ノート:アインシュタインの予言

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アインシュタインの直筆[編集]

「アインシュタインの直筆が日本国内にほとんどない」とありますが、東北大学に土井晩翠宛の書簡が残されています。これに関してはネット上に写真が公開されていますから、リンクをはってはいかがでしょうか? http://www.library.tohoku.ac.jp/kichosho/kicho/yosho/yosho3s.html などです。

これは貴重なようですね。でも本項だと「本当はアインシュタインとは関係ない」事柄なので(余禄は実際の所、蛇足でもありますし・・・)、どちらかというとアルベルト・アインシュタイン#人物像に絡んでやや追記し、外部リンクの欄にリンクを設けたほうがスマートであるかと。61.211.212.175 2006年6月13日 (火) 02:53 (UTC)[返信]
なるほど。その方が賢明かもしれませんね。157.82.247.131


もう一つの「アインシュタインの予言」[編集]

q:en:Albert Einsteinに収録されている発言と随分違うように思います。こちらでは「第三次で使われる武器は知らないが、第四次では棒切れと石でしょう」といったとされています。このほうが「第三次世界大戦があれば文明は滅びる」といった記事中の要約にも適うのではないでしょうか? なお質問への答えではなく、トルーマン大統領への手紙にあるそうです。以下にウィキクォートからの引用を示します。

  • I do not know with what weapons World War III will be fought, but World War IV will be fought with sticks and stones.
    • Letter to Harry S. Truman as quoted in ‘The culture of Einstein" by Alex Johnson at MSNBC (18 April 2005)

--Aphaia 2007年5月30日 (水) 16:57 (UTC)[返信]

書いたものです。たしかにそのバージョンも聞いた事があります。私の勘違いだとマズいので、そちらのバージョンに直していただけると幸いです。219.35.139.100 2007年5月30日 (水) 16:59 (UTC)[返信]

注釈削除関連の議論[編集]

ここに書かれていた注釈削除関連の議論は以下サブページに移動しました。--KEI 2008年1月12日 (土) 01:26 (UTC)[返信]

/注釈削除関連の議論

余禄の節は本記事に必要か[編集]

この節はアインシュタインの予言と関係ないように見えます。アインシュタインの記事の方で触れられてますので、こちらは削除でいいというのが私の考えです。ただ上で議論している脚注の元であり、いきなり削除して編集合戦に陥るのも嫌なので、まずこちらで提案します。--MikeAz800o 2007年7月3日 (火) 19:03 (UTC)[返信]

本文記事の誤解を避ける意味で、脚注はあってよいと思いますが、ちょっと冗長かなと思います。「大砲の弾道がニュートン力学で説明できるからといって、ニュートンが大砲という兵器の発明に責任を負っている訳ではないのと同じ」ぐらいで十分なんじゃないでしょうか。ちなみに「余禄」ではなくて「余録」ですよね。--おーた 2007年7月3日 (火) 22:21 (UTC)[返信]
えーと、脚注の是非ではなくて余禄の節全部を削除したいという提案です。自動的に脚注の2番目も消えますけど。あと、そうですね、余禄は予定外の収入の意味なので不適当ですね。--MikeAz800o 2007年7月4日 (水) 02:50 (UTC)[返信]
あー、ごめんなさい。「余禄/余録」の節全体を削除ということですね。確かに、この記述はこの項目には要りませんね。私は削除して構わないと思います。--おーた 2007年7月5日 (木) 03:52 (UTC)[返信]
脚注の部分がいささか冗長になったのは、余録に描いた項が誤解を招くものだったので、詳細な説明が必要と感じたからです。その余録そのものを削除するなら、異論はありません。--KSKS 2007年7月6日 (木) 16:42 (UTC)[返信]
では削除します。--MikeAz800o 2007年7月10日 (火) 14:01 (UTC)[返信]

大幅改定に際して[編集]

改訂に踏み切った直接のトリガーは、概要の第3文目です。「内容は、世界の行き着けるだけ発展し、また戦争などの争いも生まれ、その戦争に倦んだ後に平和を求め、世界は終結的に軍事力や経済力によらない盟主である天皇を求めてアジアに還り、日本はそのアジアの頂点にあると述べ、その日本が存在する事を神に感謝すると述べている。」とありますが、構文が崩壊してます。内容の説明としても分かりにくい事この上ない。この部分を修正しようとして色々模索した結果、記事全体に手を入れたほうが早いと判断して編集しました。以下、細部についてのメモを残しておきます。

  • 履歴を見たところ、この記事のアップ者がいちばん最初に「予言全文を掲載したらまずいか? 」と書いておられますが、まずくはないと判断し全文を追加しました。予言の本文があったほうが分かりやすいですし、そもそも古くから人口に膾炙している文言であり、著作権上の問題などが発生するはずはない、と考えたためです。なお予言の全文を中澤英雄氏の記事に頼りました。
  • 「都市伝説もしくは偽書の一種」とありましたが、都市伝説という語を消しました。この予言の成立過程は都市伝説の成立過程と似通っているかも知れませんが、都市伝説とは怪談の一種であって、この項目を解説する語としては適切ではないと判断したためです。
  • 「もう一つの「アインシュタインの予言」」の項目に事実関係の誤りが見られたので訂正しました。元の文章では第3次大戦で石が使われることになっていますが、正しくは第4次大戦では石が使われる、です。
  • 外部リンクのうち、個人サイトを消しました。右翼・左翼を巻き込んだ論争が一部で発生していることは事実でしょうが、こういうのまで紹介していたらキリがない。右翼と左翼を呼び込んでの編集合戦になるなんてことはこの記事に関しては無いでしょうが・・・

以上です--Nazki rhetorica 2007年11月23日 (金) 02:24 (UTC)[返信]

ずいぶんズタズタに・・[編集]

2008年1月3日から1月6日にかけての編集で、何と言いましょうか、随分ズタズタに切り張りされてしまって読むに堪えない状態になっておりましたので、差し戻した上加筆修正いたしました。言いたいことは色々ありますが、主なものを挙げていきます。

まず1つめ:新たに「偽書論争」という節が設けられて、論証のパーツパーツが箇条書き形式になっておりましたが、箇条書きにするにしてももう少し十分に手を加えて頂かないと、何がどういう論拠でどうなったか全く判りません。あれでは高校生の手抜きノートです。あなたが理解したことを再確認する助けにはなるかもしれませんが、何も知らない人に説明するに足るレベルにはなっていません。サボった授業のノートを友達から借りて読んでも何のことか大して判らない、それと同じです。とはいえ、あのように箇条書きに編集されてしまったのは、元の記述が説明不足だったのが原因でしょう。確かに色々詰め込みすぎな説明ではありましたから。この点を鑑みて、該当部分の記述を大幅に増やして詳しく説明しなおしました。訂正の際、箇条書き形式を保ちつつ詳説する手も考えましたが、箇条書きというのはそもそも「いくつかの並列すつ事柄」を整理して記述するための形式で、この件のように「積み木式」になっている事柄には向いていません。よって元のように論述の形式に戻しました。
次に2つめ:新たな節のタイトルが「偽書論争」になっておりますが、論争はすでに終わっている感があります。いやむしろ、論争にはなっていないのです。偽書であるとする中澤氏の論証が極めて強力であり、論争が生じる前に決着してしまった、といったところでしょうか。中澤氏の論証を覆すのは簡単です。「予言」がアインシュタインのものであるという証拠を提出すればいいだけ。しかし証拠は存在せず、この時点で勝負ありです。このような現況において「偽書論争」と題するのは、ほとんど事実関係の誤認に近い。読み手をミスリードさせてしまいます。よって節のタイトルに関しても改めさせていただきました。
3つめ:やたらと脚注が増えて煩雑になっており、本文中に組み込めるものは組み込みました。脚注の使い方を理解してない人がまだまだ多いですが・・・それはさておき、中には加筆の結果文意がよくわからなくなってしまっているものも見られます。具体的には、「神はサイコロを振らない」に関する部分です。Aに対してBという注がつけられていた元版に対して、脚注内のBにさらにCという注を付け足そうとした跡が見られますが、その際Bにあたる部分を削ってしまったために、Aに対してダイレクトにCの脚注を繋いでおり、文意がまったく不明になってしまっている。こんなの、脚注の使い方以前の問題です。この人は以前にも文意不明の加筆を行っているようですが、もう少し気をつけて頂きたいものです。

こんなところでしょうか、、十分気をつけて加筆したつもりですが、至らない部分がありましたらさらなる修正をお願いします。--Nazki rhetorica 2008年1月7日 (月) 10:30 (UTC)[返信]

こんにちは、Nazki rhetoricaさん。申し訳ないのですが、あなたの編集を一旦差し戻させていただきました。理由は以下の通りです。
1.この『予言』が「偽書」であることはもう決着済みであることはNazki rhetoricaさんもよくご承知の通りです。しかし、冒頭の

偽書の一種であると見做される傾向にある。

ということはどういうことでしょうか。これではまるで偽書であるかどうか決着が付いていないと読めるのではないでしょうか。
2.脚注の一部を本文に取り込んだということですが、そこまではよいです。問題は、取り込んだために、文意が全く逆になってしまっているところがあるということです。例えばこの箇所です。

一般書ではないが、1967年発行の大本教の教義解説書『大本のしおり』にも引用が見られる。

これは、私が原田実氏の書籍より脚注として抜き出した部分を本文に取り込んだことになるのでしょうが、これは明確に誤りです。これでは『大本のしおり』に『アインシュタインの予言』が引用されているとしか読めませんが、原田氏の指摘は全く逆です。『大本のしおり』に書いてあることが、『アインシュタインの予言』として流布しているというのが原田氏の指摘です。
3.さらに、アインシュタインと神との関係について、よく分かっておられるとは思えない箇所があります。
一般的に日本では、アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言ったと言われていますが、Nazki rhetoricaさんが修正される前に書かれていた脚注では、それは正確ではないと言うことが指摘されています。正確には、ドイツ語の「神」ではなく「古きもの」という言葉であるという指摘です。これはアインシュタインが神をどう考えていたことを知る上で大変重要な指摘です。ところがこれをNazki rhetoricaさんは削除してしまいました。これではアインシュタインが神をどう捉えていたか、正確に知ることが出来なくなってしまいます。
以上のような点から、とりあえずNazki rhetoricaさんの修正はリバートさせていただきました。申し訳ありませんがご理解ください。よろしくお願いします。--KEI 2008年1月7日 (月) 12:14 (UTC)[返信]
ご指摘を受けました3箇所について、うち2箇所を修正しました。この記述で問題ないと思われますが如何でしょう。もう1箇所、大本のしおりに関する部分ですが、KEIさんが原田氏の本を主に参照しているのに対し、私が参照しているのは中澤氏の論証で、そのあたりが食い違いの元のようですね。中澤氏の論証には谷口雅春と生長の家に関する記述があり、「尊敬する教祖が書いたのだから、その宗教団体の信者はことごとくこの【言葉】を真実のものとして信じ込んだことだろう。しかも「生長の家」はかなり信者数の多い教団である」といった記述もあります。私が参照したのはその周辺の記述ですが、原田氏の記述にはどうあるのでしょうか? 上でKEIさんは、「『大本のしおり』に書いてあることが、『アインシュタインの予言』として流布しているというのが原田氏の指摘です」と仰られていますが、もうすこし詳しく教えて頂けるとありがたいです(場合によっては原田氏の記述そのものに誤りが含まれていることも考えられます)。--Nazki rhetorica 2008年1月8日 (火) 00:57 (UTC)[返信]
随分ズタズタに切り張りし、高校生の手抜きノートのように読むに堪えない状態にしてしまい申し訳ありません。--Sheiham3 2008年1月13日 (日) 14:17 (UTC)[返信]

大本のしおりについて[編集]

長文になりましたので章を分けたいと思います。まずは原田氏の指摘する『大本のしおり』についてですが、「トンデモ日本史の真相」(p214-215)にはこのように書かれています。

「世界の盟主」はアインシュタイン博士の言葉ではない-私がそれを知ったのは学生時代のことだった。というのは、当時、たまたま読んでいた大本教の教義概説書に次のくだりを見つけたからである。

「人類の救いとなる偉大な光を、極東日本に期待する声は、四方の国々より起こっているが、それは人をして、言わしめてる神の言葉に他ならない。…スタイン博士も言った。
"近世日本の発達史ほど、世界を驚かしたものはない(途中引用者略)日本という尊い国を造っておいたのである"」(『大本のしおり』1967年刊)

つまり、1967年の時点では「世界の盟主」の原型と思しきものが「スタイン博士」の言葉として語られていたのである。

これは私の引用の仕方も悪いと言わざるを得ませんので、この点については謝罪したいと思いますが、このように明確に、『大本のしおり』には『予言』の原型と思しきものが書かれているとあります。さらに注目すべきは、この時点ではまだこの言葉は「アインシュタインの予言」とはされていなかったということです。

ということで、原田氏の記述は信用できるものと思えますがいかがでしょうか。--KEI 2008年1月8日 (火) 12:43 (UTC)[返信]


なるほど、原田氏の本に「1967年の大本の時点では『予言』はまだ『スタイン博士』のものだった」という指摘があるということなんですね。しかし、KEIさんがあげてくださった引用を見る限りでは、この原田氏の記述は一部適切ではないように思われます。問題点は2つ。

  • まず、スタインからアインシュタインに変わったのが1967年以降であるかのように書いている点です。中澤氏の論証によれば、1956年に既に今村均『祖国愛』でアインシュタインの発言として紹介されておりますし、1966年には谷口雅春が「生長の家」の機関紙「理想世界」でアインシュタインの発言として引用しています。谷口雅春の引用元となった雑誌『天中』第1巻第1号は1961年の発行です。このように1967年の『大本のしおり』以前に既にアインシュタインの発言としている文献が存在しており、この点で原田氏の記述は間違っています。おそらく、原田氏はこれら先行する文献の存在を知らなかったのではないでしょうか。もし知っていたらあのような「のである調」の書き方にはなりません。予言の変遷の全体像を正しくとらえていれば、「1967年の時点では、『大本のしおり』のように、スタイン博士を語り主としているものも存在していた」というふうな記述になるはず。つまり、原田氏の認識は部分的な認識に留まっているということです。
  • このことは、次の点からも裏付けられるでしょう。というのは、原田氏が「世界の盟主の原型と思しきものが」という書き方をしている点です。ご承知の通り予言の原型は田中智学の『日本とは如何なる国ぞ』ですから、大本のしおりも数ある亜型のひとつにすぎません。従って、亜型のひとつを原型としている点も適切ではなく、原田氏が全体像の把握に至っていなかったことを示しています。

今回KEIさんがあげて下さった引用から読み取れるのは以上のようなことです。原田氏の記述はこの引用の後も続いているものと思われますが、その中にあやしい点がないか確認してみてください。場合によっては原田氏の記述によって完全にミスリードされている場合もあるかもしれませんよ。事実KEIさんが上のほうで書いておられる文を読み返してみますと、事実関係を一部誤解していらっしゃるようにも見受けられますから。
以上のようなことから、原田氏の記述はとても信用できたものではありません。嘘八百だとは言いませんが、不十分であることは確定的です。かような原田氏の記述をそのままウィキペディアに移植してしまっては、あたかも大本のしおりが予言の原典であるかのようにミスリードされてしまう人も出てくるかも知れません。議論の余地無くそれはマズいです。「1967年の大本のしおりにはアインシュタインのものとしてではなくシュタイン博士のものとして記載されている」ということ自体は事実でしょうから、これを脚注なり何なりで載せるのは構わないと思いますが、原田氏の結論付けが全体として適切でないのならば、場合によっては参考文献のリストから原田氏の著作を外すことも考えなくてはいけないかもしれません。如何でしょうか。--Nazki rhetorica 2008年1月9日 (水) 01:38 (UTC)[返信]

こんにちは、Nazki rhetoricaさん。ええと、正直に申しまして、Nazki rhetoricaさんの論点と私の論点にはズレがあるように思えます。
まず、これはNazki rhetoricaさんにも直接ご確認いただきたい所ですが、原田氏の著作の中では、中澤氏の研究についてもきちんと触れられています。田中智学の書籍の中に「世界の盟主」そっくりの主張が見られることも書いてありますし、アインシュタイン博士の言葉としての初期の事例が今村均『祖国愛』であることについても触れられています(履歴を確認していただければ分かりますが、そもそも、原田氏の本を元にして注釈としてこの書名を付けたのは私なのですが)。
Nazki rhetoricaさんは、「あたかも大本のしおりが予言の原典であるかのようにミスリードされてしまう」ということをご心配されているようですが、これも原田氏の本を確認していただければわかると思いますが、そもそも原田氏はそのようなことは述べていませんし、ここでの引用からもその様な誤解が生じるとは、私にはちょっと思えないのですがいかがでしょうか。
そもそも、原田氏の論点で一番重要なことは、この『予言』なるものはアインシュタインの言葉ではない-つまり、偽書であるということを論証するということです。そのためには、まず、確実にこれがアインシュタイン以外の人間による言葉である確証が得られればよいのであって、それ以外のこと-つまり、偽書の原典が何であるかということ-は、当面はあまり重要ではない話と思えるのですがどうでしょうか。
もうひとつ、履歴から確認していただきたいことがあります。原田氏の著作のことについて書き込んだのは私ですが、それらはすべて注釈という形での書き込みとなっているはずです。なぜそうしたかというと、原田氏の指摘する『大本のしおり』の記述は、ある意味異説とでも言うべきものだからです。
歴史学においてはしばしば見られることですが、ある事柄に対して、整合性のない資料がいくつか得られることがあります。Nazki rhetoricaさんもお気づきの通り、1967年刊の『大本のしおり』に件の記述があるということは、中澤氏の研究と整合性があるものとは言い難いものです。原田氏の著作の中でも、『大本のしおり』になぜそのような記述があったかについては触れられていません。
しかし、資料間に整合性がないからといって、それは直ちに誤った資料とは言えないことがあります。事によると、間違っているのはこちらの方かも知れないからです。そのため、何らかの捏造や誤りではないことが分かっている資料については異説として残すというのが通常の作法です。そして、Nazki rhetoricaさんもお書きになっていらっしゃいますが、『大本のしおり』には、実際にこのように書かれていたということは事実であると考えることが出来るでしょう。
ですから、原田氏の指摘は異説なのであり、注釈としかならないものなのです。しかしこのような異説があること自身はこの項目にとって有益なことと思えます。ですから私はここに書き込んだと言うことになるわけですが。いかがでしょうか。--KEI 2008年1月9日 (水) 13:36 (UTC)[返信]
特に反対されるご意見もないようですので、『大本のしおり』関連の記述を復活させたいと思います。--KEI 2008年1月13日 (日) 13:01 (UTC)[返信]
しばらく留守にしている間に話が進んでしまいましたが、復活させる旨うけたまわりました。しかし、あの場所に復活させては文意がやや不明瞭になりませんか? 概要の部分で今村・名越に並列させる形で挙げて、脚注として「ここではスタイン博士の言葉になっている」旨を書き添えたほうが良いのでは?--Nazki rhetorica 2008年1月14日 (月) 08:52 (UTC)[返信]
こんにちは、Nazki rhetoricaさん。了解いただけて幸いです。ほっとしました。さて、復活させた場所ですが、原田氏の論考は前にも書きましたように『予言』が偽書であると言うことです。そして『大本のしおり』はその証拠のひとつとなるものです。ということで、偽書説のひとつとして書いてある方がよいかと考えました。さらにこの偽書説は、今の構成では、(1)中澤氏の論考、(2)板垣氏の論考となっており、そこに原田氏の論考を(3)として付け加えたほうが良いのでは、と考えたわけです。まあいわば偽書説の証拠の列記という形でしょうか。そういうことであのように記述してみましたがどうでしょうか。--KEI 2008年1月16日 (水) 12:31 (UTC)[返信]
偽書説の証拠の列記ということですか。了解しました。--Nazki rhetorica 2008年1月16日 (水) 12:48 (UTC)[返信]

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

アインシュタインの予言」上の4個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2018年3月17日 (土) 04:37 (UTC)[返信]