たいまつの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
たいまつの戦い
オスマン・サファヴィー戦争 (1578年–1590年)
1583年5月9日 - 5月11日
場所デルベント付近
結果 オスマン軍の決定的勝利
衝突した勢力

オスマン帝国の旗 オスマン帝国

Flag of Persia (1502-1524).svg サファヴィー朝
Flag of Persia (1502-1524).svg ジョージア非正規兵
指揮官
オスマン・パシャ
カフェル・パシャ
ハイダル・パシャ
イマーム・クル
リュステム・ハン
Burhaneddin
戦力
諸説あり 50,000人以上

たいまつの戦い (トルコ語: Meşaleler Savaşı  英語: Battle of Torches[1]) は、オスマン・サファヴィー戦争中の1583年5月に発生した戦闘。夜間にもつれこんで両軍がたいまつを掲げて戦ったことから、この名がついた[2]。戦いはオスマン帝国軍の勝利に終わり、これ以降サファヴィー朝ダゲスタンシルヴァンを奪回できず、戦争がオスマン陣営の決定的優位に傾く転機となった。

背景[編集]

サファヴィー朝の内紛に乗じて侵攻を始めたオスマン帝国は、瞬く間にコーカサスの大部分を征服した。オズデミオール・オスマン・パシャオズデミル・パシャの息子)が新征服地の長官に任じられ、カスピ海沿岸のデルベントに首府が置かれた。しかしオスマン軍がイスタンブルに帰ってしまうと、サファヴィー朝の将軍イマーム・クルが徐々に失地を回復し始めた。コーカサス防衛のため、1579年夏にオスマン帝国の属国クリミア・ハン国からアディル・ギレイ・ハン率いる援軍が駆け付けたが、サファヴィー軍に大敗を喫した。アディル・ギレイ・ハンは捕らえられてガズヴィーンに幽閉され、のち処刑された[3]。この結果、オスマン・パシャは北コーカサスへの撤退を余儀なくされた[要出典]。1582年、オスマン帝国はコーカサス再奪取を試みて、カッファの長官カフェル・パシャ率いる援軍第二陣を派遣した[4]

戦闘[編集]

1583年春、イマーム・クルは5万人のサファヴィー朝の強兵とジョージアの非正規兵を率いてコーカサス回復を再開した。1583年4月25日、最初の両軍の衝突ではオスマン軍が敗れた。そして5月9日、デルベント付近のバシュテペで、たいまつの戦いの火蓋が切られた。

オスマン側では、オスマン・パシャが中央に、カフェル・パシャが左翼に、そしてスィヴァスの長官ハイダル・パシャが右翼に陣取った。サファヴィー側は、イマーム・クルが中央、リュステム・ハンが左翼、Burhaneddinが左翼に布陣した[5]。戦闘の一日目では決着がつかず、両軍は夜になってもたいまつを用いて戦闘を続けた。2日目は両軍とも休息をとり、戦闘は3日目(5月11日)に入った。この日にオスマン軍が大攻勢に出て成功し、戦いはオスマン軍の勝利に終わった。捕虜となったサファヴィー兵は3000人に上った。

戦後[編集]

勝利したオスマン帝国は、コーカサス全土の支配を取り戻し、その後も南方への侵攻を続けてタブリーズを占領したところで、両陣営は和平を結んだ。1590年のフェルハト・パシャ条約で、オスマン帝国はサファヴィー朝に対し、コーカサスと現在のアゼルバイジャン西アーザルバーイジャーン州イラン)にあたる地域の獲得を認めさせた。戦争はオスマン帝国の完勝に終わったが、この後の1603年に始まるオスマン・サファヴィー戦争において、オスマン帝国は征服地を失うことになる。

脚注[編集]

  1. ^ Colin P. Mitchell.
  2. ^ Colin P. Mitchell.
  3. ^ The Practice of Politics in Safavid Iran: Power, Religion and Rhetoric p 162
  4. ^ Prof.
  5. ^ Joseph von Hammer: Osmanlı Tarihi Vol II (condensation: Abdülkadir Karahan), Milliyet yayınları, İstanbul. p 100