アルヴィド・ホルン
| アルヴィド・ホルン Arvid Bernhard Horn af Ekebyholm | |
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| 生年月日 | 1664年4月6日 |
| 没年月日 | 1742年4月17日(78歳没) |
| 所属政党 | メッソナ党 |
| 在任期間 | 1710年 - 1719年 |
| 在任期間 | 1720年 - 1738年 |
アルヴィド・ホルン(Arvid Bernhard Horn af Ekebyholm, 1664年4月6日 - 1742年4月17日)は、スウェーデンの軍人、政治家、伯爵である。フィンランド出身。軍人として出世した後は、スウェーデンの「自由の時代」に政治家となり、メッソナ党の党首、宰相となって、スウェーデンの政治を主導した。
来歴
[編集]1664年4月6日、フィンランドで生まれた[1]。オーボで教育を受けた後、陸軍に入り、大同盟戦争において1690年から1695年までオランダとハンガリーでプリンツ・オイゲン、フランドルでゲオルク・フリードリヒ・フォン・ヴァルデックの部下として従軍した[1]。
大北方戦争ではスウェーデン王カール12世に重用され、1704年にスウェーデンの使節としてポーランドに赴き、ポーランド王アウグスト2世の廃位とスタニスワフ1世の国王選出に成功した[1]。しかし直後にワルシャワでアウグスト2世の軍勢に包囲され、降伏を余儀なくされた[1]。1705年に元老院議員になり、1706年に伯爵に叙され、1707年にカール12世の姉の息子にあたるホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒの後見人になった[1]。1710年にNils Gyldenstolpeの後を継いでスウェーデン宰相になったが、本国で国政にかかわるにつれカール12世から重用されなくなった[1]。
1718年にカール12世が死去すると、その妹ウルリカ・エレオノーラを説得して、世襲王ではなく選挙王として即位させた[1]。ウルリカ・エレオノーラが専制君主としてふるまうと、それに抗議して宰相と元老院議員に辞任したが、1720年にLantmarskalkに選出され、ウルリカ・エレオノーラが退位するとフレドリク1世の国王選出に貢献した[1]。そして、フレドリク1世は即位すると直ちにホルンを宰相の座に戻した[1]。
1720年に宰相に返り咲いたホルンは以降18年間政権を握った[1]。ホルンはスウェーデンの戦後復興に尽くし[1]、1724年に航海条例を制定して新興産業の推進に貢献した[2]。外交では極めて慎重であり、1734年に野党ハッタナ党からポーランド継承戦争における中立を非難されたときも対ロシア開戦を回避した[1]。これにより愛国心のなさを攻撃され、1738年にはついに引退に追い込まれた[1]。
評価
[編集]『ブリタニカ百科事典第11版』において、ロバート・ニスベット・ベインはホルンと同時代のイギリス首相ロバート・ウォルポールの類似性を指摘し、スウェーデンにまつわる情勢によりホルンの政策は日和見主義だったが、優秀な判断力に基づくものだったと評価した[1]。
脚注
[編集]| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 Nils Gyldenstolpe |
スウェーデン宰相 1710年 – 1719年 |
次代 Gustaf Cronhielm |
| 先代 Johan August Meijerfeldt |
スウェーデン宰相 1720年 – 1738年 |
次代 Gustaf Bonde |