ジェームズタウン (バージニア州)

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位置
1608年ごろのジェームズタウンのスケッチ
1622年のインディアンによる襲撃を描いた木版画
古い教会の塔の廃墟

ジェームズタウン(Jamestown)はイギリス北アメリカに建設した最初の永続的植民地で、後のイギリス帝国の広大な植民地の端緒でもある。集落は現存せず、現在は歴史的遺構となっている。

位置[編集]

現在のバージニア州ジェームズシティ郡内、チェサピーク湾に注ぐジェームズ川河口付近の上に位置する。

今日のジェームズタウンは、ウィリアムズバーグヨークタウンとで作る歴史三角形として知られる重要な国家資産の一部(歴史的ジェームズタウン)であり、これら三史跡を結ぶ植民地道路の西終端でもある。

歴史[編集]

建設[編集]

1607年ロンドン・ヴァージニア会社によってスーザン・コンスタントゴッドスピードディスカバリーの3隻の船で105名の植民団が北米植民地開拓に送り込まれた。船長クリストファー・ニューポートの下、4か月の航海の末に、プエルトリコを経由して、1607年4月26日にヘンリー岬についに上陸した。現在のハンプトン・ロード地域を探索した後、ジェームズ川の島内に砦に囲まれた入植地を建設した。こうして、5月4日にジェームズ砦としてジェームズタウン植民地は設立された。この町の名前はイングランド王ジェームズ1世にちなむ。

ポウハタンインディアンが彼らを手厚く歓待し、食料を分け与えてくれた。英国最初の北米植民団は1585年に送り込まれたが、全滅しており(ロアノーク植民地参照)、ジェームズタウンが最初の永続的植民地となる。

植民当初は延命に不可欠な農耕につくのを嫌がり、食糧は底を尽き、病気が蔓延した[1]1608年1月には最初の入植者はわずかに38名だけしか生き残らなかった[2]ジョン・スミスはジェームズタウンの第一の関心を黄金から作物と家畜に変えることと主張し、一時的に事態は改善した[3]。しかし1609年にスミスは追放され、1609年の冬はネズミ、ヘビ、馬の生皮、果ては人肉まで食べて飢えをしのぐありさまで、500人の入植者のうち生存者はわずか60名であった[4](「飢えの時英語版」)。ロンドンの会社が送り込む人の波で状況は次第に改善され、1620年代には飢えることのない状況になった[5]

発展[編集]

1619年にはアメリカで最初に選出された代表市民議会がジェームズタウン教会で開催された。彼らは次第にポウハタン部族連合の領土に侵入し、武力でこれを奪った。彼らを侵略者と認定したインディアン部族は、彼らに攻撃を加えるようになり、血を血で洗う植民地戦争が始まった。彼らが持ち込んだ病原菌は、免疫のないインディアンを弱らせ、苦労せずともインディアンたちは数を減らした。

1622年に起こったポウハタンインディアンによる一斉蜂起である「ジェームズタウンの虐殺」では、当時のジェームズタウンにおける英国白人人口の約1/3にあたる347人が殺されたが、弾圧に成功した。

この事件のあと、ジェームズタウンの入植白人は報復として、「和平会議」と称してインディアンを招き、毒を飲ませて騙し討ちを行い、200人近いインディアンを殺した。また直接武力で50人を超えるインディアンも殺害した。

経済的にはタバコ栽培で成り立った。河口付近は湿地が多かったが、それでもここに入植したのは海から離れているのでスペイン艦隊から見つからず、しかも川が深い場所だったのでいつでもすぐ逃げられるよう外洋船を停泊させることができたからだった。

終焉[編集]

伝染病が発生しやすかったことから、1699年ヴァージニア植民地政府は近くのウィリアムズバーグに移転した。現在、跡地には入植当時の要塞や建物、木造船などが再現されている。

脚注[編集]

  1. ^ ナッシュp.45
  2. ^ ナッシュp.45
  3. ^ ナッシュp.45
  4. ^ ナッシュp.45
  5. ^ ナッシュpp.45-46

出典[編集]

  • ロデリック・ナッシュ 『人物アメリカ史(上)』 足立康訳、新潮社〈新潮選書〉、1989年4月。ISBN 4-10-600358-9

外部リンク[編集]