アブー・サイード・ウスマーン1世

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アブー・サイード・ウスマーン1世
أبو سعيد عثمان الأول

在位期間
1283年1303年
先代 ヤグムラーサン・イブン・ザイヤーン
次代 アブー・ザイヤーン1世

出生 不明
死亡 1304年7月5日
トレムセン
王朝 ザイヤール朝
父親 アブー・ヤフヤー
職業 兵士
君主
信仰 イスラム教
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アブー・サイード・ウスマーン1世アラビア語: أبو سعيد عثمان الأول‎、? - 1304年7月5日)、または「オスマン・イブン・ヤグモラセン」、ないしはアルジェリア・アラビア語アブー・サイード・オスマン・アル=アウェル(أبوسعيدعثمانالأول、Abu Sa'idOthmanāl-awel)は、ザイヤーン朝の第2代君主であり、1283年から1303年まで中世アルジェリアベルベル人の一派ザナータ族の王国であるトレムセン王国en:Kingdom of Tlemcen)を統治した人物である。

生涯[編集]

アブー・サイード・ウスマーン1世は、父ヤグムラーサン・イブン・ザイヤーン(アブー・ヤフヤー、在位:1236年 - 1282年)の後を継いで、ザイヤーン朝の支配者となった。アブド・エル・ワド家の(様々な)分派の領主であったアブー・サイード・ウスマーンは、部族の中で最も勇敢で最も恐ろしい戦士の一人であり[2]、敵国を自分の領土に併合し、国民の土地を守った。この時代の王国は豪華で、都市はよく支配されていたと言われている。東の隣国だったハフス朝との結婚により、同国と良好な関係を築くことができた。このことにより、ウスマーン1世は西方のフェズに本拠を構えるマリーン朝の継続的な攻撃に耐え続けることができたが、この戦いはトレムセン王国に壊滅的な結果をもたらした。マリーン朝によるトレムセンの包囲は1299年から1307年まで続き、その間マリーン朝は支配者の居住地となったこともあるアル・マンスーラの包囲都市を建設した。ザイヤーン朝は、マリーン朝が優勢であったにもかかわらず、自らを主張でき、帝国の民衆から支持されていたことがわかる(在位中の戦闘については下記「遠征」の節を参照)。

ウスマーン1世は生きてこの包囲の終結を見るまでことが出来なかった。1304年7月5日に死去したウスマーン1世の後継者であるアブー・ザイヤーン1世(在位:1303年 - 1308年)の下でのみ、マリーン朝はスルタンの死後に勃発した内戦のため、アル=マグリブ(アル=アクサ)に撤退することになった。

遠征[編集]

14世紀はじめごろの勢力図[3]。西から順にマリーン朝ザイヤーン朝トレムセン王国)、ハフス朝

戦士でもあったウスマーン1世は多くの包囲戦や戦いに参加し、王国内や近隣国(主にマリーン朝)に対して力を強固にした。

  • 1287年にマゾーナ(Mâzoûna、シェリフ川Chelif River)右岸に位置する)をマグラワ族Maghrawa)から奪い、タフェルジント(今となっては存在せず、おそらく国のシェリフ川の左岸にあった)を包囲した。
  • 1289年5月、アブー=サイードはテネスをマグラワ族から、トゥジンからメデアを占領した[4]
  • 1290年から91年にかけては、再度トゥージン(Toudjin)に対して別の遠征を開始した。避難所となっていたワンチャリス(Wâncharis)山を支配し、勝利を収めてトゥージンの領土を行進した。ウスマーン1世はモハメッド・イブン・アブド・エル・カウィの妻子たちを囚人として連れて行ったが、その後もと居たところに送り返した。
  • 1290年7月25日火曜日マリーン朝のスルタンだったアブー・ヤコブ・ベン・アブド・エル・ハククがトレムセンに向けて進軍し、都市からそれほど遠くない場所に陣取った。 9月27日、ウスマーンは激しい戦闘と大規模な攻撃を終え、トレムセンに戻っている。
  • 同年8月18日、マリーン朝の統治者と関係を築いていたマグラワ族を再び襲撃、征服して従わせ、息子のアブ・ハンム1世を残して、シェリフの街の指揮を任せた。その後、ウスマーン1世はトレムセンに戻る。
  • 1291年4月28日、ウスマーンは再びトゥージンに向かって進軍し、トゥージンの王を殺して国を荒らし回った。
  • 1293年から94年にかけて、ウスマーンはシェルシェルCherchell)から西に約30キロ、テネスから東に約11キロのところにあるブレチクを、40日間の包囲の後、マグラワのツァビト・ベン・マンディルから奪取した。タスビット(Tasbit)は海路でアル=マグレブ(アル=アクサ)へ逃れることに成功する。
  • 1295年から96年にかけて、マリーン朝がトレムセンに対して2度目の進軍を行った。ネドルマの壁(the walls of Nedroma)の下で野営し、ジダラ山(mount Djidara、オランの近く)に向かい、最終的に王国に帰還している。
  • 同じ年、ウスマーンはアラブ人に対する遠征を開始し、マ・タガリン(Ma Taghalin)や、サハラからそれほど遠くないハナッハ山(mount Ha'nach、おそらく現在のコンスタンティーヌの近く)で野営し、アラブ人をこの地域から追い出した[5]

ウスマーンは、マリーン朝のアブ・ヤコブ・ベン・アブ・エル・ハククによる4回の攻撃を撃退し、王国の独立の維持及び反逆者の処罰に成功した[6]

脚注[編集]

  1. ^ Abou Zakarya Yah'ya Ibn Khaldoun Trad. Alfred Bel, Histoire des beni 'Abd El-Wad rois de Tlemcen jusqu'au règne d'Abou Hammou Moussa II, Alger, Imprimerie orientale Pierre Fonatana, 1904 p157
  2. ^ Abou Zakarya Yah'ya Ibn Khaldoun Trad. Alfred Bel, Histoire des beni 'Abd El-Wad rois de Tlemcen jusqu'au règne d'Abou Hammou Moussa II, Alger, Imprimerie orientale Pierre Fonatana, 1904 p. 158
  3. ^ Baydal Sala, Vicent (2017年11月19日). “Religious motivations or feudal expansionism? The Crusade of James II of Aragon against Nasrid Almeria in 1309-10”. Complutense University of Madrid. 2022年4月14日閲覧。
  4. ^ Ibn Khaldoun (trad. William Mac Guckin de Slane), Histoire des Berbères et des dynasties musulmanes de l'Afrique septentrionale, vol. I, Alger, Imprimerie du Gouvernement, 1852, p132,p371
  5. ^ Abou Zakarya Yah'ya Ibn Khaldoun Trad. Alfred Bel, Histoire des beni 'Abd El-Wad rois de Tlemcen jusqu'au règne d'Abou Hammou Moussa II, Alger, Imprimerie orientale Pierre Fonatana, 1904 pp. 160–164
  6. ^ Ibn Khaldun, The Mediterranean in the 14th Century: Rise and Fall of Empires pp. 83, 84

参考文献[編集]

  • Stephan Ronart、Nandy Ronart『アラブ世界の辞書・歴史的・政治的参考書(Dictionary of the Arab World. A historical-political reference work. Artemis Verlag、Zurichetal(1972年、ISBN 3-7608-0138-2)。