ウルゲン川

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ウルゲン川モンゴル語: Ургэн Гол、ウルゲン・ゴル、中国語: 乌拉盖河)は、中華人民共和国内モンゴルシリンゴル盟を流れる河川ヒンガン山脈西麓より流れ出て、水量の減少によって自然消滅する内陸河川。

河の長さは371km、流域面積は約8817㎢、年平均流量は訳1.2㎥。中国の測定によると、流量の最も多い夏期は一年の流量の48%を占め、逆に最も少ない冬期は一年の流量の01%を占めるに過ぎない[1]

歴史[編集]

旧名をウルクイ(Ulqui)河と言い、13世紀に編纂された『モンゴル秘史』には「兀魯灰」として漢字音写される。『モンゴル秘史』によると、モンゴル帝国の勃興以前にウルグイ河流域はタタル部ウルス(国土)であり、モンゴル帝国の創始者チンギス・カンがウルクイ河・シルゲルジト河流域の戦いでタタル部を撃破したという。

また、フレグ・ウルスで編纂されたペルシア語史料『集史』には、チンギス・カンが弟カチウンの息子アルチダイにآلقوی(Alqūī)河一帯を遊牧地として与えたと記されており、以後ウルクイ河一帯はカチウン家の領地になったと見られている[2]

清代斉召南が編纂した『水道提綱』には、「蘆河、土名は烏爾虎(ウルク)河、索岳爾済山[3]より出でて西南に流れ、ウジュムチン左翼の東を経て、西に折れ、色野爾済河に合流し、ウジュムチン右翼の境界に入って涸れる」とある[4]。但し、村上正二は『水道提綱』でUlquiを満州語(Ulhu)の意と解釈するのは誤りで、実際には「のろのろとした、水の涸れて水流の弱い」といった意味を持つモンゴル語に由来するだろうと指摘している。

大正4年(1915年)には関東軍による調査が行われており、その際の記録によると「『ウルゲンゴロ(ウルゲン・ゴル)』は興安嶺の西側より出て西流し、東ウジュムチン旗内で渚溜する一流たり。川幅は30m、深さは30㎝。増水の際は深さ2mに及ぶ。川底泥沙にして川岸急なり」という[5]

脚注[編集]

  1. ^ 馬秀峰等 (1999). 《西北内陸河区水旱災害》. 鄭州: 黄河水利出版社. ISBN 7-80621-267-1 
  2. ^ 杉山2004、40-57頁
  3. ^ 日名子健二,2021,「ノモンハン事件後の満蒙国境画定の経緯-ハンダガヤからソヨルジ゙山まで-」 (PDF) ,福岡市総合図書館 2021年度利用者研究成果
  4. ^ 『水道提綱』巻27「蘆河、土名烏爾虎河、源出索岳爾済山。南流、随山麓曲、曲而西南三百里許、経烏朱穆秦左翼東六十里、折而西流北合色野爾済河、南合音札哈河賀爾洪河、入右翼界至克勒河漠之地涸」
  5. ^ 村上1972、

参考文献[編集]

  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年

関連項目[編集]