ノート:オッカムの剃刀

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記述の論理的矛盾[編集]

以下の2つは両立しないはずです。

  • 並立する幾つかの仮説の中から、ある一つの仮説を選択する
  • 真偽の判定則ではない

次の2つのことが混同されているように思われます。

  • ある事柄を複数の仮説の最大公約数だけで説明出来る場合に最大公約数以外を削除する
  • 共通点を見いだせない複数の仮説のうち、より単純な方を採用する

前者の場合は真偽の判定則ではとして使っていないのに対して、後者の場合は真偽の判定則となりとして使っています。原文の意味としては前者を指していると思われますが、「並立する幾つかの仮説の中から、ある一つの仮説を選択する」をそのままの意味に取れば後者として使っていることになります。

あと「オッカムの剃刀への反対者」の項目は2007年3月24日 (土) 18:12以前の記述が論理的に正確です。「必要が無いなら」「少数の論理でよい場合は」を前提とするなら、その前提から外れた場合の指摘は反対意見にはならないはずです。 --量子力学のド素人ことryon 2007年4月13日 (金) 08:38 (UTC) 誤解を生じないように一部修正--量子力学のド素人ことryon 2007年4月14日 (土) 09:02 (UTC)[返信]

>*ある事柄を複数の仮説の最大公約数だけで説明出来る場合に最大公約数以外を削除する
>*共通点を見いだせない複数の仮説のうち、より単純な方を採用する
>前者の場合は真偽の判定則ではないのに対して、後者の場合は真偽の判定則となります
そんなことはないですよ。もしそう考えるのならまず「単純であれば真である」、というテーゼを基礎付ける試みをしてみるといい。これ無理ですから。以上、簡単ながら。--Was a bee 2007年4月13日 (金) 14:14 (UTC)[返信]
「そんなこと」が何を指しているのか不明確(引用が意味をなしてない)です。「オッカムの剃刀は真偽の判定則としては不適切である」と仰りたいようですが、それならば私の指摘を裏付ける主張のようです。私が指摘していることは2つの用法の混同であり、後者の用法は、その用法が適切であるか否かに関わらず、真偽の判定則として使っているとする指摘です。もし、オッカムの剃刀を真偽の判定則として使うことが不適切であるならば、そうした用法は不適切であり、「並立する幾つかの仮説の中から、ある一つの仮説を選択する」行為はオッカムの剃刀の間違った用法であることになります。よって、本文の記述は適切に訂正されるべきとなりますね。--量子力学のド素人ことryon 2007年4月14日 (土) 08:56 (UTC)[返信]
おっしゃる意味がよく掴めないのですが。とりあえず冒頭の文章
>以下の2つは両立しないはずです。
>並立する幾つかの仮説の中から、ある一つの仮説を選択する
>真偽の判定則ではない
これは両立してますが、それは理解できますか?「選択された仮説が正しいかどうかは関わりなく、思考の節約のために一番簡単な説明を選ぶ」ってことですよ。簡単な例を出せば、「物理状態と全く相互作用しない天使」というのがあります。この天使が一匹いることをA、「世界を説明する最も単純な仮説」をSとして、世界に冠する次の全ての仮説が、等しく経験的な事象を説明します。S,S+A、S+A1+A2,(以下続く)。オッカムの剃刀とはここでSを選ぶ立場のことですが、しかし世界が実際にS+AやS+A1+A2でなく「Sである」ということを保障できるものではない、ということです。--Was a bee 2007年4月14日 (土) 12:49 (UTC)[返信]
言ってることが分からないのに否定出来るとは凄いですね。というか、毎度、追認ありがとうございます。「思考の節約のために一番簡単な説明を選ぶ」とは、「S,S+A、S+A1+A2,(以下続く)。オッカムの剃刀とはここでSを選ぶ立場」であるならば、既に説明した通り、それは「ある事柄を複数の仮説の最大公約数だけで説明出来る場合に最大公約数以外を削除する」ことですね。S+AもS+A1+A2も、Sの上に構築された仮説であって、Sと「並立」しているわけではありません。何故なら、SはAやA1+A2を肯定も否定もしていないのだから。もし、SがAやA1+A2を肯定したり否定したりするなら、S+AやS+A1+A2は成り立たないはずです。もし、並立するとすれば、それは、無とAとA1+A2です。しかし、普通は、無と並立するとは言いません。文字通り「並立する幾つかの仮説」を意味するのは、「共通点を見いだせない複数の仮説」であり、これは、天動説と地動説のような関係を指します。もし、そのいずれかを選択するなら、それはまぎれもなく真偽の判定則です。よって、次の二つは明らかに両立していません。
  • 並立する幾つかの仮説の中から、ある一つの仮説を選択する
  • 真偽の判定則ではない
--量子力学のド素人ことryon 2007年4月14日 (土) 16:21 (UTC)[返信]
一部追記--量子力学のド素人ことryon 2007年4月14日 (土) 16:24 (UTC)[返信]
分かり易くするために仮説2つで説明します。SとS+Aは並立する仮説でないということです。どちらにおいてもSが正しいことを前提としているわけであり、その上で、さらにAが成り立つかどうかという話になります。さて、新しい仮説が出た場合に「従来理論」と「従来理論+新仮説」が並立する仮説と表現しますか?普通は、言いませんね。何故なら、その表現は無と新仮説が並立すると言ってるのと等しいからです。同じように、SとS+Aは並立する仮説とは言えないわけです。並立すると言えば、Sとは根本的に違う物を指します。それは、天動説と地動説のような関係を指します。--量子力学のド素人ことryon 2007年4月14日 (土) 16:36 (UTC)[返信]

(インデント戻します)ははぁ、大よそ何を言わんとしているかが分かってきました。とりあえず二点に分けて書きます。まず一点、SとS+Aが並立しない、というのは別にryonさんの言葉に対する感じ方でしかありません。S+Aに対してAを切り捨ているという行為は一般には(Sではなく)Aの方がハードコアである場合に、重要な意味を持ちます(そうでなければ人は余計な要素を付け加えようと普通しませんから)。つまりS「外から力がかからない物体は等速直線運動する」、S+A「外から力がかからない物体は神様が等速でまっすぐに動かす」ここでA(神様)が余計である、というのがオッカムの剃刀です。(伊勢田哲治『科学と疑似科学の哲学』p86 名古屋大学出版会 ISBN 4-8158-0453-2
次に天動説と地動説は(どれが座標軸上に固定されているのか)という意味では決定不可能です。座標変換すれば天動説も地動説も相互に交換可能であり、同じ予測を全く同等に行ないます。ですので例として不適かと思われます。で、それは置いといて『「共通点を見いだせない複数の仮説」(中略)のいずれかを選択するなら、それはまぎれもなく真偽の判定則です。』は何故でしょうか?共通点を持たない理論AとBがあり、Aが3つの実体で世界を記述しており、Bは100の実体を導入して世界を説明しているとする。これをA3、B100と表したとき、『B100ではなくA3が真である』といえる根拠は何でしょう。それが示されればこの議論はとりあえず終了します。--Was a bee 2007年4月15日 (日) 02:07 (UTC)[返信]

またまた、追認ありがとうございます。具体的説明に対して何ら具体的に反論されないのでは「言葉に対する感じ方」と捉えることこそが言葉に対する感じ方でしかありません。先にも説明した通り、Aと並立しうるのは、A以外の仮説か、Aの否定形であって、無とAは並立しません。それに対して具体的に反論されないのであれば、それは貴方個人の感想に過ぎません。
天動説と地動説は次の全ての条件を満たすので、本文の論理的矛盾を的確に指摘した事例です。
  • 並立する仮説である
  • オッカムの剃刀ではどちらかひとつを選べない
  • 他の方法で真偽の判定が可能
誰も主張していないことについての根拠は不要です。言わなくても分かると思って言いませんでしたが、敢えて一言言うと、そのような無意味な議論には最初から付き合うつもりがありません。並立する仮説について、どちらが真であるか根拠がないのに一方だけを選択するなら、その選択は明らかに真偽の判定行為そのものです。根拠がないのであれば、真偽の判定則としての必要条件を備えていないのにも関わらず、真偽の判定則として用いているので、その用法は不適切な事例となります。--量子力学のド素人ことryon 2007年4月15日 (日) 09:03 (UTC)[返信]
具体例を挙げると、「ガリレイ変換」と「ガリレイ変換+ニュートンの運動法則」が並立するとは言いません。--量子力学のド素人ことryon 2007年4月15日 (日) 09:14 (UTC)[返信]
>具体的説明に対して何ら具体的に反論されないのでは
それは説明が容量を得ないからです。できれば言いたい事を論理記号で整理してくださると、嬉しいのですが。
>Aと並立しうるのは、A以外の仮説か、Aの否定形であって
と何処で誰が言ってますか?上の(本から引用された)等速直線運動の例をまずよく読んでください。
>どちらが真であるか根拠がないのに一方だけを選択するなら、その選択は明らかに真偽の判定行為そのものです。
だから、それがなぜなんでしょうか?もしそんな事が言えるなら、科学史・哲学史上の驚異的なレベルの大発見だといえます。--Was a bee 2007年4月15日 (日) 10:08 (UTC)[返信]
Wikipediaの説明文に混同が見られることは、何ら「科学史・哲学史上の驚異的なレベルの大発見」でもありません。ただ、執筆者が混同しているだけのことです。おそらく、Was a bee氏は、次の2点を読み違えていると思われます。
  • 真偽の判定則としての必要条件を備えている
  • 必要条件を備えているかどうかは別として、真偽の判定則として使用する
私が指摘しているのは後者であり、Was a bee氏は私が前者を主張していると誤読しているようです。2007年4月15日 (日) 02:07 (UTC)で「『B100ではなくA3が真である』といえる根拠は何でしょう」と質問して来たり、2007年4月15日 (日) 10:08 (UTC)で「科学史・哲学史上の驚異的なレベルの大発見」と言ってることから、未だに、誤読したままのようです。
最初から何をどう誤読しているか分かっていたので、繰り返し、その旨の説明をしているのですが、一向に耳を傾けてもらえる様子がありません。削除部分と挿入部分を明示して一部修正と宣言して最初の提案を修正したり、何処に誤読があるのか、その都度、説明を試みているのですが、聞く耳がないのでは通じるはずがありません。相手の主張内容を正確に把握することは議論の基本で、誰も言ってない誤読内容に対して反論しても無意味だと思うのですが、それはどうやら共通認識ではないようですね。
私が指摘したことには一切反論されてないようなので、私が言うべきことは、誤読である指摘以外にありません。今後も、私の指摘に対しての質問や反論が見られないようなら、こちらから答えることは何もありません。--量子力学のド素人ことryon 2007年4月16日 (月) 09:25 (UTC)[返信]
Wikipediaの説明文に混同が見られることは、何ら「科学史・哲学史上の驚異的なレベルの大発見」でもありません。ただ、執筆者が混同しているだけのことです。おそらく、Was a bee氏は、次の2点を読み違えていると思われます。
  • 真偽の判定則としての必要条件を備えている
  • 必要条件を備えているかどうかは別として、真偽の判定則として使用する
私が指摘しているのは後者であり、Was a bee氏は私が前者を主張していると誤読しているようです。2007年4月15日 (日) 02:07 (UTC)で「『B100ではなくA3が真である』といえる根拠は何でしょう」と質問して来たり、2007年4月15日 (日) 10:08 (UTC)で「科学史・哲学史上の驚異的なレベルの大発見」と言ってることから、未だに、誤読したままのようです。
最初から何をどう誤読しているか分かっていたので、繰り返し、その旨の説明をしているのですが、一向に耳を傾けてもらえる様子がありません。削除部分と挿入部分を明示して一部修正と宣言して最初の提案を修正したり、何処に誤読があるのか、その都度、説明を試みているのですが、聞く耳がないのでは通じるはずがありません。相手の主張内容を正確に把握することは議論の基本で、誰も言ってない誤読内容に対して反論しても無意味だと思うのですが、それはどうやら共通認識ではないようですね。その他、反論の姿勢にも多々疑問がありますが、詳細は利用者‐会話:Was_a_beeに投稿させてもらいます。
とりあえず、私が指摘したことには一切反論されてないようなので、私が言うべきことは、誤読である指摘以外にありません。今後も、私の指摘に対しての質問や反論が見られないようなら、こちらから答えることは何もありません。--量子力学のド素人ことryon 2007年4月16日 (月) 09:25 (UTC)[返信]
私が思うにryonさんの混乱は次の点を区別してない点にあると思います。
  1. 使用する理論をとりあえず選択する、という行為と
  2. それが真であるかどうか、という問題。
この二つが同じ問題ではない、ということが肝です。例えばV=RIという「オームの法則」というのがありますが(ryonさんは電子工学関係ということのようですので、オームの法則に関する細かい説明は不要ですね)、しかしオームの法則が世界についての真なる理論なのか、というと少なくとも今はそう考えられてはいませんね。ミクロの物理的特性が、巨視的なレベルで見せる振る舞いが統計的にV=RIという様を見せる、というのがオームの法則に対する現代物理における一般的な理解です。ここで大切なのは、上で書いた点、すなわちオームの法則を回路定数を決めるのに使用しているとしても、それはオームの法則が真なる理論であることを意味しない、ということです。実際オームの法則が当てはまらない状況は数限りなくありますね(こうした事はryonさんの方がよくご存知のはずです)。半導体にしたってそうだし、温度が一定範囲からずれると、対象が金属であっても電圧値と電流値の間の比例関係は失われていきます。使用する理論の選択と、その理論が真であるかどうかが同じ問題ではない、というのはこういう意味です。と、これはとりあえずここまでにして、記事に関する内容はこちらで、そして姿勢云々の話は、ryonさんの仰るようにノートページで行いましょう。賛成します。--Was a bee 2007年4月16日 (月) 09:39 (UTC)[返信]
私が思うにWas a beeさんの混乱は次の点を区別してない点にあると思います。
  • 思考の節約のためにSとS+Aのいずれかを選択する
  • 並立する幾つかの仮説の中から、ある一つの仮説を選択する
この二つが同じ問題ではない、ということが肝です。--量子力学のド素人ことryon 2007年4月16日 (月) 10:02 (UTC)[返信]

(戻し)お、ちょっと論点が絞られてきましたか?ではその前者をA、後者をBで表しましょう。つまりこうです。

  • A:思考の節約のためにSとS+Aのいずれかを選択する
  • B:並立する幾つかの仮説の中から、ある一つの仮説を選択する

この時、B⊃A ですね。これはいいですか。これはある意味で仮説という言葉をこういう形で限定的に使用する、という意味でもありますよ。どうでしょうか。--Was a bee 2007年4月16日 (月) 10:30 (UTC)[返信]

表現が必ずしも正確ではないことを前提とするなら、文章としてB⊃Aと読めなくもありません。ただし、通常は、Aと言いたいならAと言うのであって、A以外のことを想定していないならBのような持って回った言い方はしません。また、並立するの語意を厳密に受け止めても、BがAを含まないと解釈できます。以上のことから、元の文章は、A以外について言及する意図が明確であって、むしろ、そちらの意図の方が主であると読み取れます。
同じ現象を説明する理論なら最終的な計算結果が同じになるのは当り前です。何故なら、計算結果が現象と一致しなければ、その現象を説明できてないのですから。計算に使う以上、理論としての真偽はさておき、計算式自体は正しい(特定の条件下に限って成り立つ場合も含めて)ことが絶対条件ですから。常に同じ計算結果になるなら、同じ現象を説明する理論は同じ数式が適用可能なはずです。
よって、計算結果が現象と一致するなら、数式を選ぶことは仮説を選ぶことではありません。その最たる物がローレンツ変換式です。ローレンツ自身は絶対静止系があるとの前提で式を立てたようですが、同じ式は絶対静止系を仮定しない相対性理論でも使われています。例えば、天動説と地動説で言えば、座標変換で相互に交換可能なら、どんな式を使おうとも、それは、どちらかの仮説を選んだことにはなりません。ニュートン力学の式を使ったからと言って、「相対性理論ではなくニュートン力学を選んだ」ことにはなりません。オームの法則の式を使ったからと言って、「マクスウェルの方程式や量子論を否定する学説を選んだ」ことにはなりません。
結果を計算するだけなら、必要な精度が得られることを大前提として、楽な方を使うのは当たり前のことです。好き好んで困難な道を選ぶ人はいません。たったそれだけのことなら、オッカムの剃刀などと名前をつけて尤もらしく論じるまでもないでしょう。本文を見ても、仮説そのものを選ぶ観点で書かれていて、仮説に使われている数式を選ぶ観点に限定した記述ではありません。--量子力学のド素人ことryon 2007年4月16日 (月) 10:38 (UTC)[返信]
言い回し云々はまた別の話で(分かりやすい記事を書くために妥当なほうを選択しさえすればいい話で)、論理的な包含関係としてB⊃Aが成立しているか、まずこれを互いに確認してから議論を進めましょう。どうでしょう、B⊃Aは成り立ちますか。
で、次はこれですね。『数式を選ぶことは仮説を選ぶことではありません。』というわけですから、とりあえず
C:「仮説」は「計算のための数式」とそれに対する「解釈」からなる
すなわち
C:仮説=計算のための数式+それにたいする解釈
仮説という言葉をこういう形で限定して使う、というのはどうですか。--Was a bee 2007年4月16日 (月) 10:49 (UTC)[返信]
百科事典として日本語で説明する以上、言い回しは密接に関係があります。伝えるために言い回しを駆使するのであって、伝わらないのでは説明として意味がありません。間違って伝わるなら言い回しを修正すべきです。
  • 厳密にはB⊃Aは成り立ってない
  • しかし、記述が正確でないことを前提として読むならB⊃Aの解釈の余地はあり得る
  • B⊃Aの解釈の余地を見込んでも、A以外の意味が主であると読み取れる
仮説の定義はそれで良いでしょう。--量子力学のド素人ことryon 2007年4月16日 (月) 10:59 (UTC)[返信]
とりあえず論点整理の為に論理的な包含関係だけをまず整理しておきたいと思います。現状のB⊃Aについて少し微妙なようなので「並立する」という言葉を省いたB'を使用した場合どうですか。
  • A:思考の節約のためにSとS+Aのいずれかを選択する
  • B':幾つかの仮説の中から、ある一つの仮説を選択する
この時、B'⊃A でいいでしょうか。また同時にB'⊃Bもいいでしょうか。--Was a bee 2007年4月16日 (月) 11:16 (UTC)[返信]
「並立する」という言葉を省略しても「幾つかの仮説」が「並立する」ことを意図しているであろうことは明らかでしょう。それこそ、意味のない言い回しの議論であろうと思われます。本件の論点は次のようなことであるはずです。
  • SとS+Aのどちらかを選択をすることがあるのかどうか
  • その場合、本当にSとAを切り離すことが出来ないのか
  • SはSとして議論し、そのうえで、追加としてAが成り立つかどうか論じるのは不適切なのか
もし、SとAを切り離して論じることができるなら、現実問題として、SとS+Aのどちらかを選択するようなことはあり得ないのであり、これは「幾つかの仮説の中から、ある一つの仮説を選択する」の中に内包されていないと言えます。--量子力学のド素人ことryon 2007年4月19日 (木) 12:09 (UTC)[返信]

議論の整理[編集]

このノートページを拝見させていただいて、論点が二つ以上あるために、お互いの記述にがどこに対しての指摘出るかと言うことが混戦しているのではないかと思います。混線をただすために私の理解した上での整理をさせて頂きます。

議論の発端となったWikiryon様による指摘の中心部分は本文4章二段落目の記述で、

「以下の2つは両立しないはずです。

  • 並立する幾つかの仮説の中から、ある一つの仮説を選択する
  • 真偽の判定則ではない」

という事ですね。

これに対して、Was a bee様は2007年4月14日 (土) 12:49 (UTC)の編集に置いて、「これは両立してます」と述べておられてますので、まずここが対立点です。

この二人の対立点としましては、

1.

  • Wikiryon様:並立する理論からの選択=理論の真偽の判定(真偽の判定をするということと、真である必要条件をそなえているかどうかは別)
  • Was a bee様:選択≠真偽の判定(選択という行為は真偽の判定と関係ない)

2.

  • Wikiryon様: A「 思考の節約のためにSとS+Aのいずれかを選択する」とB「 並立する幾つかの仮説の中から、ある一つの仮説を選択する」は混同すべきでない。(AならばAとはっきりと書くべきであり、Bとよみとれるように書けば、それは問題である)
  • Was a bee様:(この点についてはまだ明瞭な方向性がありませんが、おそらくkwansaiがよみとったこととしては)BをB'「幾つかの仮説の中から、ある一つの仮説を選択する」とするならばB'⊃A とできる。(Bで大勢をふくませているから、今の記述(またはB')で問題ない。)

これは、kwansaiの意見ですが、2.は1.の対立が根にあると思います。つまり1.のWikiryon様の主張が正しければ、B中の「選択」するという行為とと「真偽の判定則ではない」は両立しません。1.のWas a bee様の主張が正しければ、2.の問題は言葉の選択の曖昧さの問題になります。まず、1.の解決をめざしてみてはどうでしょうか--Kwansai 2007年4月17日 (火) 11:36 (UTC)修正--Kwansai 2007年4月17日 (火) 11:46 (UTC)言い過ぎました。修正--Kwansai 2007年4月17日 (火) 11:53 (UTC)[返信]

要するに「オッカムの剃刀」を用いてある選択を行ったとしても、選択されたものが真であるか偽であるかは保障されない、ということが本質と思うのですが、何が問題となっているのでしょうか? Was a bee さんの最初のお返事である「単純であれば真である」という命題は成立しない(真でない)、これに尽きると思います(1 の部分)。Wikiryon さんの「ある事柄を複数の仮説の最大公約数だけで説明出来る場合に最大公約数以外を削除する」、「共通点を見いだせない複数の仮説のうち、より単純な方を採用する」のいずれの場合にもオッカムの剃刀を適用することは可能で、その結果選択された仮説が真であるとはいえない。むしろそうでない場合もあるから注意せよ、と本文にも書いてあります。これは個人的な意見なので出典などはないのですが、オッカムの剃刀は 2A, 2B ともに適用可能なものなのではないでしょうか?
ある仮説群を比較する際に、オッカムの剃刀を使うと、ひとつの選択を行うことができます。どの仮説を信じるかを考える場合に、その真偽を考慮の外に置いて選択することもありえます(にわかに真偽がわからない場合、真偽の判別が困難な場合など)。常に真なる命題のみを選択する人ばかりではない、つまり選択の基準が真偽ではない、という話なのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。--Calvero 2007年4月20日 (金) 13:09 (UTC)[返信]
論点は、オッカムの剃刀を適用して良いかどうかではありません。次の2つの事例において、オッカムの剃刀を使う目的が違うことです。
  • ある事柄を複数の仮説の最大公約数だけで説明出来る場合に最大公約数以外を削除する
  • 共通点を見いだせない複数の仮説のうち、より単純な方を採用する
前者については、単に、削ぎ落とした部分を棚上げしているだけです。残った方も削った方も検証しなければ真偽は分かりません。しかし、後者の使い方は、複数の仮説に優劣を付けているのであり、それは、真偽の判定則としての利用に他なりません(オッカムの剃刀が真偽の判定則に必要な条件を整えているかどうかは別問題)。となれば、「真偽の判定則ではない」とする記述と矛盾します。「そうでない場合もある」とは、判定則として信頼性が低いことまでは示していても、判定則ではないことまでは示していません。
「仮説を信じる」とは、それが論理的動機であるか感情的動機であるかを問わず、その仮説が真であると認識することです。それなら、真偽を考慮の外に置いて選択することはあり得ないはずです。そもそも、どちらの説であっても不都合がない(どちらかを選択する適当な判定則がない)なら、敢えて選択せずに、両論並立したままで構わないはずです。何らかの計算を行なうとしても、両論成り立つなら、基本的に、どちらも共通の式が使えるはずであり、一方の仮説だけを選択する必要がありません。--量子力学のド素人ことryon 2007年4月20日 (金) 13:50 (UTC)[返信]

修正案[編集]

議論が止まっており異論も出て来ないようなので「誤解への注意」を次のように修正することを提案します。「しかしながら〜」以下は、真偽の判定則的な使用方法について述べられているので、見出しを増やして「誤解への注意」とは区別して述べるべきことと思われます。その際、何故、「歴史的に見て、オッカムの剃刀を使うことが妥当だった、と後に判明した」ように見えるのかを記述する必要があるでしょう。

  • オッカムの剃刀は、「既にある理論や仮説等に対して、新たな仮説等を追加すべきかどうかを選ぶひとつのスタンス」にすぎないのであって、オッカムの剃刀によって追加することを選択しても、「その仮説が正しい」ということにはならない。 同様に、オッカムの剃刀によって、追加せずに切り捨てられたからといって、「その仮説が間違っていた」ということにはならない。オッカムの剃刀は、必要性の判定則であって、真偽の判定則ではない。このことに注意しよう。

--量子力学のド素人ことryon 2007年4月26日 (木) 09:31 (UTC)[返信]

ほったらかしですみません(理解するのに時間がかかりました。まだわかっていないかもしれません)。上記で良いと思います。まったく別種の仮説から選択を行う場合との誤解は避けられるようになっていると思います。ただ「このことに注意しよう」の一文は削ったほうがよろしいのではないかと思います。「~真偽の判定則ではないからである。」などのほうが百貨事典風の文になるかと。--Calvero 2007年4月30日 (月) 08:45 (UTC)[返信]
  • オッカムの剃刀は、「既にある理論や仮説等に対して、新たな仮説等を追加すべきかどうかを選ぶひとつのスタンス」にすぎないのであって、オッカムの剃刀によって追加することを選択しても、「その仮説が正しい」ということにはならない。 同様に、オッカムの剃刀によって、追加せずに切り捨てられたからといって、「その仮説が間違っていた」ということにはならない。何故なら、オッカムの剃刀は、必要性の判定則であって、真偽の判定則ではないからである

これでどうでしょう?--量子力学のド素人ことryon 2007年4月26日 (木) 09:31 (UTC)[返信]

OKと思います。共通するところの一切ない仮説群から選択を行うにあたっては、オッカムの剃刀は関係ないんですよね。だとすると「二つの道があるときに、どちらを選ぶべきか」や「並立する」いうのは、やはり誤解を招く表現なのではないでしょうか。オッカムの剃刀自体は必要性の判定も行っていないということでしょうか? --Calvero 2007年4月30日 (月) 10:54 (UTC)[返信]
とりあえず上記の話を考慮して書き直します(上の説明は少しおかしいのでそのままは使えません。オッカムの剃刀によって追加することを選択してもの部分。あと「なぜなら」の部分がトートロジーになっているところです。)。とりあえず今日は忙しいので後日。
真偽と存在の有無との関連に関する議論については、とりあえず
をご覧ください。また当然のことですがソースなしでの編集はおやめください。編集するなら、引用した各種外部リンクから該当するページと段落を指定しながらやってください。いちいち鬱陶しいかもしれませんが、書かざるを得ません。以上、鬱陶しいでしょうが取り急ぎ。本日は忙しいため以後返答はできません。ご容赦を。--Was a bee 2007年4月30日 (月) 11:03 (UTC)[返信]
よろしくお願いします。ともあれ、急ぐ必要はないと思います。--Calvero 2007年4月30日 (月) 11:10 (UTC)[返信]
「上記の話を考慮して書き直します」と言うなら、独自の理論ではないと認めたわけであり、「ソースなしでの編集」との非難は言い掛かりに過ぎません。支配者ではない一参加者なら、議論を踏まえて編集すべきでしょう。あと、誰も「真偽と存在の有無との関連に関する議論」などしていません。--量子力学のド素人ことryon 2007年4月30日 (月) 11:41 (UTC)[返信]

(インデント戻し)おふたりとも気持ちはわかるのですが、淡々といきましょう。一部コメントアウトします。「上記の話を考慮して~」というところは Was a bee さんも歩み寄ろうとしているところでしょうし、ここであえて突っぱることもないのでは。議論が紛糾した場合には、「ここにはこう書いてある」とソースを出すのがわかりやすいです。どこかに書いてあったけど、どこなのか思い出せない、ということもあるかと思いますが。それから、「真偽と存在の有無との関連」は、私の「オッカムの剃刀自体は必要性の判定も行っていないということでしょうか」に対してのコメントなのでは? --Calvero 2007年4月30日 (月) 13:04 (UTC)[返信]

Wikipediaのノートページで他人の意見そのものに歩み寄る行為自体は何ら褒められた行為ではありません。ノートページは、本文の記述の是非を論理的に議論する場であって、感情的に結論を決める余地はありません。認めるべきことは認め、認めるべきではないことは認めない、それが論理的態度です。もし、認めるべきことを認めたなら、それは当たり前のことです。もし、認めるべきではないことを認めたなら、それは適切な行為とは言えません。いずれにせよ、褒める理由は全くありません。もし、以前に認めなかったことを今になって認めたなら、尚、悪いでしょう。よって、歩み寄り云々は的外れであろうと思います。
必要性の判定と「真偽と存在の有無との関連」は明らかに別問題です。真偽の判定則でないのなら、論点として「真偽」を対比することはあり得ないし、必要性についても「真偽」や「存在の有無」を左右する物ではないのだから、そのような論点での議論にはならないはずです。--量子力学のド素人ことryon 2007年4月30日 (月) 15:26 (UTC)[返信]


現在、ある問題についてコメント依頼中で、コメントアウトされた部分はその証拠として紹介しているので、コメントアウト部分は元に戻していただくようお願いします。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月1日 (火) 08:50 (UTC)[返信]
うーん、「証拠」として使いたいのでしたら、差分で示すという方法もあります。できればこのままにしておきたいです。適切でない発言であったということは、コメントアウトしていることからも見て取れると思いますし、話が横道にそれるのを防ぎたいという面もあります。とにかく、個人攻撃的なものを放置しておきたくはないです。
それから、「歩み寄る」というのは、相手の主張に理があることを認め、自らの主張を一部改めるということであると考えます。歩み寄ること自体を論理的に行えないわけではないのではないでしょうか。ある事象についての最も適切な表現を考える場合、論理的矛盾のない案どうしであるならば、微調整することによって双方が納得できる形に落ち着けることができる場合もあるでしょうから、議論はそれを目指して行ったほうが円滑に進み、明白な誤りがないならばそうすべきです。一方、誤りがあるならばそこを指摘して修正を求めるところですが、それを放棄するのであれば、ご指摘のとおり歩み寄りとはいえないでしょう。今回の場合、上の B ⊃ A の話ははっきりした結論が出ていないようですし、Was a bee さんの具体案もまだ示されていないので、全面的に ryon さんの主張が認められたかどうかわからないです。しかしながら「上記の話を考慮して~」とのことですから、Was a bee さんの主張を取り込みながら、新たな主張を始められるのだろうと考えられます。それは ryon さんの主張(文案)は100%の誤りではなくて、Was a bee さんが正しいと認めている部分もあるということを意味しているのではないかと思います。ぜんぜん違ってたらすみません。「真偽と存在の有無との関連」についてはよくわからないのでコメントをお待ちします。--Calvero 2007年5月1日 (火) 12:12 (UTC)[返信]
個人攻撃を修正する目的でのコメントアウトなら、該当部分を全てコメントアウトすべきでしょう。一部個人攻撃が残っているのでは中途半端です。
相手の主張が正しくて自分の主張が間違っているなら、「相手の主張に理があることを認め、自らの主張を一部改める」ことは当然の選択であり、それ以外の行動を選ぶのは非論理的です。正しいことは正しいと認め、間違ってることは間違ってると認める。それは、議論において当然の行為であり、お互いにそうした行動を取ることを前提として初めて議論が成り立ちます。当り前の行動は評価に値しません。
もし、相手の主張が間違っていて自分の主張が正しいなら、「相手の主張に理があることを認め、自らの主張を一部改める」ことは、非論理的行動であり、Wikipediaの編集議論としても不適切です。譲歩すべきではない所で譲歩したなら、逆に、マイナスの評価をすべきでしょう。
また、今回の譲歩が適切だとするなら、以前譲歩しなかったことが不適切となり、これもマイナスの評価とすべきでしょう。いずれにせよ、評価としてはマイナス要因だけで、プラス要因は全くありません。よって、「Was a bee さんも歩み寄ろうとしている」とする指摘は見当違いです。
「B ⊃ A 」が厳密に成り立つかどうかは論点にありません。「共通するところの一切ない仮説群から〜やはり誤解を招く表現」は私が主張して来たことそのものであり、それを認めるならば、本件に関する私の提案は全面的に認められたことになります。また、私は、次の二つの行為を混同した記述を改めるべきだと言ってるだけで、それ以外の本文の記述についてどうあるべきかは一切述べていません。
  • 仮説の最大公約数以外を削る
  • 共通点のない仮説のいずれかを選ぶ
この二つの混同が解消されればどんな記述であろうと構いません。よって、この混同を解消するのであれば、私の主張は全面的に受け入れられたのであり、変更後の具体的な文章がどのような物であるかを問う必要は全くありません。言い替えれば、混同が解消されないのであれば、どのように変更されても異議を称え続けます。
あと、「必要性の判定則」の記述は自分で読んでもおかしい。必要性が必要性の判定則では、トートロジー以外の何物でもない。しかし、何となく言いたいことが通じるだろうし、あらぬ誤解を生む危険性はなさそうなので、修正する必要はあっても、慌てて作業する必要はないと思います。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月2日 (水) 09:56 (UTC)[返信]
まだ個人攻撃的な部分が残ってしまっていますでしょうか? それならば、お手数ですが、該当する部分を全部コメントアウトしてください。「ソースなしでの編集はおやめください」というのは個人の能力などに言及するものではないので、個人攻撃ではないと判断しました。これは Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せない に則ったものなので。主張自体が正しいかどうかとは、またちょっと違った話であるかと思います。
以前マイナスであっても、現在原点に向かってシフトしているのであれば、それはそれでよいことではないでしょうか。(当然ではありますが)特に ryon さんが評価するとか、そういうことはせずともよいので、追い討ちをかけるようなことは、どうかお控えいただけませんでしょうか。
ともあれ、ryon さんの主張が全面的にか一部分認められたにせよ、上の Was a bee さんのコメントからはどうなのか明らかでないように思われますから、お返事あるまでもう少し待ちましょう。--Calvero 2007年5月2日 (水) 12:20 (UTC)[返信]
何度も言いますが、「上記の話を考慮して書き直します」と言うなら、独自の理論ではないと認めたわけであり、「ソースなしでの編集」との非難は言い掛かりに過ぎません。Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せない に従うなら、検証不可能なことは認めるべきではないのであって、決して、歩み寄ってはならないはずです。歩み寄ったなら、独自研究ではなく検証可能であると認めたのであり、言い掛かりであることは明らかです。言い掛かりで相手の不備を捏造するのは明らかな個人攻撃でしょう。
以前マイナスであったことを反省せずに同じことを繰り返し、開き直って個人攻撃を行なうことの何処がよいことなのかお伺いしたい。同じことはノート:道具主義等でも繰り返されています。認めるべきことを認めない自らの姿勢を省みることなく、他人に責任転嫁して個人攻撃を行なうなど、同情の余地すらありません。
私の主張は、二つの事柄の混同を解消することであり、「共通するところの一切ない仮説群から〜やはり誤解を招く表現」に対して、「上記の話を考慮して書き直します」と言うなら、私の主張は全面的に認められています。本件と、「二つの事柄の混同」以外の部分についてWas a bee氏がどのような見解を持っているかは全くの別問題です。何故なら、私は、本件(別の見出しで指摘していることは別件)では、「二つの事柄の混同」以外に関する主張はしていないのだから。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月3日 (木) 07:21 (UTC)[返信]
念のために言っておくと、もし、私が行なった編集によって「二つの事柄の混同」以外の内容変更が生じたなら、それは、誤記もしくは誤読であり、それを適切な表現に変更することには反対しません。それは、初めから賛成も反対も意見を述べていないことであり、私が主張していることではありません。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月3日 (木) 08:06 (UTC)[返信]

「何が説明に必要であるかは必ずしも明確ではない」の項目について[編集]

「何が説明に必要であるかは必ずしも明確ではない」の項目は冗長的すぎて、かえって理解を妨げかねないので削除すべきと思います。「必要が無いなら」に対して「必要がある」場合があり得るという指摘は見当外れです。必要が無い場合の行動指針を示すことは、必要がある場合が存在することを否定していません。また、「必要」の必要条件についても本文には一切記述されておらず、必要あるのに必要無いと判断される恐れの具体的指摘もありません。それなのに、このような、指摘を掲載すれば、読者にオッカムの剃刀が「必要があってもとにかく削れ」または「俺様が必要無いと言ったら必要無いんだ」であると誤読させかねません。何故なら、そう解釈しなければ、そうした指摘を尤もな指摘として掲載する理由がないからです。

「必要がある」という場合があり得るという指摘は、言うまでもない当たり前のことで、全くの蛇足です。「何が説明に必要であるかは必ずしも明確ではない」という見出しで書くなら、そのような分かりきったことではなく、「一見不要に見えても、実は、必要なこともあり、適用すべきでないことにまで適用してしまう危険性があるので、必要性は慎重に判断しなければならない」のように書くべきでしょう。--量子力学のド素人ことryon 2007年4月30日 (月) 10:45 (UTC)[返信]

タイトルについて問題があると考える場合は当該部分のもととなる文章を執筆したインディアナ大学哲学科教授 Paul Vincent Spade氏<spade@indiana.edu> に対して文章の改訂依頼をお出しください。内容について問題があると考える場合はソースを引用して御編集ください。--Was a bee 2007年5月17日 (木) 01:02 (UTC)[返信]
「必要が無いなら多くのものを定立してはならない。」「少数の論理でよい場合は多数の論理をたててはいけない。」は「オッカムの著作にある言葉」と書かれていますね。だったら、既に文献は提示されています。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月17日 (木) 05:00 (UTC)[返信]
つまり上の記述は何の文献も参照せずに出したものだ、という事ですね。--Was a bee 2007年5月17日 (木) 05:56 (UTC)[返信]
また、言い掛かりですか?いい加減、勘弁してください。「オッカムの著作にある言葉」に異論を挟むなら、自ら文献を提示すべきでしょう。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月17日 (木) 09:21 (UTC)[返信]
つまり上のあなたの文章の中にはさらなるソースを必要とするような内容は一切含まれていない、ということですね。--Was a bee 2007年5月17日 (木) 09:53 (UTC)[返信]
問われるべきは「含まれていないか」ではなく「含まれているか」です。そして、それは含まれていると主張する側に説明責任があります。「悪魔の証明に応じられない記述をしてはならない」旨のWikipediaの公式方針でもない限り、悪魔の証明に応じるつもりはありません。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月18日 (金) 06:59 (UTC)[返信]
「一見不要に見えても、実は、必要なこともあり、適用すべきでないことにまで適用してしまう危険性があるので、必要性は慎重に判断しなければならない」のソースを提示してください。とくに「実は、必要」や「適用すべきでない事」「必要性は慎重に判断しなければならない」といった言葉の使用されている部分を引用してください。--Was a bee 2007年5月18日 (金) 10:29 (UTC)[返信]
単なる言い回しの変更は「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」であり、出典を要求されません。Wikipedia:著作権には「他人の著作権を侵害するやり方で素材を絶対に使わないでください」と書かれてありますが、何時、この方針が変わったのか教えてください。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月18日 (金) 12:56 (UTC)[返信]

修正案[編集]

現状の記述を元に次のように修正案を提示します。

オッカムの剃刀を適用するにあたっては慎重な検討が必要である。一見不要に見える仮説も、実は、見落とした事柄によって必要とされていることもあり、適用すべきでないことにまで適用してしまう危険性があるので、必要性は慎重に判断しなければならない。さもなくば、オッカムの剃刀を適用すべきでないことにまで過剰に適用して必要な仮説までそぎ落としてしまう危険性がある。例えば、ウォルター・オブ・チャットン(オッカムと同時代の人物)は次のような言葉を考案した。
「ある事柄が、3つの要素で説明できないのならば、4つ目の要素を加えよ」
これはオッカムの剃刀が、その前提条件「必要が無いなら」においてのみ成り立ち、その前提条件から外れる場合、すなわち、「必要がある」場合には成り立たないことに注意せよという指摘である。同様の指摘はウォルター・オブ・チャットン以外の人々によってもいくつかなされたが、オリジナルのオッカムの剃刀ほどには注目されることはなかった。
この点、「原子・分子は思弁的モデルにすぎない」 と主張したマッハや彼の後継者たちに対して、ほとんど同じ時期にブラウン運動に関する論文を出して分子の実在を確定したアインシュタインは、「理論はできるだけ単純にせよ、限度ってものはあるが」と警告している。

一部修正--量子力学のド素人ことryon 2007年5月3日 (木) 07:49 (UTC)[返信]

ついでに言うと、現在の原子・分子に関する記述は、マッハがオッカムの剃刀を間違って適用したと誤読される恐れがあります。マッハの主張は必要性が「微妙」な段階での主張であって、決して、間違った適用とは言えません。もちろん、「微妙」なのだから、正しいとも言えません。必要性が「微妙」だから、オッカムの剃刀を適用すべきか否かについて様々な見解があり、そのどれが正しいとも言えない状態だったわけです。そして、アインシュタインのブラウン運動に関する論文によって、必要性が「微妙」から「確実に必要」に変わったわけです。その点の補足説明が必要と思われます。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月3日 (木) 08:17 (UTC)[返信]

この記述のもととなっている文献をご提示ください。--Was a bee 2007年5月17日 (木) 00:43 (UTC)[返信]
何に対して文献を要求しているのか不明確ですが、修正案についてなら、「必要が無いなら多くのものを定立してはならない。」「少数の論理でよい場合は多数の論理をたててはいけない。」は「オッカムの著作にある言葉」と書かれていますね。だったら、既に文献は提示されています。ついでの部分についてなら、本文には「オッカムの剃刀は、真偽の判定則ではない」と書かれています。これは私が編集するよりずっと前からあった文言であり、私には文献を提示すべき責任はないはずです。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月17日 (木) 05:02 (UTC)[返信]
つまり上の改訂は何の文献も参照せずに行なった、という事ですね。--Was a bee 2007年5月17日 (木) 05:56 (UTC)[返信]
また、言い掛かりですか?いい加減、勘弁してください。既にある文献をないと言い張ったり、ありもしない独自の理論をあると言い張ったり、何度注意されたら態度を改めるのですか。断言するなら具体的な指摘をしてください。でなければ、たちの悪い言い掛かりです。「オッカムの著作にある言葉」に異論を挟むなら、自ら文献を提示すべきでしょう。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月17日 (木) 09:20 (UTC)[返信]
つまりソースが必要となるような編集をした覚えはない、という事ですね。--Was a bee 2007年5月17日 (木) 09:53 (UTC)[返信]
上でも述べたとおり、悪魔の証明に応じるつもりはありません。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月18日 (金) 06:59 (UTC)[返信]
「さもなくば、オッカムの剃刀を適用すべきでないことにまで過剰に適用して必要な仮説までそぎ落としてしまう危険性がある。」の部分の出典を提示してください。特に「必要な仮説までそぎ落としてしまう」における「必要な仮設」というのが具体的に定義されている部分の引用を提示してください。
単なる言い回しの変更は「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」であり、出典を要求されません。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月18日 (金) 12:56 (UTC)[返信]

誤読に基づく編集と思われる版12531564の修正について[編集]

オッカムの剃刀は、本来、真偽の判定則ではないので、地動説と天動説のどちらか一方をそぎ落とすことには使えません。言い替えると、地動説と天動説のどちらか一方をそぎ落とす行為は、オッカムの剃刀の正しい適用事例ではありません。よって、この事例を「妥当だった例」とするのは間違いです。

また、オッカムの剃刀は「必要が無いなら」や「少数の論理でよい場合は」を前提として適用出来るのであって、必要がある場合や多数の論理を必要とする場合は適用出来ません。分子論は、当時、理論としての必要性が未決着であったため、オッカムの剃刀を適用してそぎ落とすべきかどうかも議論の余地があったのです。よって、この事例を「妥当でなかった例」とするのは間違いです。

分子論について、もっと詳しく説明しましょう。ブラウン運動の論文以前に確実に分かっていたことは、「分子や原子が実在しているかのように見える物理法則」(これをSとする)が存在することです。そして、次の二つのいずれが正しいのかは分かっていませんでした。

  • 実際に分子や原子が実在している(これをAとする)
  • そう見せる何か別の物理法則がある(これをBとする)

ブラウン運動の論文以前は、この二つのいずれが正しいかを確定させる必要はなかったので、これらをオッカムの剃刀でそぎ落とすのは妥当な判断です。分子論は、S+Aで成り立っています。SとAを混同して論じると必要性は「微妙」となりますが、両者を明確に区別すれば必要性も明確になります。S+AかS+Bかを論じる時に、全体を丸ごとそぎ落とすのでは、必要なS部分もそぎ落としており、オッカムの剃刀の誤用です。一方で、AやBが不要としてオッカムの剃刀を適用して、S以外をそぎ落とすのは正しい使い方です。おそらく、当時の科学者もその辺りの明確な区別をしてなかったのではないかと思います。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月16日 (水) 12:07 (UTC)[返信]

と、誰がどこで言っていますでしょうか?記述のもととなっている文献をご提示ください。--Was a bee 2007年5月17日 (木) 00:30 (UTC)[返信]
「必要が無いなら多くのものを定立してはならない。」「少数の論理でよい場合は多数の論理をたててはいけない。」は「オッカムの著作にある言葉」と書かれていますね。だったら、既に文献は提示されています。また、本文には「オッカムの剃刀は、真偽の判定則ではない」と書かれています。これは私が編集するよりずっと前からあった文言であり、私には文献を提示すべき責任はないはずです。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月17日 (木) 04:59 (UTC)[返信]
つまり何の文献も参照していない、という事ですね。--Was a bee 2007年5月17日 (木) 05:56 (UTC)[返信]
言い掛かりはご遠慮ください。「オッカムの著作にある言葉」に異論を挟むなら、自ら文献を提示すべきでしょう。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月17日 (木) 09:22 (UTC)[返信]
修正前の記述は、天動説と地動説の話が「オッカムの剃刀が妥当だった例」、分子論が「オッカムの剃刀が妥当ではなかった例」として扱われています。それらは、それぞれ次のことを前提としています。
  • オッカムの剃刀は真偽の判定則である
  • オッカムの剃刀は必要な仮説まで削ぎ落とす
いずれも本文の記述(「オッカムの剃刀は、真偽の判定則ではない」や「必要が無いなら」)と一致しません。それを一致するように修正したのが私の行なった修正です。その修正に異論を唱えるなら次のように主張するのと同義です。
  • オッカムの剃刀は真偽の判定則である
  • オッカムの剃刀は必要な仮説まで削ぎ落とす
そのような主張をするなら、その主張をする方こそが文献を示すべきです。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月17日 (木) 09:32 (UTC)[返信]
つまり上のあなたの文章の中にはさらなるソースを必要とするような内容は一切含まれていない、ということですね。--Was a bee 2007年5月17日 (木) 09:53 (UTC)[返信]
上でも述べたとおり、悪魔の証明に応じるつもりはありません。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月18日 (金) 06:59 (UTC)[返信]
「ブラウン運動の論文以前は、この二つのいずれが正しいかを確定させる必要はなかった」(逆に以後はそれが必要となった)と誰が言っているのかソースを示してください。また上に書かれているような「S、A、Bの区分」での議論がどこで行なわれているのかご提示ください。--Was a bee 2007年5月18日 (金) 10:46 (UTC)[返信]
ブラウン運動に関する説明は、本文の記述内容でも、修正の根拠でもありません。単なる補足説明であり、その内容の真偽は、本文の記述内容に影響を与えないため、本来、出典を要求されるような性質の物ではありません。また、これは「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」であり、出典を必要としません。--量子力学のド素人ことryon 2007年5月18日 (金) 12:56 (UTC)[返信]

分子論の出典無効の件[編集]

Treizeさんによって、出典無効が添付されましたが、今回の場合、文言そのものには出典があり、「アルベルト・アインシュタインが警告した」ということが出典のない記述ではないでしょうか。

そうであるならば、出典無効の添付位置が変わります。と、いうか、記述を変更し、「しばしば、アインシュタインのものとされるが、出所不明」というのを本文に記述したほうが親切かと思います。「出所不明」だということに対する出典はあるわけですから。--翼のない堕天使会話2014年6月24日 (火) 23:56 (UTC)[返信]

こんばんは、はじめまして。編集に参加しだしてから日が浅く、ノートでどなたかとやりとりするのはこれが初めてです。もしノートでの記述方法や議論の進め方に改善点があれば、ご指摘ください。大きく時間を割けないので、これも含めてゆっくりの参加になると思います。よろしくお願いいたします。
以下では、出典無効としたQuotation内の文言をQ文と呼ぶことにします。また高エネ研にある「オッカムの剃刀(かみそり)」って何?を訳文、カリフォルニア大にあるWhat is Occam's Razor?を原文と呼ぶことにします。
まず先の編集の意図を説明するのが、今後の良い編集結果への近道に思いますので、そうします。
翼のない堕天使さんの第一段落についてはその通りです。Q文は、訳文ではアインシュタインが発したことになっていますが、原文では出所不明と書かれています。アインシュタインのものであるという出典が正しくないと判断して出典無効を貼りました。もう一つ心配なのは、ネットニュースのFAQへの回答をまとめた物が、出典として有効かということです。
また、マッハらのオッカムの剃刀の誤適用を戒めたり咎めるような意図がアインシュタインにあったと読めます。このことは別に出典が必要と判断して、要出典を貼りました。
なお、原文のarchive.org初採録(2001-11-17)時点では、アインシュタインによるものとありますが、五か月後(2002-4-17)の次の採録では出所不明と変更されています(Q文前後以外の部分と以降の変化の有無は未調査)。一方、訳文はarchive.org初採録(2003-9-15)時点で、現行版と同じくアインシュタインのものとなっています(同上)。本文の改訂に訳文が追いつかずに、結果として誤りとなっているということでしょう。ちなみに本ページのQ文初出は、2007-5-2のようです。
次に翼のない堕天使さんの第二段落の修正案(と呼んでよいでしょうか?)についてです。まず前記の通り、原文が出典として有効なのか、半信半疑でいますが、どう思われますか?
また省略されただけかもしれませんが、念のため書いておきます。(原文が有効であると仮定して)もし原文を出典としてQ文を使うとするなら、出典を訳文から原文に差し替えるだけではすまず、文章の大きな変更が必要になると思うのですが、いかがでしょうか。「しばしば、アインシュタインのものとされるが、出所不明」な者の発言ならば、マッハらを「警告する」文脈に使うことができないからです。
それから、修正案を採用した修正文が書かれる前に心配するのは早計かもしれませんが、ブラウン運動を理論付けたアインシュタインが言ったのであればこそ、オッカムの剃刀の中に記述する価値があるのであって、功績ある著名な物理学者、あるいは科学者や哲学者ではない、そんな誰かの言葉であるなら、Q文そのものに含蓄があることは認めても、ここで取り上げる特筆性が無いのではないでしょうか。
昨日今日でウェブを検索してみたら、en:q:Albert_Einsteinに当たりました。
It can scarcely be denied that the supreme goal of all theory is to make the irreducible basic elements as simple and as few as possible without having to surrender the adequate representation of a single datum of experience. の言い換えとして、Everything should be made as simple as possible, but no simpler. がどちらもアインシュタインによるとして、書かれてはいます。
wikiquoteのリンク先のQuote Investigatorにも有用なことが書かれているようです。wikiquoteとQuote Investigatorいずれにも、有効と思われる出典が書かれていますが、すぐに確認できそうにはありません。
すみませんが、とりあえず今日はここまで。--Treize会話2014年6月26日 (木) 12:00 (UTC)[返信]
Treizeさん、お忙しい中ご回答いただき、ありがとうございます。一つ一つ、resしていきたいと思います。なお、私自身、この記事に関しては門外漢で、知識はそんなにありません。また、英語もそんなに得意ではないです。この二点を踏まえたうえで、それなりに経験のある日本人ウィキペディアンの意見として読んでいただけたらと思います。


まず一点目、論題に出ている「ネットニュースのFAQへの回答をまとめた物が、出典として有効か」とのことですが、原文のCopyrightを確認したところ、複数人によるもので、一般的な出典としては利用できると考えます。不安なようなら、コメント依頼にて、意見を募ることも考慮しましょう。
二点目、「マッハらのオッカムの剃刀の誤適用を戒めたり咎めるような意図」の有無については、理解していませんでした。ご説明いただき、ありがとうございました。確かに、別に出典が必要かと思います。
三点目、修正案についてですが、これは、深い意味は考えず(省略して)書きました。実際の修正に際して、上記程度で済むとは思っていないので、まずご安心を。修正内容につきまして、四点目でも言及します。
四点目、「オッカムの剃刀の中に記述する価値がある」かどうか、ですが、「しばしばアインシュタインのものとされる」ことに出典がつけられるのであれば、「記述する価値(特筆性)がある」でしょう。そして、その場合、修正は(容易ではなくても)そう難しくはないかと思います。
取り急ぎ、主要な部分に関してresしましたが、私自身、提示されたページの確認がしっかりできていませんので、残りは後日回答とさせていただきます。--翼のない堕天使会話2014年6月27日 (金) 00:30 (UTC)[返信]
(出典として有効かについて追記)先日はリンク先をしっかり見ていなかったのですが、原文の最下部に参考文献が記載されており、訳文には補完されて脚注と参考文献が記載されており、信頼できる複数の一次資料を参照しているようですので、心配ないかと思います。それでも心配であれば、参考文献に記載されている文献を参照し、修正すればよいかと。--翼のない堕天使会話2014年7月1日 (火) 04:22 (UTC)[返信]