イケニ族

イケニ族(Iceni, Eceni)は、紀元前1世紀頃から1世紀にかけて、現在のイギリス、東ブリタンニア、ノーフォーク地域に住んでいたPケルト言語圏域ケルト人の部族である。その領域は現在のノーフォークやサフォーク、ケンブリッジシャーにあたる。イケニ族の領域の西にはコリエルタウウィ族が、南にはカルウェティイ族やトリノウァンテス族がそれぞれ住んでいた。ローマ時代、イケニ族の首都は、現在のケスター・セント・エドモンドにあたるウェンタ・イケノールムであった[1][2]。
ガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』には、イケニ族そのものに触れた記述はない。一方で、紀元前54年の第二次ブリタンニア遠征について書かれた5章21節[3]で触れられているケニマグニ族と関係する可能性がある[4][5]。
概要
[編集]居住地
[編集]クラウディオス・プトレマイオスの『地理学』によると、イケニ族はウェンタ・イケノールムに住む市民(キウィタス)として分類されている[6]。この都市は『ラヴェンナ・コスモグラフィ』(イタリアのコムーネのひとつラヴェンナで700年頃に編纂された地理誌)や、『アントニヌス・アイティネラリー』でも記述されている[7]。
文化的特徴
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イケニ族の存在を示す考古学的証拠の代表的なものに、トルクと呼ばれる装飾がある。これは、金銀や銅またはそれらの合金で作られた環で、首や肩などに掛けられた。また、紀元前約10年頃にはコイン製造を始めていた。これは片面に馬の意匠を施したデザインの典型でもあり、例外として初期のコインには馬の代わりに雄豚の図柄を施したものもある。コインの中には部族名であるECENIが表記されたものがあり、彼らが製作したという証拠となっている。ノリッジ近郊から発見された夥しい数の銀製コインは、片面は未加工な片面と不恰好な馬の意匠が施され、Ic. Duro. T.という銘があった。この銘はイケニ族・Dutotriges族・トリノヴァンテス族の連名と考えられており、このブリタンニアの通貨はこれら氏族の間、地理で言えばノリッジからウェンタの廃墟に及ぶ区域で流通していたと考えられる[8][注釈 1]。イケニ族のコインに登場した最古の人物は紀元前10年頃のアンテディオスであり、その名は略されAESUやSAEMUと記述されている[9]。
人口
[編集]イギリス最初の考古学作家であるサー・トーマス・ブラウンは、『ガリア戦記』やブーディカの反乱における7万とも8万とも言われるローマ人殺害の故事からも、ブリタンニアの人口は相当なものだったと類推している[8]。
歴史
[編集]47年
[編集]タキトゥスの記述には、イケニ族は43年のローマ皇帝クラウディウスによるブリタンニア遠征時には征服を免れ、自発的に同盟関係を締結したとある。47年には、当時のローマ長官プブリウス・オストリウス・スカプラによる武装解除要求に抵抗し、反乱を起こしている。ケンブリッジシャー州のストーネア・キャンプが戦場だったと推定されるこの戦いでイケニ族は破れたが、彼らはそれ以降も独立を維持した[10]。
60 - 61年
[編集]60~61年に勃発した2度目の反乱はより大規模なものであった。親ローマ派であったプラスタグス王は60年に亡くなり、自国領の半分をネロへ寄進し、残りを娘たちに相続させた。しかし、ローマのプロクラトル(行政官)カトゥス・デキアヌスはこれを無視し、搾取と圧政を強めた。彼の未亡人ブーディカは鞭打ちの刑を受け、娘たちは強姦された。ブーディカは、軍総督ガイウス・スエトニウス・パウリヌスの留守中にイケニ族やトリノウァンテス族を中心とした反乱軍を結成した。

彼らはローマの植民地カムロドゥヌム(現コルチェスター)へ進軍した。次に、ロンディニウムやウェルラミウム(現セント・オールバンズ)を破壊し、多くのローマ人を殺害した。この3都市で、反乱軍は7万人を虐殺したとされている[11]。この過程で規模を膨らませた反乱軍であったが、ワトリング街道の戦いでガイウス・スエトニウス・パウリヌス率いるローマ軍に大敗した。
反乱後
[編集]反乱直後のイケニ族に関する明確な記録は残っていない。反乱を起こしたブリトン人たちはガイウス・スエトニウス・パウリヌスにより罰を受けた。彼の後任であるプブリウス・ペトロニウス・トゥルピリアヌスやマルクス・トレベッリウス・マクシムスの在任中では、大きな反乱に関する記述は残っていない[12]。
プトレマイオスの『地理学』では、ギリシア語でΣιμενοιと呼ばれる人々が登場する[13]。しかし、これはウェンタという町を所有していたΙκενοι(Icenoi)の写し間違いだとされている。
ローマ時代後
[編集]ケン・ダークは4世紀にイケニ族の人口減少があったと提唱している[14]。 5世紀初頭から、ゲルマン人が大陸から移住してきた。トビー・マーティンはゲルマン人の大規模な移住がイケニ族の領域にあたる地域で起きたと示している[15]。実際、イースト・アングリアにケルト系の地名はあまり残っていない[16][17]。
一方で、フェンズにイケニ族の生き残りがいたという説もある[18]。 8世紀に聖ガスラックが記した『ガスラックの人生』では、ブリトン語を話す悪魔に攻撃されたと書かれている[19]。しかし、これはガスラックによる想像上の出来事であるという説もある[20]。
後世に及ぼした影響
[編集]イケニ族を題材とする作品
[編集]- ローズマリー・サトクリフ著 灰島かり訳『ケルトの白馬』、2000年12月/日本語訳 ほるぶ出版 ISBN 4-593-53377-5
博物館
[編集]ノーフォーク州ブレックランド行政区には、クックリー・クレイ・イケニ族跡地博物館があり、ブリタンニア遠征以前のイケニ族の歴史が見学できる[21]。
その他
[編集]イースト・アングリアからチルターン丘陵を結ぶ古道の名前である『イクニールド・ウェイ』は、イケニ族から取られている。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ (Ó Faoláin 2006, pp. 954–955)
- ^ (Snyder 2003, pp. 40–42)
- ^ 『ガリア戦記』5.21
- ^ A.L.F. Rivet and Colin Smith, The Place-Names of Roman Britain (1979) London: Batsford
- ^ ポール・ラングフォード原著監修、鶴島博和日本語版監修『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』p.25
- ^ プトレマイオス『ゲオグラフィア』2.2
- ^ “Roman Britain”. 2025年9月20日閲覧。
- ^ a b サー・トーマス・ブラウン『Hydriotaphia, Urn Burial』1658年
- ^ グラハム・ウェブスター『Boudica: the British Revolt Against Rome AD 60』1978年、pp. 46-48 ISBN 0415226066
- ^ タキトゥス『年代記』12.31
- ^ ポール・ラングフォード原著監修、鶴島博和日本語版監修『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』p.51
- ^ ポール・ラングフォード原著監修、鶴島博和日本語版監修『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』p.56
- ^ プトレマイオス『地理学』2.2
- ^ Dark, Ken R.. “Large-scale population movements into and from Britain south of Hadrian's Wall in the fourth to sixth centuries AD”. 2021年6月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年9月20日閲覧。
- ^ Catherine Hills, "The Anglo-Saxon Migration: An Archaeological Case Study of Disruption," in Migrations and Disruptions, ed. Brenda J. Baker and Takeyuki Tsuda, pp. 45-48
- ^ Toby F. Martin, The Cruciform Brooch and Anglo-Saxon England, Boydell and Brewer Press (2015), pp. 174-178
- ^ Coates, Richard. “Celtic whispers: revisiting the problems of the relation between Brittonic and Old English”. 2025年9月20日閲覧。
- ^ "But it may be that the British-speaking fen dwellers, the itinerant horse dealers and thieves who lived on the fringe of Norfolk society for centuries afterwards were the last of the Iceni." Michael Wood (1981). In Search of the Dark Ages. London, UK: British Broadcasting Corporation. pp. 35–36. ISBN 978-0-563-17835-4 2025年9月20日閲覧。
- ^ “Late survival of Celtic population in E. Anglia”. www.cantab.net. 2025年5月9日閲覧。
- ^ Lindy Brady, Writing the Welsh Borderlands in Anglo-Saxon England (2017: Manchester University Press)
- ^ The National Virtual Museum
参考文献
[編集]- Allen, D. F. (1970). “The Coins of the Iceni”. Britannia 1: 1–33. doi:10.2307/525832. JSTOR 525832.
- Browne, Thomas (1658年). “Hydriotaphia: Chapter II”. 2025年9月20日閲覧。
- Bunson, Matthew (1994). “Britannia” (英語). Encyclopedia of the Roman Empire. New York: Facts on File
- Bunson, Matthew (2012) (英語). Encyclopedia of Ancient Rome. Facts On File. ISBN 978-0-8160-8217-9
- “Britain, Roman.” The Oxford Classical Dictionary. 4th ed. Oxford: Oxford UP, 2012. Print.
- Davies, John. A., Gregory, Tony. "Coinage from a 'Civitas': A Survey of the Roman Coins Found in Norfolk and their Contribution to the Archaeology of the 'Civitas Icenorum'" "Britannia" (1991): 65-101. Web. 12 March 2013.
- Dio, Cassius. Roman History :. Cambridge: Harvard UP, 1987. Print.
- Gardiner, Juliet, and Neil Wenborn. “Civitas.” The Columbia Companion to British History. New York: Columbia UP, 1997. Print.
- Mossop, H. R.; Allen, D. F. (1979). “An Elusive Icenian Legend”. Britannia 10: 258–259. doi:10.2307/526062. JSTOR 526062.
- Ó Faoláin, Simon (2006). “Iceni”. In Koch, John T. (ed.). Celtic Culture: A Historical Encyclopedia. ABC-CLIO. pp. 954–955. ISBN 1851094407. 2025年9月20日閲覧.
- Snyder, Christopher A. (2003). The Britons. Blackwell Publishing. pp. 34–36; 40–42. ISBN 0-631-22260-X
- Williamson, Tom. The Origins of Norfolk. Manchester University Press: 1993. ISBN 978-0719039287
- プトレマイオス 著 中務哲郎 訳『プトレマイオス地理学』(東海大学出版部、1986年)ISBN 978-4486009214
- カエサル著 近山金次訳『ガリア戦記』(岩波書店、2010年) ISBN 978-4003340714
- ポール・ラングフォード 原著監修、鶴島博和 日本語版監修『オックスフォード ブリテン諸島の歴史 第1巻 ローマ帝国時代のブリテン島』(慶應義塾大学出版会、2011年)ISBN 978-4-7664-1641-1
外部リンク
[編集]- ケルト人の美意識 - ウェイバックマシン(2012年2月8日アーカイブ分) 「島のケルト人のコイン(2)」でイケニ族のコインを紹介
- Iceni イケニ族の解説。トップページRoman-Britain.org
- Iceni イケニ族の解説。トップページRomans in Britain