エシャラ・ハンマト

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エシャラ・ハンマト
宮廷夫人[注釈 1][注釈 2]

出生 前712年頃
死亡 前672年2月(40歳頃)
配偶者 エサルハドン
子女
シェルア・エテラト
シャマシュ・シュム・ウキン
アッシュルバニパル?
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エシャラ・ハンマトEsharra-hammatアッカド語Ešarra-ḫammat[3]、「エシャラは女主人なり」[4])は 古代メソポタミア地方の新アッシリア帝国の王妃アッシリアエサルハドン(在位:前681年-前669年)の第一の配偶者である[注釈 3]。エシャラ・ハンマトはエサルハドンの主要な子供たち(長女シェルア・エテラト、息子のアッシュルバニパルシャマシュ・シュム・ウキンなど)の母親であった可能性がある。エシャラ・ハンマトに言及する存命中の史料はほとんどなく、彼女については主にその死後に書かれた史料からしか知ることができない。エシャラ・ハンマトは前695年頃にエサルハドンと結婚しており、彼が王になる10年以上前から連れ添っていた。前672年2月の彼女の死はエサルハドンに深い影響を与えた。エサルハドンは彼女のために、アッシリアの王妃の埋葬施設としては例外的な巨大な霊廟を建てた。そして彼女の死はバビロニア年代記に記録されている。

生涯[編集]

エシャラ・ハンマトは前695年頃にエサルハドンと結婚した[6]。オーストリア系イギリス人(Austrian British)のアッシリア学者グウェンドレン・リーク英語版によれば、エシャラ・ハンマトはバビロニア人を祖先に持っていたかもしれない[7]。エシャラ・ハンマトについては主としてその死後に書かれた記念文書群と碑文により知られている[6]。エシャラ・ハンマトによって書かれた(即ち彼女の生前に書かれた)僅かな碑文の中には、彼女の所有物であることが記されたアイ・ストーン(eye-stone)の碑文がある[8]

エシャラ・ハンマトの名前は文字通りには「エシャラは女主人なり[4]」と訳せる。エシャラ(Ešarra)は神殿の名前であり[4]、メソポタミア人の宇宙観ではエシャラという名前は天界の位置する場所(a heavenly cosmic location)の名としても使用された[9]。彼女の名は恐らく「エシャラ[のムリッス英語版]は女主人なり」と理解するのが最良の解釈である。ムリッスはエシャラという神殿/領域に関連付けられた女神である。別の解釈として、エシャラという神殿/領域それ自体に言及したものであるとする、または「エシャラ[のムリッス]は[全権を]集める」、「エシャラ[において]、彼女は女主人なり」などがある。エシャラ・ハンマトという名前の人物が他に知られていないことから、この名前は将来の王妃として彼女がエサルハドンと結婚した際に付けられたものである可能性がある[4]

エシャラ・ハンマトは前672年2月に恐らく40歳くらいで死亡した[6]。彼女はエサルハドンの王妃の中で知られている唯一の人物である[6] 。彼女の死亡時にはエサルハドンも40歳くらいであり、その後も数年間王として統治した。彼の死後の史料からは在位中の王妃は知られておらず、さらにその当時の役人のリストから見て明らかに王妃の地位は空位であった[10]。エシャラ・ハンマトの死の直前には、彼らの生後間もない子供が死亡しており、このことでエサルハドンは憂鬱の中に沈んでいた[11]。そしてエサルハドンは新たな王妃を選定しなかった。そのため、王妃が果たすべき責任と義務のいくらかはエサルハドンの母ナキアが担当することとなった[10][12]。エシャラ・ハンマトの葬儀と彼女のために実施された葬礼の記録が2点残されているが、彼女の墓はまだ特定されていない[6]。この墓は単なる墓地や(過去の幾人かの王妃のように)宮殿内に置かれたものではなく[13]、エサルハドンはエシャラ・ハンマトのために巨大な霊廟を建設し[14][15]、彼女の死はバビロニア年代記に記録された[15]

エサルハドンにはエシャラ・ハンマト以外にも妻がいたことがわかっている。これは彼が自分の王位継承を定めた文書群において「アッシュルバニパルの母」の息子たち(アッシュルバニパルはエサルハドンの息子であり後継者)とそれ以外の息子たちを区別していることによる[14]。エサルハドンには最低でも18人の子供がいたが[16]、そのうちの誰がエシャラ・ハンマトの子供であったのかはわかっていない[14]。エサルハドンの最も重要な子供たち、長女シェルア・エテラト[6]や息子のアッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンはエシャラ・ハンマトの子供であった可能性がある[17]。エシャラ・ハンマトの葬儀は壮大なものであり、宮廷の内外から著名な女性たちが参列した。その中にはエシャラ・ハンマトの「娘」と「義理の娘」が含まれる。2013年、アッシリア学者デーヴィッド・ケルトイ(David Kertai)はこの「義理の娘」はアッシュルバニパルの妻リッバリ・シャラトであるという説を出した[6]

前672年の後半、エシャラ・ハンマトの死から3ヶ月の後に、エサルハドンの祓魔師長アダド・シュム・ウツル(Adad-shumu-usur)はエシャラ・ハンマトの霊が現れアッシュルバニパルの後継者の地位を確認したとエサルハドンに報告している。アダド・シュム・ウツルはアッシュルバニパルの言葉の一部を引用し、次のような報告を行った[18]

アッシュル神およびシャマシュ神は彼女[エシャラ・ハンマト]の公正さ故に私をアッシリアの王太子に任命された」(そして) 彼女の霊が彼を祝福しました。彼が彼女の霊を敬うのと同じ程に。「彼の子孫がアッシリアを統治するべし!」[18]

脚注[編集]

  1. ^ 「王妃」(Queen)という称号は今日の歴史学者によって通例として使用されているが[1]、このような称号は新アッシリア帝国には存在しなかった。王(シャルム šarrum)に対応する用語の女性形はシャラトゥム(šarratum)であるが、この称号は女神、または自らを権力を行使する外国の女王に対して与えられるものであった。アッシリアの王の配偶者が自ら支配することはなかったため、彼女たちはこのような女神・外国の女性支配者たちと同格と見なされることはなく、シャラトゥムと呼ばれることはなかった。王の第一の配偶者に与えられる称号は「宮廷夫人」であった[2]。この用語はシュメログラム(楔形文字)でMUNUS É.GALと綴られ、アッシリア語ではissi ekalliと読まれた。後にはsēgalluと略された[1]
  2. ^ 宮廷夫人という訳語は「Woman of the Palace」という英訳に基づいており、学術的な訳語でないことに注意。
  3. ^ 当時のアッシリア王たちは同時に複数の妻を持っていた。しかし、全ての妻たちが「王妃(宮廷夫人)」と認識されていたわけではない。この点についてはかつて論争があったが[1][5]、「宮廷夫人」という称号は限定詞(qualifier)なしで使用されており(これは曖昧さがなく、この用語が誰を示すのか明確であったことを示す)、この称号を負う女性は同時期にただ一人であったと思われる[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d Kertai 2013, p. 109.
  2. ^ Spurrier 2017, p. 173.
  3. ^ Novotny & Singletary 2009, p. 168.
  4. ^ a b c d Frahm 2014, p. 189.
  5. ^ Spurrier 2017, p. 166.
  6. ^ a b c d e f g Kertai 2013, p. 119.
  7. ^ Leick 2002, Ashurbanipal and the fall of Nineveh.
  8. ^ Leichty 2011, pp. 313–314.
  9. ^ Horowitz 1998, p. 113.
  10. ^ a b Kertai 2013, p. 120.
  11. ^ Radner 2015, p. 50.
  12. ^ Svärd 2015, p. 161.
  13. ^ Spurrier 2017, p. 174.
  14. ^ a b c Novotny & Singletary 2009, p. 174–176.
  15. ^ a b Gansell 2018, p. 159.
  16. ^ Radner 2003, p. 170.
  17. ^ Leichty 2011, p. 313.
  18. ^ a b Pongratz-Leisten 2006, p. 26.

参考文献[編集]

  • Chavalas, Mark (2014). Women in the Ancient Near East: a Sourcebook. Oxford: Routledge. ISBN 978-0415448550 
    (『古代近東の女性:史料集』(著:マーク・チャバラス、2014年、ラウトリッジ出版(英国)))
  • Frahm, Eckart (2014). “Family Matters: Psychohistorical Reflections on Sennacherib and His Times”. In Kalimi, Isaac. Sennacherib at the Gates of Jerusalem: Story, History and Historiography. Leiden: BRILL. ISBN 978-9004265615. https://books.google.com/books?id=bF_bAgAAQBAJ 
    (『エルサレムの門におけるセンナケリブ:物語、歴史と編纂』(著:アイザック・カミリ、セス・リチャードソン(Seth Richardson)、2014年、ブリル出版(オランダ))に収録されている『家族に関すること:センナケリブとその時代について、心理歴史学的考察』(著:エッカート・フラーム))
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  • Horowitz, Wayne (1998). Mesopotamian Cosmic Geography. Winona Lake, Indiana: Eisenbrauns. ISBN 0-931464-99-4. https://books.google.com/books?id=P8fl8BXpR0MC 
    (『メソポタミアの宇宙地図』(著:ウェイン・ホロウィッツ、1998年、アイゼンブラウン社(米国)))
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  • Leick, Gwendolyn (2002). Mesopotamia: The Invention of the City. Penguin UK. ISBN 978-0141927114. https://books.google.com/books?id=HUFdfwRpDykC 
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  • Radner, Karen (2003). “The Trials of Esarhaddon: The Conspiracy of 670 BC”. ISIMU: Revista sobre Oriente Próximo y Egipto en la antigüedad (Universidad Autónoma de Madrid) 6: 165–183. https://repositorio.uam.es/handle/10486/3476. 
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  • Radner, Karen (2015). Ancient Assyria: A Very Short Introduction. Oxford University Press. ISBN 978-0-19-871590-0 
    (『古代アッシリアの、非常に簡単な手引き』(著:カレン・ラドナー、2015年、オックスフォード大学出版))
  • Spurrier, Tracy L. (2017). “Finding Hama: On the Identification of a Forgotten Queen Buried in the Nimrud Tombs”. Journal of Near Eastern Studies 76 (1): 149–174. doi:10.1086/690911. https://www.journals.uchicago.edu/doi/full/10.1086/690911. 
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  • Svärd, Saana (2015). “Changes in Neo-Assyrian Queenship”. State Archives of Assyria Bulletin XXI: 157–171. 
    (ヘルシンキ大学(フィンランド)アッシリア学会報第21号p.157-171に収録されている『新アッシリア帝国における王妃のあり方の変化』(著:サーナ・サヴァード))