イブン・アン=ナディーム

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イブン・アン=ナディームは、10世紀バグダードで生涯を送った書籍商である[1]。『フィフリスト』(Kitāb al-Fihrist)という、当時のバグダードにあったすべての書籍の目録を著した[1][2][3]。『フィフリスト』はアラビア語で書かれており、聖典類やハディース学や文法学といったイスラーム諸学の本が中心であるが、プラトンアリストテレスなど古代ギリシア人の著作のほか、のちに『千一夜物語』としてまとめられる物語群も記載され、言及されている人物は3500人以上、題名だけのものも含めると約6600点の著作に言及されている[2]。イブン・アン=ナディームは『フィフリスト』の端々に、書籍の簡単な紹介と共に自己の見解を述べることがあり、当時のイスラーム世界の知識人が有していたシーア派的センチメントや交友関係、学問状況を推し量る根拠を提供している[1]。10世紀までのイスラーム世界の学問の状況が比較的詳細にわかっているのは、イブン・アン=ナディームの『フィフリスト』があるためである[3]

名前[編集]

『フィフリスト』の著者の名前について、本人と父親のイスムは「ムハンマド・ブン・イスハーク」、クンヤは「アブー・アル=ファラジュ」、ニスバは「アル=バグダーディー」(バグダード生まれ)、また、父イスハークのクンヤは「アブー・ヤアクーブ」である[1][2]。ここまでの情報に関して特に異説はない。しかしながら、写本により伝わる、父子のどちらかの職業名(nomen professionis, 職業に基づく呼び名)「アル=ワッラーク」(書籍商[2])と、通り名「アン=ナディーム」(呑み友達[4])が、父子のどちらを形容しているのか曖昧であり、従来、議論されてきた[1][2]

『フィフリスト』の著者について言及した過去の文献のほとんどすべては、「アン=ナディーム」は父イスハーク(又はその先祖)の通り名であると解釈した[1]。この場合、息子ムハンマドは、「イブン・アン=ナディーム」と呼ばれる[1][2][5]。なお、Ibn al-Nadīm のカナ表記には、アラビア語の発音規則を反映させるか否か、分かち書きをするか否か、定冠詞を省略するか否かなどの転写方法に対する考え方の違いによって、イブン・アル・ナディーム、イブン・アン・ナディーム、イブン・アン=ナディーム、イブヌ=ン=ナディーム、イブヌン・ナディーム、イブン・ナディームなどの表記ゆれがある。

議論の詳細は省略するが、現在の通説では、「アン=ナディーム」は息子ムハンマドの通り名であり、さらに、職業名の「アル=ワッラーク」は父子のどちらにも付加されていたと解される[1]。すなわち、『フィフリスト』の著者ムハンマドは、少なくとも父親の代から続いてバグダードにおいて大きな書店を営んでいた人物であると推定されている[1]。日本語の書籍でも、これを踏まえて、『フィフリスト』の著者ムハンマドを「アン=ナディーム」と呼ぶ例が見られる[3]

人物像[編集]

『フィフリスト』の著者、イブン・アン=ナディームこと、ムハンマド・ブン・イスハークについてわかっていることは、多くない[1]。ほとんどすべての情報源は『フィフリスト』そのものである。『フィフリスト』の序文の記載によると、ヒジュラ暦320年頃バグダードに生まれたとされる[1]。ヒジュラ暦320年は西暦にすると932年前後であり、8世紀から始まるアッバース朝の文化尊信政策が実を結び、バグダードにおける出版文化が爛熟した時期に相当する。また、ヒジュラ暦380年シャアバーン月20日の水曜日に亡くなったとされるため、西暦990年11月12日が没年月日である[1]

また、イブン・アン=ナディームの民族的にはペルシア人であったとする説は、確証こそないものの根強い[1][6]。『フィフリスト』はアラビア語で書かれた本であるが、題名に採用されている「フィフリスト」という言葉はペルシア語であり(「一覧」という意味)、アラビア語の本のタイトルに採用するのは珍しいというのがその根拠の一つである[1]。また、『フィフリスト』内には先イスラーム時代のペルシア文化に対する正確な知識が投入されており[7]、これもまたそのような推測を支える根拠のひとつとなっている。

また、イブン・アン=ナディームは、イマームの権威を認めるシーア派、それも十二イマーム派の信徒であったことが推定されている[1][2]。とはいえ、イマームへの崇敬の念やシーア派へのシンパシーは、当時のバグダードの知識人の間では珍しいものではなかったという指摘もある[1]。さらに彼は、ムゥタズィラ派の合理主義的な神学についても深い造詣を有しており[2]、非常に幅広い視野を持った寛容な知識人であった[1]

ナディーム[編集]

8世紀から10世紀のバグダード。住民は、円城の外側に、宗教や出身地による社会集団ごとにまとまって住んでいた。

アラビア語の「ナディーム」(nadīm)は「呑み仲間」や「呑み友達」を意味する言葉である[4]。「御伽衆」と訳す例もある[4]。アラブには先イスラーム時代から君主や有力者の周りに詩人が集い、カスィーダを捧げて酒宴を開く文化があったが、特にアッバース朝においては多数の文化人がカリフの「ナディーム」として宮廷に侍った[4]。そのようなナディームの代表格の一人[4]アブー・ヌワースは、史実であるか否かはともかく、ハールーン・アッ=ラシードのナディームとして千一夜物語などの民話に語り継がれている[8]

宮廷音楽家イスハーク・イブン・イブラーヒーム・アン=ナディーム・アル=マウスィリーアラビア語版もハールーンに仕えたナディームの一人である[4]。ドイツの東洋学者グスタフ・フリューゲルドイツ語版は、没後の1871年に出版された『フィフリスト』のドイツ語訳の中で、「イブン・アン=ナディーム」というナサブは、このアル=マウスィリーと何か関係があるかもしれないと書いた[6]。しかしながら、この説は根拠が薄い[1]

なお、『フィフリスト』の序文に脱稿は西暦988年と記されているが、このときイブン・アン=ナディームは「Dār al-Rūm にいる」と書いている[1][6]Dār al-Rūm は字義通りには「ローマ人の地」を意味し、(アナトリア半島などの)ビザンツ帝国領内を意味する場合もあるため、フリューゲル(1871)はそのように解釈して、イブン・アン=ナディームは西暦988年に小アジアにいたのかもしれないとした[6]。この説は、イタリアの東洋学者カルロ・アルフォンソ・ナッリーノ英語版などに引用されたこともあるが[6]、1899年には反論が提示されて、現在の通説においては「バグダードのキリスト教徒居住区にて脱稿した」という意味に解釈されている[1]

「アン=ナディーム」と呼ばれていたのが『フィフリスト』の著者ムハンマド、その人であるという説を取った場合、ムハンマドは、誰の、あるいは、何家のナディームであったのかという疑問が生じる。この点に関しては過去にいくつかの議論がある[1]。『イラン百科事典』は、アッバース朝のカリフ、アル=ムクタディル英語版の宰相であったアリー・イブン・イーサー・イブン・ダーウード・イブン・アル=ジャッラーフ英語版の息子である論理学者のイーサーか、もしくは、マウスィル(モスル)の有力者ナースィル・アッ=ダウラのナディームだったという2説を紹介している[1]。後者の人物には、イブン・アン=ナディームは時折邸宅に呼ばれて滞在している。

知的バックグラウンド[編集]

イブン・アン=ナディームの深い教養は、学術文化が高度に発達した10世紀のバグダード社会を背景にしていた[1]。イブン・アン=ナディームの書店は、多くの学者、詩人、文化人の出合いの場所だったようである[1]。イブン・アン=ナディームは、自分の書店で交流し、直接、教えを受けた人の名前として、次のような名前を挙げている[1]

このほかに、哲学者のアブー・スライマーン・ムハンマド・イブン・ターヒル・イブン・バハラーム・アル=マンティーキー・アッ=スィジスターニーの名前も挙げ、「先生」と呼ぶ[1]。イブン・アル=ハンマール(ハサン・イブン・スワール)は、シリア語の哲学書をアラビア語に翻訳した翻訳者・論理学者であるが、キリスト教徒であった[1]。また、よく出入りしていた家の父親は、アッバース朝のカリフ、アル=ムクタディル英語版の宰相であり(後述)、ギリシア、ペルシア、インドの学問に深く通じていた。このように、イブン・アン=ナディームの交流関係は、主流派であるスンニ派ではない人々をとの交流を多く含んでいた。

フィフリスト[編集]

al-Fihrist

フィフリスト(Fehrest またはFihrist)はイスラーム以前のペルシアと古典イスラーム期のアラビア語文学に関する知識を残している点で重要な資料となっている。しかしナディームが記載しているペルシア語の著作はほとんど現存していない。著作の序文において、それはペルシア人やアラブ人やその他の人々により、アラビア語で書かれた著作の全ての索引であるとされている。フィスリストには2種類の写本が現存している。より完全な写本の方は10章に別れ、最初の6章は、イスラーム的な主題で書籍の詳細な目録となっている。

  1. ムスリムとユダヤ、キリスト教の聖典とクルアーンとハディース
  2. 文法と文献学
  3. 歴史、伝記、地理学
  4. 詩学
  5. 弁証法的神学
  6. 法律とハディース
  7. 哲学と科学
  8. 伝説、魔術、寓話
  9. 多神教の教義(マニ教、ヒンドゥー教、仏教、中国人の宗教)
  10. 化学

※後半の4章は非宗教的な内容となっている。

ナディームは、彼が目にしたか、または信頼できる人により存在が認められている著作のみ題名を伝えている。ナディームはしばし書籍のサイズとページ数も記載しているが、このことは、短い枚数でごまかそうとする筆写者に騙されなかった、ということだと思われる。

2つ目の短い写本の方は、一つ目の写本の序文と1章目の最初の節、及び最後の4章を伝えている。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa Sellheim, Rudolf; Zakeri, Mohsen (2012-01-24). “FEHREST#i”. Encyclopaedia Iranica. http://www.iranicaonline.org/articles/fehrest#i 2017年8月31日閲覧。. 
  2. ^ a b c d e f g h 清水, 和裕 「第5章 イブン・ナディームの『目録』」『イスラーム書物の歴史』 名古屋大学出版会、2014年6月、84-98頁。ISBN 978-4-8158-0773-3
  3. ^ a b c 矢島, 祐利 『アラビア科学史序説』 岩波書店1977年3月25日 pp. 13-14, 37-38, 253
  4. ^ a b c d e f 一般社団法人 日本・オマーン協会 (2016年10月15日). “「第四回 オマーン市民講座」開催”. 2017年9月1日閲覧。
  5. ^ Sundermann, W. (1999). “Al-Fehrest, iii. Representation of Manicheism.”. Encyclopedia Iranica. http://www.iranica.com/articles/fehrest#iii 2017年8月31日閲覧。. 
  6. ^ a b c d e Nicholson, Reynold Alleyne (2010) [1907] (英語). A literary history of the Arabs. Middle Eastern literature (reprint ed.). Cosimo, Inc.. pp. 362-364. ISBN 9781616403409. https://books.google.co.jp/books?id=5yQlpRMJWCYC&lpg=PR13&hl=ja&pg=PA362#v=onepage&q=nadim&f=false 2017年8月23日閲覧。. 
  7. ^ De Blois, François (1999). “Al-Fehrest, ii. IRANIAN MATERIAL IN THE FEHREST.”. Encyclopedia Iranica. http://www.iranica.com/articles/fehrest#ii 2017年8月31日閲覧。. 
  8. ^ 『アラブの民話』 イネア・ブシュナク編、久保儀明訳、青土社1995年9月20日ISBN 4-7917-5401-8 (original: Bushnaq, Inea (1986) Arab Folktales, Pantheon Books, a Division of Random House.) pp. 348-352