ソーキバーンの戦い

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ソーキバーンの戦い
ジェームズ3世に対する反乱中
1488年6月11日
場所スコットランドスターリングの南
結果 反乱軍の決定的な勝利
衝突した勢力
王党派 反乱軍
指揮官
ジェームズ3世 
初代モントローズ公デイヴィッド・リンジー
初代メンティス伯爵マリス・グラハム英語版
初代カニンガム伯爵アレクサンダー・カニンガム英語版 
ヘクター・ロイ・マッケンジー英語版
ロスシー公ジェームズ
初代ヒューム卿アレクサンダー・ヒューム英語版
第5代アンガス伯爵アーキバルド・ダグラス英語版
第2代モンゴメリー卿ヒュー・モンゴメリー英語版
被害者数
反乱軍より多数 少数

ソーキバーンの戦い(ソーキバーンのたたかい、英語: Battle of Sauchieburn)は、1488年6月11日スコットランドスターリングの南約2マイルにあるソーキ・バーンにある泉の側で行われた戦闘。戦闘はスコットランド王ジェームズ3世の支持者と初代ヒューム卿アレクサンダー・ヒューム英語版率いる(名目上にはロスシー公ジェームズ王子が率いる)スコットランド貴族の反乱軍の間で戦われ、ジェームズ3世の敗死に終わった。

戦いの経緯[編集]

ジェームズ3世に対する反乱は1488年のはじめにジェームズ王子が担ぎ上げられた以降、すでに数か月続いていた。ジェームズ3世は息子を取り戻して事態を打開すべく、まず交渉をすると約した文書を出したが、後にそれを破ってエディンバラへ南下した。この背信でジェームズ3世支持者の多くが彼を見放し、中立に転じた[1]。5月、王は渡河してブラックネス城英語版を基地とし、一方王子はリンリスゴーにいた。しかしリンリスゴーにいる王子を取り戻す試みは失敗、小競り合いに負けた王はブラックネスへ戻った。彼はさらに反乱軍に人質として預かれた人々を見捨てて逃亡し、5月16日にはエディンバラに戻った。そして、支持を得るために初代アソル伯爵ジョン・ステュアート英語版など多くの人々にお金をばらまいた。

この時点では反乱軍がスターリングやリンリスゴーなどに分散しており、王は機会に乗じて突如ファイフに移動、続いてスターリングに進軍して6月10日に反乱軍を南へと撃退した。王はスターリングを平定したが、次の日にスターリングから南2マイルのソーキ・バーンで反乱軍に遭遇した。リンリスゴーの反乱軍がやってきたので、撃退された反乱軍が再びジェームズ3世に挑んだのであった。ジェームズ3世はロバート・ブルースの剣を持って出陣した。

戦闘は王党派の敗北に終わった。ジェームズ3世はこの戦闘で帰らぬ人となったが、その詳細についてはよくわかっておらず、16世紀の年代記作家はジェームズ3世が暗殺された[2]、馬に振り落とされて死亡した[3]、と2つの説を提唱した。

ジェームズ王子は王位を継承して、以降25年間ジェームズ4世として統治した。彼は治世を通して腕に重い鉄の鎖をつけ、父の死における自分の役割を記憶し続けた。

2009年のスコットランド歴史環境政策により、戦場のヒストリック・スコットランド英語版による保護が検討されている[4]

参加した貴族[編集]

下記はソーキバーンの戦いに参加した貴族の一覧である。

脚注[編集]

  1. ^ Macdougall, Norman, James III, John Donald (2009), page 338
  2. ^ Recent archaeological survey of Milton, alleged site of assassination
  3. ^ Macdougall, Norman, James III, John Donald (1982), pp.261-2
  4. ^ Inventory battlefields”. Historic Scotland. 2012年4月12日閲覧。
  5. ^ Macdougall, James IV, (1997), 85

参考文献[編集]

  • MacDougall, Norman. James III, (John Donald Publishers Ltd (5 Feb 1982))
  • Prebble, John. The Lion in the North

外部リンク[編集]

座標: 北緯56度04分 西経3度55分 / 北緯56.067度 西経3.917度 / 56.067; -3.917