ジャン2世・ド・クロイ

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ジャン2世・ド・クロイ
Jean II de Croÿ
初代シメイ伯
在位 1473年

出生 1390年?
死去 1473年3月25日
ヴァランシエンヌ
埋葬 シメイ、聖堂参事会教会
配偶者 マリー・ド・ラレン
子女 ジャクリーヌ
フィリップ1世
ジャック
ミシェル
カトリーヌ
家名 クロイ家
父親 ジャン1世・ド・クロイ
母親 マルグリット・ド・クラオン
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ジャン2世・ド・クロイフランス語:Jean II de Croÿ, 1390年? - 1473年3月25日)は、シメイ伯、クロイ=ソルル家の祖。

生涯[編集]

ジャンはジャン1世・ド・クロイとマリー・ド・クラオンの三男である[1]。兄はアントワーヌ1世・ド・クロイ。ブルゴーニュ宮廷の主要なメンバーの一人であった。エノーの大バイイとしてブルゴーニュ公の名においてエノーとナミュールを統治した[2]。ジャンの領土はシメイ周辺に集中しており、ジャンは初代シメイ伯となった。1430年に、金羊毛騎士団の最初の騎士の1人に選ばれた。

ジャンは1433年にシャルル豪胆公の代父となり、1459年には王太子の代父となった。1435年にはアラスの和約の成立に重要な役割を果たした。その後、ジャンはアミアンをブルゴーニュの支配下に置いた罪で起訴された。1436年、ジャンはカレーを包囲したブルゴーニュ・フランドル軍を指揮し、遠征の失敗の責任を問われた。ヘントの反乱(1449年 - 1453年)において、ジャンはアウデナールデの包囲を解除し、1453年にティオンヴィルブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ヴィルヘルム1世を破り、ブルゴーニュ公国のためにルクセンブルク公領を確保した。

ジャンも1454年に「キジの饗宴」において誓いを立てた人々の一人であった。ジャンはフィリップ善良公に多大な影響を与えたが、そのためにジャンはシャルル豪胆公から嫌われていた。1465年にシャルル豪胆公が権力を握ると、ジャンとその息子フィリップ1世、兄のアントワーヌ1世・ド・クロイを追放した。ジャンがシャルルと和解したのは、ジャンの死の年である1473年のことであった。

結婚と子女[編集]

彼はマリー・ド・ラレン(1390年 - 1474年)と結婚し[1]、5子をもうけた。

  • ジャクリーヌ(1430年 - 1500年) - 1463年にジャン4世・ド・ネールと結婚[3]
  • フィリップ1世(1430年 - 1482年) - キエヴラン領主[4]、シメイ伯
  • ジャック(1436年 - 1516年) - カンブレー司教
  • ミシェル(1516年没) - サンピー領主、金羊毛騎士団騎士
  • カトリーヌ(1440年 - 1515年) - アドリアン・ド・ブリミュー(1515年にマリニャーノの戦いで戦死)と結婚

脚注[編集]

  1. ^ a b vanden Bemden 2000, p. 181.
  2. ^ Vaughan 2002a, pp. 195–196.
  3. ^ Guynemer 1912, p. 92.
  4. ^ Vaughan 2002b, p. 248.

参考文献[編集]

  • vanden Bemden, Yvette (2000) (French). Les vitraux de la première moitié du 16e siècle conservés en Belgique. Presses Universitaires de Namur 
  • Guynemer, Paul (1912) (French). La seigneurie d'Offémont. Imprimerie du Progrès de l'Oise 
  • Vaughan, Richard (2002a). Philip the Good. Boydell Press 
  • Vaughan, Richard (2002b). Charles the Bold. Boydell Press 
先代
シメイ伯
1473年
次代
フィリップ1世