ノート:ゲド戦記 (映画)/過去ログ2

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検証可能性の方針遵守について[編集]

ウィキペディアの公式方針なので、守りましょう。

方針[編集]

  1. 記事には、信頼できる情報源が公表・出版している題材だけを書くべきです。
  2. 記事に新しい題材を加筆するときは、信頼できる情報源―出典―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。
  3. 出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。
上記の公式方針に従って、以下の根拠の無い中傷を削除。
『評価は分かれるが多くは不評で他のジブリ作品のような魅力がないとみなしている。 千と千尋の半分の製作期間で作られたためアニメーションクオリティのレベルが低く、 重要な部分を抜かして原作を改変したため、一部のファンから批判を受けている。』
「原作を改変した」といったたぐいの批判的な記述は、まったく信じ難いですね。最初から「原案:シュナの旅」と公式にクレジットしているのに、「原作と違う」という批判はお門違いだと思います。まるでショーウィンドウから見て選んで、自分で「カツカレー」を注文しておいて、「どうしてカレーの上にカツがのっているんだ!」とクレームを付けているようなものです。内容は原作と原案のミックスだと公表しているのですから、原作と違っていてあたりまえ、です。--Album 2006年9月15日 (金) 14:06 (UTC)
リンクを伴って上記の中傷が再UPされましたが、リンク先に根拠となる記述が無いため、削除します。--Album 2006年9月15日 (金) 14:46 (UTC)
リンクは復活しましたが、英語版の該当する記述は、evidenceの明記が無い中傷であるため、英語版の方も削除しました。また、千と千尋の半分の期間とはどれくらいの期間でしょうか?また仮にその半分の時間の製作期間だからといって、それに該当するすべての(恐らく日本映画のほとんどが該当してしまう)映画はそのことによって批判の対象となるべきでしょうか?--Album 2006年9月15日 (金) 15:17 (UTC)
根拠を明示した上で映画祭の評価が示され、それ自体は良いと思うのですが、この翻訳はなんとかならないものでしょうか?「悪意」という単語の流れが不自然なのですが。--Album 2006年9月16日 (土) 06:55 (UTC)
『滑らかなアニメへの悪意、そして綿密なキャラクターデザインへの悪意。 吾郎の映画は芸術の高みになど達していない。父親の映画における創造性と物語性にも。 またもちろんこの映画の試金石として、父の作品を挙げることすら不当だ。』
いくらなんでも「悪意」はないだろうと調べなおし、翻訳を訂正させていただきました。--Album 2006年9月18日 (月) 05:34 (UTC)
『アニメーションはスムーズで、緻密なキャラクターデザインではあるけれども、吾朗の映画は父親の映画における創造性と物語性芸術の高みには達していない。もちろん若者の最初の作品であるから、比較の対象として父の作品を挙げることは公平ではないのだが。』
さらに訳語を修正。--Album 2006年9月18日 (月) 09:48 (UTC)

保護期間中のメモ[編集]

  • 第63回ヴェネチア国際映画祭特別招待作品に選ばれた。当初はコンペティション部門での出品を要請されていたが、諸事情により特別招待作品として参加することになった。

--Avanzare 2006年7月30日 (日) 05:57 (UTC)

韓国2006年8月10日に、台湾2006年10月6日に公開される予定です。 中文版記事追加。 Ham82 2006年8月4日 (金) 05:37 (UTC)

以上の内容を管理者伝言板にて編集依頼しました。--Avanzare 2006年8月9日 (水) 06:11 (UTC)

原作者コメント[編集]

ゲド戦記の原作者がこの映画に対しての。不満をさらしたコメントが発表されましたが、一応まだ英文のままなので保留をしておきます--Stickstick16 2006年8月14日 (月) 14:27 (UTC)

当該コメントの2ちゃんねるユーザーによる翻訳がネットに挙がって来ています。記事名が少々デリカシーにかけていますがそれ自体は翻訳の正誤には関係ないと思いますので、もし翻訳として正しいならば参考にして保護解除が行われたら記入してはどうでしょう?--留姫 2006年8月15日 (火) 13:39 (UTC)
追記:リンク先が不安定のようですので「テンポってる」と表示されたらリロードを繰り返してみてください。--留姫

原作者の翻訳文については正式訳扱いではありませんが「ゲド戦記Wiki」のジブリ映画「ゲド戦記」に対する原作者のコメント全文(仮)にまとめられています。--KAMUI 2006年8月16日 (水) 1時47分 (UTC)

参考までに朝日新聞に載っていた記事のリンク。[1]--203.110.101.148 2006年8月25日 (金) 14:28 (UTC)

タイトルロゴ[編集]

下記の保護解除議論の参考に読んだ資料本に載っていた情報:

タイトルロゴはプロデューサー鈴木敏夫の手による[1]
  1. ^ インタビュー, 『ゲド戦記』徳間書店 ISBN 4197202482
  2. 以上、念のため書いておきます。 --Masao 2006年8月21日 (月) 14:31 (UTC)

    原作との相違点[編集]

    監督のインタビューを読みまして、ようやく「影こそが実は光だった」ということを理解し、それからまた2度観に行ってようやく全体を(ほぼ)理解しました。影の役割が最も原作と違う点だと思いますので、追記しました。また冒頭の父殺害も、悪役クモの仕業であり、その事情を知る大賢人ゲドがアレンと共に帰国するわけですから、アレンはすぐに国王にはなれなくとも、けして暗くない未来が待っているし、一生幽閉されるということもなく、テルーにも時々会いに行ける、というわけです。--Album 2006年9月9日 (土) 04:38 (UTC)

    >また冒頭の父殺害も、悪役クモの仕業であり、

    果たしてそうか??そんなことは映画にも公式設定にも出てきていないのでは。あくまでも父殺しはアレンが自身の闇、凶暴さを抑えきれなかったことによるものだと思います。--133.70.80.82 2006年9月23日 (土) 05:05 (UTC)
    「なお原作では後にアレンは父親の後を継いで国王に即位するが、映画では国王を殺している事実からその流れになるのは難しいと思われる。」・・・これは筆記者の個人的な未来予測ですので、削除しました。--Album 2006年9月9日 (土) 13:03 (UTC)
    なんだか影の意味がよく分からなくなっちゃったので、分けて整理してみました。どうでしょうか?--59.171.22.53 2006年9月20日 (水) 14:57 (UTC)
    整理して頂きありがとうございます。原作及び「影」の解釈についての原作者のエッセイから、映画の「影」の解釈が原作と単純に反対とは考えられないのですが、解釈問題になってしまうと断定するのは危険かと思います。少なくとも原作者がこの映画へのコメントで「なぜ(「光と闇」の)二つに分かれているのか。皆目見当がつきません。」とおっしゃられてもいます。「意味が反対」という表記をもう少し断定的でないものに変更できるといいのかもしれませんが、何が妥当か考えついておりません。--Moonmoon 2006年9月20日 (水) 15:59 (UTC)
    ノートへの記載、ありがとうございます。原作への想い、お察しいたします。その上でなのですが、本作は「シュナの旅」とのミックスであり、相当強力に翻案されていることはご存知のとおりです。もはや別作品と言っても過言ではありません。まず映画の上では「影は光」であり、本来は解説はそれで完結しても問題ないくらいです。小説とは別の作品ですから。それでも作品化の経緯をたどればグウィン氏からの要請でもあり、二次的に「では原作ではどうだったでしょう?」ということも意味あることと思います。だからこそ原案「シュナの旅」があることを承知であえて「原作との相違点」という項目があるのだと考えます。仮にそう考えると、原作は「本作と違って、影は光(プラス)ではなく、逆に負(マイナス)の存在だった」ということが分かれば充分なのではないでしょうか?詳しく小説を解説されていたようなことは、むしろ本家「ゲド戦記」(小説)の方で必要とされているのではないかと感じました。あくまでも個人的な意見なのですが・・・--Album 2006年9月20日 (水) 16:16 (UTC)

    >共食いをしていた竜がラストシーンで仲睦まじく天空高く飛ぶようになる姿を描き、

    ゲドの言葉、クモの言葉から察するに、世界の均衡を崩せるたった一つの存在、は人間であり、クモはすべての災いの根源ではなく、生死両界の扉を開き、崩れつつある均衡を完璧に破壊しようとしただけなのではないかと思います。果たしてクモを倒したからと言って、世界の均衡がすべて解決したとも思えません。しかし奴隷売買を牛耳っていたクモがいなくなったので奴隷は自由になれるでしょうし、最後の竜が始め共食いをしていた竜であるならば、アレンとテルーの冒険の中、何らかの形で世界の均衡が持ち直したのでしょうかね?
    クモが「切り離された光のアレン」をもともと知っていたこと(明らかに初対面ではない・不思議にも思っていない・クモの城にだけ入れない)、そして当然のごとくクモが光のアレンを「去れ!」とコントロールしていることから、それはクモが原因。原作を考えると、かえって混乱する。それから竜の描写も冒頭とエンドの両方で象徴的に使われていること、エンドに起きた変化は「元凶のクモを倒すこと」しかないため、間接的にクモの動向が主因。ただし、「世界の均衡」については、未解決と考えることを支持します。「海外の動向」はちょうど切り離そうと思っていたところでしたので、実行していただいてよかった。--Album 2006年9月23日 (土) 05:39 (UTC)
    前言撤回です。映画『ゲド戦記』公式パンフレットの8ページの「物語」によると『ハイタカはクモという魔法使いが生死両方を分かつ扉を開け、それによって世界の均衡が崩れつつあることを探り出す。』とのことです。やはり原作と違って、映画では相当に因果が単純化されているようです。--Album 2006年9月23日 (土) 10:59 (UTC)

    >間接的にクモの動向が主因。ただし、「世界の均衡」については、未解決と考えることを支持します。

    ご返答ありがとうございます。クモのせりふの中に、「均衡はもはや崩れているではないか、われら人間の手によってな!」とあったので、因果が単純化されているにせよ、クモが敗れただけで「すべての」世界の均衡が元に戻る、というのは違和感がありましたので。ハイタカもクモを倒すことが旅の終着点ではないように言っていましたし、最後は未解決の世界の均衡を戻すために再び旅に出るんでしょうね。--133.70.80.82 2006年9月24日 (日) 00:30 (UTC)
    そう、そのセリフなんですよね。そうなのですが、上に書きました公式パンフの解釈だと要するに「何もかんもクモが悪い」という話のようです。個人的に違和感はありますが、少なくとも「クモを倒せば万事解決」といった世界観のようです。あのクモのセリフも前後を考えると「窓ガラスを割った不良の言い訳」のようにも聞こえ、根拠にはできないような気がします。しかし、物語の深みの為には、クモを倒して万事解決、では寂しすぎますよね。含みを持たせた終わり方だったかもしれません。ただ上記の公式パンフの記載にあわせて、本文を修正しております。--Album 2006年9月24日 (日) 00:44 (UTC)
    いくつか出ているガイドブックに目を通しましたが、やはり世界の均衡を崩しているのは強欲な人間の働きであると書いてありました。公式パンフレットは持っていないのですが、
    >クモが「切り離された光のアレン」をもともと知っていたこと 
    アレンとハイタカが出会ったのは「なにかの縁」以上ではないので、クモがアレンを狙ったのは偶然では?ハイタカに出会う前のアレンの行動にクモがそれほど関わっていたとは思えません。光は実体がないので、クモに抗えなかったのでは?
    アレンから光が分離してしまった事はともかく、父を刺したことにまでクモの手引きというのはさすがに…。アレンの父殺しは原作との大きな違いとして関係者らはそれぞれ解説を語っているのに、本人の意思でなくクモに操られていたというと、映画の本質的な意味まで変わってしまいます…。--133.70.80.82 2006年9月24日 (日) 05:26 (UTC)
    そう、それも良く分かりますし、そういう解釈は私の好みでもあるんです。ところが公式ガイドブックには『ハイタカはクモという魔法使いが生死両方を分かつ扉を開け、それによって世界の均衡が崩れつつあることを探り出す。』と明記しています。ここまできたら、まだ公開中の映画ですし、是非とも公式パンフレットを入手して下さい。事実はこうした形になります。
    • 1.悪役クモが生死を分かつ扉をあけた。
    • 2.それによって世界の均衡が崩れ始めた。
    • 3.世界に災いの兆しが見られ、人々の頭がおかしくなってきた(もともと人間には欲があるが、極端に強欲になってきた)。
    どうしても公式パンフレットが入手しにくいならば、公式サイトでも1~3の因果関係が「ストーリー」の解説から読み取れると思います。映画の上で「世界の均衡が崩れ始めたのは、クモのせい」ということは解釈の問題ではなく、単なる事実です。私の好みの脚本ではないのですが・・・。とりあえず公式サイトをご覧になって下さい。公式パンフでは、より明確です。--Album 2006年9月24日 (日) 10:56 (UTC)
    アレンに関してのクモの関与ですが、ウサギがまだハイタカの所在を探していたのに(まだクモもハイタカと接点がない)、アレンが影から逃げて沼に沈むシーンを水盆で確認して「光のアレン」の妨害に入ります。これは最初からの関与をうかがわせますが(王の息子だから?)、いずれにしても「世界の均衡が崩れて、人々の頭がおかしくなっている」「災いの根源をハイタカが探している」「探り出したら、それはクモが原因だった」という因果は事実です。もともとアレンには鬱屈した思いはあったのでしょうが、実行にまで至らしめたのは、クモのせいだと考えないと、主人公は単なる殺人犯になってしまいます。ゲドと共に帰国の徒につく意味も薄れてしいます。・・・このあたりを明言しないで議論の的にしておくのは、営業戦略かもしれませんね(笑)。--Album 2006年9月24日 (日) 11:15 (UTC)
    少なくともウサギがクモに奴隷が逃げた事を報告した時に、クモが関心を示したのはハイタカについてのみでした。アレンについての報告は関心を示すどころか無視しています。最初から関与していたなら地元へ来る前から動向を探っていてもおかしくはないと思います。ハイタカへの執着からアレンを利用したと考えるのが無理がないと思われます。--Moonmoon 2006年9月24日 (日) 20:31 (UTC)
    映画の中で描写していない事柄を解説本その他で説明していますが、「映画」の中で描かれた事実と隔たっているように感じます。例えばパンフレットにおけるアレンの説明は「〜立派な両親の元で何不自由なく暮していたが、その自由に耐えきれなくなり国を出る。旅の途中、大賢人ゲドと出会い、ともに災いの源を探ることに。〜」となっておりますが、映画の描写とかなり隔たりがあるかと思います。一方、映画の中でクモが生死両界の扉について語ったのは「生死両界の扉を発見した」という事だけで、映画の中で扉を開けたという事実についての発言も描写もありませんでした。公式出版物「ロマンアルバム」で制作経緯も語られておりますが、結局そういったものも含め、この映画について映画以外で語ったものがこの映画の説明となるようでは、問題があるかと思います。観客全てが全ての情報を入手するわけでもありません。映画外の補足情報をもって制作側が映画の内容を語るようでしたら、観客の印象とはかけ離れ、どんな事も説明も可能となります。少なくとも映画のみの情報によって映画「ゲド戦記」の説明をされた方が良心的かと思います。(クモの情報の情報源については、全文について情報源となされた方が宜しいかと存じます。かなり議論を呼ぶと思いますが、アレンの情報もクモと同様に公式情報通りになされるのかどうか、情報の取り扱い方針と姿勢に関わりますので、全体としてご考慮頂いた方が宜しいかと存じます。Albumさんのご判断ということで、直接編集は避けさせていただきました。)尚、「影」についての概念を一度原作者エッセイ「夜の言葉」でご確認頂いた方が宜しいかと存じます。原作は大学でも教材として扱われる事もございます。フリーとはいえ百科事典としては、主観的な解釈ではなく、なるべく客観的で正確である事が望ましいのではないでしょうか。私が変更させて頂いた文面についても難しいところなのですが。(関連する前回の私のこのノートにおける記載部分を削除させていただきます。)--Moonmoon 2006年9月24日 (日) 20:31 (UTC)
    確かに、映画関連の著作物は、本によって、あるいは発言者によってニュアンスが違うようですね。一切の主観や解釈を除こうとすると、「○○にはこう書かれていた」「○○というスタッフはこう述べていた」という書き方しか出来ないのかもしれません。私も、この項目に多く係わりすぎて、私のバイアスがかかりすぎたのではないかと反省しています。私はしばらく消えようと思いますが、最後にこのノートの一番下に、「ジブリのスタッフだって迷っていた」という情報提供をします。--Album 2006年9月25日 (月) 11:42 (UTC)

    2006年10月6日付け読売新聞夕刊に掲載された広告の件。映画の宣伝のキャッチコピーが映画内容と矛盾を含むことは多々あります。また、「ラピュタ」にもパズーとシータが離れ離れになるというラストが付いていたという話もよく聞きます。夕刊の記事だけで物語のその後を決めてしまえるものでしょうか。他のソースは存在するのですか?--133.70.80.48 2006年11月7日 (火) 03:56 (UTC)

    以下の記述について意味が不明瞭かつ、根拠が不明なために削除しました。--220.210.141.72 2006年12月18日 (月) 07:45 (UTC)
    • (日本のアニメでは、物語の登場人物が白人じゃないと観客に受け入れられないと言う日本人観客の精神的土壌(白人コンプレックス)がある)

    関連項目の件(またはyahooレビュー等の個人的感想の件)[編集]

    Yahooレビューの書き込みがありましたが、ここは個人の感想を書く場ではなく、百科事典です。作品の感想を書きたい気持ちは誰しも持っていますが、百科事典であることを考えて、皆、百科事典としての書き方を考えて遠慮しています。(というか、ルール違反)。ご理解下さい。酷評が続いていることは私も知っていますが、ここはレビューの実況中継をする場でもありません。--Album 2006年9月10日 (日) 04:49 (UTC)

    yahooレビューが、現在「2ちゃんねる化」していることは存じ上げております。この映画に対する良い評価には平均して30~40前後の「いいえ」が、悪い評価には同じく30~40前後の「はい」が連続的かつ比較的短い時間に記録されています。大変な労力だと思います。その数はここ何週間か一定しているように見えます。どうしてもyahooレビューの事を書きたい、という気持ちも良く分かりますが、その行為を続ければ、管理者がyahooレビューに関する記述を削除した上で「保護」をかけることは明らかです。無駄な労力なので、やめませんか?ここは百科事典であり、現在進行形のことは事務的に消されるだけです。(消しているのは私ではありませんが・・・)--Album 2006年9月10日 (日) 08:04 (UTC)
    yahooレビューは、IDを変えて誰でも何回でも評価を書き込め、しかも事実に反することが書いてあっても訂正できないいい加減なものであり、客観的に申し上げて、yahooレビューは信頼できず、また注目にも値しません。--Album 2006年9月14日 (木) 15:15 (UTC)

    監督就任の経緯[編集]

    ここは作品項目でありながら、監督就任の経緯に係る関心も高いため、スタッフ欄の下に情報を集める欄を作成しました。ただし、あくまでも「個人」ではなく、「作品」の項目であることを忘れないようにしましょう。--Album 2006年9月16日 (土) 00:48 (UTC)

    「アレンと影」~ジブリスタッフの迷い~情報提供のためのノート[編集]

    ここのウィキペディアでも議論のある「アレン」と「影」の解釈ですが、ジブリスタッフの中でも迷いがあったようです。今でもスタッフごとに意見が分かれるのかもしれませんが、作画監督である稲村氏のインタビューから参考のために引用します。--Album 2006年10月2日 (月) 09:22 (UTC)

    • 稲村:「作画インするギリギリになっても、キャラクターがぜんぜん理解できなかったんですよ。とくに主人公のアレンがわからなかった。原作のアレンともちょっと違うし、キャラクターを作らないといけないし、スケジュールは押し迫っている。「これはちょっと無理!」と思って、吾朗さんを会議室に呼び出しまして、4時間監禁したんです。」
    • -「会議室ではどんな会話が?」
    • 稲村:「お互いの生い立ちから、すべて話し合いました。かなりきわどい会話もしましたね。そうしているうちに突然、吾朗さんが「アレンのほうが影なんだ」と言い出したんですよ。「じゃあ、あの影は何ですか?」と聞いたら「あれは・・・光・・・・・・かな?」って。「じつは現実に生きているアレンが影なんだ」と言ったんです。それで、やっとこの話がわかりました。それまで、吾朗さんが「アレンは三白眼にしてくれ」と言うもんだから意味がわからなかったんです。「影と光の逆転」のアイデアで、やっと納得がいったんですね。
    • (出典:「映画『ゲド戦記』完全ガイド~アースシーの風に乗って」50p

    原作者グウィン氏の批判[編集]

    >原作者は映画に対するコメントの中でアレンの分割状態について批判をしている。

    Moonmoonさんへ。ただ批判をしているだけなら、原作者といえど「気に入らない」という意見のひとつに過ぎません。肌の色の表現に対してのように、どういうこだわりをもって批判しているかを記載してほしいです。--133.70.80.82 2006年9月27日 (水) 04:24 (UTC)追記。原作者のコメントの訳を読みました。何故アレンに影が現れたのかわからない、原作でははっきり明らかになる、ということでしたが…どうもこだわりの部分はわかりませんね。原作に詳しい人ならわかるのでしょうが…--133.70.80.82 2006年9月27日 (水) 06:53 (UTC)
    ご返答が遅れまして申し訳ございません。本文に詳細を記載するには原作者コメントの正確な翻訳が必須ではありますが、この件についてのコメント文が長い事と翻訳文の信憑性に関わりますので記述は避けました。以下プロの翻訳家による該当部分のコメント翻訳文になります。
    「本の道徳観念が、映画では混乱しています。例えば、アレンの父殺しは、動機のない勝手な行動です。映画の後半で、その殺しを行ったのは「影」(自分の分身)であるという説明は、遅く、信憑性がないんです。なぜ(「光と闇」の)二つに分かれているのか。皆目見当がつきません。この案は、ゲド戦記の一作目の「影との戦い」からとられていますが、あの本にはゲドにどうやって「影」がつきまとうようになり、何故であるかもわかり、そして最後にはその「影」は誰であるかという事もわかります。我々の中に住む闇を、魔法の剣をふるうことによって退治する事は不可能です。ところがこの映画の中では、悪は外敵/コブ(クモ)という悪党に結晶化され、彼を殺す事により全てを解消できるという設定になっています。本の中のものであれ、政府が配布するものであれ、現代のファンタジーの中では、いわゆる善と悪との戦いの中において人を殺す事が解決として提出されています。私の本はそういう戦いの中にくくられているものではないのです。そして、そういう短絡化された提示に、短絡化された答えを提示していません。」
    原作者はこの部分に限らず一流の作家らしいとても意味深長な文面でコメントをされています。このコメントの背景にはエッセイにて詳細に語られている原作者の考え方もございます。(正確にご判断頂くには「影」の概念について正確に把握して頂く必要がございます。)事実として最低限述べられる事(辞書として記述可能な事実)は原作者が主人公の状態の描写について「批判をしている」という事だけです。コメント文へのリンク情報がある事から、出典と批判している事のみ記述させて頂きました。映画制作サイドのコメントにしろ原作者のコメントにしろ、私共は直接詳細に確認できる立場にありませんので、中立性を尊ぶのでしたら最低限両者の言い分を掲載する必要があると思います。但し、原作者コメントの原文が英文である為、翻訳について原作者と翻訳家との間で詳細に確認作業をしない限り、100%正確な翻訳は不可能です。制作サイドが「影」の設定アレンの設定についてのコメントを出し、それをこちらへ掲載する限り、原作者サイドのコメントを掲載する事は最低限のマナーかと存じますが、表現方法は検討の余地があるかと思います。正確を期するという意味でどうしても記載の必要があるようでしたら、原文の英文で該当部分を掲載するしかないのかもしれません。ご検討お願いいたします。--Moonmoon 2006年9月29日 (金) 19:03 (UTC)

    挿入歌に対する批判(本文からの移管)[編集]

    著作権法に係る挿入歌に関する批判を本文から以下のとおり移管。たとえ一詩人から雑誌上で批判されたことが事実であっても掲載する理由にはなりません。「公式基準」および「ウィキペディアが何ではないか」をお読み下さい。非常に繊細な問題ですので、百科辞典本文に再掲載する場合は、裁判の当事者になる覚悟で。たとえ赤の他人の批判でも「それを全世界にばらまいた」という立場になります。案外、簡単な問題ではないです。--Album 2006年10月11日 (水) 08:08 (UTC)

    • 諸君!2006年11月号誌上において荒川洋治は、「作詞者宮崎吾朗氏への疑問」と題して劇中挿入歌である『テルーの唄』に対し、「萩原朔太郎の『こころ』に、ある範囲を超えて似すぎている」「参考資料として『こころ』を詞のもとにしたならば、原詩・萩原朔太郎、編詞・宮崎吾朗とでも表記するべきで、作詞・宮崎吾朗とすることにためらいはなかったのか」との批判を行った。』

    >掲載する理由にはなりません。「公式基準」および「ウィキペディアが何ではないか」をお読み下さい。

    読んでも、どこに抵触するのか理解できませんでした。できればもっと具体的に指摘していただきたかったです。 もっとも、この問題については、すでに鈴木氏の謝罪で決着がついたので、この項目自体削除した方がよろしいでしょう。

    Wikipedia:存命人物の伝記に基づき、削除を支持します。

    ヴェネチア国際映画祭のスタンディングオベーション[編集]

    >上映終了後、満場の観客から5分間以上のスタンディングオベーションを受けた。 しかし、特別招待作品でも受賞可能だった新人監督賞は受賞していない。

    この記述は削除しました。

    1、「5分間以上のスタンディングオベーション」というのは実は、あまり長くない。   本当に好評なら10分から20分以上続くこともある。   むしろ、5分間程度のスタンディングオベーションだったから、受賞できなくても当然という見方もで  きる。(両者に直接の関連性があるわけではないが)

    2、ウイキペディアの他の映画作品の項目で、スタンディングオベーションについてわざわざ言及している   例を知らない。cf.「オペレッタ狸御殿」(カンヌで5分間のスタンディングオベーション) --以上の署名の無いコメントは、220.215.102.28会話/Whois IPv4IPv6)さんが 2006年11月12日 (日) 11:29 (UTC) に投稿したものです。