グナエウス・ゲヌキウス・アウェンティネンシス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

グナエウス・ゲヌキウス・アウェンティネンシス
Cn. Genucius M.f. M.n. Aventinensis
出生 不明
死没 不明
出身階級 プレブス
氏族 ゲヌキウス氏族
官職 執政官(紀元前363年)
テンプレートを表示

グナエウス・ゲヌキウス・アウェンティネンシスラテン語: Gnaeusu Genucius Aventinensis、生没年不詳)は紀元前4世紀共和政ローマの政治家。紀元前363年執政官(コンスル)を務めた。

出自[編集]

ゲヌキウス氏族にはパトリキ(貴族)系もあるが、ゲヌキウス・アウェンティネンシス家はプレブス(平民)である。アウェンティネンシスのコグノーメン(第三名、家族名)は、アウェンティヌスの丘に由来し、そこには多くのプレブスが住んでいた。一族は、紀元前473年に暗殺された護民官グナエウス・ゲヌキウスの子孫にあたる。

経歴[編集]

紀元前363年、アウェンティネンシスは執政官に就任。同僚のパトリキ執政官はルキウス・アエミリウス・マメルキヌスである[1]。この年、元老院の主たる関心ごとは神の怒りを鎮めることであった[1][2]。ローマでの疫病の蔓延はすでに3年目に入っていた。元老院はルキウス・マンリウス・カピトリヌス・インペリオススを独裁官(ディクタトル)に任命し、インペリオススはルキウス・ピナリウスをマギステル・エクィトゥム(騎兵長官、独裁官副官)に指名した。ティトゥス・リウィウスによると、彼らの任務は敵と戦うことではなく、ユピテル・オプティムス・マキシムス神殿で釘打ちの儀式を行い、疫病の平癒を願うことであった[3]

脚注[編集]

  1. ^ a b リウィウスローマ建国史』、VII, 3
  2. ^ ディオドロス『歴史叢書』、XVI, 2
  3. ^ Nicolas Lenglet Dufresnoy , Chronological Tables of Universal History (1762), The Sixth Epocha, p.58

参考資料[編集]

関連項目[編集]

公職
先代
ガイウス・スルピキウス・ペティクス
ガイウス・リキニウス・ストロ I
執政官
同僚:ルキウス・アエミリウス・マメルキヌス II
紀元前363年
次代
ルキウス・ゲヌキウス・アウェンティネンシス II
クィントゥス・セルウィリウス・アハラ II