チョスゲン

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チョスゲンチベット文字ཆོས་ཀྱི་ワイリー方式chos-rjeČosgenダルマ」を意味します、? - 1364年)は、大元ウルス末期に仕えた政治家の一人。『元史』などの漢文史料では搠思監(shuòsījiān)と記される。チョスゲムとも。

概要[編集]

生い立ち[編集]

チョスゲンは曾祖父のブルガイに代表される、モンゴル帝国の高官を代々輩出してきた名家の出身であった。チョスゲンは幼い頃から成熟しており、言語の習得が早かったため周囲から大器であると期待されていたという。泰定年間にケシクテイ(宿衛)に入り、ビチクチ(書記官)を務めた。至順2年(1331年)には内八府宰相に任じられ、元統2年(1334年)には福建宣慰使都元帥とされた。福建には3年間赴任し、ここで政治に通達するようになったという[1]

立身出世[編集]

後至元3年(1337年)、江浙行中書省参知政事に任じられ、大元ウルス朝廷にとって重要な南方からの300万石の輸送を成功させている。後至元6年(1340年)、湖北道粛政廉訪使に任じられたが現地に赴任しない内に江浙行省右丞に改められ、崩壊状態にあった福建地方の塩法を立て直した[2]至正元年(1341年)、山東粛政廉訪使、ついで中政使とされ、更に至正2年(1342年)正月に陝西行台御史中丞とされた。その後も中書参知政事・右丞を歴任し、至正6年(1346年)には御史中丞、至正9年(1349年)には大宗正府イェケ・ジャルグチを経て中書右丞となり中央で国政に携わるようになった。以後、平章政事・御史大夫を歴任し、トクトによる徐州の平定に従軍し功績を挙げている[3]

至正14年(1354年)9月、淮南で賊を討伐した際には自ら前線に立ち、流れ矢が顔に当たっても動じなかったという。至正15年(1355年)、陝西行省平章・知枢密院事・中書平章兼大司農分司を歴任した。この頃、ウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)に謁見した際に顔の矢傷跡を見られ、ウカアト・カアンは深く歎憫したという。至正16年(1356年)、御史大夫から中書左丞相、至正17年(1357年)には遂に最高位の中書右丞相に任じられた。至正18年(1358年)、太保の地位を授けられるとともに、曾祖父のブルガイを雲王、祖父のエセン・ブカを瀛王に、父のイリンチンを冀王に、それぞれ追封されている[4]

宰相時代[編集]

この頃、紅巾の乱を経て大元ウルスの中国統治は揺らぎつつあったにもかかわらず、高位にあったチョスゲンは有効な対策を打てず、かえって賄賂を取っていたことなどで評判を落としていた。同年冬、監察御史のイルチ・ブカはチョスゲンの私人であるドレとその妻の弟のオルジェイ・テムルが交鈔を偽造していたことを弾劾したため、ドレは自殺してチョスゲンも失脚した。しかし翌年に反乱軍が遼陽一帯を荒らしまわっていることが問題化すると遼陽行省左丞相に任命されて官界に復帰し、現地に赴かないままに至正20年(1360年)3月に中書右丞相に移って国政の中枢に復帰した[5]

この頃、ウカアト・カアンの政治への意欲は更に低下し、宦官の資正院使朴ブカらが臣下との間に立って利を貪っていた。 チョスゲンはこれと結託することでウカアト・カアンの下に国内の混乱に関する情報が届かないようにしてしまった。漢人による叛乱が悪化する一方で、これに独力で対抗するモンゴル人軍閥がこの頃台頭しつつあり、その中でもチャガン・テムルの河南軍閥とボロト・テムルの山西軍閥が特に有力であった。しかしチャガン・テムル(後に甥のココ・テムルが跡を継ぐ)とボロト・テムルは大元ウルス内での地位を巡って互いに対立しており、チョスゲンはココ・テムル側に肩入れして物に冤罪をかぶせた[6]。至正24年(1364年)3月、チョスゲンの策略によってボロト・テムルを討伐すべしとの詔が出されたが、宗王ブヤン・テムル、トゲン・テムルらはボロト・テムルの軍勢に合流してその無実を主張したため、事態は悪化した。これを受けてウカアト・カアンはボロト・テムルの訴えを受け容れて官職に復帰させる詔を下したが、詔が下された後でもチョスゲンらはなお京に留まっていた[7]

同年4月、ボロト・テムルはトゲン・テムルを派遣して大都を占領させ、自らを陥れたチョスゲンらを捕らえようとした[8]。ウカアト・カアンもやむを得ず二人を捕縛してボロト・テムルに差し出し、遂に両名は処刑された[8]。その後、チョスゲンの家産は没収され息子の観音奴も遠方に流された[9]。『元史』はチョスゲンを「姦臣伝」に載せ、「元の滅亡において、チョスゲンの罪は多い(元之亡、搠思監之罪居多)」と評している[10]

ケレイト部シラ・オグル家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣搠思監伝,「搠思監、怯烈氏、野先不花之孫、亦憐真之子也。早歳、性寛厚、簡言語、皆以遠大之器期之。泰定初、襲長宿衛、為必闍赤怯薛官。至順二年、除内八府宰相。元統初、出為福建宣慰使都元帥。居三年、通達政治、威恵甚著」
  2. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣搠思監伝,「後至元三年、拝江浙行中書省参知政事。国用所倚、海運為重、是歳、搠思監被命督其役、措置有方、所漕米三百餘万石、悉達京師、無耗折者。六年、擢湖北道粛政廉訪使、未行、改江浙行省右丞。福建塩法久壊、詔搠思監往究其私鬻・盗鬻及出納之弊、至則悉廉得其利病、為罷行之」
  3. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣搠思監伝,「至正元年、改山東粛政廉訪使、尋召拝中政使。明年正月、除陝西行台御史中丞。三月、復為中政使。八月、調太府卿。四年、拝中書参知政事、尋陞右丞。六年、遷御史中丞、遂除翰林学士承旨、俄復為中丞。又由資政使遷宣徽使。九年、除大宗正府也可札魯火赤、宗正国人咸称其明果。尋復入中書為右丞。十年正月、陞平章政事、階光禄大夫。十一年十一月、拝御史大夫、進銀青栄禄大夫。十二年四月、復為中書平章、従丞相脱脱平徐州有功。十三年、復拝御史大夫、尋又為中書平章」
  4. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣搠思監伝,「十四年九月、奉命率師討賊淮南、身先士卒、面中流矢不為動。十五年、遷陝西行省平章、復召還、拝知枢密院事。俄復拝中書平章、兼大司農分司、提調大都留守司、及屯田事。一日、入侍、帝見其面有箭瘢、深歎憫焉。進為首平章。十六年、復遷御史大夫。四月、遂拝中書左丞相、明年三月、進右丞相。十八年、加太保、詔封其曾祖孛魯海為雲王、祖也先不花為瀛王、父亦憐真為冀王」
  5. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣搠思監伝,「是時、天下多故日已甚、外則軍旅煩興、疆宇日蹙。内則帑蔵空虚、用度不給。而帝方溺於娯楽、不恤政務。於是搠思監居相位久、無所匡救、而又公受賄賂、貪声著聞、物議喧然。是年冬、監察御史燕赤不花、劾奏搠思監任用私人朶列及妾弟崔完者帖木児印造偽鈔、事将敗、令朶列自殺以滅口。搠思監乃請謝事、解機務、詔止收其印綬。而御史答里麻失里・王彝言不已、帝終不聴也。会遼陽賊勢張甚、明年、遂起為遼陽行省左丞相、未行。二十年三月、復拝中書右丞相、仍降詔諭天下」
  6. ^ 佐口1971,230頁
  7. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣搠思監伝,「時帝益厭政、而宦者資正院使朴不花、乗間用事為姦利、搠思監因与結搆相表裏、四方警報及将臣功状、皆壅不上聞。孛羅帖木児・擴廓帖木児各擁強兵于外、以権勢相軋、釁隙遂成。搠思監与朴不花党於擴廓帖木児、而誣孛羅帖木児以非罪。二十四年三月、帝因下詔削奪其官爵、且命擴廓帖木児以兵討之。而宗王不顔帖木児・禿堅帖木児等皆称兵与孛羅帖木児合、表言其無罪。於是帝為降詔曰『自至正十一年妖賊窃発、嘗選命将相、分任乃職、視同心膂、凡厥庶政、悉以委之。豈期搠思監・朴不花夤縁為姦、互相壅蔽、以致在外宣力之臣、因而解体;在内忠良之士、悉陥非辜。又復奮其私讎、誣搆孛羅帖木児・老的沙等同謀不軌。朕以信任之專、失於究察、遂調兵往討。孛羅帖木児已嘗陳詞、而乃寝匿不行。今宗王不顔帖木児等、仰畏明威、遠来控訴、以表其情、朕為惻然興念、而搠思監・朴不花猶飾虚詞、簧惑朕聴。其以搠思監屏諸嶺北、朴不花竄之甘粛、以快衆憤。孛羅帖木児等、悉与改正、復其官職』。然詔書雖下、而搠思監・朴不花仍留京師」
  8. ^ a b 佐口1971,231頁
  9. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣搠思監伝,「四月、孛羅帖木児乃遣禿堅鉄木児称兵犯闕、必得搠思監・朴不花乃已。帝不得已、縛二人畀之、遂皆為孛羅鉄木児所殺。已而監察御史復奏言『搠思監矯殺丞相太平、盗用鈔板、私家草詔、任情放選、鬻獄売官、費耗庫蔵、居廟堂前後十数年、使天下八省之地、悉致淪陥。乃誤国之姦臣、究其罪悪、大赦難原。曩者、姦臣阿合馬之死、剖棺戮尸、搠思監之罪、視阿合馬為有過。今其雖死、必剖棺戮尸為宜』。有旨従之。而台臣言猶不已、遂復没其家産、而竄其子宣徽使観音奴於遠方」
  10. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣搠思監伝,「怯烈氏四世為丞相者八人、世臣之家、鮮与比盛。而搠思監早有才望、及居相位、人皆仰其有為、遭時多事、顧乃守之以懦、済之以貪、遂使天下至於乱亡而不可為。論者謂元之亡、搠思監之罪居多云」

参考文献[編集]

  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』3巻(佐口透訳注、東洋文庫、平凡社、1971年6月)