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トミーリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トミーリー
欧字表記 Tomy Lee
品種 サラブレッド
性別
毛色 栗毛
生誕 1956年
死没 1971年
Tudor Minstrel
Auld Aliance
母の父 Brantome
生国 イギリスの旗 イギリス
生産者 D. H. Wills
馬主 Mr. & Mrs. Fred Turner Jr.
調教師 Frank E. Childs(アメリカ
競走成績
生涯成績 31戦14勝
獲得賞金 405,014ドル
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トミーリーTomy Lee1956年 - 1971年)は、イギリス生産のサラブレッド競走馬種牡馬アメリカ合衆国で競走馬となり、1959年ケンタッキーダービーなどに優勝した。

経歴

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出生、幼駒時代

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1956年にイギリスで生産された競走馬で、体高は16ハンド(約162.56センチメートル)と大柄で、体重も1000ポンド強あったという[r 1]。馬体は見栄え良く、また4本の脚すべてに白徴を持っていた[r 2]

馬主となるフレッド・ターナー・ジュニアはテキサス州の出身で、本来はタルヤーの産駒を求めてイギリスに出向き、そこで25000ドルで目的のものを購入した。このとき、馬を1頭だけで輸送するのは馬にとって辛いものであるため、帯同馬として6762ドルで購入された幼駒がトミーリーであった[r 3][1]。馬名は本来「Tommy Lee」と名付けられる予定であったが、ありふれた名前ゆえに既に使われている可能性を考えて、mをひとつ抜いて登録することにした[r 4]

若駒時代

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デビューは2歳時からで、カリフォルニア州でハギンステークスやC・S・ハワードステークス、スターレットステークスにデルマーフューチュリティを含む6競走で連勝を挙げる活躍を繰り広げた。特にハギンステークスは8馬身差の圧勝で、またデルマーフューチュリティではロイヤルオービットを相手に3馬身差で勝っている。その後東海岸に遠征し、シャンペンステークスとガーデンステートステークスに出走しているが、ともにファーストランディングの2着に敗れている。

3歳時はやはりカリフォルニアからの始動であったが、年明け初戦のサンヴィンセントステークスでは2着に、続くサンフェリペハンデキャップでも2着に敗れている。しかし続くキーンランド競馬場での7ハロン(約1408メートル)の一般戦ではトラックレコードでの勝利を挙げ[r 5]、さらに翌戦のブルーグラスステークスでも優勝した。

1959年のケンタッキーダービー当日は72951人の観客が詰めかけた[r 6]。話題馬シルバースプーンソードダンサーらも出走するなか、1番人気はファーストランディングが推され、ウィリー・シューメーカーを背に出走したトミーリーはそれに次いで単勝4.7倍の2番人気に支持された。トミーリーはスタートから先行するトロイラスという馬の後ろ2番手につけて進み、その馬が力尽きて後退すると先頭に立った。コーナーに差しかかるところでソードダンサーが詰め寄り、残り2ハロンというところで並びかけられた際には鞍上のシューメーカーも諦めかけたが、トミーリーは再び懸命に走りだし、2頭の激しい攻防が繰り広げられた[r 7]。2頭はほぼ同時にゴールし、18分ほどの審議と写真判定の結果、トミーリーが勝利をもぎ取った。シューメーカーは後に、残り1ハロンというところで2頭は接触したが、このときトミーリーの手前が変わり、より走りやすくなったことが勝因のひとつだと語っている[r 8]

ケンタッキーダービー後はクラシック路線に残らず、西海岸に戻って6月のハリウッドパーク競馬場で行われるシネマハンデキャップへと登録された。しかし鞍上を務めていたシューメーカーが、ターナーの騎乗依頼に応じなかった[2]こともあり、前走で破ったシルバースプーンに敗れて着外へと沈んだ。

ターナーはシューメーカーと彼のエージェントの対応に憤り、抗議の意味を含めてトミーリーを半年の休養にあてた[r 9]。休養明けは翌年まであと2日まで迫った年の瀬で、ジョニー・ロングデンを鞍上にして6ハロン(約1207メートル)の一般戦で勝ちを挙げた。

その後

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4歳になっても競走馬として活動したが、トミーリーは3歳の頃までのような走りを見せられなかった。この年4戦して2勝を挙げるが、年明けのサンカルロスハンデキャップやサンタアニタマーチュリティといったステークス競走では着外に沈んでおり、シーズン前半で引退して種牡馬となった。

ケンタッキー州の牧場で種牡馬入りしたものの、受胎率が非常に悪く、早くも種牡馬失格の扱いを受けた[r 10][3]。このため6歳になって競走馬に復帰することになり、復帰から7歳での再引退までに14戦を経験、ステークス競走勝ちこそ無いものの、4勝を挙げた。

引退後は牧場で過ごし、1971年に死亡した。遺骸はレキシントンのピラースタッドに埋葬されている。

評価

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主な勝鞍

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※当時はグレード制未導入

1958年(2歳) 8戦6勝
ハギンステークス、C・S・ハワードステークス、スターレットステークス、デルマーフューチュリティ
2着 - シャンペンステークス、ガーデンステートステークス
1959年(3歳) 7戦4勝
ケンタッキーダービーブルーグラスステークス
2着 - サンヴィンセントステークス、サンフェリペハンデキャップ
1960年(4歳) 4戦2勝
1962年(6歳) 1戦1勝
1963年(7歳) 13戦3勝

血統表

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トミーリー血統(オーエンテューダー系(ハイペリオン系) / Hyperion 3x3=25.00%、 Swynford 4x4=12.50%) (血統表の出典)

Tudor Minstrel
1944 青鹿毛 イギリス
父の父
Owen Tudor
1938 青鹿毛 イギリス
Hyperion Gainsborough
Selene
Mary Tudor Pharos
Anna Bolena
父の母
Sansonnet
1933 鹿毛 イギリス
Sansovino Swynford
Gondolette
Lady Juror Son-in-law
Lady Josephine

Auld Alliance
1948 栗毛
Brantome
1931 鹿毛 フランス
Blandford Swynford
Blanche
Vitamine Clarissimus
Viridiflora
母の母
Iona
1943 栗毛 イギリス
Hyperion Gainsborough
Selene
Jiffy Hurry On
Juniata F-No.1-n


脚注

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備考

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  1. ^ 本来のお目当てであったタルヤー産駒はトゥレッグと名付けられ、実際に競走馬となっているが、2歳時は怪我により休養、3歳時には屈腱炎で引退と、成績を残さなかった。
  2. ^ この依頼を断って、シューメーカーはソードダンサーでベルモントステークスを制している。
  3. ^ 一応産駒は出しているものの、目立つ成績を挙げた馬はいなかった。

出典

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  1. ^ Robertson - p.538
  2. ^ Robertson - p.538
  3. ^ Robertson - p.538
  4. ^ Robertson - p.538
  5. ^ Robertson - p.539
  6. ^ ボウラス - p.56
  7. ^ ボウラス - p.56
  8. ^ ボウラス - p.58
  9. ^ Robertson - p.539
  10. ^ Robertson - p.539

参考文献

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  • The History of Thoroughbred Racing in America [p.531-539] (1964 著者: William H. P. Robertson 出版: Bonanza Books ASIN B000B8NBV6)
  • ケンタッキー・ダービー・ストーリーズ [p.56-58] (1996 原著: ジム・ボウラス 翻訳: 桧山三郎 出版: 荒地出版社 ISBN 4-7521-0098-3

外部リンク

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