オットー・ハインリヒ (プファルツ=ズルツバッハ公)

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オットー・ハインリヒ
Otto Heinrich
プファルツ=ズルツバッハ
在位 1569年 - 1604年

出生 (1556-07-22) 1556年7月22日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
プファルツ選帝侯領アンベルク
死去 (1604-08-29) 1604年8月29日(48歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
プファルツ=ズルツバッハ公領、ズルツバッハ
配偶者 マリア・ドロテア・フォン・ヴュルテンベルク
子女 本文参照
家名 プファルツ=ツヴァイブリュッケン家
父親 プファルツ=ツヴァイブリュッケン公兼プファルツ=ノイブルク公ヴォルフガング
母親 アンナ・フォン・ヘッセン
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オットー・ハインリヒドイツ語:Otto Heinrich, 1556年7月22日 - 1604年8月29日)は、プファルツ=ズルツバッハ公(在位:1569年 - 1604年)。

生涯[編集]

オットー・ハインリヒは、プファルツ=ツヴァイブリュッケン公兼プファルツ=ノイブルク公ヴォルフガングヘッセン方伯フィリップ1世の娘アンナの三男として生まれた。若いころに、オットー・ハインリヒは5年間デンマーク王宮に住み、そこでデンマーク王フレゼリク2世と親友となった。

父ヴォルフガングは遺言により、ズルツバッハ公領をオットー・ハインリヒに与えた。当初、兄フィリップ・ルートヴィヒの後見のもと12年間、1582年よりズルツバッハ城に居を構えた。ズルツバッハ城は建築家アダム・シュヴァルツによって大規模に改装されていた。領内において、オットー・ハインリヒは誠実に統治に取り組み、教区、学校、公共図書館を設立した。

オットー・ハインリヒは、男子継承者を残さずに1604年に死去した。ズルツバッハは、長兄でノイブルク家の祖となったフィリップ・ルートヴィヒに戻された。

結婚と子女[編集]

1582年11月25日にシュトゥットガルトにおいて、ヴュルテンベルク公クリストフの娘マリア・ドロテアと結婚し[1]、以下の子女が生まれた。

  • ルートヴィヒ(1584年)
  • アンナ・エリーザベト(1585年)
  • ゲオルク・フリードリヒ(1587年)
  • ドロテア・ゾフィー(1588年 - 1607年)
  • ザビーネ(1589年 - 1645年) - 1625年にフリードリヒ・ゲオルク・フォン・ヴァルテンベルク(1632年没)と結婚
  • オットー・ゲオルク(1590年)
  • ズザンナ(1591年 - 1667年) - 1613年にプファルツ=リュッツェルシュタイン公ゲオルク・ヨハン2世と結婚
  • マリー・エリーザベト(1593年 - 1594年)
  • アンナ・ジビッレ(1594年)
  • アンナ・ゾフィア(1595年 - 1596年)
  • マグダレーナ・ザビーネ(1595年 - 1596年)
  • ドロテア・ウルズラ(1597年 - 1598年)
  • フリードリヒ・クリスティアン(1600年)

脚注[編集]

  1. ^ ドロテア・マリアとも。マリア・ドロテアと結婚についてはGerhard Raff: Hie gut Wirtemberg allewege. Band 1: Das Haus Württemberg von Graf Ulrich dem Stifter bis Herzog Ludwig. 6. Auflage. Landhege, Schwaigern 2014, ISBN 978-3-943066-34-0, pp. 608–610を参照。

参考文献[編集]

先代
新設
プファルツ=ズルツバッハ公
1569年 - 1604年
次代
(プファルツ=ノイブルクに統合)