イラリオ・サパタ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イラリオ・サパタ
基本情報
通称 Bujía
階級 フライ級
身長 169cm
国籍 パナマの旗 パナマ
誕生日 (1958-08-19) 1958年8月19日(65歳)
出身地 パナマ県パナマシティ
スタイル サウスポー
プロボクシング戦績
総試合数 54
勝ち 43
KO勝ち 14
敗け 10
引き分け 1
テンプレートを表示

イラリオ・サパタ(Hilario Zapata、1958年8月19日 - )は、パナマの元プロボクサーパナマシティ出身。元世界2階級制覇王者(ライトフライ級フライ級)。

「軟体動物」[1]とも形容されたディフェンスワークに優れた技巧派の選手。

来歴[編集]

1977年10月28日、プロデビュー。

1980年3月24日、12戦目でWBC世界ライトフライ級王者中島成雄に挑戦し、15回判定勝ちで王座を獲得した[1]

1980年9月17日、防衛戦で中島成雄と再戦し、11回KO勝ちで3度目の防衛に成功した[2]

1981年2月14日、防衛戦でジョーイ・オリボと対戦し、14回KO勝ちで5度目の防衛に成功した。

1981年8月15日、防衛戦でヘルマン・トーレスと対戦し、15回判定勝ちで7度目の防衛に成功した。

1981年11月7日、防衛戦でネトルノイ・ソー・ボラシングと対戦し、10回KO勝ちで8度目の防衛に成功した。

1982年2月26日、9度目の防衛戦でアマド・ウルスアと対戦し、2回KO負けで王座から陥落した。

1982年7月10日、ウルスアから王座を奪取した友利正とタイトルマッチで対戦し、15回判定勝ちで王座に返り咲いた[3]

1982年9月18日、防衛戦で張正九と対戦し、15回判定勝ちで初防衛に成功した。

1982年11月30日、防衛戦で友利正と再戦し、8回KO勝ちで2度目の防衛に成功した[4]

1983年3月26日、3度目の防衛戦で張正九と再戦し、3回KO負けで王座から陥落した。

1984年12月8日、1階級上のWBA世界フライ級王者サントス・ラシアルに挑戦し、15回判定負けで2階級制覇に失敗した。

1985年10月5日、WBA世界フライ級王座決定戦でアロンソ・ゴンザレスと対戦し、15回判定勝ちで2階級制覇を果たした。

1986年4月7日、防衛戦で穂積秀一と対戦し、15回判定勝ちで2度目の防衛に成功した[5]

1986年7月5日、防衛戦でドディ・ボーイ・ペニャロサと対戦し、15回判定勝ちで3度目の防衛に成功した。

1987年2月13日、6度目の防衛戦でフィデル・バッサと対戦し、15回判定負けで王座から陥落した。

1987年8月15日、フィデル・バッサとタイトルマッチで再戦し、15回判定ドローで王座返り咲きならず。

1993年2月27日、WBC世界スーパーフライ級王者文成吉と対戦し、1回TKO負けで王座獲得ならず。この試合を最後に引退した。

獲得タイトル[編集]

逸話[編集]

父親はレンガ職人で、ケンカに明け暮れる少年時代のサパタを持て余していた。ある時、父は得意先から「おたくの息子はケンカばかりしているそうだな。このグローブを渡して、息子に練習するように伝えてくれ」と16オンスの黄色いグローブを託される。その得意先とは時の世界王者ロベルト・デュランで、サパタはこの出来事に感激し、ボクシングへの道を歩み始めることとなる[6]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • ボクシング・マガジン編集部『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年』ベースボール・マガジン社、2002年6月。ISBN 978-4583036953 
  • 著:クリスチャン・ジューディージェイ、訳:杉浦大介『ロベルト・デュラン 石の拳一代記』白夜書房、2013年3月11日。ISBN 978-4583036953 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

前王者
中島成雄
WBC世界ライトフライ級王者

1980年3月24日 - 1982年3月26日

次王者
アマド・ウルスア
前王者
友利正
WBC世界ライトフライ級王者

1982年7月20日 - 1983年3月26日

次王者
張正九
空位
前タイトル保持者
サントス・ラシアル
WBA世界フライ級王者

1985年10月5日 - 1987年2月13日

次王者
フィデル・バッサ