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トゥクロール帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トゥクロール帝国

الخلافة التجانية
ティジャニーヤ・カリフ国
1861年–1893年
1864年、ウマル・タールが亡くなった時点でのトゥクロール帝国
1864年、ウマル・タールが亡くなった時点でのトゥクロール帝国
首都 セグー
共通語 アラビア語 (公用語)
フラニ語
宗教
スンニ派
統治体制 君主制
カリフ  
歴史  
 確立
1861年
 滅亡
1893年
先行
継承
セグー帝国
カアルタ
マシナ帝国
フータ・ジャロン・イマーム国
フランス領西アフリカ
ウマル・タールの台頭以前にあった1850年代後半の諸国を示す、当時のドイツで作られた地図、1861年時点でのウマル・タールの領土が緑で着色されている。征服された主要都市は緑、フランスの砦は青の点で示されている。中央に空いた地域はエル・ホズの不毛地帯である。

ティジャニーヤ・カリフ国 (アラビア語: الخلافة التجانية; またはティジャニーヤ・ジハード国家セグー・トゥクロールトゥクロール帝国) (1861年–1890年)は19世紀中期にトゥクロール人ウマル・サイドゥ・タールによって建国された国。現在のマリ共和国に位置していた。

歴史

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アフマドゥ・タール(フランス人によって1880年頃に描かれた肖像画)

ウマル・タールは1836年にハッジから戻り、ハッジの称号と、スーダンティジャニーヤ同胞団のカリフの称号を得た。 ウマル・タールはフータ・トロ(現在のセネガル)に長期間滞在した後、ディンギライェ(現在のギニアフータ・ジャロン)に移動した。この地が1850年のジハードの舞台となった。

1857年、メディナ砦の征服に失敗した後、ウマル・タールはフランス植民地軍への攻撃をやめ、バマナ帝国への攻撃を始め、まずカアルタ次にセグーと大きな勝利を収めた[1]。 1861年3月10日、セグーの戦いで決定的な勝利を収めた後、ウマル・タールはセグーを帝国の首都と定めた。 セグーの戦いの一年後、息子のアフマドゥ・タールを指揮官にフラニ人マシナ帝国の首都、アムダラーイに対して進軍した。 オマル・タールはトンブクトゥの征服には失敗し、ドゴン人の住むバンディアガラ付近のデグエンベレに撤退した。オマル・タールはそこで備蓄の火薬の爆発により死亡した。

トゥクロール帝国は甥のティディアニ・タールが継ぎ、トゥクロール帝国の首都をバンディアガラに移した。セグーでは息子のアフマドゥ・タールが統治を続け、近隣の諸都市が離反しようとしているのを首尾よく抑止した。アフマドゥ・タールは兄弟との対立を深めていった。

1890年、バンバラ人と同盟を結んだフランスはセグーに進駐した。アフマドゥ・タールは最初マシナに逃げ、1893年にマシナが陥落した後は現在のナイジェリアソコトに逃げ、帝国は実質的に終焉を迎えた。

関連項目

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出典

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  1. "Umar Tall", African Legends

参考文献

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  • Davidson, Basil. Africa in History. New York: Simon & Schuster, 1995.
  • Klien, Martin. Slavery and Colonial Rule in French West Africa. Cambridge University Press, 1998. ISBN 0-521-59678-5
  • Oloruntimeehin, B.O. The Segu Tukulor Empire. New York: Humanities Press, 1972. ISBN 978-0-391-00206-7
  • Roberts, Richard L. Warriors, Merchants. and Slaves: The State and the Economy in the Middle Niger Valley, 1700-1914, Stanford University Press, 1987. ISBN 0-8047-1378-2

外部リンク

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