、日本人でぱっと思いつくだけでも佐藤長江国真実加藤直人伴真一郎小林亮介岩田啓介などがいます。
  2. カム地方におけるダライラマによる宗教的権威の事例をお求めでしたのでサンプルをあげます。カム地方の北部のナンチェンの領主(青海省南部の玉樹州嚢謙県)はカルマ派の大壇越でしたが、ダライラマ政権の発足にあたり、当時ナンチェンの領主を兼務していたカルマ派寺院クンブム寺(著名なゲルク派寺院クンブム・チャムパーリン寺(タール寺)とは別の寺院)の住職がダライラマ五世より地位の認定を受けています(中国の中国人による研究)。
  3. Vapouru氏は「100年前」とか「正しい」「間違い」を云々して検証可能性を満たす典拠を有する記述の削除を繰り返しておられますが、その編集には不同意。妥協できるとすれば、Vapouru氏なり、Sangyedoruje氏なりが、ご自身の主張を裏付ける典拠検証可能性を満たす形で提示する場合には、その典拠が実際に叙述している記述の範囲で記事の文面を加筆することには反対しない、という形になります。
  4. 復活させた記述は、このノートの前節で示しているように典拠はあるのですが、いまのところ標準的な形式(注をクリックすると、著者・文献名・出版社・記載ページが参照できる形式)で示す形にはなっていないので、順次修正していきます。--Dalaibaatur会話2013年2月15日 (金) 21:46 (UTC)[返信]
コメントナンチェンの領主でそういう例があったのは分かりましたが、カム最大領域を支配していたデルゲ領主やその勢力下の諸大寺院でダライ・ラマから地位の認定を受けたという例がありますか?--サンギェ・ドルジェ 会話2013年5月5日 (日) 17:57 (UTC)[返信]
英語が読めないんですか。あなたの主張および100年も以前に書かれた素人の見聞録が間違いであることは、前述した現代のチベット宗教の専門家の大学の学者の研究に明確に示されているでしょう。もう一度言いますが、ダライ・ラマの他宗派にたいする介入権はあくまでも世俗的支配者としてです。ダライ・ラマがチベット仏教の主だなどとは事実誤認も甚だしい。Wikipediaにおいては最新のアカデミアの研究の出典が至上とされるのに、それを無視して、なぜ事実と異なる誤った見解をゴリ押しするんですか。Vapour会話2013年5月13日 (月) 06:57 (UTC)[返信]
「ダライ・ラマがチベット仏教の主だなどとは事実誤認」とVapourさんが確信するのはご自由ですが、Vapourさんがその確信の裏付だと主張する「アカデミアの研究の出典」とか「現代のチベット宗教の専門家の大学の学者の研究」なるものについて、まだ一度たりとも検証可能性を満たすかたちでのご呈示がありません。1年以上も前からご提示をお願いしつづけているのですが。Vapour氏の「主張」の典拠や、青木文教・多田等観を「素人の見聞録」と評価する「最新のアカデミアの研究の出典」とやらについて、あいかわらず検証可能性を満たす形でのご提示がないので、差し戻させていただきます。--Dalaibaatur会話2013年6月8日 (土) 21:59 (UTC)[返信]
チベット仏教の専門の現役の大学教授が高等裁判所の法廷において行った証言[3]が検証可能でないというなら何が検証可能というのでしょうか。他にも正式な学術資料による裏付けはこんなにたっぷり[4]英語は読めないんですか。Vapour会話
《「検証可能性を満たす」》とは、その記述をほんとかなと思った読者がその記述を確かめることができる手がかりを明記することです。つまり、著者・著作の名称・(収録文献名)・問題の記述の掲載ページ・行などを明記することです。Vapourさんの「こんなにたっぷり」な「正式な学術資料」とやらには、「青木文教・多田等観」の記録の名をあげて「素人の観察記録」だと評した文面が、はたして実在するのでしょうか。--Dalaibaatur会話2014年12月19日 (金) 05:55 (UTC)[返信]