クリスティーヌ・ド・ダヌマルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クリスティーヌ・ド・ダヌマルク
Christine de Danemark
ミラノ公
ロレーヌ公
在位

ミラノ公妃:1534年5月4日 - 1535年10月24日

ロレーヌ公妃:1544年6月10日 - 1545年6月12日

出生 1521年11月
 デンマークフュン島ニュボー
死去 (1590-08-10) 1590年8月10日(68歳没)
ミラノ公国トルトーナ
埋葬 ロレーヌ公国ナンシー、コルドリエ修道院
結婚 1534年5月4日 ミラノ
1544年6月10日 ブリュッセル
配偶者 ミラノ公フランチェスコ2世
  ロレーヌ公フランソワ1世
子女 シャルル3世
ルネ
ドロテ
家名 オルデンブルク家
父親 デンマーククリスチャン2世
母親 イサベル・デ・アウストリア
テンプレートを表示

クリスティーヌ・ド・ダヌマルク(Christine de Danemark, 1521年11月 - 1590年8月10日)は、ロレーヌ公フランソワ1世の妃。デンマーククリスチャン2世イサベル・デ・アウストリアの娘。デンマーク語名はクリスティナ・ア・オレンボー(Christina af Oldenborg)、イタリア語名はクリスティーナ・ディ・ダニマルカ(Cristina di Danimarca)。

生涯[編集]

1521年デンマーククリスチャン2世イサベル・デ・アウストリアの末子として、デンマーク・フュン島ニュボーで生まれた。

1523年、父が廃位されたのち、一家でフランドルへ亡命。困窮を見かねた大叔母マルグリット・ドートリッシュに子供たちは引き取られ、カトリック教徒として養育された。

1533年9月、ブリュッセルにてミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァと代理結婚。翌1534年ミラノに入り、5月4日に正式な結婚式が行われた。しかし1535年に死別したため、帰国。

1538年、ブリュッセルの宮廷に居たところ、ドイツ人画家ハンス・ホルバインと面会する。彼はイングランド宮廷画家であり、ヘンリー8世1537年に3度目の妃ジェーン・シーモアと死別していたため、ふさわしい花嫁を探す密命をホルバインに課した。ホルバイン作の肖像画には、彼女は喪服姿で描かれている。イングランド大使を通じてヘンリーから求婚されたクリスティーヌだが、妃への虐待が既にヨーロッパ中に知れ渡っていたため結婚する気はなく、「私に二つの頭があったら、王と結婚いたします。」とやんわり拒絶した(ヘンリーの最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンは、彼女の母方の大叔母である)。

ヘンリーの結婚申し込みがなくなると、1541年6月10日にクリスティーヌはバール公フランソワと結婚した。ここでも不思議な縁があった。フランソワはかつてアンナ・フォン・クレーフェ(英語名アン・オブ・クレーヴズ、ヘンリーの4度目の王妃)と婚約したことがあったが、彼はクリスティーヌを選びアンナとの婚約を解消したのだった。フランソワは1544年に父アントワーヌのあとを継いでロレーヌ公となったが、わずか1年後に没した。幼い長男がロレーヌ公シャルル3世となり、クリスティーヌは長く摂政を務めた。

クリスティーヌは、ミラノ公妃時代の寡婦財産として受け取っていたトルトーナで亡くなった。

子女[編集]