ドロシー・ダヴェンポート

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Dorothy Davenport
ドロシー・ダヴェンポート
ドロシー・ダヴェンポート
1925年
別名義 ドロシー・リード Dorothy Reid
生年月日 (1895-03-13) 1895年3月13日
没年月日 (1977-10-12) 1977年10月12日(82歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 マサチューセッツ州ボストン
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス郡ロサンゼルス市ウッドランド・ヒルズ
職業 女優脚本家映画監督映画プロデューサー
ジャンル 舞台、サイレント映画トーキーテレビ映画
活動期間 1910年 - 1956年
配偶者 ウォーレス・リード(1913年 - 1923年)
著名な家族 ハリー・ダヴェンポート
アリス・ダヴェンポート
ファニー・ダヴェンポート 伯母
エドワード・ルーミズ・ダヴェンポート 祖父
ベティ・リード 長女
ウォレス・リード・ジュニア
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ドロシー・ダヴェンポートDorothy Davenport, 1895年3月13日 - 1977年10月12日)は、アメリカ合衆国女優脚本家映画監督映画プロデューサーである[1]。後年ドロシー・リードDorothy Reid)と名乗り、ウォレス・リード夫人Mrs. Wallace Reid)ともクレジットされた[1]

人物・来歴[編集]

1895年(明治28年)3月13日マサチューセッツ州ボストンに生まれる[1]。父母ともに俳優のハリー・ダヴェンポートアリス・ダヴェンポート、父方の祖父も俳優のエドワード・ルーミズ・ダヴェンポート、父方の伯母も女優のファニー・ダヴェンポートである。3歳上の姉アン、1歳下の妹ケイトものちに女優となった[1]

1910年(明治43年)には、映画に出演し始め、D・W・グリフィス監督の A Mohawk's Way でインディアン役を演じたのが、もっとも古い映画への出演記録である[1]。その後、多くの短篇西部劇に出演する[1]。1913年(大正元年)10月13日、4歳年上の俳優で映画監督のウォーレス・リードと結婚する[1]。ウォーレスもまた父ハル・リードが映画監督兼俳優、母も女優である[2]。当時、ドロシーはユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に在籍し、同社傘下のバイソン・スタジオ等が量産する短篇映画に出演している[1]。1916年(大正5年)には、ロイド・B・カールトンが監督し、エモリー・ジョンソンと共演する短篇に多く出演するなかで、同年にユニヴァーサル傘下に設立されたブルーバード映画で、カールトン監督、エモリーとの共演で『此の血潮』、 A Miracle of Love に主演、翌1917年(大正6年)には アレン・ホルバー監督・主演の『肉弾』でホルバーの相手役を演じている[1]。これらは1作を除いて日本でも公開された[3]。同年6月18日には、長男のウォレス・リード・ジュニアを出産、同社を退社した[4]

1920年(大正9年)には、『奮闘の機会』に出演して映画界に復帰するが、本格的に復帰するのは、1923年(大正12年)1月18日、夫ウォーレスと死別した後である[1]。同年、ドロシー・ダヴェンポートの名を捨てて「ウォレス・リード夫人」を名乗り、ジョン・グリフィス・レイトーマス・H・インスの協力の下に脚本を書き、初めて監督業に進出、セルフプロデュースした主演作『人類の破滅』を発表する[1]。1932年(昭和7年)には、ジュニアが主演する映画 The Racing Strain に原作をノンクレジットで提供している[1]。1934年(昭和9年)、自らの監督作 The Road to Ruin にノンクレジットで出演したのを最後に女優を廃業し、同年、 The Woman Condemned を最後に全5作で監督業からも撤退、プロデューサー業・脚本業に専念する[1]。1935年(昭和10年)前後から、筆名を「ドロシー・リード」と改めている[1]

1941年(昭和16年)以降、第二次世界大戦中は沈黙するが、1947年(昭和22年)には脚本家としての活動を再開し、バーナード・カーやアーサー・ルービンの監督作に脚本を提供した[1]。1956年(昭和32年)、アーサー・ルービン監督の『最初の女セールスマン』のダイアローグを監修したのを最後に、引退した[1]

1977年(昭和52年)10月12日カリフォルニア州ロサンゼルス郡ロサンゼルス市ウッドランド・ヒルズで死去した[1]。満82歳没。同郡グレンデールにあるフォレスト・ローン・メモリアル・パークに眠る[5]

おもなフィルモグラフィ[編集]

特筆以外はすべて出演作である[1]。1910年 - 1915年の100の出演作に関しては、短篇映画が多く[1]、おもなものに留めた。

1910年代[編集]

1920年代[編集]

  • 奮闘の機会』(別題『戦うべき機会』) The Fighting Chance : 監督チャールズ・メイン、1920年 - 出演・役 Leila Mortimer
  • Every Woman's Problem : 監督ウィリス・ロバーズ、原作ハル・リード、1921年 - 主演・役 Clara Madison
  • The Masked Avenger : 監督フランク・ファニング、1922年 - 「ウォレス・リード夫人」名義で出演・役 Valerie Putnam
  • 人類の破滅Human Wreckage : 共同監督ジョン・グリフィス・レイ、共同脚本トーマス・H・インス、1923年 - ノンクレジットで監督・脚本/「ウォレス・リード夫人」名義でプロデューサー・主演・役 Ethel MacFarland(監督・脚本家デビュー作)
  • Broken Laws : 監督ロイ・ウィリアム・ニール、1924年 - 「ウォレス・リード夫人」名義でプロデューサー・主演・役 Joan Allen
  • The Red Kimona : 監督ウォルター・ラング、1925年 - 「ウォレス・リード夫人」名義でプレゼンター・プロデューサー/ノンクレジット脚本・出演・役 Woman Telling the Story
  • The Earth Woman : 監督ウォルター・ラング、1926年 - 「ウォレス・リード夫人」名義でプロデューサー
  • The Satin Woman : 監督ウォルター・ラング、1927年 - 「ウォレス・リード夫人」名義で主演・役 Mrs. Jean Taylor
  • 地獄船Hellship Bronson : 監督ジョセフ・ヘナベリー、1928年 - 「ウォレス・リード夫人」名義で出演・役 Mrs. Bronson
  • リンダLinda : 主演ワーナー・バクスター、1929年 - 「ウォレス・リード夫人」名義で監督・エグゼクティヴプロデューサー

1930年代[編集]

1940年代[編集]

  • Tomboy : 監督ロバート・F・マクガワン、1940年 - 「ドロシー・リード」名義で原作・脚本
  • On the Spot : 監督ハワード・ブレザートン、1940年 - 「ドロシー・リード」名義で脚本
  • Haunted House : 監督ロバート・F・マクガワン、1940年 - 「ドロシー・リード」名義で脚本
  • Drums of the Desert : 監督ジョージ・ワグナー、1940年 - 「ドロシー・リード」名義で脚本
  • The Old Swimmin' Hole : 監督ロバート・F・マクガワン、1940年 - 「ドロシー・リード」名義で脚本
  • Redhead : 監督エドワード・L・カーン、1941年 - 「ドロシー・リード」名義で脚本
  • Curley : 監督バーナード・カー、1947年 - 「ドロシー・リード」名義で脚本
  • The Hal Roach Comedy Carnivalの1挿話Curly : 監督バーナード・カー、1947年 - 「ドロシー・リード」名義で脚本
  • Who Killed Doc Robbin : 監督バーナード・カー / ハーヴ・フォスター、1948年 - 「ドロシー・リード」名義で脚本
  • 狂った殺人計画Impact : 監督アーサー・ルービン、1949年 - 「ドロシー・リード」名義で脚本

1950年代[編集]

関連事項[編集]

[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s Dorothy Davenport, Internet Movie Database (英語), 2010年6月24日閲覧。
  2. ^ Wallace Reid - IMDb(英語), 2010年6月24日閲覧。
  3. ^ 『ブルーバード映画の記録』 : 製作・著・発行山中十志雄・塚田嘉信、1984年4月、p.60-63.
  4. ^ Wallace Reid Jr. - IMDb(英語), 2010年6月24日閲覧。
  5. ^ Dorothy Davenport, Find A Grave (英語), 2010年6月24日閲覧。

外部リンク[編集]