タマル (グルジア女王)
タマル თამარი | |
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グルジア女王 | |
ヴァルジアの聖母教会(Church of Dormition)のフレスコ画に描かれたタマル女王 | |
在位 | 1184年 - 1213年 |
出生 |
1160年? |
死去 |
1213年 |
配偶者 | ユーリー・ボゴリュブスキー |
ダヴィト・ソスラン | |
子女 |
ギオルギ4世 ルスダン |
王朝 | バグラチオン朝 |
父親 | ギオルギ3世 |
タマル・バグラティオニ(თამარი, Tamar Bagrationi, 1160年? - 1213年、在位:1184年 - 1213年)は、バグラティオニ朝グルジア王国の女王。名はタマラ、タマーラとも記される。グルジア王国の最盛期を現出した。セルジューク朝を駆逐して領土を拡大し、グルジア王国の版図を南カフカース全域にまで広げた。また、トレビゾンド帝国の建国(1204年)を助けた。
人物・略歴
[編集]父ギオルギ3世(在位:1156年 - 1184年)より1178年に共同統治者に任命される。1184年にギオルギ3世が死んだ後、単独でグルジア史上初めての女王となる。最初の夫、ロシア人アンドレイ・ボゴリュブスキー大公の息子ユーリー(ギオルギ)とのあいだには子がなく、離縁した後、1189年に結婚した次の夫、オセット人ダヴィト・ソスランとのあいだに息子ギオルギ(後のギオルギ4世、在位:1212年 - 1223年)と娘ルスダン(後の女王、在位:1223年 - 1245年)をもうけた。
死後、正教会によって聖人に列されている。現在流通している50ラリ紙幣に肖像が使用されている。
内政と文化
[編集]タマル女王の治世下、グルジアの封建領主達が立法権の委譲を要求した。交渉の後、女王には立法権と行政権が残されたが、国事行為は封建領主からなる会議(ダルバジ)と協議して解決されることとなった。封建領主の勢力拡大は住民の不満を引き起こし、反乱が頻発したが、女王はこれを鎮圧した。
タマルの時代はグルジア文化の黄金期でもあった。ショタ・ルスタヴェリの残した有名な長編叙事詩『豹皮の騎士』はタマルに捧げられたものである。
軍事・外交
[編集]1194年、シャンホルにおいてアゼルバイジャンのアブベクルを破り、1202年、バシアニにおいてルクナディーンを破り、1204年にはカルスを占領し、グルジア王国の版図を南カフカース全域にまで広げた。
1204年、イタリアのヴェネチア商人の策謀によって第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領し、東ローマ帝国が没落した際には、タマルは皇帝一族が現トルコ領内に建てた亡命政権トレビゾンド帝国の建国を援助している[1]。
タマル女王時代は、その領域がカスピ海沿岸のアゼルバイジャンからチェルケシア、トルコ領エルズルムからガンザ(キロババート)にまで広がる、汎カフカス帝国をかたちづくり、トレビゾンドおよびシルワンがその同盟国ないし藩属国であった[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- デヴィッド・マーシャル・ラング(en) 著、菅原崇光 訳「グルジア:歴史」、フランク・B・ギブニー(編) 編『ブリタニカ国際大百科事典』ティビーエス・ブリタニカ、1973年3月。
関連項目
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